仏教における一番知的な宗派ってどれなの?
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浄土宗系→南無阿弥陀仏(阿弥陀仏を崇めよ!そうすれば救われる。他宗は糞!認めん)
日蓮宗系→南無妙法蓮華経(妙法蓮華経を唱えよ!そうすれば救われる。他宗はは糞!認めん)
曹洞宗、臨済宗等の禅宗→結局は自分の内面にしか答えは無い(座禅をして自分と向き合え) 引きこもりは向上心はなく自堕落なだけだけから
意識して修練してる禅宗徒とは違う 大乗仏教以降は他の宗教同様にオカルト要素が加味される 在野で活動してる仏教家は高学歴多いんだけどね
アメリカでも知られる鈴木大拙を筆頭に
10代で出家して東大法学部卒業
ベストセラー本いくつも出してる草薙龍瞬だとか
こういう人たちが集って
ちゃんとした仏教の総合大学つくってほしいよね 一部の禅系の坊さんに原始仏教回帰現象が見られるのが興味深い >>72
今は古今東西の出来事を自由に学ぶ事が出来るからなぁ
ユーチューブ見てるだけでも仏教の歴史を一般人が簡単に知れたり >>52
これ初見の頃はあんま宗派の違いとか分からなかったけどそれなりに知ってから見るとよく出来てて面白いコピペだなぁ 精進料理を食ってまずいまずい言うてる大人を見るにつれアホだなあと思ってる
あれは精進料理ばっかり1週間くらい食べていてようやく美味しさがわかるようになる
多すぎる旨味や香辛料や調味料を数日ほど断つとバカ舌が治るので精進料理にされた野菜のいい塩梅でアクが抜かれた本来の際立ったおいしさがわかる
芋類は当たり前だけどニンジンやキノコやゴボウも唸るほどにおいしい
こんにゃく芋から作られたこんにゃくも癖になるほどおいしい
醤油もちゃんと作られたものとアルコール入りのとは味がまったく違う
本みりんの甘さはもはや麻薬
アメリカ人のヴィーガンの食事に招かれたことがあってヴィーガン料理をいろいろ見せびらかされたがそれらにケチャップだのマヨネーズだの濃厚なドレッシングだのがたっぷり振りかけられていてこいつらは何もわかってないなと思った 【前編】日本人の特徴のルーツ!?教科書じゃ伝わらない!十七条の憲法の魅力【聖徳太子】
//youtu.be/SW7bjyKBis4
【中編】日本は話し合い重視!?その謎とは!知ると面白い!十七条の憲法の話
//youtu.be/fVSjnM2j-cs
【後編】衝撃!雲太、和二、京三と十七条憲法の共通点とは!!十七条の憲法の話
//youtu.be/K_ikmgYHNEY
こういう話ってマンガにできるよなぁ
キングダムだの7つの大罪だの外国のやってないで
日本のをマンガにしろよ 法然、親鸞あたりから妻帯OKな風潮が出来た
ナムアミダブツって唱えるだけで往生出来るとも言って仏教のハードルをかなり下がった
そのあたりが本格的仏教派からしたら許せんところかもしれん 天災とかで位牌だけ持って避難したとかいう話あるけどうちはそんな立派な位牌なんかねーなと思ってたの
そしたら浄土真宗は位牌が無いって最近知ったよね >>80
まあ芸能みたいなもんだよな
浄土宗系は。
考えるな感じろ系
芸能もテレビも宗教っちゃ宗教だしみたいな次元と同列 >>82
いやあるよ
戒名に金出すのケチたのでは?
戒名無いなら位牌も必要無いし >>83
洋楽厨の禅がミーハー厨の浄土宗を叩くみたいな感じか 南無阿弥陀仏ガチ勢ってそんな簡単でもないよ
阿弥陀仏にすべてを委ねるというのは簡単にできることじゃないし
その指向してるものは禅とも共通する 阿弥陀様ってそもそもなんなん?
どこにいる人なん? 自我を捨て去るためのシンボルとでも思っとけばいいんじゃね
禅も南無阿弥陀仏も自我からの解放だよ
テーラワーダの慈悲の瞑想も同じ 近年になってからよく言われるようになった東南アジアの仏教こそ本当の仏教というのも突き詰めるとかなり怪しい
歴史を遡ると仏陀の言ったことというのは当時の他の宗教者と大して変わらなくなる
あと大乗と部派仏教というのは排他的な存在ではなく大昔のインドでは普通に同じ寺内で共存してるものだった >>80
妻帯は明治維新までは浄土宗系だけだった
江戸までは仏教が幕府など権力者に庇護されてたが明治になってそれがなくなって更に神仏分離が進められたこともあって寺院の維持が困難になっていき
そこで明治政府が僧侶全般妻帯して子供を弟子にしなさいと命じた にんげんは機械じゃないから物を伝える時に必ず自分フィルターがかかる
二千年以上かけてフィルターかかりまくってどれが本来の教えなのかわからない
ソクラテスにたいするプラトンみたいな文筆家は奇跡的だな
だから世界の人たちはみんなプラトンをたしなむ 知的って問題の立て方がすでに読書文化で養われた感性に見える
まともな初期の禅師が言うのは「当たり前のことが当たり前と感じられるようになった」でしょ
例として竹の割れる音が竹の割れる音に聞こえたときに開眼した人もいるんだけどそれにはどういう修行をしたらいいのかよく考えればやり方はかなり絞れる 信仰は「不合理ゆえに吾信ず」だからアホになってなんぼだよ 柳緑花紅って禅宗の言葉だっけ
フィルタを外してありのままに見るという意味 日本社会における仏教は西洋社会におけるキリスト教とよく似ていてどちらも多様な社会秩序のために政治にうまく利用された民衆宗教だったこと
しかし教団が力を持つにつれ政治と対立するようになり宗教改革が起きる
キリスト教の場合はローマカトリック教会の暴走
日本の場合は興福寺が持ってた権力を延暦寺天台宗が横取りし君臨
キリスト教では1518年頃にルターが立ち上がりその暴走に異を唱えて宗教改革が始まった
その結果誕生したプロテスタント派では教会や神父の権限は剥ぎ取られ聖書を持つ民衆自身が信徒になることができた
日本では1200年代半ばに親鸞がそれまでの仏教を市民化させ身分に関わらず誰でも阿弥陀経を唱えれば成仏できると提唱し始めた
のちにこの提唱を蓮如が一気に普及させたのは1400年代半ばでルターより100年早い
浄土真宗では宗徒はみな自分自身が僧侶となる点でプロテスタント派とよく似ている >>85
道元が好きで曹洞宗の方を掘ろうとしてもなんかギャップはあるよな 法然<阿弥陀仏に祈れば幸せになれるよ
空海<いや悟りを開かんと無理よ
日蓮<個人ががんばっても無理よ社会が変わらないと 曹洞宗は座禅や学問だけでなく掃除や炊事など日々の行い全てが修行ってやつ >>102
全部自力じゃどうにもならないと言ってる >>91
東南アジアの仏教がが本物かどうかはわからんが
東南アジアに行ったら一番「場」としての本物感は味わえそうじゃないか?
少なくとも日本の僧侶がいかさまだと思える程度には >>24
真言宗はわりと口語っぽいの作ってたような >>105
一般人の信仰心が日本とは全然違うからな ブラフマン論が出てくるあたりから今に至ってもインド哲学の中に釈迦の思想は入っていて仏教は哲学であって信仰ではない
仏教の○○派はプラトン派キュレネ派といったギリシア哲学と同じような流派の違いだから哲学学校の中では知識として共存してる
その哲学が各方面に伝播する中で各地でローカライズされ為政者の威光の根拠として使われるときに経文が魔法の呪文に変わっていった
蘇我馬子らが日本に仏教を持ち込むときも神道における天皇の呪力より仏教の呪力の方が強いといって神道の司祭が経文を唱えるようになってしまった
拝み屋であった忌部氏や中臣氏はそれで怒った 日本の天皇家でない為政者はだいたい禅宗推しでしょ
後醍醐天皇も源頼朝も足利義満も信長も禅宗 仏教は知識や思考を重んじる哲学とは違うよ
瞑想ってあれは考え事してるわけじゃないから 釈迦の瞑想の末の気づきとスピノザの汎神論なんてそっくりよ
わかりやすい汎神論(5分10秒)
https://www.youtube.com/watch?v=SeEO0yYvOaU 瞑想は考え事とは真逆
呼吸を観察して思考が浮かんできたのに気付いたらまた呼吸に戻る NHK心と宗教で為末大とどっかの住職さんが瞑想についてやってたの面白かった
瞑想とは自分を背後から見る自分が自分をコントロールする事とか
うまく説明出来ないけどよううべに転がってる 自分が自分をコントロールしようとすると苦しくなる
思考や感情は青空に浮かんでる雲で
瞑想は青空という言い方もされたりする 仏教の修行てそんな流れに身を任すものなのか?
欲望まみれの自分をコントロールする事じゃないのか? 我が家は真宗大谷派だけど戒名ではなく法名と言ったり
故人は極楽浄土に行くというよりあの世でまた学んでいくという考えだったり
普通の仏教とはちょいちょい変わってるなと
極めつけは長年世話になってる住職の跡取りが丸坊主にしてなくて普通の髪型してる コントロールなんてできないって知ることが目的だから >>119
自分から意思や思考や感情のような雲を全て取り除いたら空っぽになるのではなく
実は青空が広がっていてその青空は知覚可能だというのが瞑想 流れに身を任すのとは違うよ
普通は思考や感情を自分自身と同一化してるけど
思考や感情あるいは欲望は自分自身そのものではなく瞬間的に湧いて消えてくもの(無常)であると理解する方向性 脳科学でも思考や感情は原因ではなく結果だと明らかになったし肩の力は抜けるんじゃないかな 釈迦も悟りを開くまでは色んな幻覚が襲ってきたそうだけど
その点で一番近いことをやってるのは臨済宗
12月1〜8日の夜明けまで座禅をしっぱなし(寝るときも横にならず座ったまま寝る)
話によると座っているうちに小人やワニが見えたりしたそうな 釈迦は瞑想の境地でブラフマンに会ってるんじゃないの? 釈迦は修行仲間から離れてすなわち修行を辞めて悟りを開いたんじゃなかったな 映画「マトリックス」の赤い薬と青い薬
安定した生活を失ったり人生が根底から覆るとしても真実を知りたいのか
満ち足りたしかしなにも知らない状態であり続けたいか
この真実を知る赤い薬が仏教の瞑想 修行仲間と離れたのはヤギ乳を布施されて飲んだからじゃないっけ 何も知らず満ち足りてもおらず苦悩に満ちているのが現実なんだが 一時期ちょっと瞑想やってたことあるけど
頭の中で思考が生まれる瞬間に気付くことは出来た
頭の中って自分の意思とは関係なく色んなイメージが勝手に湧いては消えるっての繰り返していて
その中で何か引っ掛かりが出来たものが考え事になってたりする 修行には意味がないことを悟り布施も受け取り修行仲間から見放されて
より深い悟りを得たんだろうか お釈迦様はまず死にそうなくらいの苦行をして辞めて村人から乳粥を飲んで栄養つけてから瞑想に入って一週間で悟ったらしい
この苦と楽を経験するプロセスけっこう大事な気がするな >>132
だから赤い薬で人生を根底から覆すのが瞑想 脳の働きの結果として思考が発生するから止められないし止まらない 一発逆転の発想は仏教からは感じないな
諦観(諦めるじゃなくて全体を見通す)こそ人生を楽に生きるコツというか >>138
脳の働きになんらかの作用を及ぼせばもちろん可能だね 仏教は異性と目も合わせてはいけないとか
労働や取引はするなとか
そういう普通の生活からかけはなれた
言うなれば異常な状態に身を置くことを求めるよ ユーチューブ見てたらいろんな知識付いていいな
無駄に知識が付くだけかもしれんが >>135
苦行の結果としてより繊細な何かに気付けるという意味ではありだが
繊細になりさえすればよいので苦行には意味がないしそんな修行は全く本質をとらえていない >>141
異性と触れ合ってもなんとも思わないなら触れ合っても構わない
労働や取引で欲望や願望が生まれないなら行っても構わない
最初からそんな境地になれないからそうなるまでの期間は離れてもらうってこと >>144
仏陀は美人との結婚をすすめられた時に
こんな糞袋には足でさえ触れるのも嫌だと言ってたよ 釈迦の悟りがなんなのかと釈迦がどう生きたかは結構微妙なところがあるとは思ってる 仏陀の話を聞いて感激した人が食事を仏陀に渡したら
話を聞いた報酬として食事をもらうことは出来ないと言って捨てちゃうくらい取引も否定してた >>134
悟った(境地に達した)から修行をやめて世直し布教を始めた
ぜんぶわかってるので修行を続ける意味がない 布施は頂戴するけど報酬はもらえないってどう線引いてるんや どうせ説いても誰にもわからないから世直し布教はしたくなかった
観音様だったかが瞑想中に現れてその教えが必要な人もいると説得されて布教を始めた 仏陀は悟りの内容が世の中に逆行していて誰にも理解できないだろうと思ったから誰にも教えず死んでしまおうかと最初は思ってたよ
それで梵天勧請の後に教えを説くようになってからも瞑想修行は続けてたよ >>150
報酬としてはもらえないって言ってるでしょ
無関係に食事を出せば良かっただけだが感激した人にはそれがわからない >>152
取引や労働は完全否定
瞑想もこれだけやったから悟りに近づいたはずだみたいのは通用しない世界だから >>157
取引を取引だと思わずに行えば良いのだけど釈迦にはできても普通の人は無理ってこと
ジャイナ教とは違って行動ではなく内心を重要視するのが仏教 >>158
仏陀自身がその行動は取引になるからと言って捨ててるっしょ 悟りを得た人には取引ができなくなると考えるとわかりやすい 相手には取引という意識はないでしょ
仏陀は最初はただ食事をくれと言ってもらえなかった
それで話をしたら相手が感激してくれることになった
そしたら仏陀がこれは取引になるからと捨てた 相手には取引という意識はないでしょ
仏陀は最初はただ食事をくれと言ってもらえなかった
それで話をしたら相手が感激してくれることになった
そしたら仏陀がこれでは取引になってしまうからと捨てた お布施システムは釈迦の歴代の弟子たちが修行僧という職業を確立するために発明したもの
自分らの修行こそ社会にとって最良最上のことだから働く時間も惜しんで修行に励む必要がある
それが民衆のためになるのだからお金を出して我々を養え
ということになった 布施は受け取っても一切の感謝をしないところが重要だし
むしろ感謝をするのは布施をする側 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています