ところが明治になって政府が神仏分離令を出した
神と仏は区別するよう強制されたのだ
そのとき神社の境内にあった寺は廃止されるところが多かったのだが、寺の境内にあった稲荷社のいくつかは守られた
みんな人気の稲荷を手放したくなかったのだろう
「これは神道の稲荷神ではありません、仏教の天部のダキニ天です!」と言い張って政府に逆らった
そして鳥居も撤去したのだが、あとの時代には元に戻って「鳥居のあるお稲荷さんのお寺」が復活した
そして堂々と生き残ったのが豊川稲荷というわけだ

今の豊川の公式の由緒だと「宋に渡った寒巌禅師の前に現れた吒枳尼真天を祀ってる」ことになっているけど
多分これは後付け
実際は空海が日本に紹介した荼枳尼天が稲荷神と習合したので、これを鎮守として祀ったと考えるのが自然
(じゃなきゃわざわざ神社風に祀る理由がないから)
そのあたり大人の事情で本当の経緯が伝えられていない
だからよけいにわかりにくいことになってると思う