【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン110
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浄土真宗(真宗)系の全宗派の話題を包括して取り上げる総合スレの第110弾です。
「どうして浄土真宗では○○をしてはいけないの?」という素朴な疑問から
批判・要望、各宗派を取り巻く諸問題、教義・教説、堂宇・荘厳、
全国各地の真宗寺院・念仏道場・説教所に至るまで、ありとあらゆる話題を取り扱います。
阿弥陀如来から見ればみな罪悪生死の凡夫。楽しく語らいましょう。
浄土真宗各派の情報交換の場としてもご活用ください。
大阪和歌山からdion,bbtecで「効き目ある」と書き込む高野山真言宗信者(通称キチガイ語尾w)は荒らしなので御用心。
真宗大谷派・東本願寺系諸派総合スレッド Part56
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【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン107
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【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン108
kizuna.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1648019642/ >>447
一方でクソをまき散らすのを積極推進しながら
上から言われたことを遂行しただけという上級宗務員がいる
戦争が起こっても「上の命令なので民間人も殺します」
とか平気で良いそうな奴らだよ、しかも僧侶なんだとさ 宗議会とか宗務員ってなんとなくだけど「世間知らずのお坊ちゃん」が
やってそうなイメージがある。
そもそも自坊留守にできるんだから、よっぽど暇か、
それとも法務員雇ってる大坊だよな? あれかな、唯善という人物が親鸞聖人のお骨と絵像を持ちだして
廟堂が体をなさなくなって墓守ができなくなった苦肉の策に覚如が本願寺を造ったわけ? 廟所、経蔵、親鸞の行実を伝えるための組織、構造というもの
報恩講なんかもは新潟常陸京都、親鸞と会った人々が一同に会して親鸞から伝えられたことを確かめ合う場だったわけよ
そういう講が33回忌が済んだら雲散霧消してしまうって危機感があったと思うわけよね >>453
33回忌まではお弟子さんらが集まって報恩講を営んでいたわけ? >>453 雲散霧消してしまうって危機感があったと思うわけよね
それって君が勝手に思っているだけだよね。 お西の慶讃法要行ってきた
一番ありがたかったのは、前門さんがお出ましになったこと
(それだけで行った価値あったな)
そして、衝撃で寂しかったのは、その歩みの弱々しさ だった
ところで、御影堂で法要やるのって本来どうなんだろ
阿弥陀堂はそれを生中継してたらしい
ご門徒には、故人の遺影や位牌にではなく、あくまでご本尊にお参りするんだ、って言ってるけど
御影堂の中心は聖人像
九字、十字名号はあるけど、余間だよね
浄土真宗=親鸞教 って揶揄を見たことあるけど、なんか反論できないわ 帰依すべき仏とその教えを伝えた祖師を共に崇めることは真宗に限ったことではないこと、
親鸞聖人を慕って関東などから聖人のお墓参りに来た人たちから始まったのが本願寺であること、
阿弥陀堂に表される帰依すべき仏と、御影堂に表される教えを伝えた死である人格を
人々はどのようなバランスで捉えてきたかについて、
他宗派の人間だけど参考としてこんなのを読んでみた。
真宗の土着 : 民衆の受容から見た真宗 (仏教・文化公開講座講演録)
清基 秀紀(著) 研究紀要 20 131-140, 2007-03-01 京都女子大学宗教・文化研究所
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1926 ちょっと長いけど、なるほどなと思った最後の一文を引用。
浄土真宗は、親鶯聖人によって説かれた教えが教義として存在するだけではなく、
その教えを信じ、その教えによって救われてきた人たちによって伝えられてきたものです。
教義を論理的に理解する理性だけではなく、それを宗教的な感性で信じた人たちの存在が
やはり重要なものです。そのような個人の宗教体験に基づく感性の部分によって
支えられてきたのが御影堂です。ただし、御影堂だけでは浄土真宗は成 り立ちません。
教えが中心として存在します。阿弥陀堂があるからこそ御影堂は存在するわけです。
真宗の土着の歴史というのは、その二つのバランスの上に成り立ってきたと考えることが
できると思います。 >>459を訂正
誤 御影堂に表される教えを伝えた死である人格
正 御影堂に表される教えを伝えた師である人格 月命日のお墓参り行くのやめていいですか?
疲れちゃった
勤行は正信念仏偈の行譜を行います >>460
土着とか言う割には結局阿弥陀如来しか認めていない謎理論w
土着というのは諸仏諸菩薩・土地の神様を信仰して、
仏壇に諸仏所菩薩・土地の神様を祀るくらいの話じゃないの?
この書物の中でそこまで触れているの?
阿弥陀如来しか認めさせないように、意図的に>>460が部分を切り貼りしているだけなの? >>459
お墓参りに来ようにもお骨と絵像がないのでお墓の体をなしていない話なのでは?
真宗僧侶や門徒は高野山の親鸞上人のお墓へお参りに行かないの? お墓として始まった本願寺にお骨があるのかないのか、まずはこの事実から始めないとな。 蓮如の書いた文字の南無阿弥陀佛の掛け軸が本尊だと言って仏像絵像は認めない人達がいるけど何か根拠ありますか? 廟所は日本では別に骨必須じゃないよ
靖国とかだって骨の有無は関係ないでしょ
> 蓮如の書いた文字の南無阿弥陀佛の掛け軸が本尊だと言って仏像絵像は認めない人達がいるけど何か根拠ありますか?
一休さんが蓮如の寺の本尊を枕にして蓮如に叱られたって逸話あるけど、蓮如時代だって普通に木像だよね
既存の真宗の絵像木像を貶めるための嘘だよ
自宅の本尊が絵像だった!この真宗は偽物だ!って言って不勉強な人を騙すのが定石だったんすよ >>467 廟所は「日本では」別に骨必須じゃないよ
?
「日本では」というところにも違和感を感じるが、
そもそも親鸞聖人の廟所はお骨ありきで始まったのでは? お墓なのだからお骨が有って当然なのに
「お骨がなくてもいい」という発想は日本人の思考なのかなあと思うわ。
唯善がお骨を持っていったと言われているけど、本当は本願寺にあるんでしょ?
隠す必要ないと思うけどなあ。 >>466
親鸞聖人の教えなのになぜ蓮如上人の教えが? > 「日本では」というところにも違和感を感じるが、
ああ、語弊があるか。中華街の関羽廟にも関羽の骨無いでしょ、基本木像とかであって
それでも機能は変わんない、てことも分かるでしょ?プレミア感は変わるかもだけどさ
例えば仏舎利塔、ストゥーパに入ってるのが遺骨じゃなく白い小石だったらそれまで方便法身だったストゥーパが方便法身じゃなくなる、というのは変な話でしょ >>471
で、親鸞聖人の廟堂の設立目的とは?
高野山の親鸞上人のお墓に手を合わせるのもアリですか? > 親鸞聖人の廟堂の設立目的とは?
> 高野山の親鸞上人のお墓に手を合わせるのもアリですか?
廟所の目的は故人の徳目を再生、再現すること
だから例えば孔子廟なんかは普通孔子関連の図書館とセットになっている
その教えについての教育の保存、保護機関とセットになってるもんなんだ
釈尊の滅後にもできたでしょ?そういう機関
そんでめちゃたくさん分裂したでしょ
墓やら廟ならどこでも同じ、と思うのは好きにすればいいけど、どこの廟も同じ、ということは言えないんだよ >>463
横からすまんが、460の「土着」は「日本の既存の土着信仰」を指す単語ではなく
土着化という現象、つまり「教義などとは別次元に、祖先や先達が信じ守ってきたものを受け継ぐ変化」のことを指してるのでは? 親鸞と蓮如は本尊として仏像や絵像ではなく六字名号を指定したというのは本当ですか? >>475
そういうことですね、失礼しました。
そういう変化を本願寺が認めるかどうかですけど。 関東での布教では聖徳太子像を本尊としていたという話を聞いた。 >>474 どこの廟も同じ、ということは言えないんだよ
「異なる」とすれば、お骨の有無ですか? >>474
とりあえず事実確認したいんだけど、そもそも本願寺に親鸞上人のお骨があるの? 六字名号の文字掛軸以外は認めません!と言ってる人がいる 結局、御影堂で親鸞聖人の木像に向かって法要をすることと、仏壇の遺影や名号が掘ってない墓に向かってお勤めすることの違いが説明できない
そして、
親鸞は父母の孝養のためとて一返にても念仏申したることいまだ候はず
の心はどうなっちゃうんだ
やっぱ聖人は別格?
浄土真宗寺院に聖徳太子はいるのに基本釈尊がいないのと同じくらい疑問だ >>483
別に何も矛盾はないやろ
父母の孝養のためではない
父母の冥土の幸福のためでもなく
父母の成仏のためでもない
親鸞の木造の前で法要するのは、親鸞への感謝の気持ちの現れでそうやってるだけだろうさ
本尊だって単に、あったらわかりやすいから置いてるだけだろ、浄土真宗に限らずさ >>484
矛盾とまでは言わんが、一貫性がなく説明しづらい、とは感じる
尊敬や感謝の念があればいいなら、故人の遺影や、なんなら位牌や過去帳にだってまいったっていいじゃん >>486
誰が菩薩なんてのは個人の主観の問題。
共通解釈と捉えた時点で答え合わせという学問になって、宗教じゃなくなって信仰が死んでしまう。 >>483
父母の孝養のための念仏なんかより三昧行としての念仏を称えていたみたいだよ。 自力を内に見るものは他力を内に見、他力を外に見るものは自力を外に見る、っていう信仰ですかね? > 「異なる」とすれば、お骨の有無ですか?
いやだから、書いてあるやん
廟所の一番大事なところってのは対象の人物が魂としていた教えやら徳目を保存再生し人に伝えていく機能にあり、各教育機関の校風みたいなものはそれぞれ変わっていく、異なっていくもんでしょ どれが正しいとかじゃなくてさ >>492
いいから本願寺に親鸞上人のお骨はあるの?無いの? >>492
それなら高田専修寺で充分だわ。
上人直筆の書物も多くあるし、そもそもお骨にこだわる必要ないし。 お骨があるがゆえに直弟子らも集まっていたわけで、お骨のないところに集まりようがない。
お骨があるからこそ廟所であり、娘の恵信尼は土地とお堂の所有権を関東の門弟に寄進した。
お骨がないところを守る必要もないし寄進するにも出来ない。 まあ、今の本山はわりとかなりしょうもない
骨の有無より魂の有無だわ、一人一人は頑張ってるのに誰も持続可能な構造てのに踏み込めず動脈硬化起こしてる >>500
面倒だからマジレスするが
「好きにしろ」
人に言われて安心したいのか知らんが
しつこく厄介な教えて君だな >>501
安心したいに決まってるだろてめぇ!!
真面目に答えろ! >>499
た、たましい!? 真宗関係者もとうとう魂を認めるようになったか! 日本語における「魂」という言葉にもいろいろな意味があるから。
真宗の教義において「霊魂」という意味での「魂」を肯定的に用いることは無いだろうが、
「大和魂」などのように「そのもののもつ固有の精神、気構え」という意味は、
>>499の文脈から読み取れると思う。そんなに難しいことかな?
コトバンク - 魂(たましい)
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%82-505768 親鸞の骨袋は重要文化財で先日まで京都で展示されてたのに。見損ねたのかな?
その袋の中に骨粉くらい残ってそう。 親鸞が亡くなってすぐ歎異抄が書かれてるから、教義の解釈は間違いなく変わってるだろうね。親鸞の教えは廃れて蓮如が再興したというのが歴史的な事実のようだから結構ドラスティックに変わってるのかな。 それ以前というか、法然の時代でも一念派と多念派で分裂してたり解釈というのは分かれるものだよ
自見の覚悟といって自己流の判断をよしとするおっさんなんて今もそこらじゅうにいるわけだし
なので歎異抄を書いた如信の法統を受け継ぐ、という宣言を覚如なんかはする必要があった 去年大阪の津村別院で親の永久納骨をした。今年招待状が来たので初めて納骨法要に行った。お布施の相場が分からなかったのでとりあえず事前に聞いておいたより少し多めに包んだ。5人も僧侶が出てきて読経したのでお布施代が惜しいとは思わなかったが、非常に高速(笑)の阿弥陀経読経だったのが個人的には残念だった。数こなさないといけないのはわかるが‥単なる愚痴ですね。 >>507
本願寺が使用する蓮如上人が書き写したと言われる和讃もまた、
高田派で使われている親鸞聖人リアルタイムの和讃と所々言葉が違うところがあるからね。
それこそ>>510で言われるようにおっさんの自己流の解釈がどこかで入ったのかもしれない。 >>511
偉いセンセイ方が言うのは
「お聖教・経典は大切にしましょう」だもんな。
門徒がついてこれない読経に意味はあるんか?と問いたい。 >>517
↑
こういう考え方が末法。
時代が末法じゃなくてその人の生き方が末法。 正信偈は親鸞によるこれを読めっていう経論説のINDEXだぞ
呪文扱いしないでちゃんと読め
他人の性根なんぞどうでもいいからまず自身の性根をあらためろや まあ正信偈を大事に読む門徒に限って般若心経も唱えているんだけどねw
これが学問的な答えわせをしていない宗教であり信仰なんだよね。
真宗組織としてはアウトとして排除しようとするんだが、
それでも阿弥陀如来は救おうとしているのが阿弥陀如来なんだよなあ。 > まあ正信偈を大事に読む門徒に限って般若心経も唱えているんだけどねw
般若心経も勉強すりゃええがな、アホくさい
親鸞自身は比叡山のカリキュラム全部修めてんだから行実を辿るなら避けられない所だろ
よく言われる所じゃんよ法華経系の仏教構造と涅槃経系の仏教構造の違いとか なんで偉くなればなるほど「自力はクソだ」みたいな考えに染まるんだろうか。
そういう布教使さんが多い。
俺の周りだけか? 阿弥陀如来は浄土に往生したいというみんなの欲も叶えます。 態度がデカい坊主には「お取次ぎしているだけなのにエラそうにするな」て言えばいい。エライのは阿弥陀さまでお前じゃない。勘違いするなって話 話聞かせて頂いてお布施しようとしたら断られた
賽銭箱にこっそり入れたがw
良いお寺もあるもんだ SNSで、「ナモ」と最後に書き込むクソギイン
ソウリョヤメロ >>526
阿弥陀さまを自分のエゴに使ったら方便として機能しなくなるよ
そういう使い方は浄土真宗において邪道 それが坊主がエラそうにしているのと何の関係があるの?方便としての機能とは? > なんで偉くなればなるほど「自力はクソだ」みたいな考えに染まるんだろうか。
> そういう布教使さんが多い。
> 俺の周りだけか?
最初に答えを与えられてる状態だからな
だから「問いに立て」ってことがよく言われる
ていうか
「真実功徳相とは、二種の功徳あり。一つには有漏心従り生じて法性に順ぜず、所謂凡夫人天の諸善、人天の果報、若くは因、若くは果、皆是れ顛倒す、皆是れ虚偽なり。この故に不実の功徳と名づく」
曇鸞なんかは有漏、自分をなんとか取り繕いたい一心からお出しされる心、法性に依らず二諦にも順じない虚妄、虚偽をそのまま虚妄、虚偽であると自覚できるのが真実功徳の利益だと言ってる
そんでだいたいの場合布教師の言ってる自力ってのはこの虚偽、虚妄から生じて自身を取り繕う、真実に向かわない心ってのを指してるんだ
そんで虚偽は虚偽であるとして自身の姿勢やらをあたらしくできたってことを真実の功徳を得た、他力に遭ったと表現する
なので聞いてる方が思ってる自力と布教師が説明する自力ってのの指す言葉の意味がズレてる、ということが起こっている とある観光寺院で、拝観料を納めた証明となる「おふだ」を指して、
「あんなおふだ、意味ありませんよ。私ならこうしますね。(雑巾絞りの行動)」
と門徒に嬉々として語ったという話を聞いたときは、この教団おかしくないか?と思ったが。 >>530
阿弥陀さまは私と仏さまだけの関係性において正道
他を貶めたりするために使うためのものではない >>537
何に誓うかは置いといて、誓って作り話じゃない。 阿弥陀様の名前を一回もしくは十回、真摯に唱えたことがあれば必ず死後にとりあえず何処かの浄土に行けるのですよ
これ、迷い煩悩まみれの人間だらけに対してなかなかすごい話なんです
ただ、阿弥陀様は浄土に導けない人間は地獄とまではいかずとも餓鬼道などにやってしまうのでそこのところは地蔵様や観音様とは違うのです > これ、迷い煩悩まみれの人間だらけに対してなかなかすごい話なんです
> ただ、阿弥陀様は浄土に導けない人間は地獄とまではいかずとも餓鬼道などにやってしまうのでそこのところは地蔵様や観音様とは違うのです
先程からなんの宗派のおはなしをしてらっしゃいますの? >>536
使い方の話をしているのに関係性で答えられてもなあw >>533
つまりそのお坊さんは、他力に会って法性に依って二諦に順じている状態なんですね? >>458
ハッピーバースデーの法要なら聖人像の前でいいんじゃないの? > つまりそのお坊さんは、他力に会って法性に依って二諦に順じている状態なんですね?
お坊さんつーか、初転法輪ならコンダンニャ達の頂いた姿勢ってことになるし大無量寿経なら阿難の頂いた姿勢がそうだって話だよ
仏言にあって自身の方向性があらたまった人、にあったことが無けりゃ実際分かりようも無い話ではあるかもしんないんだけどね
自己認識、さらには自身があらたまる、なんてことが自分に起こったらそりゃ奇蹟に近いことだと思わない? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています