「盗んだバイクで走り出す」の意味が分からない…尾崎豊に若者が共感できなくなってきているらしい
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「盗んだバイクで走り出す」(『15の夜』)
「行儀よくまじめなんてクソくらえと思った 夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」(『卒業』)
私もたまにカラオケで歌ったりするのですが、こういうまっすぐな反抗を歌った歌詞というのは、いまの若い世代にはピンときていないようで、「なんでそんなことするの?」という感覚です。
時代が変わり、行き場のないエネルギーを発散させるかのようなアクティブな非行・暴力・攻撃性は鳴りを潜めていき、いじめは陰湿化・オンライン化しています。直接的にぶつかり合うような摩擦が減っていくこで、対人関係はより過敏になり、傷つきを恐れるようになります。
闘ってもムダだし、怖いし、傷つきたくもないので、反抗せずに固まる・引きこもる傾向になっていく、というのは自然の流れのように思います。
https://president.jp/articles/-/73564 もう一度ヤンキー格好いい文化作らないと肉体労働者が居なくなるぞ移民すら今の日本の給料の安さで来なくなりそうなのに 大友康平の回想する尾崎豊
とにかくハンサムな子だなと思ったのは覚えています。目が透き通ってて、髪型なんかもちょっと、若い頃のレオナルド・ディカプリオを彷彿とさせてね。
ライブのパフォーマンスは、ある意味めちゃくちゃでした(笑)。〜略〜尾崎は、最初からやりたい放題なんですね。一曲目から絶叫して喉をつぶし、フロアをごろごろ転がったりしながら、カスカスの声でずっと歌ってたりする。
いずれにせよ、アーティストとしては完全なる破滅型というか……。〜略〜文字どおり身を削って歌っている印象が、当時の尾崎にはありましたね。ところがそのストイックな彼が、ステージから降りた瞬間、二十歳そこそこの遊び好きなお兄ちゃんに変わる。そのギャップがまた面白かったなあ。当時、彼は吉川晃司と仲がよくてね。僕らのコンサートの打ち上げにもよく一緒に顔を出してくれた。
背伸びした若者っぽい表情もたくさん持っている人だった。西麻布の「レッドシューズ」という最先端のバーによく出入りしていたし、喧嘩っぱやくて、女の子も好きで……。とにかくヤンチャでしたね。ここでは書けないエピソードも山ほどあります(笑)
ダイヤモンド☆ユカイの回想する尾崎豊
尾崎豊っていうと、世間の人はどうしてもピュアでストイックな人柄を想像しがちじゃない。でも素顔はまるで違ってたんだ。とにかく明るいヤツでさ。意外かも知れないけど、ちょっと長嶋茂雄さんに近いオーラがあった(笑)。あれは広島でのイベントだったかな。終演後の打ち上げで、いろんなバンドの関係者が飲んでる時に、酔っ払った尾崎が俺んとこまで来てさ。
「ユカイさんも、本名は豊っていうんですよね? じゃあダブルゆたちゃんですね!」
とか言うわけさ。飲むとひたすらバカ話で。音楽の話題なんてほとんど出なかったな。女の子も大好きでね。ここじゃ話せないエピソードが山ほどある(笑)。
でも、こうやって彼のことを話していると、頭に浮かんでくるのはやっぱり、子供みたいな笑顔なんだよね。それこそ長嶋さんじゃないけれど、少なくとも俺の前では、ほんと太陽みたいなヤツだったから。女の子が大好きで、いつもくだらない冗談ばかり口にしてね(笑)。うん、ある意味で可愛くていいヤツだったよ。人間として大好きだったな、尾崎。 >>376
尾崎が出てくる前の時代はこんなのよりもっと荒れてたけどね >>400
当時の不良はわざわざ夜に忍び込んだりしないわな 40代半ばの俺の周りでは中高から大学に至るまで俺を含めて尾崎豊とかBOΦWYとか大好きなやつだらけで皆カラオケでよく歌ってたぞ
ギザギザハートの子守唄とかもよく歌ってた
不良どころか中高の時は旧帝医学部や東大行くやつがゴロゴロいる超進学校だったし俺の友達だけでも東大卒のやつが何人もいる(俺は地底の非医学部にしか行けなかったが)
俺の周りは基本的に真面目に勉強はしても糞真面目ではなく妙な堅苦しい正義感とかはなく洒落の分かるやつらだったからな 特攻の拓に出てくる風神雷神のキヨシはパッソルだから族車だよ怖いよ 尾崎と同じ80年代に「アイドル」として君臨したのは、光GENJIの中心メンバーだった大沢樹生だ。
大沢が尾崎と知り合ったのは、光GENJIが結成される前、85年頃である。大沢は4歳上の尾崎を「ユタカ君」と呼び、尾崎は「ミキオ」と呼んでいた。
大沢が、お互いの若き日を懐かしむように口を開く。
「当時、よく行っていた六本木のカラオケパブ『2001年』や『3001年』で知り合ったのかな。僕は前のグループの『イーグルス』が自然消滅して、高校生になったら、とにかく人脈作りをやりたいと思っていたから。ユタカ君はひとりで来ることが多かったので、自然と仲良くなっていった感じ」
大沢と尾崎は、互いの仕事の話はほとんどせず、共通の友人の家に泊まりに行くなど、どこにでもいる若者の付き合いであった。酔っぱらった尾崎が大柄な相撲取りにケンカを吹っかけ、あっという間にぶっ飛ばされる場面を見たこともあった、と笑う。
大沢にとって今も忘れられないのは、自身の17歳のバースデーに尾崎も現れ、そこで「十七歳の地図」を一緒に歌ってくれたこと。
「その時にポラロイドで撮った2人の写真と、ユタカ君から誕生日プレゼントでもらったキーが変えられる高級なハーモニカは、今もずっと宝物ですよ」
訃報を聞いたのは、光GENJIの仕事で出向いていた海外でのこと。まず「あの若さでなぜ?」と思い、続いて「なんて不思議な死に方なんだ」と思った。
会わなくなって長い月日は流れていたが、思い出すのは陽気に遊んでいたお互いの青春時代であった。 編曲家・樫原伸彦が尾崎のライブにピアニストとして初めて参加したのは、85年11月1日だった。ただ、樫原がこれまで接したミュージシャンと尾崎は明らかに違っていた。十代の集大成となるツアーでありながら、あまりにも自由であった。
「えっ! 尾崎ってリハーサルに来たり来なかったりするんだ」
それが第一印象である。
「満足なリハーサルもできないままどうなるんだろうと思いましたが、ただ、元からいるメンバーとの呼吸は完成されていました。どう間を取るかとか、プレイヤーの動きを中心としたフォーメーションは、全く心配することはなかったんです」
それより樫原が驚いたのは、ツアー初日の四日市市文化会館から早くも始まった尾崎のテンションの高さである。噂には聞いていたが、高いところから飛び降りようとしたり、客席に飛び降りようとしたり、ハーモニカを放り投げ、ポカリスエットをぶちまけるなど、やりたい放題だった。
「スピーカーから飛び降りた時は『あ、こいつ、またやりやがったな』と思いました。飛び降りてケガしたんじゃなかったの、って聞きたくなるくらいに。僕はそれまで『雅夢』などヤマハ所属のアーティストをサポートすることが多かったのですが、おとなしめな彼らとは全く違うので、とにかく驚きの連続でしたね」
樫原はバンドのメンバーになり、ツアーと並行して、打ち上げにも欠かすことなく顔を出すこととなる。
「イメージと違って、メンバーにもスタッフにも丁寧にお酌をして回る姿に驚きました。自分が座長であるので、素直に『お世話になっています』という感謝の念でしょうね」
酒を飲むのが大好きだった尾崎は、酔ってくると口グセのようにつぶやく言葉があった。
「俺の最初のレコードって、どこに行っても全く売ってなかったんですよ」
有名なエピソードだが、1stアルバム「十七歳の地図」は、初回プレスが2000枚とも1500枚とも言われている。そして樫原は、尾崎のもうひとつの酒グセもたびたび目撃する。
「六本木を歩いていると、酔った尾崎は目つきが悪いから街の不良にからまれるんですよ。しかも、肩で風切って歩くから、チンピラに見えたかもしれない。すぐケンカになって、警察が来るというので一斉に退散していました」
樫原は尾崎の4枚目のアルバム「街路樹」でプロデュースも担当する。ただし、尾崎の薬物による逮捕なども影響し、発売は大幅に遅れた。もっと決定的だったのは、尾崎自身の創作意欲や方向性が迷路に入っていったことだと、樫原は言う。
「できたばかりの曲を聴かせてもらうと、ニューヨークから帰って来た影響なのか、どうにも哲学的な匂いが色濃くなっているんです。作るのは尾崎自身ではあるけれど、時にはあまりにも抽象的な歌詞に『これじゃ何を書いてるんだかわからないよ!』と声を荒げたこともありました」
アルバムが発売された88年9月1日、すでに樫原は尾崎と会うこともなくなっていた・・・・ この日、尾崎は浜田省吾らと、反核をテーマにしたイベント「アトミックカフェ」に出演。4曲を披露する予定だったが、2曲目にして異変が起きた。バンドのリードギターだった江口正祥(まさよし)が振り返る。
「この日を含むツアーで、尾崎が照明台に登っては落ちそうになる演出は、何度かやっていたんです。僕のギターソロの部分で少し登っては、落っこちそうなフリをする。僕がギターを弾きながら『そろそろ戻ろうか』と目で合図をして、曲の歌い出しに間に合うように尾崎が戻って来る」
ところが、この日に限っては違った。尾崎がいつものように照明台に登っていく瞬間、ふと目が合うと、ニヤリと笑った。酒に酔っているような「目の焦点」だったという。
そして尾崎は、高さ7メートルの照明台からジャンプする。その瞬間、不気味な音が響き、尾崎は苦悶の表情を浮かべた。
「日比谷野音は床がコンクリートなんですよ。あれだけの大ケガだけど、それでもまだ不幸中の幸いです。頭から落ちていたら死んでいたと思います」
江口は茫然としながらギターを弾き続けた。尾崎はスタッフに抱えられ、ステージ裏に引き上げる。それでも再び戻ってくると、這いつくばったまま残りの曲を歌い終えた。
江口はデビューライブから3年以上を、バンドの要として支えた。最初は「8ビート」という言葉も知らなかった尾崎が、またたく間に音楽的成長を見せた。
そしてデビューから1年も経っていない日比谷野音で、尾崎は左脚の骨折で4カ月ものブランクを負ってしまう。実はケガをした翌日も同じ日比谷野音で、親友となる吉川晃司とのジョイントライブが予定されていた。
「あいつとやりたかったのに。尾崎のバカヤロー!」
当日に出演不能を知った吉川は、ステージでそんな思いをぶちまけている。この日から3年後、吉川は尾崎をある人物に紹介する。
「実は尾崎が甲斐さんとしゃべりたいらしいんだけど、それが言えなくて」
吉川と旧知の甲斐よしひろのことである。偶然、甲斐が飲んでいた西麻布の店に2人が訪れ、その一言を残すと吉川は帰り、それに促されるように隣に座った尾崎が口を開いた。
「尾崎です。ずっと聴いていました」
尾崎と干支で一回り上になる甲斐は、日本のロック史に多大な功績を残す「甲斐バンド」のフロントマンで、特に詞の部分で尾崎に大きな影響を与えた。
「あの『100万$ナイト』の詞は、どんな気持ちで書かれたんでしょうか」
甲斐は面食らった。もし、自分がミック・ジャガーに会ったとしても「あの詞はどう書いたんだい?」などというストレートな問いかけは絶対にしない。これはあまりにも陳腐な「初対面の聞き方」だと、笑うしかなかった。
尾崎が心酔した「100万$ナイト」とは、79年に発表した重厚なバラードで、ミラーボールの光とともにアンコールのラストに披露されることが多い。
甲斐は尾崎に、ひとつだけアドバイスした。
「自分の身の回りから、はみ出すようなストーリーを描くべきだ」
今、自分たちが生きている世界観から、大きく枠の外に出たものを描くのだと伝えている。尾崎の没後、甲斐はアルバムに「I(#2)」という、尾崎をイメージした楽曲を書いている。 バイクで検索したらここしか無かったのでスレチだけと書く
原付の概念が変わって125ccの出力を落とした物になるなんて
絶対ないだろwと思ってたのが実際になりそうなんだがどうなんだ 俺たちは大人たちの都合に振り回されるんだよ
寿司ペロはささやかな抵抗 中高生でガチなヤツなら乗ってるバイクは盗品で
当たり前の事なんだからイチイチ言わないだろ
タバコを吸ってイキがるぜなんて歌詞なんてないだろ?
有ったとしたら隠れて吸ってみたみたいなダサ坊だろ あの男前だから
生きてたら結局役者になっちゃった気がしてる このスレだとカリスマに憧れた凡人って評価が多そうだけど
結局薬に溺れて夭逝したと思う 日本のミュージシャンはみんな良い人ばっかりだからな
尾崎豊も実際は好青年だし
ブルーハーツも当時高校生の俺はガチで知恵おくれが頑張ってるのかと思ってたけど最近ようつべで昔の映像見たらキャラだとすぐわかった 日本のアーティストは根が真面目だから社会を否定できないな ユカイは「レッド・ウォーリアーズ」でのデビューこそ尾崎に2年半ほど遅れたが、年齢もミュージシャンとしてのキャリアも上である。
「なんだかロック、ロックとはしゃいでいたけど、僕らには『ニューミュージックの延長』にしか思えなかった。彼は海外のロックを勉強する間もなく、早くにデビューしちゃったんだよな。彼はオーディション出身だけど、俺たちはライブハウスからの叩き上げ。そのためか、俺に『ロックを教えてください』と言ってきたこともあったね」
87年8月3日、尾崎は大阪球場での2度目のライブを開催する。たまたま大阪にいたユカイは、一度ライブを見ようかという気になった。
「正直、曲に関しては年齢の差もあるから、それほど期待はしていなかった。ところが、ライブが始まって、何だろうな‥‥びっくりしたんだよ」
それは、尾崎自身の「放熱」に対してだった。
「ステージからものすごくエネルギーが届いてくる。そうか、尾崎ってこれだったんだ! CDではわからなかったけど、このエネルギーだったんだ! ピンポイントで自分がいる席に向かって、ブワーッと噴射されてくるんだよ」
ユカイはここで初めて「尾崎豊そのもの」を認識したという。やがて事務所も別になり、尾崎と会うこともなくなっていたある日、偶然にスポーツジムで再会する。それは92年、尾崎が亡くなる数週間前のことだったと、ユカイは記憶する。
「あれだけ太ったり痩せたりを繰り返していた尾崎が、最後に会った時は痩せているだけでなく『あれ? あの熱かった尾崎がこんなになっちゃったの?』と拍子抜けしたくらい。ものすごく大人びていたんだよ」
事務所を独立し、結婚して長男も生まれた後だけに、大人びて見えるのは不思議ではない。ただ、それだけではない「引っかかり」を感じたのだ。
「たとえて言うなら『あしたのジョー』の力石徹みたいだった。減量の果てに、人生を達観しているような感じ」
力石はもともとウエルター級(66キロ)の大柄な体格でありながら、ジョーと対戦するためにバンタム級(53キロ)まで、苛烈な減量を自らに課す。そしてジョーとの試合後、命を落とす。マンガのキャラでありながら、告別式まで開かれた。尾崎の葬儀会場だった護国寺にほど近い、講談社の会議室でのことである。
異変の理由について、ユカイは続けた。
「俺は当時、事務所とうまくいっていなくて、そんなことを尾崎につぶやいたんだよな。そしたら『ユカイさん、人生はいろんなことがあるから』と言うんだ。あれっ、こんなことを言う男だっけと思った。俺たちが知っている、熱くて、素直で、明るくてハチャメチャな男だった尾崎はそこにはいなかったよ」 0428名無し募集中。。。
2023/09/11(月) 11:17:50.640
そもそも不良じゃなかったしな尾崎
同じように反抗期のカリスマとされたブルーハーツの甲本も進学校だし
ただエロいやつとカリスマAV男優とのちがいみたいなもんだな 子供だから多少の不良行為が大目に見られていた時代から相手が子供でも自分の不愉快は徹底的に潰すと言う価値観に社会が移行したから >>440
独身が増えたのもあるんだろうな
親なら子供を完璧に管理しろってのがまかり通る 社会が不良を全否定せずに最低限度許容していたからな
それは家庭環境に恵まれない子供がコミュニティ内で可視化されていたからでもある 日本人の不良が少なくなって肉体労働者が少なくなって移民呼んで治安悪化させてんだから結局世の中変わらないよな 今は理不尽な親や教師が少なくなって子供がグレるきっかけがないもんな >>1
今は盗んだバイクはトラックに積んで走り出すからな 限定解除が狭き門やった時代はあくまで自分用やから中型以下のバイクはようパクられたけど大型をパクるヤツはほとんどおらんかったな
海外に売られるのも含めて今は高価な大型バイクほどパクられる 昭和は今ほどマナーに厳しくなかったしな
公共交通機関の車内でもタバコ吸えたし おっさんだけど尾崎の世界観わかるよ
尾崎世界観じゃないけど
ルールやマナーなんて小さなものに縛られたくない
そのために本当はいいことなのにちょっと悪ぶってみせたりするんだろう 「フリーダム!盗んだ車でしけた夜をぶっ飛ばす」の意味は分かるの? 本当に盗むわけじゃなく想像するだけなんだよ
心が自由になればいいのだから
実際に盗んじゃいけない
ボウイのスクールアウトに刺激をうけて実際に退学してしまう少年に氷室京介は困惑していたらしい 俺おじさんだけど尾崎は昔過ぎじゃないか?
物心ついた時は既に亡くなってたよ 今だとトー横で盗んだメジコン囓りだすとかか
マイスリーの夜とか >>440
昔は大人もやりたい放題だったけどな
今なら一発アウトの悪質なパワハラ、セクハラ、子供への体罰、暴言、ブラック校則、虐待行為が平気でまかり通ってた
時代が変わって大人が子供に優しくなった分子供も大人に反抗する必要性が薄れた 昔の日本を描いた再現ドラマとかには今の価値観でも特に大きな問題がない良識のある大人がほとんどで美化されてるけど現実の昭和〜平成初期には今だったら速攻で逮捕されるようなことを子供にしてた糞教師や糞親もゴロゴロいた
当時は明らかに理由にもなってない理不尽な理由で教師や親が子供を殴って大怪我させても躾の一環で済ませれてまず逮捕されることとかなかったしやりたい放題だった ガキなんて殴って躾て良いんだよ今の若い奴はひ弱過ぎ仕事初日でバックレとか珍しくない >>465じゃないけど俺は中学までは体罰ありだったから殴られるとか何とも無いぞ
殴られるのってそんなにヒステリックにわめき散らすほど怖いか?
後腐れ無いなら一発殴られて終了の方がマシだしよほど教育になるよ
やりすぎは良くないが 殴られるの怖くて怖くてしょうがないヘタレはネットだと強気ですねwwwwwwwww >>467
小学校時代に理不尽な体罰受けまくってたから体罰には反対だよ >>469
また効いてしまったか
なんか毎回クリティカルヒットしてしまってすまん 子供の体力低下は殴られなくなったり過保護になった頃から如実になった
今の子は転ぶ時に手も膝も着くことが出来ないらしいな
それって老人と同じ
そんでぶら下げてる水筒で肋骨折ったり内臓を損傷したりするんだとw >>471
ヘタレがクリティカルはお前だビビりくんw
殴られるの怖いね?泣いちゃう? 体罰はのちのち感謝されるやつは結果だしてたからだろうけど
その感謝してるやつがセンスなくてさらにのちに教育者になった場合に
やらかすんだよな >>470
理不尽じゃなくてお前が発達障害で理解出来なかっただけだろうね 別に感謝はしてないが殴られるくらいどうと言うことはないなってだけだ >>473
また効いてしまったか
なんか毎回クリティカルヒットしてしまってすまん 実際体罰禁止になってから学級崩壊なんて言葉が出て来たわけだし
当時の知り合いに教師が居れば理由は解ると思うよ 尾崎信者「盗んだバイクで走り出すってカッコイイ!」 >>481
いんや担任や顧問(全然殴るタイプではない)が体罰が禁止になった頃に再開したが生徒が授業中に携帯で電話したり歩き回ったりは止めようがなくなって(少しでも強く怒ると問題になるくらい)どうしようもないって言ってたぞ 殴られるの怖いってヤツが何を言ってもカッコつかねえよw 尾崎みたいなのって殴られるの理不尽だって当時の陰キャがやらかすんだよな
机とか校庭に出したり
後片付けさせられる他の生徒にも恨まれるキモイヤツ 学校で居場所がなく友達がいない陰キャの行き着く先が尾崎 校内暴力が一番多かった頃は理不尽な体罰とか多かったのみならず公立の学校も所謂詰め込み教育(現代化カリキュラム)でバカには到底ついていけないほど高度だったから大量の落ちこぼれを生み出しそれが大量の不良を生み出すことにも繋がった
ゆとり教育が導入されて落ちこぼれが減ると不良も減った
所謂ゆとり教育に関してははネットでは専ら平成に導入されたものだけを指してることが多いけど昭和時代に既に詰め込み教育を廃止してゆとり教育を導入してるからな 友達がいなくて教師や親としかまともに会話したことなかった陰キャにはそりゃ尾崎の良さは理解できないだろうな 昭和生まれでも友達がいなくて教師や親、勉強だけが友達だったみたいな陰キャには尾崎の良さはそりゃ到底理解できないし共感できないだろう 尾崎って不良に成り切れない脳内だけ悶々としてる
あの時代の陰キャ相手の歌なんだがむしろ ああ
当時有名なそれを指す用語あったわ
「ネクラ」 単純な不良でもないし真面目でもないし単純な陽キャでもないし陰キャでもないし色々とアンビバレントな感情が篭った歌だから広い層に受けてたんだよな
浜崎あゆみも見かけはあんなだけど初期〜全盛期の曲はめちゃめちゃ絶望的な暗い曲ばかりだったギャップがギャル系の若い女を中心に色々な層に受けて売れた >>496
むしろ陰キャのが染みるよこういう系歌なんてものは
陽キャにはしみじみした歌なんかいらないそんなものなくても楽しいし 尾崎自体は陰キャではないが尾崎信者は陰キャしかいなかったよ
今で言うカースト上のタイプはハマってなかった 尾崎を親の仇みたいに叩いてる層が最底辺の陰キャ負け組であることだけは間違いない
普通だったら別に尾崎信者にならないまでも深く考えずに盗んだバイクで走りだすとか窓ガラス割ってとかネタにして楽しむだけだからな >>496
体育会系の俺には全く染み込まない
気持ち悪いだけ
勉強得意な賢いヤツももちろん同調しないだろう
俺はチャリ盗まれた事もあるし尾崎みたいなのは目の前にいたらボコボコにするわ それが昭和時代の詞を理解できない最近の奴っていうお話をしてる 陰キャが聞いてた=アンチ尾崎
とか短絡すぎて尾崎の何を聞いていたんだろうか? アクティブな不良じゃなくて
学校来なくなっちゃうタイプの歌だぞ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています