同日宮内省告示第10号で翌日5月12日の京都行幸が発表され、
翌日早朝、天皇は新橋駅から汽車に乗車、同日夜22時05分に京都に到着した。
その夜のうちにニコライを見舞う予定であったが、
ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期され、
天皇はひとまず京都御所に宿泊した。
威仁親王の兄の参謀総長熾仁親王陸軍大将も
天皇の後を追って京都に到着。
翌13日に天皇はニコライの宿舎である常盤ホテルに自ら赴いてニコライを見舞い、
さらには熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸まで見送った。
天皇が謝罪したものの、ロシア本国からの指示もあってニコライは東京訪問を中止し、
艦隊を率いて神戸からウラジオストクへと帰国の途に就くこととなった。

帰国前日の5月19日、別離の午餐に招かれた明治天皇自らが
神戸港のロシア軍艦を訪問する際には、
「拉致されてしまう」と進言する重臣達の反対を振り切って
療養中のニコライを再び見舞った。

小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、
「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走り、
さながら「恐露病」の様相を呈した。
学校は謹慎の意を表して休校となり、
神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。
ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超え、
山形県最上郡金山村(現金山町)では
「津田」姓および「三蔵」の命名を禁じる条例を決議した。
5月20日には、天皇の謝罪もむなしく皇太子が日本を立ち去ったことを知り、
死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺し、
後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現した。