成毛眞氏のコラム 「逆張りの思想」から抜粋

★神仏を信じさせる仕組み★
もちろん、神も信じていない。進化生物学者のリチャード・ドーキンスに「神は妄想である」
という著書があるが、私は諸手を挙げてこのタイトルに賛同する。
幽霊の正体は枯れ尾花に決まっている。
もっとも、墓参りをしたり神を信じたりする人を非難するつもりはない。個人の自由は尊重する。
それに、こんな私でも奈良にある神武天皇を祀った橿原神宮へ行くと、その荘厳さに圧倒される。
早朝の澄み切った空気の中、まだ人の姿もまばらな参道を歩いていると、言語化できない
ただならぬものを感じ、身震いすらする。
バチカンもまた私を厳かな気持ちにさせる。カトリック教会の総本山であるサン・ピエトロ大聖堂に
入り頭上高くにある大天蓋を見上げていると、遙か彼方にいる誰かと無言のうちに会話している
ような気持ちになり、心が満たされていくように感じる。
そして思うのだ。ここにはなんだか神様がいるみたいだと。
やはり神様はいて、私に影響を与えているのではないか−。
ただし、それは妄想である。橿原神宮にもバチカンにも、出雲大社にも伊勢神宮にも、
何百年、何千年という年月をかけて構築された、人に何かを感じさせる仕組みがある。
立地も建物も内部のしつらえも、それにまつわる人も絵画も音楽も物語も、神聖なもの
として認識されるようにできている。訪れたときの天気が晴れでも雨でも、
そこに何らかの意味を見出したくなるよう精緻に設計されている。
私のような人間にすら何かを感じさせるよく出来た仕組みに私は畏怖の念をおぼえるのだ。
その点、超能力や占いなどのいわゆるオカルトには尊敬すべきところがない。
神仏とオカルトを並ることを不愉快に思われる方がいるかもしれないが、
私が問題にしているのは仕組みの話である。
オカルトにも確かにとってつけたような物語はあるが、自発的に信じたくなるようなものは少なく、
こちらを説得しようとする魂胆が見通せる。
その程度の作り話で多くの人からの支持を得ようとするなど、何百年、何千年も早いと
言わざるを得ない。