仏教における一番知的な宗派ってどれなの?
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>>85
道元が好きで曹洞宗の方を掘ろうとしてもなんかギャップはあるよな 法然<阿弥陀仏に祈れば幸せになれるよ
空海<いや悟りを開かんと無理よ
日蓮<個人ががんばっても無理よ社会が変わらないと 曹洞宗は座禅や学問だけでなく掃除や炊事など日々の行い全てが修行ってやつ >>102
全部自力じゃどうにもならないと言ってる >>91
東南アジアの仏教がが本物かどうかはわからんが
東南アジアに行ったら一番「場」としての本物感は味わえそうじゃないか?
少なくとも日本の僧侶がいかさまだと思える程度には >>24
真言宗はわりと口語っぽいの作ってたような >>105
一般人の信仰心が日本とは全然違うからな ブラフマン論が出てくるあたりから今に至ってもインド哲学の中に釈迦の思想は入っていて仏教は哲学であって信仰ではない
仏教の○○派はプラトン派キュレネ派といったギリシア哲学と同じような流派の違いだから哲学学校の中では知識として共存してる
その哲学が各方面に伝播する中で各地でローカライズされ為政者の威光の根拠として使われるときに経文が魔法の呪文に変わっていった
蘇我馬子らが日本に仏教を持ち込むときも神道における天皇の呪力より仏教の呪力の方が強いといって神道の司祭が経文を唱えるようになってしまった
拝み屋であった忌部氏や中臣氏はそれで怒った 日本の天皇家でない為政者はだいたい禅宗推しでしょ
後醍醐天皇も源頼朝も足利義満も信長も禅宗 仏教は知識や思考を重んじる哲学とは違うよ
瞑想ってあれは考え事してるわけじゃないから 釈迦の瞑想の末の気づきとスピノザの汎神論なんてそっくりよ
わかりやすい汎神論(5分10秒)
https://www.youtube.com/watch?v=SeEO0yYvOaU 瞑想は考え事とは真逆
呼吸を観察して思考が浮かんできたのに気付いたらまた呼吸に戻る NHK心と宗教で為末大とどっかの住職さんが瞑想についてやってたの面白かった
瞑想とは自分を背後から見る自分が自分をコントロールする事とか
うまく説明出来ないけどよううべに転がってる 自分が自分をコントロールしようとすると苦しくなる
思考や感情は青空に浮かんでる雲で
瞑想は青空という言い方もされたりする 仏教の修行てそんな流れに身を任すものなのか?
欲望まみれの自分をコントロールする事じゃないのか? 我が家は真宗大谷派だけど戒名ではなく法名と言ったり
故人は極楽浄土に行くというよりあの世でまた学んでいくという考えだったり
普通の仏教とはちょいちょい変わってるなと
極めつけは長年世話になってる住職の跡取りが丸坊主にしてなくて普通の髪型してる コントロールなんてできないって知ることが目的だから >>119
自分から意思や思考や感情のような雲を全て取り除いたら空っぽになるのではなく
実は青空が広がっていてその青空は知覚可能だというのが瞑想 流れに身を任すのとは違うよ
普通は思考や感情を自分自身と同一化してるけど
思考や感情あるいは欲望は自分自身そのものではなく瞬間的に湧いて消えてくもの(無常)であると理解する方向性 脳科学でも思考や感情は原因ではなく結果だと明らかになったし肩の力は抜けるんじゃないかな 釈迦も悟りを開くまでは色んな幻覚が襲ってきたそうだけど
その点で一番近いことをやってるのは臨済宗
12月1〜8日の夜明けまで座禅をしっぱなし(寝るときも横にならず座ったまま寝る)
話によると座っているうちに小人やワニが見えたりしたそうな 釈迦は瞑想の境地でブラフマンに会ってるんじゃないの? 釈迦は修行仲間から離れてすなわち修行を辞めて悟りを開いたんじゃなかったな 映画「マトリックス」の赤い薬と青い薬
安定した生活を失ったり人生が根底から覆るとしても真実を知りたいのか
満ち足りたしかしなにも知らない状態であり続けたいか
この真実を知る赤い薬が仏教の瞑想 修行仲間と離れたのはヤギ乳を布施されて飲んだからじゃないっけ 何も知らず満ち足りてもおらず苦悩に満ちているのが現実なんだが 一時期ちょっと瞑想やってたことあるけど
頭の中で思考が生まれる瞬間に気付くことは出来た
頭の中って自分の意思とは関係なく色んなイメージが勝手に湧いては消えるっての繰り返していて
その中で何か引っ掛かりが出来たものが考え事になってたりする 修行には意味がないことを悟り布施も受け取り修行仲間から見放されて
より深い悟りを得たんだろうか お釈迦様はまず死にそうなくらいの苦行をして辞めて村人から乳粥を飲んで栄養つけてから瞑想に入って一週間で悟ったらしい
この苦と楽を経験するプロセスけっこう大事な気がするな >>132
だから赤い薬で人生を根底から覆すのが瞑想 脳の働きの結果として思考が発生するから止められないし止まらない 一発逆転の発想は仏教からは感じないな
諦観(諦めるじゃなくて全体を見通す)こそ人生を楽に生きるコツというか >>138
脳の働きになんらかの作用を及ぼせばもちろん可能だね 仏教は異性と目も合わせてはいけないとか
労働や取引はするなとか
そういう普通の生活からかけはなれた
言うなれば異常な状態に身を置くことを求めるよ ユーチューブ見てたらいろんな知識付いていいな
無駄に知識が付くだけかもしれんが >>135
苦行の結果としてより繊細な何かに気付けるという意味ではありだが
繊細になりさえすればよいので苦行には意味がないしそんな修行は全く本質をとらえていない >>141
異性と触れ合ってもなんとも思わないなら触れ合っても構わない
労働や取引で欲望や願望が生まれないなら行っても構わない
最初からそんな境地になれないからそうなるまでの期間は離れてもらうってこと >>144
仏陀は美人との結婚をすすめられた時に
こんな糞袋には足でさえ触れるのも嫌だと言ってたよ 釈迦の悟りがなんなのかと釈迦がどう生きたかは結構微妙なところがあるとは思ってる 仏陀の話を聞いて感激した人が食事を仏陀に渡したら
話を聞いた報酬として食事をもらうことは出来ないと言って捨てちゃうくらい取引も否定してた >>134
悟った(境地に達した)から修行をやめて世直し布教を始めた
ぜんぶわかってるので修行を続ける意味がない 布施は頂戴するけど報酬はもらえないってどう線引いてるんや どうせ説いても誰にもわからないから世直し布教はしたくなかった
観音様だったかが瞑想中に現れてその教えが必要な人もいると説得されて布教を始めた 仏陀は悟りの内容が世の中に逆行していて誰にも理解できないだろうと思ったから誰にも教えず死んでしまおうかと最初は思ってたよ
それで梵天勧請の後に教えを説くようになってからも瞑想修行は続けてたよ >>150
報酬としてはもらえないって言ってるでしょ
無関係に食事を出せば良かっただけだが感激した人にはそれがわからない >>152
取引や労働は完全否定
瞑想もこれだけやったから悟りに近づいたはずだみたいのは通用しない世界だから >>157
取引を取引だと思わずに行えば良いのだけど釈迦にはできても普通の人は無理ってこと
ジャイナ教とは違って行動ではなく内心を重要視するのが仏教 >>158
仏陀自身がその行動は取引になるからと言って捨ててるっしょ 悟りを得た人には取引ができなくなると考えるとわかりやすい 相手には取引という意識はないでしょ
仏陀は最初はただ食事をくれと言ってもらえなかった
それで話をしたら相手が感激してくれることになった
そしたら仏陀がこれは取引になるからと捨てた 相手には取引という意識はないでしょ
仏陀は最初はただ食事をくれと言ってもらえなかった
それで話をしたら相手が感激してくれることになった
そしたら仏陀がこれでは取引になってしまうからと捨てた お布施システムは釈迦の歴代の弟子たちが修行僧という職業を確立するために発明したもの
自分らの修行こそ社会にとって最良最上のことだから働く時間も惜しんで修行に励む必要がある
それが民衆のためになるのだからお金を出して我々を養え
ということになった 布施は受け取っても一切の感謝をしないところが重要だし
むしろ感謝をするのは布施をする側 一般常識や道徳や社会倫理と繋がっていないから
釈迦の教えは説いても理解されないと釈迦は考えたし今もそれは変わっていない 明治以降の日本が国民に
やりたかったことやらせたかった事と
何もするなみたいな仏教のスタンスは
どうしてもぶつかるな
あと昔から老荘的な価値観てものすごく嫌う連中が
一定数いたみたいだね
寝そべり族なんてのが出てくる現代中国も
なかなか深いのかなと思ったりする 何もするなはジャイナ教であって仏教は何もするなとは説いていない
まさに釈迦がジャイナ教を否定して生まれたのが仏教 金曜にbsでサイレンス〜沈黙をやるね
遠藤周作の生誕100年らしい
仏様なら何か言ってくれるのかい 仏教ってインドでもいったん絶滅したらしいね
イギリス人の学者によって発見されたとか聞いたことある
だとしたらイギリス人もたまには大した事をするもんだな 近隣のスリランカにはしっかり残ったし今も残ってる
シルクロード沿いは大乗仏教汚染によって別物に >>167
そういうのもあって明治政府は
神仏分離させて神道が国教ですと言い出したんかな 西洋の国々を視察して国をまとめるためには一神教が必要だと感じ天皇を祀り上げたんだと思う スリランカ仏教も実は数回壊滅状態に陥ったし今のスリランカの佛教は19世紀に西洋の人間が入ってきてその影響で変容した仏教 >>171
スリランカにも大乗仏教は普通に入ってた
インドでも大乗と部派仏教は共存してた 結局釈迦は正しくて釈迦の悟りを世間は受け入れず後世に正しく伝わることもなく名前だけ利用した別物が乗っ取った それはキリスト教にも言えること
イエスキリストは自分を生涯ユダヤ教徒だと思っていただろうしキリスト教などというものを始めたりはしなかった その正しい釈迦の教えってのも実は殆んどが後世の経典にしかソースが求められない お釈迦様は50億年に一回しか現れない
その教えを絶滅させるとはなにごとじゃ 正しい釈迦の教えなどというものは釈迦の入滅後には誰にもわからないって事だよね ヒンズー教を学べばいいよ
仏教もヒンズー教の前身であるバラモン教の派生なんだから根幹の思想はいっしょのはずだ 今のヒンズーを学ぶのは日本仏教で仏教を学ぶくらい間抜けな事だと思う
ありがたいことにインド哲学の聖典はたくさん残っているから釈迦が何を言いたいかは類推できる可能性はある 仏陀はジャイナ教の否定というよりバラモン教の否定じゃないか バラモン教の否定が二つあって行動の制御に重きを置くのがジャイナ教で心を制御できれば行動は自由なのが仏教 行動自由かなあ
服装から寝るとこから色んな決まりがあるけど 悟ってからより高い悟りの境地を目指すのが仏教だから悟りはゴールではなく入り口 知るはヤスシ行うはカタシ
知っただけではしょうがないのが仏の道 >>117
この背後から見てるのが自分ではなく
言うなれば阿弥陀仏ということになる 宗派というか個人で知的レベルが高かった人でいうと空海か道元って感じ?
空海は書とか詩作とか芸術方面の才能も凄くて西洋でいうダ・ヴィンチ的な万能人なのかなと思うけど たぶん道元が知的だとか言うのってハイデッガーあたりの関連から言ってるんだろうけど
道元は思考の果てにたどり着いた境地ではないよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています