「愛ちゃんはやくはやく! 遅刻しちゃうよ!」
 そうマネージャーに急かされ、高橋愛は食パンを咥えて家をでた。
 彼女が助手席に乗り込むと運転席に着いたマネージャーが車を急発進させる。今日は雑誌の表紙撮影の日だった。
 高橋が「間に合いますか?」と訊ねると「大丈夫、まかせて」という声が運転席から返ってきた。
 安心した高橋は座席にドッと背から倒れた。それから車内に備え付けられている液晶モニターに目をやると、朝の報道バラエティの隅で文字だけのニュース速報が流れていた。
 内容は渋谷区で死亡した中年男性が発見されたというものだった。最近はこの手の物騒な事件が特に多い。
「マネージャーさん、確か撮影場所も渋谷でしたよね?」
「ええ。撮影のあとは夜まで舞台の稽古。そこからクイズ番組の収録が一本あるわ」
 高橋はうわの空で頷いた。
 仕事の忙しさよりも事件のことが気になっていたからだ。
 都内で多発している猟奇殺人事件――SNS界隈では<暗黒教>といわれる組織が関与しているのではないかといわれている。
 それはいわゆる新興宗教なのだが、急速に信者を増やし、なかには芸能人や政治家の信徒も存在するという。
 そしてなにより彼女が気になっているのが<暗黒教>について囁かれているとある噂だ。
 ――入信した者は守護霊による強力な加護を授かる。
 ありきたりな謳い文句に聞こえるが、守護霊というワード、暗黒教が人の生死に関わっているという可能性。
 喉に刺さった小骨のように自身のなかで妙な引っかかりを覚える。
 五年前の――十五歳のあの日、初めて命を吸い取ったあの時、たしかに自分の側から何かが現れた。
 ずっとあれは死神だと思っていた。自分は死神に憑りつかれているのだと――
 でも、もしもあれが守護霊なのだとしたら、善いモノなのだとしたら。
 暗黒教なら何か知っているかもしれない。
 そうやってぼんやり考えていると、運転席から着いたわよと声がして、高橋はハッと前へ視線を戻した。
 しかしすぐに彼女は怪訝な表情を浮かべでマネージャーを向いた。
「ほんとうにこんなところで撮影を?」
「ええもちろん」
 マネージャーは正面を向いたまま答えた。
 スケジュール等はすべて彼女が管理している。疑いの余地はないのだが、しかし正面にあるのはどう見ても廃屋と化した建物だった。
 外壁は元が何を営んでいたのかすらわからないほど荒れ果て、心霊スポットに肝試しにきたといわれた方がしっくりくる。
 とりあえず車から降りると7月とは思えないほど空気が冷たかった。
「あの、本当にここであってますよね?」
 高橋が改めて訊ねる。しかしマネージャーは運転席に乗ったまま返事をしない。
 しかも何故か車のエンジンをふかしはじめた。今からレースでもするみたく――
 高橋が訝しむように彼女を見ていると突然カバンの中でスマートフォンが鳴った。電話にでるとマネージャーからだった。
「あいちゃんいまどこにいるの! 大遅刻よ! ていうか私が寝坊したからなんだけど」
 高橋は思わず首を傾げた。マネージャーからの電話だが、そんなことはありえない。彼女は今、自分の目の前に車に乗っている。両手でハンドルをがっちりと握り、運転席で車を唸らせているのだ。
 どういうこと? と思った瞬間、マネージャーの乗る車が突如こちらへ急発進してきた。
 飛び退いて間一髪で激突を避けた高橋は、地面を転がってわけもわからずとにかく上体を起こした。
 今のは避けなければ間違いなく轢かれていた。
 そう思ったのもつかの間、後ろから猛るような唸りが聞こえて振り返ると、車がまたこちらに向かって突っ込んできていた。
 車に轢かれて死ぬ。あの日のあの犬のように。でもあの犬を殺したのは自分ではないか。
 いや、救おうとしただけだ。私は、あの子を救いたかっただけなんだ。
 あれが死神ではなく守護霊なんだとしたら、今、私のことも救ってみせて――
「マンパワー」
 高橋は自然と頭に浮かんだ言葉を口にした。
 すると体から突如として黄色い靄が出現し、それが迫りくる車に激突した。
 衝撃で進路のずれた車はそのまま廃屋の壁に激突した。