蛮族ジャップから祖国を守るために戦っていた模様
以下、朝鮮史上最古かつ正統な歴史書『三国史記』より
上が翻訳で下が原文


紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
「(始祖赫居世居西干)八年,倭人行兵欲犯邊,聞始祖有神德,乃還。」


紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞(弁)二韓は我が属国だったのに、近年は貢物を送ってこない。大国に仕える礼(儀)が、これでいいのか?」と言った。これに対して瓠公は、「わが国は二聖が国を建ててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので、辰韓の遺民から、卞韓、楽浪、倭人に至るまで恐れ、かつ、したわないものはありません。しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼(儀)というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を以て脅かすのは、これ何の意味でありますか?」と言った。馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。彼らの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。瓠公という人は、その族姓は詳(つまび)らかではないが、元は倭人で、初め瓠を腰に吊って海を渡って来たため瓠公と称した。
『(始祖赫居世居西干)三十八年春二月,遣瓠公聘於馬韓。馬韓王讓瓠公曰:「辰、卞二韓爲我屬國,比年不輸職貢,事大之禮,其若是乎?」對曰:「我國自二聖肇興,人事修,天時和,倉庾充實,人民敬讓。自辰韓遺民以至卞韓、樂浪、倭人無不畏懷。而吾王謙虛,遣下臣修聘,可謂過於禮矣。而大王赫怒,劫之以兵,是何意耶?」王憤欲殺之,左右諫止,乃許歸。前此中國之人苦秦亂東來者衆,多處馬韓東,與辰韓雜居,至是寢盛,故馬韓忌之,有責焉。瓠公者,未詳其族姓,本倭人,初以瓠繫腰渡海而來,故稱瓠公。』


14年 倭人が兵船百余隻で海辺の民戸に侵入したが、六部勁兵(強兵6部隊)を派遣してこれを防いだ。
「(南解次次雄)十一年,倭人遣兵船百餘艘掠海邊民戶,發六部勁兵以禦之。」


57年 (4代王の)脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
(注:前漢・後漢の1里は415.8mなので、一千里は415.8kmとなる。)
4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」