【功徳】施餓鬼のすすめ
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素人在家がやたらに施餓鬼なんてやって大丈夫なの?
いくら功徳を積めるとはいえ、下手すると頼られて大変らしいじゃない。
やり方や事前の準備等、しっかり方法を教わってからでないと… >>3
在家は寺院に頼めばいい
真宗以外の宗派ならお盆頃にどこでもやってる筈 台湾式施餓鬼の拝好兄弟をやればよい。
カップ酒と丸いお菓子と、長い線香を用意して線香が尽きるまでの間お経を唱え続ける
最後に十円玉を2つ投げて表→裏が出れば功徳うまく発動する
5連続で出なければ、翌日また最初からやり直し >>4
逆にお盆以外に、たとえば毎月とかやりたい場合はどうしたらいいですか?
月一でも引き受けてくれたりするの?
それとも頻繁にやるようなものではないのですか? 施餓鬼は毎日するもの
お盆のときだけとか毎月一度とか意味無い >>6
大森義成氏という人は通年施餓鬼
を引き受けてるよ。
通信でお願いできる。一霊位一週間三千五百円。
一心寺も通信で申し込みできるようになったみたい。 >>15
違う違うソース出してくれ
そんなローカルな話を貼り付けられても困る
施餓鬼は毎日行う方が良いのだろう、それは分かる
毎日行わないと意味が無くなる根拠を出してくれ
経典や儀軌や次第から根拠をだしてくれ
毎月の決まった日にする人もいるだろう
毎週の決まった曜日にしてる人もいるだろう
無意味な根拠を出してくれ >>19
このページだけじゃなく、Facebook自体が読めなくなってる >>14
パーリ聖典だろ
日本仏教は施餓鬼と盂蘭盆がゴチャ混ぜになっちまってる >>23
ソースはパーリ聖典ですじゃ根拠になりませんよ
どの経典のどの部分に「施餓鬼は毎日やらないと意味が無い」と書いてあるのか
それを示すべきです 月一でも良いから辞めずに続けろが大原則じゃね??
大凡の解釈ではね。。。 菩薩行の口伝じゃないの?
どのみち在家には関係ないよ。 上座部仏典でも、ダンマパダとかはパーリ語じゃなくマガダ語だからなあ
まあ、ダンマパダとかに施餓鬼などの話はないけどな 伊勢白山道ってところでオススメしてる先祖供養をしたらいいと思う
霊は短冊に寄るだけで供養してる人には憑依しないから大丈夫らしい 伊勢白山道だって自己流なんだし、台湾式拝好兄弟で十分かと 施餓鬼は臨済宗の勤行の方が洗練されてレベル高くて良いみたいだね 食事の時に小さな皿に水を入れ
そこに御飯 七匙取り入れ、一字水輪の真言
「 のうまく さんまんだ ぼだなん ばん」
と光明真言唱えて庭に供え自分の米を有縁無縁に奉仕する
食べられなかった者たちが
姿を、変えて訪問して、きます。 >>32
庭ですか!伊勢白山道式では外での供養を厳禁にしてるのですが、
自殺された霊の方や土地の御霊のため、折敷に短冊と線香、お茶を供えて
自宅内の好きなところで供養するといいと
これにご飯をお供えして供養とする、というのはどうなのでしょう?
餓鬼霊や未成仏霊の方々により届きやすくなるのかな 正式な施餓鬼法要となると素人在家じゃ大変だろうから、月一度くらいのペースで、
先祖霊や因縁霊の供養をしてるところを探せばいいんじゃね?
ここを見に来ている人は(俺も含めて)、複雑な因縁に悩まされている人が多いだろうから、
神仏に祈願や祈祷をする前に、諸々の供養を徹底的にやった方がいいんだと思う。
しっかり供養をして先祖や因縁を浄化できれば、功徳を積むことにもなるだろうし。 もちろん、そこら辺の新興宗教とかじゃなくて、天台真言曹洞日蓮浄土などの
伝統的な宗門に属するお寺でね。真宗はそういうのやってないかな… >>32 のやり方、何処かで書いてあった気がするぞ。 >>27
上座部の話は>>23が間違っているだけだから >>36
真宗は施餓鬼をしないし、門徒さんも他宗では施餓鬼ということを行うと知らないらしい
以前、真宗の門徒さんと話していて、菩提寺の施餓鬼会に行くと言ったところ、それは何か、どんなことをするのかと、非常に珍しいもののように訊ねられたことがある >>23-24
パーリニカーヤ(原始仏典)におけるブッダの教説によれば、
誰か特定の祖先を救済することはできないので、
恐らくは先祖の中の一部の方々も堕ちているであろう餓鬼界の亡者たちを救済するように奨めています。
そのやり方というのは、先祖すべてを指定して布施供養をすることであり、
具体的には、先亡者供養の儀式をとりおこなうバラモン司祭に対しての布施行(積徳善行)を行うというもので、
つまりは、バラモンに対して、食物、飲み物、衣類、乗物、花輪、
香、塗香、臥座具、寝処、灯具りなどを布施することだとされています。
現代日本にあてはめるならば、それは先亡者供養や施餓鬼供養を行う仏教僧侶に対して布施をするだという意味になります。
そして、『シンガーラ経』(六方礼経)によれば、親孝行の延長に先祖供養もあるということであり、
「先祖に対しては、適当な時々に供物をささげ供養をしなければなりません。」と説かれています。
そこでは先祖供養の必要性が明らかになっているという点と、
そして、行うタイミングとしては「適当な時々」に良いと教えています。
それは死後の数日間と後は適当な時々にということなので、
それは例えば命日であるとか、そういったことで良いものと思われます。
ブッダの説かれた先祖供養と施餓鬼には、特別な儀式作法の指示はまったくありません。
つまり、何か特定の決められた儀式作法でなければならない、ということはないということです。
当然、毎日行うに越したことはなくそれは良いことには違いはないでしょうが、
しかし、だからといって毎日でなければならないというものではありません。
日本仏教の中には、
師僧から修行の一環として「毎日、欠かさず行うよう」にと強く指示された、
という話もあるのかもしれませんが...。
施餓鬼供養の仕方も様々なものがあっても可笑しくはなく、
それは特に何も問題にもならないということです。
つまり、自分の出来る方法や適した方法で構わないものと思われます。 >>40
そもそも原始仏典はパーリニカーヤではない
根本的に間違っている シンガーラ経は長部所収であるので、
時代的には後期に成立したお経
だから、「原始」仏典とするのには非常に無理がある
原典がマガダ語ではないことがそれを証明している >>42
>>43
大般涅槃経では、釈迦の涅槃の時の葬式供養の話があるけど、
アナンダには「葬式に関わらず、修行に専念せよ」とあり、
葬式供養は在家の担当する儀式という扱いなんだよね、
マハーカッサパは阿羅漢果に既に得てるので、修行専念の必要性はあまりないので
葬式供養に参加していたようだが
一応、先人の供養もOKなんだから先祖供養も初期仏教でもOKなんだろう
ただし、大般涅槃経も長部の仏典なので、かなり後に成立した仏典
もちろんマガダ語での原本は無い >>41-45
ただ分かっているのは、
ブッダはマガダ語で説法されていたらしいということなのであって、
そもそもマガダ語の経典などは何処にも現存していません。
“在った”という話すらもない...。
従って、文字化された経典というのは第一結集から数百年を経てからパーリ語で書かれた。
それまでは、文字化する伝統はなくてすべて暗誦読誦によって伝えられた。
もちろん、
原始経典に分類されているものの中でさえも
成立年代の幅が大きいということは認めます。
その中の後代だからという理由だけで、それがブッダの教えではないということにはならないと思います。
特に、何か問題でもあるでしょうか? 原典が何語かはどうでも良いです
施餓鬼供養について
・毎日行う方が良いが別に毎日しなくてはならない決まりはない
・月1であっても決めた日のみに行っても問題はない
・そもそも毎日施餓鬼をしなければ意味が無いなどと経典には説かれてない
これが結論で宜しいでしょうか? >>47
私の知識と理解とではそうです。
ブッダは、先亡者供養や施餓鬼供養を行うことは決してムダとなることはないから、是非、これらを行うようにと繰り返し強調されました。
異論がある方はどうぞ。 >>47
原典が何語かはどうでも良いです というのは正しいです
ただ、ダンマパダやスッタニパータのようにマガダ語仏典だと確認されている事実は事実として
受け入れるべきではあります
原典の言語がどうであれ、釈尊の教えとして損なわれていなければ、
仏教として正しいと認めるうるものです 施餓鬼なんかしても何も起きん
行った奴が満足するだけ 文字化しないと仏典にならないという決まりはないからな
偈(ガーター)つまり詩文による暗唱でも「釈迦の教え」即ち仏典なんだから
マガダ語仏典はあり得ることになる
ダンマパダなどが明らかにパーリ語とは違いマガダ語だと認定されているから
ダンマパダなどはマガダ語仏典として残っていると言えるよ >>50
六道輪廻と餓鬼の存在をまず信じないといけないからな。
現代人にはハードルが高い >>51
テーラガーター という経典もあるからな。
文字化されないで、偈のみの状態でも経典として成立する。 >>50
それでイイんじゃないの。 信仰なんてそんなモノ。
効果の実証なんか無理だし、そんな議論は信仰に相応しくない。 >>54
最近、つくづく思うんだけど、お坊さんが「信仰をして現世利益を求めるのはけしからん!」
みたいに言うんだけど、でも一所懸命に信仰しても何も善い事がなかったら、
信仰なんてやる意味なくね?社会人の義務ってわけじゃないからね。
効果の実証は無理かもしれないけど、自分の中で「効き目があった!」
と思える出来事がないと、脳の報酬系が満たされないから、信仰も続かないよね。
お坊さんや熱心な在家の人はどう考えているんだろう?
信仰は単なる趣味?
それとも何らかの御利益を伴うもの?
昔は神仏の存在を感じさせる行者さんがいたけれど、最近はさっぱりだよ。
信者さんもどんどん離れていくし、でもみんなも暇つぶしで信仰してるわけじゃないから、
人々の心が神仏から離れていくのは仕方ないよね。
なんか愚痴みたいになっちまった。スマソ >>55
「信仰をして現世利益を求めるのはけしからん!」なんて言ってる坊さん何処にいるの?
良識ある坊さんなら、そんなふうに頭ごなしの現世利益否定はしないと思う。
信仰することでお陰を頂いていると感じる事はママある。しかし現世利益を願って
欲得で信仰していると、それは信仰ではないし、ご利益もかんじられないかも
しれない。 釈迦牟尼だって、現世利益祈願を在家に関しては否定していないからな
最古層のお経のスッタニパータでさえ、
「現世利益を祈願するヴェーダの祭祀を成就するためにはどうすればよいか?」という
問いを釈迦牟尼に問うた在家のバラモンの登場するお経があるが、
そこでも現世利益を祈願するヴェーダの祭祀を釈迦牟尼は否定せず、
そこどころかそれを成就する方法を答えているしね
釈迦牟尼が明確に否定したのは、そのスッタニパータにあるが
「アタルヴァ・ヴェーダ」の祭祀のみだから
それも、釈迦牟尼の在世時には、アタルヴァ・ヴェーダはまだ正式なヴェーダとは認められてなかったからだから >>52
「六道輪廻」、「餓鬼」といった仏教用語で取り上げるから悲観的になるのです。
要するに、“古い宗教の説く迷信(信仰上の話) に過ぎない”という印象を人々に与えますから。
しかし、そうではなくてごく日常の普通の言葉に置き換えるならば、
案外、実に多くの人々に受け入れられているということがわかるのです。
様々な機関によって、
大衆の宗教に対する意識調査というものが繰り返し行われています。
ここ20年位は殆ど数値に大きな変動というものはなくて、
来世を信じる[31.3%]、霊魂を信じる[33.3%]もいるということがすでに分かっています。
転生の教義を持たない日本人ですら、「生まれ変わり」、「前世・来世」を信じる人は3割もいるのです。
「死後の世界」とか「霊魂の存在」を信じる人も同様に3割以上います。
仏教の説く「餓鬼」も、“浮かばれない不成仏霊”と解すれば現代日本人にも通用します。
それを目撃すれば「幽霊を見た!」という話になります。
東日本大震災後の幽霊目撃体験は非常に多く、そのことがよく知られています。
立ち入り厳禁区域内にも関わらず複数の人影を見ると何人もの自衛官や警察官が証言しており、
幽霊を乗せたというタクシードライバーの体験も多い。
ドライバーによれば、後部座席を見ると消えていた、目的地に到着したらいなくなっていたといいます。
彼らはタコメーターと賃金メーターを作動させ記録が残っているのであり、
そういう場合には自腹で賃金を払うハメに陥ります。
要するに、何十年のベテランドライバーが単なる勘違いでは在り得ないことなのです。
にも関わらず、
幽霊すらも理解できない馬鹿僧侶も多いこと...(苦笑)。 仏教で説く餓鬼=悲観的
不成仏霊=悲観的では無い
↑
これの意味が分からないので説明お願いします >>59
仏教用語だと古い宗教の迷信だと受け取る人々が多い。だから、「餓鬼」については信じる人が少ないと考えてしまい話すことに悲観的になって憂慮してしまう。
対して、「不成仏霊」は仏教用語ではなく、一般的な日常語。そして常に一定数、全体の1∕3も信じる人々がいるので話すことに悲観的になる必要はない。
という意味です。 >>56、>>57
レスありがとうございます。
真面目な方なので、垢をフォローしTwitterをよく読んでいるのですが、
どうも上から目線での物言いが強く、「神仏に御縁をいただけただけで
も有難い事なのに、神仏に自らの願いを欲するなど言語道断」
と仰っていたので、強い違和感を感じました。
もちろん欲得だけの信仰は違うと思いますが、頭から神仏への祈願を否定
されていて、それに皆さん賛同されていたので、お坊さんや熱心な信者の方は、全く祈願をしないものなのかと、少し驚いてしまいました。
そのお坊さん達が少し特殊なんですかね。。。
先日は自分も愚痴みたいなレスをしてしまい失礼しました。
自分でもよく判断して信心していきたいと思います。 自分とは無関係の不成仏霊を供養して
そこで発生した福徳を自分の為に使う。
よく考えるとゲスいよなw
使えるもんはそこらへんの不成仏霊でも使えだから。 施餓鬼は毎日の作法
なぜなら僧侶の日々の食事作法と繋がっているから
夜に施餓鬼をしなければ午前の食事作法が完結しない >>63
??
質問は「施餓鬼は毎日しないと無意味だと言う主張に対して、その根拠となる経典・儀軌・次第があるのか?」と言う内容です
根拠となる経典などがあるならお示し下さいね >>62
>使えるもんはそこらへんの不成仏霊でも使えだから。
不成仏霊(餓鬼)の救済は、
別に絶対強制でも逆らえない命令などでもありませんよ!
先祖の救済を願うにしても、特定の一個人を指定した救済はできない
(因果応報による業報の法則作用を意味しているものと思われる)とブッダはいいました。
そして、ブッダが推奨したものとは、
先祖全体を対象とすべく先祖の中からも何人かが堕ちているであろう
餓鬼地獄の亡者たち(誰と指定はできないが)の救済をするというものでした。
更に、この施餓鬼供養こそが追善回向
(善行のできない亡者に代わって積徳して亡者に善果報を振り向ける)
の効果を確認することのできる善行であるとし、
また、その果報は施餓鬼供養を行う施主にも必ずもたらされるので、
そのことをよく信じて行い続けるようにと奨められました。
>そこで発生した福徳を自分の為に使う。
>よく考えるとゲスいよなw
ならば、「自分は福徳を期待しない」
「それを求めて施餓鬼供養するわけではない」ということで良いのではありませんか?
自分に対する果報を求めることなく、ただ淡々と他者の救済(善行為)に励むほうが尚良いことは明白です。
あなたのようにね...。
別に「果報を求めて善行するよう」などとは仏教では言いませんよ!
何か問題でも? >>42-43>>49
あなた達ですか?
スッタニパータはマガダ語経典だと主張して真言宗スレに荒らしを招いたのは?
『いま聖典成立史上における位置づけを示すと、以上のようになる。---略---
最初は古マガダ語或いはマガダ語の影響の強い俗語(東部インド語)の一種で唱えら
れていたのであろうが、或る時期にそれがパーリ語に書きかえられて、現在では、
パーリ語聖典のうちに伝えられている。しかしマガダ語の影響を完全に消し去るこ
とはできないので、その痕跡をとどめている。』
(中村 元訳『ブッダのことば/スッタニパータ』岩波文庫)
上記の引用文が中村氏の解説です。
これ以上の何の説明が必要でしょうか?
それは本来、マガダ語であったその痕跡が確認できるということなのであって、
「(現存する仏典が)マガダ語で書かれてある」などとはいっていません。「パーリ語に書きえられて」といっている。
仏典の成立過程について調べたことのある者ならば、誰でも「ブッダは古代マガダ語で話していた」らしいということを知ります。
元々、最初の第一結集〜による経スートラの編纂は暗誦すべく韻文の詩のかたちをとったということですから、
当然、それはそのままにマガダ語だったことでしょう。つまり、マガダ語で暗誦読誦されて伝承されていた...。
しかし、恐らくは第四結集の頃において初めて文字化される際には、パーリ語に訳されて書かれたのです
(「まずはマガダ語で書かれた」という記録もなければ証拠もまた皆無です。
よってマガダ語で書かれた仏典はなかったものと見なされています)。 その理由としては、
ごく狭い地域で限定使用されていた土着のマガダ語よりも、
パーリ語は、インド・アーリヤ族の民衆言語プラークリット語を代表する俗語にて、
大衆に仏教が広まるのにより適しているものと判断されたからです。
それでいつしかの段階で暗誦口誦もマガダ語からパーリ語へと変換されて、そしてパーリ語で書かれた。
または、マガダ語から直接パーリ語へと翻訳記述されたのです。
というのも、ブッダ在世当時からすでに様々な言語で教えが伝播していたのですが、
ある時、ブッダの教えは聖語のサンスクリット語で伝承するのが良いのではないか? という意見が持ち上がった。
しかし、このことに対してブッダは、バラモンなどの用いる専門的で難解な言語であるサンスクリット語では、
一般庶民に私の言葉が届かなくなってしまうからダメだ、
といってそのことを拒否された出来事があったからです。 >>51
>文字化しないと仏典にならないという決まりはないからな
>偈(ガーター)つまり詩文による暗唱でも「釈迦の教え」即ち仏典なんだから
>マガダ語仏典はあり得ることになる
まっ、どの事典でもいいけど普通は、
『てん〖典〗-----人のふみ行うべき道をしるした書物。たいせつな書物。
「典籍・教典・経典・聖典・仏典・内典・外典(げてん)・文典・国典・楽典・辞典・宝典・原典・古典」』
というのが一般的ですよ。要するに書物(文字を示した物)のこと。
確かに、読誦口誦も“経スートラ”には違いけれどね!
で、そのマガダ語による暗誦読誦をしている人達というのは今、何処に現存するの?
マガダ語でどう読誦されていたかも不明なのに、あなたにはそれができるの?
だから繰り返しいいますが、マガダ語で書かれた仏典は現存してないし、
マガダ語で暗誦読誦している人達も現存しない。
現存しているのは、パーリ語仏典とパーリ語による読誦です。
>ダンマパダなどが明らかにパーリ語とは違いマガダ語だと認定されているから
>ダンマパダなどはマガダ語仏典として残っていると言えるよ
スリランカなどパーリ仏教の人々は何と、ブッダは元々パーリ語で語っていたとまでいい、
「マガダ語→パーリ語」に訳されたという記録も証拠すらもない、とまで言い切っているというのに...。
信仰は盲目なところがあるので、この私は学術研究の成果を信じますけれどね。 >>42
>そもそも原始仏典はパーリニカーヤではない
>根本的に間違っている
後代のディーガ長部を含めて、
『パーリ五部聖典』と『漢訳四阿含経典』のみが原始経典(仏典)
として認められそう呼称しているのです。
あなた方のつくった勝手な定義など何処にも通用しません。
*スレ違いなので、この問題はこれで終わりにしますから。 ここも陥ったか、すったもんだスッタニパータ問題。。。 >>66-69
>>42でも 43でも>>49でもありませんが
根本的にあなたが間違っているので指摘しておきます
むしろ真言宗スレを荒らしているのはあなたでしょうに
>マガダ語で書かれた仏典はなかったものと見なされています
いやマガダ語だと見做されています
マガダ語であったその痕跡が確認できる以上、マガダ語だと認めるしかありません
少なくとも最も古い時代の仏典だと確認できるダンマパダやスッタニパータが
「(パーリ語とは違う)言語」で書かれていることが確認できるのであれば、
現時点ではそれを釈尊が使っていたと考えられる「マガダ語」だと判断せざるを得ないのは
理屈の上でも当然の帰結です
暗誦読誦されて伝承されていたのなのだから、韻律を維持する上でもパーリ語においそれとは変換できません
暗誦読誦状態でも、それが「釈尊の教え」あるならば「仏典」するのも当然です
「仏典」のその定義上、文字化するか否かは仏典の成立案件は無いです >それでいつしかの段階で暗誦口誦もマガダ語からパーリ語へと変換されて、そしてパーリ語で書かれた。
または、マガダ語から直接パーリ語へと翻訳記述されたのです。
というのも、ブッダ在世当時からすでに様々な言語で教えが伝播していたのですが、
ある時、ブッダの教えは聖語のサンスクリット語で伝承するのが良いのではないか? という意見が持ち上がった。
しかし、このことに対してブッダは、バラモンなどの用いる専門的で難解な言語であるサンスクリット語では、
一般庶民に私の言葉が届かなくなってしまうからダメだ、
といってそのことを拒否された出来事があったからです。
上述の通り、暗誦読誦されて伝承されていたのだから、韻律を維持する上でもパーリ語においそれとは変換できません
暗誦読誦状態でも、それが「釈尊の教え」あるならば「仏典」するのも当然です
「仏典」のその定義上、文字化するか否かは仏典の成立案件は無いです >まっ、どの事典でもいいけど普通は、
『てん〖典〗-----人のふみ行うべき道をしるした書物。たいせつな書物。
「典籍・教典・経典・聖典・仏典・内典・外典(げてん)・文典・国典・楽典・辞典・宝典・原典・古典」』
というのが一般的ですよ。要するに書物(文字を示した物)のこと。
確かに、読誦口誦も“経スートラ”には違いけれどね!
儒教の「経典」も、もとは孔子の弟子達の師との問答を記憶を頼りに編纂したものだけだから
文字化する以前に「孔子の教え」ある限り経典として存在していることになる >で、そのマガダ語による暗誦読誦をしている人達というのは今、何処に現存するの?
マガダ語でどう読誦されていたかも不明なのに、あなたにはそれができるの?
だから繰り返しいいますが、マガダ語で書かれた仏典は現存してないし、
マガダ語で暗誦読誦している人達も現存しない。
現存しているのは、パーリ語仏典とパーリ語による読誦です。
実際に、ダンマパダやスッタニパータがパーリ語ではないマガダ語仏典として残っている以上
現存していることになる
いまそれを宗教的に読誦しているかどうかは「仏典」として成立しているかどうかの成立案件ではない
大蔵経ある大半の「仏典」は実際に読誦されていない、
読誦されていないのが仏典ではないというならば、
大蔵経の大半は仏典として「現存していない」ことになってしまう
因みに現在のテーラワーダ仏教の使用するテキストは1954年の第6回仏典結集のときに
パーリ語に強引に変換されたもので
中村元氏などが底本としているのは、それ以前の19世紀にあったテキストのバージョンである
(その証拠に有名な「七仏通誡偈」は、テーラワーダ仏教のテキストと中村元氏などが底本のバージョンとは違う) >スリランカなどパーリ仏教の人々は何と、ブッダは元々パーリ語で語っていたとまでいい、
「マガダ語→パーリ語」に訳されたという記録も証拠すらもない、とまで言い切っているというのに...。
信仰は盲目なところがあるので、この私は学術研究の成果を信じますけれどね。
だったら、素直にマガダ語仏典があると認めるべきですね
ダンマパダやスッタニパータという「マガダ語仏典」が現存しているのですから
>後代のディーガ長部を含めて、
『パーリ五部聖典』と『漢訳四阿含経典』のみが原始経典(仏典)
として認められそう呼称しているのです。
あなた方のつくった勝手な定義など何処にも通用しません。
あなたの勝手な定義や解釈はどでもいいです
原始経典とは最も古い時代の仏典のダンマパダやスッタニパータについて認められて呼称するもので
使うのならば、単に「阿含経典」とか「上座部仏典」と呼称するべきでしたね
むしろこちらの方が学術的にも一般的です >>72-76
付き合いきれません。
ご勝手にどうぞ〜 初期仏教を少しでも齧ったことあるなら、
ダンマパダとかマガダ語経典だと知っている筈だからね。 >>55
おっしゃることは
とてもよく分かりますし、ご尤もです!
正しい信仰に真剣な実践が伴うならば、
効き目や進歩の成果はすべて実感できるものとされています。
仏道は本来、悟りを目指して涅槃へと至る道ですが、
その過程においても、禅定の深まりを体験して色界(初禅.第二禅.第三禅.第四禅)、
無色界(空無辺処/空処定.識無辺処/識処定.無所有処/不用定.非想非非想処/有想無想定)、
滅尽定(想受滅)を経てから最終的なニルヴァーナに到達します。
悟りの段階においても、
「信解脱」、「慧解脱」、「倶(分)解脱」の三タイプの解脱の境地があり、
そこまで至る途中においても、
陀洹向/須陀洹果、斯陀含向/斯陀含果、阿那含向/阿那含果、阿羅漢向/阿羅漢果
(預流向/預流果、一来向/一来果、不還向/不還果、阿羅漢向/阿羅漢果)
という段階を経ます。
神通(三明六通)も、
倶解脱及びニルヴァーナに至る段階において自然と身に着き発揮できるようになります。
大乗の大衆信仰においても、
援けと守護の作用を実際に体験することができます。
それが無い大乗信仰など偽りのまやかし同然かもしれませんよね。 >>64
え、なんの質問?無意味って?
根拠も何も朝と昼前にしゅっさばしたご飯を施餓鬼に使うってだけですけど
施餓鬼しないとご飯を捨てることになっちゃうから、私にはそんなことはできない
施餓鬼を毎日していない僧侶は、朝と昼前に作法無しでご飯食べてるんでしょう ところでここは何でこんなにマガダとかパーリとか言うてる人いるの?
誰かこの中に一人でも両者の文法上の違い説明できる人いる?マガダってどのマガダのこと言ってるの? もりあがってますねぇ〜 気の済むまでドンドン投稿してやりあって頂きたい。
幾らやりあったところで、結論など出ない事だし、信仰はその人の心の中でのこと。
他人がどうこうすることは出来ない。
>>71氏のいうように、それを確かめたいならやってみるのが一番。
信仰は理屈や理論じゃない、実践があってこそ。
長く続いている行為は、多くの先人によって、それなりの裏打ちがあるからと
考えるのが自然だともう。 >>80
施餓鬼は毎日した方が良いのは理解出来るのだが>>11の様に「月1回とか意味ない」と書いてる人がいたので根拠となる経典でもあるのか、ただの感情論なのか分からないので質問していたのですよ
毎年1回、毎月1回、毎週1回は無意味で毎日1回のみ施餓鬼の効果があると言うなら根拠は必要でしょう >>83
出かけてるのでID変わってるかも
なるほどねそれはその人に聞こう
ただ、少し疑問がある
施餓鬼に効果があるってなんのことを仰ってます?
施餓鬼は餓鬼に施すことが目的であって、それ以外に意味はないよ
誰しも命をもらって毎日毎日ご飯食べさせてもらってる存在なんだから、それを食事作法では諸仏諸神諸賢聖に、施餓鬼では餓鬼に回してるだけですよ
あえて答えると、根拠とか以前に、月一で施餓鬼してご飯恵んでやるなんて、餓鬼のためになります?よけいに苦しませていません?
私そんなことできません
ご飯って、毎日食べるものでしょう 一人ですると考えればその通りだが、大勢の人が代わる代わるすると考えれば、無理のない頻度でしたら良いと思う。 ホームレスや困窮者にお弁当を配っているキリスト教会やボランティア団体も、毎日しているところもあれば、曜日や日にちを決めて配っている団体もあるからね。毎日やってないから意味がないとは言えない。
一人では難しくても、それぞれが自分にできることをすれば、力になる。 気になってたどってみたら酷いのが出てきた。。。>>15
こういう人は単なる人間不信ちゃんです >>85-86
ごめん、ちょっと知りたい
なぜご飯ひっくり返して3分くらいの作法するのが無理とかになるんでしょうか?
歯を磨く程度の習慣でしょう
もしかして、あれかな、あの姿勢、足が痛くて辛いとか?? >>88
人は餓鬼にもなるし天にもなるし仏にもなる
何もかもを餓鬼のせいにして人間の醜さのせいにする僧侶は単なる人間不信です
真言の教えは以下のようなもので、何もかも餓鬼やら何やらのせいにする物の見方は、空海がいうところの 心暗きときでしかない
空海↓
眼、明らかなれば、
途に触れて皆宝なり
心暗きときは、すなわち
遇うところことごとく禍なり >>89
いや、私が無理ってことじゃなくて。
状況は人それぞれで、他人にはわからないのだから、出来ない人を責めないで欲しい、各人が出来ることを出来る範囲でやればいい、ってこと。 >>84
>>83の「効果」は「無意味では無い」と言う意味で書きました
>>84を見る限り毎日じゃなくても意味がある様に感じますが毎日じゃ無いとダメなのですか?
私は貴方の主観や習ってきた事を聞いているのではなく根拠となる経典や儀軌があるのかを聞いているのです
毎日じゃなくても良いと回答をしている人も複数いますがどう思われますか? >>90
ありがとう。そういうことね。
考え方は色々あるけど、目指すところはひとつなので、仲良くしましょうよ。
分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな
ってことで。 >>92
ざっと目を通した限りでは、もしかして在家の方が施餓鬼をやってる?!と感じています
それで毎日じゃなくてもという話が出てくるのかなと。
それならやめておいたほうが良いと思います。 今日び、熱心にヤッてる在家に、怠け者の出家者は及ばない。
だから、単に在家か出家者家では判断できない。 >>96
いくら熱心にやってる在家でも熱心にやってる出家には遠く及ばないよ
毎日の施餓鬼は在家の域を超えて危険だよ
出家者の正式な仏の加護がないとね。
毎日餓鬼やら不成仏霊と関係するんだからね。 >>80.83.89
まず第一に、
僧侶の作法など在家は知りませんし、それを教わりませんから。
それを簡単な作法だから在家にも欠かさず毎日行えということなのですか?
ならば、どうしてその作法を以て毎日行うようとの教えが大衆には広まってないのです?
つまり、そのすべてがあなた方(僧侶たち)の怠慢じゃないですか!
(では、逆にいわせて頂きますが、僧侶の行う特定作法による施餓鬼については
僧侶でない者はしなくていい<すべきではない>といった説明すらもありますけれどね)。
そして、これもたまに見かけるのですが、
「時々しか行わない施餓鬼ならば、
かえって餓鬼に期待をさせてしまうことになるのでそれならしない方がいい...」
といった意見があることです。
在家や一般では僧侶作法の施餓鬼などは知りませんから、
何か特定の日や決めた時期に自分に出来るやり方と程度の範囲にて行ったり、
または、寺院の行事に参加しているのです。
それを教わってもいないのに、「簡単なのに何故、毎日しないのか?」
などというのは屁理屈にもほどがあります。
少なくとも、ブッダの残された言葉の中には、
「毎日欠かさず行え」という教えはありません。
もちろん、「毎日できないならしない方がいい」などとは一言も説かれてはいません。
つまり、“しないよりはした方が良い。
そして、時々よりは毎日の方が良い。
行えば、行った分だけ良いことだ。”
という理解しかありませんけれどね! >>100
毎日できる人はそうすればいい。
ただ、それだけの話です。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています