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766コメント303KB

融通念仏宗について語ろう!

0001名無しさん@京都板じゃないよ
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2010/09/15(水) 13:49:38
みんなで語っていこう!
0438名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/06/04(木) 22:51:26.06
>>437
将軍の乳母とか有力大名とかを檀家に出来なかったから。

良くも悪くも民衆のための仏教。
頑張って伊賀までは勢力を伸ばしたけれど、伊勢の門徒地域を攻略出来なかった。
尾張まで進出できていれば尾張徳川経由で全国区になったかも。
おねりなんて尾張徳川好みでは?
0440名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/06/05(金) 07:35:29.03
融通念佛宗はホント素晴らしい。京浜地区にひとつも無いなんて。残念。

弥陀所伝 融通念佛 億百萬遍 決定往生
南無阿弥陀佛
0441名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/06/05(金) 23:41:10.59
融通念仏宗からはこんな坊主出しなや。

★徳島の僧侶の男を殺人容疑で逮捕 松山の女性殺害

松山市のアパート一室で昨年12月、住人の黒田美貴さん(当時37)が殺害された事件で、
愛媛県警は4日夜、徳島市八万町千鳥に住む僧侶、来見佳典(くるみよしのり)容疑者(29)
を殺人容疑で逮捕した。
捜査関係者によると、来見容疑者は昨年12月16日午後4時半〜午後8時半ごろ、
松山市千舟町1丁目のアパート3階の一室で、黒田さんの首を刃物のようなもので切りつけ、
殺害した疑いがある。黒田さんは仕事で徳島へ出向くことがあり、来見容疑者と顔見知りに
なったとみられる。
愛媛県警によると、事件当日の夜、黒田さんが自室の居間で血を流して倒れているのを訪れた
知人男性が見つけ、通報した。黒田さんの携帯電話がなくなっていたという。
県警は面識のある人物による犯行の可能性もあるとみて、交友関係を中心に捜査していた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150604-00000051-asahi-soci
0443名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/06/07(日) 23:58:19.98
東京芸術大学の学長が描いた阿弥陀三尊も同じ様な色使いだった。
今はあんな色使いが画壇で流行ってるのだろう。
0445名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/06/12(金) 18:43:49.02
MBSテレビで今夜0時50分より、「日本の祭り 奈良県當麻寺・千年以上守り受け継がれる伝統と誇り」が放送されます。
當麻寺の練り供養の模様が1時間にわたって放送されます。
是非、見てください。
0448名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/07/04(土) 23:40:46.50
大念仏寺と共に平野郷(ひらのごう)にある杭全神社(くまたじんじゃ)では、7月11日から14日まで夏祭が行われます。
12日と13日には9台のだんじりが平野郷を曳行し、大念仏寺の前を通ります。
14日の神輿の渡御では杭全神社の宮司が大念仏寺に参拝します。
皆さん、ぜひ平野に来られて平野郷1150年の歴史にふれていただきたいと思います。
0450名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/07/05(日) 20:49:38.49
>>448
「第13回・古写真にみる、なにわの行事・祭礼」という本に昭和6年に行われた万部おねりの写真が載っているよ。
昭和6年は良忍上人の800年遠忌だったのか、地蔵菩薩も登場している。
杭全神社の夏祭の写真もある。泥堂(でいどう)などのだんじりの写真が載っている。
0451名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/08/07(金) 19:02:02.67ID:2/dsFpOvK
大念仏寺の山門近くにある蓮の花が美しく咲いています。
融通念仏宗が開宗して900年、大通上人300回御遠忌奉修記念論文集として、法藏館から『融通念仏宗における信仰と教義の邂逅』という本が出版されています。
興味のある方はぜひお求めくださいませ。
0452名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/08/14(金) 00:01:52.46ID:BzRblV4L0
15000円もするではないか。
0454名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/08/22(土) 01:02:28.72ID:gKNW8l//K
寝屋川市で無惨な殺人事件が起きたな。
中1の女の子と男の子の命が奪われてしまった…。
可哀想だな。
観世音菩薩、必ず蓮華の台に載せて2人の子らの霊を弥陀のおわす理想の至上の幸福に満ちた浄土に送らせたまえ。
そしてもう二度とこのような悲惨な事件が起こらないように夜遊びしてる子には注意しようと思う。
0455名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/08/25(火) 21:34:36.05ID:bllPdon6K
>>454
こんな凶悪な事件が起きた時、良忍上人だったらどう教えを説かれただろうか?
「ただひたすら念仏を唱えて心を鎮めなさい」とか言われただろうか?
毎日報道される事件に心が痛いわ。
本当に五濁悪世の世の中だ。
0456名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/08/25(火) 21:57:03.96ID:N1GKgqjkK
融通念仏宗さんがもう少し関西で勢力を持っていたら、相当マトモな社会にはなっていたと思います。
同じ「お念仏」という言葉を使いながら、全く異なる内容で人心を惑わし、堕落せしめている浄土真宗などのカルトに陥っている人々を、正しい道、正しいお念仏に導くことができたら…。
0457名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/09/06(日) 00:19:22.45ID:ro6RBZ41K
融通念仏の教えがよろずの人々に伝わり、一切の人々が救われますように。南無阿弥陀仏
0458名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/09/07(月) 10:18:29.20ID:TOJzRNVsK
>>456
関東でも開教して欲しいね。
by東京人
0460名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/09/07(月) 18:18:25.54ID:rmlmmexl0
>>459
上のサイトを両方ざっと読んでみたんだけれど、繁成寺に安置されている
毘沙門天像が良忍上人作で、初代住職の深山法運師はもともと芝・増上寺に
おられた方だから浄土宗。
深山法運師が毘沙門天像に出会われた経緯も上の本に書かれているような…
0463名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/09/20(日) 19:21:11.69ID:L48dtIIiK
「融通念仏宗における信仰と教義の邂逅」という本の中で、
吉村宗務総長が融通念仏の根本理念「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 云々」とは、「一人と一切人は互いに他を損なうことなく、障礙することなくおのおのの個性の輝きを尊重しつつ、
一つに融け合っている」ことであると述べられています。
「一杯のコーヒーに例をとれば、コーヒーと砂糖とミルクと水(湯)が融け合い、しかもそれぞれの持つ本来の味を損なうことなく、
たがいに他を生かしながら存在しているのです」
とも述べられています。
こんな崇高な教えがある融通念仏宗は素晴らしいと思います。
0465名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/09/21(月) 17:49:50.62ID:KhWHqZG9K
>>464
融通念仏宗も浄土教だけど、浄土宗や浄土真宗・時宗とは阿弥陀仏の捉え方が違うと聞いた。
0466名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/09/21(月) 19:41:57.29ID:hrAL5Ygo0
どちらかというと天台真盛宗に近いのかな?
0467名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/09/21(月) 19:50:53.62ID:GCKle3u2K
(深遠・哲学的)融通念仏宗>天台真盛宗>時宗>浄土宗>>>(次元断層)>>>>>(地獄の門)>(肉体の門)>>>浄土真宗(快楽・政治的)
0468名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/09/21(月) 20:24:39.00ID:/02XfWT3K
浄土宗は穢土と呼ばれる悪と苦悩に満ち溢れた世界を厭い、安楽な西方極楽浄土に往生するためにひたすら念仏を唱えることをすすめます。
しかし、融通念仏宗は娑婆または穢土の悪と苦悩も念仏の力によって喜びと智慧に輝く世界に転換していくことを目指して念仏を称えます。
この苦悩に満ちた社会こそ極楽に変えていくことなのです。
0469名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/09/22(火) 03:59:42.85ID:h4W+zBDk0
融通念仏宗・再興の祖 大通融観上人
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/5c933d7a9a47a9270afebfdbb2dad30c

常寂光土というのは、天台宗に於ける浄土観の一つであり、まさにこの世界が浄土であると観じることです。
それを援用して、融通念仏宗の浄土観が説明されています。これについては、大通上人も指摘するように、
良忍上人が身を現じた無量寿仏(阿弥陀仏)が「汝が行は不可思議にして順次往生を得難し。
速疾往生の勝因を教えん」と示されたことに明らかなように、
来世での往生ではなくて、今まさに此処で往生する方法だったということです。
そのためには修行の方法が明らかにされなければなりません。
まずは念仏、そしてこの融通念仏宗は、持戒も厳しいものがあったようです。

三聚浄戒から、十重四十八軽戒を受けているということは、まさに天台宗の円頓戒を利用していることが理解できます。
さらに、成仏の機縁については、如来蔵思想を用いていることが明らかになりますけれども、
この方法も、一般的な仏教に於けるあり方と同じだと見て良いでしょう。
自分自身の中に、“仏になる可能性”が具わっており、それを信じることで、修行した結果成仏が可能になるという発想です。
さらに、理と事とが行に依って上手く融合されています。いわば、この宗派では、まずは念仏行が重要だということです。
天台宗に淵源を持つ宗派らしい教義であるといえましょう。

なお、日本では法然上人や親鸞聖人などが、鎌倉新仏教の運動として「専修念仏」を唱え、
特に浄土真宗ではその根本に「絶対他力の信」を起きますけれども、
一応は融通念仏宗でも、良忍上人が感得した偈の中に「他力往生」という言葉が出てきますから、
それなりに体系化されているものなのか?と思って、この『融通円門章』を見たのですけれども、
専修念仏ほどの「他力」は説かれていないように思います。
むしろ、持戒修行を説いている以上、「自力」的な解釈、
いや、自他を超えた状況に於いて説かれているとすら感じられるわけです。
すると、気になるのは以前、この連載で採り上げた【一遍上人】であります。
融通念仏宗関連のデータを調べると、一遍上人もこの系統にあったということですが、
なるほど、それは江戸時代でも良く理解されていたことになるのでしょう。
0470名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/09/25(金) 19:49:32.57ID:5NVLkw/f0
黄檗宗とは
http://www.kakuonji.com/oubaku.html

黄檗宗の念仏が浄土教の念仏と決定的に違うのは、黄檗宗の説く念仏とは「観想念仏」、
つまり「心の中に仏の姿を念ずる」ことであるのに対し、特に日本の浄土教においては、
法然、親鸞の影響下に強くみられるように、口で名号を唱える「口称念仏」(称名念仏)がすべてで、
また、「西方極楽浄土におられる阿弥陀様」と自分の身体の外に仏を求めているという点です。

黄檗宗の教えは「唯心の浄土・己身の弥陀」という言葉に要約されますが、
この世で実在するのは心だけであり、総ての事物、現象は心の働きによって仮に現れたものです。
よって、救済主の阿弥陀仏も仏の浄土も自己を超えたところに存在するのではありません。
自分の心の中に極楽浄土を見いだし、心の中にいる仏様に気づかされることが重要です。

しかし人間生まれて生きていくうちに、世間の煩悩や欲望に侵されて、もって生まれた仏様の心を汚してしまっています。
ですから黄檗宗では禅の実践を通して、己を見つめ直し、自らの仏に磨きをかけていくことを教えの柱としています。
そして、悟りに至る方法は、参禅弁道が中心となります。
0472名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/12(月) 18:17:34.29ID:NuMIU1np0
一遍は、人が仏に念仏するのではなく、また仏が人に念仏させるのでもなく、
仏と人が"不二"となって、念仏が自ら念仏すると説いたのです。
仏と人は、二つでありながら、もはや二つではなくなり、相通じて一つの念仏となるのです。
一遍はそれを次の歌に表しました。

 「称ふれば 仏も吾もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

南無阿弥陀仏と唱えるところには、「仏」も「私」もなくなり、自他は二つながらにして二つでなくなるというのです。
自力は単なる自力ではなくなり、他力は単なる他力ではなくなり、自力と他力が相通じて、一つの力、一つの念仏となるのです。
『南無阿弥陀仏』の著者・柳宗悦氏は、これは念仏における究極の姿だと述べています。
一遍はこうも言いました。

 「自力他力は初門のことである。自他の位を打ち捨てて、唯一念仏になるべきである」。
 「自力他力を絶し、機法(機は人の信心、法は阿弥陀仏の救いのこと)を絶する所を、南無阿弥陀仏というのである」。
0473名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/12(月) 18:30:24.36ID:NuMIU1np0
柳宗悦『南無阿弥陀仏』その2
http://d.hatena.ne.jp/yosunokoji/20120709

一遍上人は、六字の名号に、仏も人が消え去る究極の境地を見たのである。
「南無の機(人)と阿弥陀の法(仏)とは、二つではない。「法機一体」なのである。
「自力他力のうせたるを、不可思議の名号というのである(139)。

法然の目は、人に向けられ、親鸞の目は仏に向けられている。
しかし一遍は、「仏も人も未だ分かれぬ場」を見つめているのである。
南無とは、帰命のこと。すなわち「己を捨て去ること」にほかならない。
すべてを捨て去った後で、「無常なる阿弥陀に新たな生命を獲得する」(140)。

「人が弥陀を呼ぶのは、弥陀が人を呼ぶのである」(140)。
南無阿弥陀仏の六字の中には、人間の往生と弥陀の正覚とが、同時に達成されているのである。
ここまで来ると、一遍の立場と、曹洞宗を開いた道元の禅の境地とが、案外、近いところにあることが分かるだろう(145)。
すべてを捨て去ったことを、道元は、身心脱落と表現した。
ひたすら念仏を称えることは、禅で言うところの、只管打坐にあたるだろう。


柳宗悦『南無阿弥陀仏』
http://blog.livedoor.jp/akama_nkm/archives/5380008.html

分別など不要、ただ念仏が念仏するのみ、名号さえあればそこにすべてがある、
とする一遍の思想はむしろ禅に接近したものとしてこれを考えるべきであり、
その表白をもって浄土思想の流儀に与する人物として彼を見るべきではありません。
彼の思想は道元の只管打坐同様、「そのもの」になれ、醇乎たる存在者へと達せよ、
との主張として解義すべきものであって、それがもはや他力的浄土思想ではありえぬことは明白でありましょう。
0474名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/12(月) 18:33:58.69ID:NuMIU1np0
曹洞宗 福地山 修禅寺 『一遍上人に思う』
http://shuzenji-temple.com/houwa-2012-8n.html

一遍上人の沢山の言葉の中『南無阿弥陀仏』という所を『只管打坐(坐禅せよ!)』という語にかえると、そのまま禅の教えになるようです。

○ある人問云ク「上人御臨終の後、御跡をばいかように御定め候や。」上人云ク「法師のあとは、跡なくを跡とす。」

○「わが門弟子におきては、葬礼の儀式をととのふべからず。野に捨て獣にほどこすべし。」

○「よき道者(修行者)とは、死するさまをあたりにしらせぬ事ぞ、わがおはらんをば、人のしるまじきぞ。」といひしに、はたして御臨終。その御詞にたがふ事なかりき。

 表・裏なく一生を『捨聖』・『遊行聖』として生きた一遍上人の御言葉に接する時、おのずから襟を正すと共に大きな勇気を戴く思いがいたします。

○御往生のまえ、人々最後の法門を承らんと申しければ「他阿弥陀仏(弟子・真教のこと)・南無阿弥陀仏はうれしきか」とのたまひければ、真教落涙し給う云云。

 「真常!日々の坐禅はうれしきか」
 我が師の声が聞こえてくるようです。

 南無阿弥陀仏
     なむあみだ仏
0475名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/12(月) 18:49:47.19ID:NuMIU1np0
栗田勇著 一遍上人愛蔵本: 捨ててこそ生きる 一遍 遊行上人
http://murauchi.muragon.com/entry/466.html

栗田さんは一遍研究の第一人者ですが、
この本はその栗田さんがまとめた一遍上人の
図鑑的な愛蔵本になります。
カラーの一遍聖絵を見ながら、
そうですこの見事な絵巻と詞書(ことばがき)を見ながら
栗田さんが一遍上人の跡をたどっていくのです。

「遊行上人」「捨聖(すてひじり)」「踊り念仏」という
3つのキーワードが三位一体となって
「南無阿弥陀仏」の口称念仏となった。
栗田さんの筆致は、軽やかかつ説得力に富んでいます。
また、一遍上人の思想を伝えようという熱意に溢れています。

六字の名号を口に称えた瞬間、
この現世が、そのまま浄土になる。
栗田さんはまるで即身成仏のようだと
一遍聖絵とともに一遍の思想を語ります。
0476名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/13(火) 23:06:19.58ID:NZx1RW0r0
五来重の「芸能の起源」
http://www.rounanusi.jp/syakuhatisyouki/130-9geinounokigenn/130-9geinounokigenntop.html

一遍が臨済禅の法灯国師に参禅して、印可をえたと言う部分の参考資料

『五来重 宗教民族集成3 異端の放浪者たち 角川文庫』

 一遍の罪業観についてはのちにのべたいが、参禅については聖戒の『一遍聖絵』も
宗俊の『一遍上人絵詞伝』もかたらないために、とりあげられなかった。
『一遍聖絵』は時宗の京都教団側の一遍伝記であり、『絵詞伝』は藤沢遊行寺教団側の伝記である。
したがって教団というものは、すべてその開祖の伝記までもゆがめてしまうものなのである。
教団に都合の悪いものは捨てられ、都合のよいものはあることないこと付加される。
 ところがこれは高野聖側の記録にのこされ、それがまたのちにできた『一遍上人行状』や、
『一遍上人年譜略』にゆがめてとられ、『浄阿上人行状』では浄阿弥陀仏の参禅という具合に変化してしまった。
しかし高野聖側の『法灯行状』という法灯国師心地覚心(高野山の萱堂聖の開祖)の伝記に、
一遍は臨済禅の法灯国師に参禅して、印可をえたという記事が見られる。
遊行聖としての一遍の捨聖主義は空也にならった一面とともに、禅の放下の思想がある。
『一遍上人語録』(下)に、

 身心を放下して、無我無人の法に帰しぬれば、自他彼此の人我なし

とあるほか、随所に無想無我の念仏を説くのはそのためであろう。
これは念仏の伝統の中でも特異の地位を占めるもので、法然の専修念仏の一派のようにいうのはあたらない。
熊野の神の託宣をうけたり、遊行のあいだに諸国一ノ宮に参詣する神祇崇拝や、踊念仏が専修念仏であるはずはない。
現在藤沢遊行寺の歳末別時念仏会(俗称、御滅灯)に詰衆の座禅を印可する式があるのも、たんなる専修念仏とはちがう。
また一遍の念仏に「南無阿弥陀仏と一体になる」という思想があるのは、修験道の即身成仏思想であるとおもう。
0477名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/13(火) 23:23:45.55ID:NZx1RW0r0
釈徹宗『法然親鸞一遍』について語るときに僕の語ること
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20150519/p2

「南無阿弥陀仏の名号によって救済される」という体系には、西山派の教理を骨子として、
密教的な即身成仏の要素や禅的な融通無碍性も見受けられます。
そして平安浄土教から受け継いだ遊行の実践、熊野権現信仰や漂泊といった民俗信仰の形態も内包しています。

一遍の思想には、平安仏教・法然浄土仏教・日本民俗信仰が融合し、昇華した成熟性を見ることができます。
0478名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/14(水) 17:28:51.97ID:QQfoa8qE0
すさまじき遊行の迫力 文/玄侑宗久
http://genyu-sokyu.com/essey/essey05/14.html

思えば我々禅僧が、七日間眠らずに坐禅することだってかなりエキセントリックなことだ。
私としては、佐江氏が最後のほうで触れられている紀州由良の法燈国師への参禅が、一遍の教義にもかなり影響していると考えている。

となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏

そう一遍は詠み、また『一遍上人語録』には「自力他力は初門のことなり」「念仏が念仏申すなり」
また「自他の位を打ち捨てて唯一念、仏になるを他力といふなり」ともある。
これはどれも禅僧の言葉としても聞けるものだ。
一遍は法燈国師から「悟り」の証明である印可証も受けたと云われるのである。
後に白隠禅師は一遍のこの歌を本歌取りして揶揄するように詠う。

となへねば仏もわれもなかりけりそれこそそれよ南無阿弥陀仏

称える行為そのもので、「われ」が出来てしまうじゃないかというわけだが、
おそらく一遍は、そんなことは承知で、しかし六字名号そのものを本尊として称えつづけた。
称えることに没頭し、さらに踊り、賦算を配るという「よすが」を設けることでようやく「仏もわれもな」くなる人々を、一遍は愛したからだろう。
そしてその熱狂を支える人々の苦悩を、一遍はよく知っていたのだ。
べつに私は、臨済宗から時宗に鞍替えしようというんじゃない。
ただこの本で、生身の一遍に出逢えた気がして嬉しいのである。
自力も他力もないじゃないか。
たしかにそうだが、そうじゃけれども、そうじゃけれども、という見方がやはりある。
佳い小説とは、おそらくこの「そうじゃけれども」の眼で書かれるのだろう。
0479名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/14(水) 17:35:24.18ID:QQfoa8qE0
自力の限界に他力の風が吹く
http://nakao-ganka.com/column/%E8%87%AA%E5%8A%9B%E3%81%AE%E9%99%90%E7%95%8C%E3%81%AB%E4%BB%96%E5%8A%9B%E3%81%AE%E9%A2%A8%E3%81%8C%E5%90%B9%E3%81%8F

玄侑:われわれ禅宗の側は、自らを自力だとはアピールしていないんですね。
少なくともある程度実践してみると、誰でもそう感じると思います。
道元禅師も「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。
万法すすみて自己を修証するは悟なり」とおっしゃっています。
まさにこれこそ自力と他力の分かれ目じゃないでしょうか。

五木:なるほど。
私が自分の本に「他力」という題名をつけたのは、あまりにも二十世紀が、
アメリカを中心としたグローバルスタンダードの傾向が強かったものですから。
日本人は自力の原則の海の中で溺れそうになっているなと感じたのです。
この流れを押し戻すには、少し極端なぐらいのタイトルが必要かとおもいましてね。

玄侑:一遍上人は念仏の人ですが禅の経験もある。
彼の書かれたものを読むと、禅と念仏の融合ということを考えていますね。
禅宗の和尚のなかにも、念仏に走る人がけっこういるんです。
「禅浄双修」という言葉もあります。

五木:京都の禅寺の偉い方と話していて、
その方が、「いや、最終的にはやっぱり他力やな」なんてぽつりと言われたことがあるけれども、
自力を極めていくと、そこで見えてくるのだろうと思うんですね。
どちら側から見るかということは大事なことなんでしょう。
似ているように見えますけどやっぱり違うところはあると思うんですよ。

玄侑:言葉でたどりつける範囲の世界とそれを超えた世界があると思うんです。
言葉で理解できる範囲のことをおそらく自力というのではないか。
しかし、それを超えると念仏であろうと坐禅であろうと言葉が及ばない世界が訪れる。
それを禅でも浄土門でも他力と呼んでいいのではないかという気がしています。
0481名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/17(土) 21:42:28.23ID:/QOROT7a0
白隠禅師の『遠羅天釜』(2)念仏と公案をめぐって
http://kufs.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&;item_id=115&file_id=22&file_no=1

実は日本の浄土宗でも念仏が広く普及したが,それはとくに日本浄土宗の開祖である法然と浄土真宗の開祖である親鸞(1173‒1262)の努力の結果であった。
禅宗世界もまた念仏の影響を深く受けた。
これは時宗の開祖一遍(1239‒1289)の普及活動の結果である。
白隠の時代も禅修行と念仏の融合の傾向が広まった時代である。
この傾向に対し,以前に述べたように,白隠は厳しく批判した。
白隠の立場は彼の時代に対して非常に悲観的であったといわれる。
白隠は自分の時代が完全に未法(梵:saddharma-vipralopa)の時代だと信じていた。
すなわち,純粋に「伝灯」に従った禅が衰滅ぼされてしまい,様々な異端の影響や習慣が修行の上に加えられて,禅が堕落してしまったということが白隠には強く感じられたのである。
また,浄土宗の大衆化が推し進められ,禅の修行者が,これに対して強く魅かれるという状況を,白隠は非常に憂慮した。
0482名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/21(水) 01:13:28.55ID:ocGcMLExK
一遍や白隠なんて他宗の坊主のことだからどうでもいい。
26日は大念仏寺で写経会があるよ。
0483名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/21(水) 21:51:20.41ID:ocGcMLExK
融通念仏宗独特の行事に「伝法(でんぽう)」がある。
檀家になっている寺に1週間集まって僧侶の話を聞いて戒律を授かり戒名をもらうのである。
うちの坊主がそろそろこの伝法をやりたいと言うのだが、前回の伝法からまだ20年くらいしか経っておらず、費用も1人10万円くらいかかるので誰も伝法なんて受けないだろうと檀家総代たちは心配している。
毎年やっている「御回在」ですら、「もう今年からは御回在は結構です」と断る檀家も増えている。
檀家に伝法を説得して回るのが僧侶としての役割であろう。
0484名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/10/21(水) 22:38:07.79ID:7yDTeJUqK
融通念仏宗の伝法は、浄土宗の五重相伝の影響下で成立したともされているが、内容的には五重相伝とは全く異質で哲学的完成度が高い。
檀家以外の本当に法を求める方たちにも門戸を開いて欲しいものだ。
0485名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/11/01(日) 18:26:10.52ID:Mcwf5QU/K
『広げよう融通念仏の輪・融通念仏のつどい』

11月12日(木) いかるがホール(JR法隆寺駅下車)
13時30分開場 入場無料

第一部 「菩薩来迎の世界」
おそらく万部法要と同じことをすると思われる。
第二部 「タレント・山田邦子さんによる講演」
演題・大丈夫だよ、がんばろう!
左右の胸に乳ガンがあることが分かった山田邦子さんは2回の手術をへて全摘出した、ガン克服の体験談を話されます。

知り合いに乳ガンの人がいるのでぜひ行こうと思っています。
0486名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/11/07(土) 22:34:24.10ID:53bVxIor0
千坂 恭二(ちさか きょうじ、1950年3月18日 - )は、日本の評論家、思想家。大阪市出身。
本名・平野和男(本名での原稿執筆も)。上宮高等学校卒業。立命館大学文学部哲学科卒業。
1950年に祖父の代までは近隣随一の大庄屋だった没落旧家の分家に生まれる。
少年時代のヒーローは、大楠公こと楠木正成と木曽義仲だった。
家の宗旨が融通念仏宗であることから、華厳宗 華厳教に興味を持ち、また大乗仏教の龍樹の「空」の思想に惹かれる。
1968年、高校時代からアナキズム運動に参加し、戦後最年少のアナキストといわれた。
浪人生の頃、大阪の浪共闘 浪人共闘会議の運動に参加。アナキスト革命連合(ARF)には結成大会から参加。
0487名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/11/21(土) 18:10:32.27ID:eRnY7w2pK
十夜での法話。
空也の言葉に「慈悲の室深ければ罵詈誹謗を聞かず」と言うのがあります。
皆さん、心は広く保ちましょう。と言われていました。
小豆粥をいただきました。
0488名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/12/09(水) 21:26:49.42ID:Pe2kt8SX0
南無阿弥陀仏
0489名無しさん@京都板じゃないよ
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2015/12/28(月) 20:09:20.28ID:/9Qb9PFwK
大阪市平野区にある大念仏寺では大晦日に除夜の鐘をつけることが出来ます。
日付が変わって法要と法話の後でお餅をもらえます。
皆さん、ぜひお参りくださいませ。
0490名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/04(月) 18:15:17.07ID:CZ6sgATVK
謹賀新年。
今年も大念仏寺では修正会が勤修され、年頭に当たり歴代の管長の墓に参拝された。
融通念仏宗の檀信徒が今年も幸福に満ちた素晴らしい一年となりますように。南無阿弥陀仏。合掌
0491名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/08(金) 10:18:27.22ID:dEUFjONgK
宗報誌「大念仏」No.74に管長猊下が新年の挨拶として「私は今年94歳になります。順風な時ばかりではなく、戦争に行ったこともありました。「お前たちの命は鳥の毛より軽い。死を恐れるな」と叩き込まれました。
日本の敗北で終戦となり、今度は戦後の貧乏時代が長く続きました。その後も何回となく病気入退院、数回の大きな手術を経験し今日に至っています。
寿命の不思議を感じています」と書いてある。
実に94年の激動の人生を物語っておられる。
0492名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/09(土) 02:29:48.36ID:nDcwBWcCK
94歳になられましたか。

時宗遊行上人さまが98歳の最高齢で、天台座主さまが続いでおられたけれど先日御遷化なされたので、十三宗の中では次席ですね。
0493名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/10(日) 20:45:44.87ID:DJA0n81ZK
融通念仏宗における「在家伝法」は、「宗内在家伝法濫觴」によると享保元年(1716)から享保18年までの間に初めて龍海上人によって本山で修行されたらしいです。
0496名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/15(金) 20:07:36.77ID:RnqHsgUGK
宗報誌「だいねんぶつ」No.74に宗務総長が「在家伝法について」と文章を書かれています。
誰でも大念仏寺にお参りすれば無料でもらえますので是非もらって読みましょう。
融通念仏の場合は七項目にわたって仏事を習得する七重式らしいです。
0498名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/24(日) 14:52:39.32ID:MSj0ccc3K
融通念仏宗の在家伝法について。
普通、伝法と言えば、入行から満行までの五日間の修行を指しています。しかし、厳密には特別の荘厳を施した修法の道場で伝統の儀式に則り法門を伝授すること、この一事を伝法というのです。これを通常の伝法と区別するため、「正伝法」と呼びます。
0499名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/24(日) 14:58:44.38ID:MSj0ccc3K
ところで伝法にはこの正伝法とともに受戒もあります。
出家・在家の区別なく佛の教えを奉ずる者が守らなければならない規律に従うことを誓う儀式のことです。
受戒と正伝法、この二本柱こそ伝法修行の根幹と言えます。
戒律は悪をやめ、善を修することを目的とし、戒を受けてそれを守ろうと努力することにより、人は人生を誤りなく歩むことができます。
0501名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/24(日) 19:16:42.27ID:MSj0ccc3K
融通念仏宗における伝法。
加行(けぎょう)
加行(けぎょう)とは受戒・正伝法の際に前段階として行われる修行のことです。
伝法の加行として、水行・勤行(ごんぎょう=読経、おつとめ)、礼拝行、日課念仏など毎日の定められた行法とともに、七重式(しちじゅうしき)といって、無常の世に確かなお念仏によるべを持つこと、
三法(仏・法・僧)供養のあり方と心構え、数珠の持ち方、合唱の意味合いなど、日替わりで七項目にわたって仏事を習得することが課せられます。
なぜ、受戒・正伝法の際に加行が必要なのかと言えば、確たる信心を養うためといえるでしょう。
もし加行がなければ堅固な信心を得ることができないからです。耕さない土に植物の種を植え付けても果実が得られないのと同じです。
受戒も正伝法も形だけの無意味なものになってしまいます。篤い信心の土壌があってこそ実を結ぶことができるのです。
0502名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/24(日) 19:38:37.94ID:GaDGt1vcK
>>501
>耕さない土に植物の種を植え付けても果実が得られないのと同じです。

なるほど。絶対他力を騙るどこぞの宗派には耳の痛い話でしょうな。
代わりにデリヘル嬢を耕そうとして殺してしまうことになる。
0503名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/24(日) 20:06:24.73ID:MSj0ccc3K
融通念仏宗における伝法。
血脈(けちみゃく)。
仏教では師資相承(ししそうじょう)といって、師僧から弟子へと伝統的に教えの中枢を伝えていくことを重視します。
融通念仏宗では、宗祖・良忍上人が大原でご修行中、阿弥陀仏から直接、融通念仏の法門を授かり、良忍上人から代々の上人に伝わり、さらにそこから各末寺の住職に伝えられ、
そして伝法行人に伝わっていくのです。それはあたかも親から子へ、子から孫へと血が連なるのにたとえて、「血脈(けちみゃく)」といいます。
受戒にも血脈があります。戒律の教典である『梵網経』の教主・廬舎那仏から釈迦如来へ、次にはインド、中国、日本の三国に伝来した祖師がたがおられます。
すなわち在家伝法の行人は阿弥陀仏と歴代の祖師がたと導師である住職と、法の血によって一つにつながっているのです。
これが仏祖妙法の血脈といいます。
0504名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/24(日) 20:50:55.80ID:MSj0ccc3K
融通念仏宗における在家伝法の起源。
在家伝法の始まりは、正徳6年(1716)から享保18年(1733)までの17年間に、はじめて在家の伝法を本山の阿弥陀堂で修行されたと考えられてます。
0505名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/25(月) 02:14:01.03ID:TcUWR2pjK
ありがとうございます。

…して、在家の受法資格は如何なのでしょうか。水行とかをさせていただく覚悟はあります。
0506名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/01/31(日) 20:51:14.72ID:/RkX/8u2K
大念仏寺の2月3日(水)の行事。
午前9時30分から寒行。(本山僧侶が平野の町を鉦を打ち鳴らして托鉢します。)
午前10時から大念仏寺の境内にある毘沙門堂で、毘沙門天護摩供があります。護摩木は誰でも奉納出来ます。もちろんお堂の中での護摩供の参拝も出来ます。
午後2時からは大念仏寺の本堂で大般若の転読法要が行われます。
0507名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/02/10(水) 23:34:17.14ID:5FfkXbQu0
南無阿弥陀仏
0508名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/02/12(金) 18:44:33.97ID:iFZ01nor0
地域のなかで寺院を考える ―中世〜近世の摂河泉を題材に―
http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/1408/1/KU-0200NN-20080331-02.pdf

大澤研一(大阪歴史博物館企画広報課長・学芸員)

融通念仏というのは念仏、「南無阿弥陀仏」を声に出して唱えるんですね。
例えば1人で念仏を唱えると、自分が言った念仏の数の分だけ自分の功徳になる。
簡単にいえば、念仏が融通されるということなので、一人で唱えるよりも、たくさん集まった方がその功徳が増えていくということになるわけです。
ですから、集団で唱えることにメリットがある、そのような信仰です。

よく考えると、念仏を唱えるというのはある意味、非常に簡単な行為ですね。
難解な教義ではなく、方法として融通するということを重視しますので、教義あっての教団というよりは民間信仰に近いといわれています。

これは浄土真宗の場合でも同じですが、念仏集団のリーダーは専業の僧侶ではないんですね。
もちろん教団の上位に行けば、専業の僧侶が存在するわけですが、地域のなかにいる、末端に存在する集団のリーダーというのは俗人です。
俗人がリーダーになって念仏を教えているわけです。ある意味、誰でも、やろうと思ったらできるというところがあります。

そういった、現代の目からみればややルーズともいえる集団でもって念仏を唱えるというふうなことですので、民間信仰的な信仰ともいえます。
念仏を唱えるということは、自分が死んだときに浄土に行けるということであるとか、あるいは、生きている間に、いろんな災いを除くとか、
そういったことを求めて念仏を唱えるんだということが、中世段階の念仏の功徳の実態だったと言えます。
0509名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/02/12(金) 18:45:19.42ID:iFZ01nor0
近世の話ですが、どんなときに念仏を唱えたかという史料の中に、雨乞いの例が登場します。
干ばつで雨が降らない。雨が降らなくて、当然、農作物がとれないということになると、当時としては大変ですから、そういうときに雨乞いをします。
そのときに、融通念仏の本尊(十一尊天得如来という阿弥陀来迎図:図D)を招いて外で法会をやるのです。
さらに、これは民俗的なものであると思いますが、夏は害虫が発生しますので、その虫がつかないように、虫払いというのをやっています。
そういうときにも同じように、本尊に出てきてもらって法会をやるということです。
こうした民間信仰的な行事に融通念仏がかかわることで、その信仰がどんどん浸透していきました。

近世になると、家が特定の寺院と結びつく寺檀関係ができ上がり、それにともなって葬式がとり行われるわけですが、
今申し上げたような雨乞いや虫払いは寺檀関係とは別レベルであって、
たとえば浄土真宗の寺院と寺檀関係を結んでいるけれども、雨乞いのときは融通念仏でやるということがあるんですね。
ですから、制度として割り切れる部分とそうじゃない部分というふうな問題を宗教は持っているということがいえると思います。
中世は、とりわけそういった側面が強かったと思われますので、注意する必要があるでしょう。

融通念仏は江戸時代になって教団化されて融通念仏宗、今、大阪の平野区に大念佛寺という本山をもつ教団となります。
融通念仏宗は、摂津・河内に非常に濃密に末寺が分布する教団ですので、摂河泉の宗教・寺院を考えるときには注意しなければならない存在です。
0510名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/02/17(水) 21:24:14.35ID:oFJsnWrn0
age
0511名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/02/18(木) 19:05:16.69ID:92C9NeqCK
融通念仏宗の管長猊下のお話によりますと、「物事の本質を探究するのが哲学で、信じるのが宗教です。仏教では「真如(しんにょ)」という本質を説いています。
また「真如縁起」といって物事はすべて相依り、相関して起こると考えます。融通念仏は念仏をもととして相依り相関する世界でもあります。」
と、述べておられます。
0512名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/02/21(日) 13:03:49.12ID:avdsIJX20
大念仏と民間念仏の系譜
http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2014/08SAKAMOTO.pdf

融通念仏と講仏教

融通念仏が念仏結社である講を結成し、民間念仏を始めたと想定できる。
現在融通念仏の研究は融通念仏と融通念仏宗を分けることから始まっている。
融通念仏の研究者である稲城信子氏は「融通念仏宗と呼ばれる宗派は、17世紀以降、大念仏寺を中心として、
摂津・河内・奈良で行われていた融通念仏の講や寺庵・講中を組織化していった宗派である。
それらは近世では「大念仏」と呼ばれたが、正式に融通念仏宗と認められたのは明治7年(1874)のことである。」としている。

融通念仏の語は良忍没(長承元年・1132)後10年を経ず書かれた『後拾遺往生伝』巻中の
「上人良忍」の記事に「夢上人告曰。我倍本意。生上品上生。是融通念仏力也」とあるのが初見である。
融通念仏は良忍が1117年(永久5年)三昧中に阿弥陀仏から「一人一切人、一切人一人、一行一切行、
一切行一行、是名他力往生、十界一念、融通念仏、憶百万遍、功徳円満」の偈を授かった事に由来する。
意味は世界のすべてが相互に関係して一人が一切の人を表し、一切の人が一人に収斂する。
すべての行為は一つの行為に、一つの行為は一切の行為に通じる。したがって十界は一念にある、
百万遍の念仏も融通して唱えよ、そうすれば功徳は円満する。
このような理念にしたがって、多くの人が何度も唱える念仏が融通念仏である。
しかしこの話は正和3年(1314)に書かれたとされる「融通念仏縁起絵」に記載され、七世良鎮によって流布されたとする。
実際は元享元年(1321)融通念仏中興の祖八世良尊法明上人によるとする説が強い。
実は融通念仏は五世尊永以降150年間法系が途絶えてしまう。
この間法系はないものの道御が嵯峨野清涼寺で大念仏を行ったり、
円覚が壬生寺で大念仏を行ったりすることがあり、これが融通念仏ではないかとされている。
大念仏と融通念仏のことは後述するが、現在の大阪平野の大念仏寺の語の初見は寛文4年(1664)とされる。
最近初期の大念仏寺である諸仏護念寺については明らかになってきているが、融通念仏宗の語は元禄2年が初見である。
0513名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/02/21(日) 13:05:31.00ID:avdsIJX20
融通念仏宗では良忍(1072〜1132)法明(1279〜1321)大通(1649〜1716)を三祖とするが良忍から
法明・法明から大通の間の実態は不明な部分が多く、元禄年間になって大通が寺院法度に対応すべく、
体裁を整え、教線の拡張をはかって初めて宗派らしい形態をとったといえる。
それ以前にあっては浄土系の聖や篤信者が講を組み、それらが主体となって「融通念仏」を行ったのが実態ではないかと思われる。
筆者も知多半島にある「虫供養大念仏」の調査から近世初頭に起こった聖の念仏が惣村形成の過程で村落を超えて巡回する
大念仏になっていくことを述べたが、同様の念仏は各地で起こっていたと思われる。
村落の寺院の多くが江戸時代初期に発生し、それが幕府の檀家制度と相まって近世の村落仏教が成立するが、
それ以前は結衆された講を中心とした講仏教ともいえる形態で発展したのが融通念仏であったと推定できよう。

現存する融通念仏宗で日課となっている如法念仏は引声系の長く引き伸ばす念仏で
御回在の末寺で行うときは伏せ鉦二丁を同時に叩きながら唱える。
前述の民間の百万遍はさまざまであるが、始めはゆっくりでだんだん早く念仏を唱えるところが多い。
融通念仏の記事には「同音」に唱えるという語がたびたび登場する。
一斉に唱える念仏を「同音」としていると思えるが、民間念仏には相互に掛け合うように唱える「掛け念仏」が多く見られる。
六斎では音頭取りの調声(ちょうしょう)とその他の側(がわ)といわれる掛け合いになっている部分がある。
概して民間で行われる念仏は掛け念仏のように、二手に分かれて唱えあうようなものが多くなっていったとみられる。
0515名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/02/23(火) 18:09:30.21ID:XF4g73YBK
途中の法灯の断絶は残念だけど、素朴な民間信仰で900年間の長きに渡って受け継がれて来たのが素晴らしいよね。
どっかの宗派みたいにトップダウン型で芋づる式に金を巻き上げるような宗派でなくて良かった。
0516名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/02/23(火) 18:18:11.45ID:Fz2RRBmvK
どっかの宗派は法灯というより股間の砲塔を受け継いで来ただけだからな。中身は教えや信仰ではなく臭汁だ。
0518名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/02/24(水) 20:51:33.91ID:rQKsnuPmK
2月26日(金)は融通念仏宗を開いた良忍上人のご命日です。
平野区にある大念仏寺の本堂では、午後1時から御忌法要がつとめられます。
是非、ご参拝くださいませ。
0519名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/01(火) 19:42:48.71ID:bnB7+JMzK
3月5日(土)は、江戸時代に融通念仏宗を再興した大通上人のご命日です。
平野区にある大念仏寺では午後1時より御忌法要がつとめられます。この法要では大通上人が大阪と江戸を何回も往復して融通念仏宗の宗門の再建を幕府に請願されたご苦労をしのんで法要をつとめる僧侶が内陣を歩く「行道(ぎょうどう)」が行われます。
是非、お参りくださいませ。
0521名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/11(金) 18:13:53.05ID:j5RP7FuC0
南無阿弥陀仏。
犠牲となってしまわれた方々の尊い多くの御命に 合掌
0523名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/15(火) 13:31:21.73ID:5NezYIRL0
檀家の年間の出費っていくらくらいでしょう?
融通念仏宗はお金がかかると聞きますが
0524名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/15(火) 17:00:25.59ID:bmRA2UeK0
お金がかかるのは真言宗・天台宗とか禅宗とかじゃないの?
融通念仏宗は普通の庶民宗派だし特にかからないと思うよ
0525名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/15(火) 18:42:31.13ID:/3yl3NQC0
単に末寺数が少なく、割り当て方式で考えれば少々高くなるのかもしれない。
0527名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/20(日) 15:53:35.25ID:CILk6i3UK
お彼岸の中日にお墓参りをする。
光明遍照十方世界念佛衆生摂取不捨融通念仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
0528名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/22(火) 21:52:25.45ID:0yGmW5oSK
四天王寺の僧侶もテレビの「ぶっちゃけ寺」に出て活躍しているんだから、
融通念仏宗からも僧侶がテレビに出て融通念仏の教えを広めてほしいな。
0529名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/22(火) 22:06:08.42ID:LEUvt2T8K
四天王寺みたいなイヤらしい新興宗教と違うから、融通念仏宗は

ブッカケ寺みたいな商業番組に出て品位を貶める必要はない
0530名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/22(火) 22:39:16.41ID:0yGmW5oSK
>>529
いや、品位とかそんな偉そうなことを言っている場合ではない。
何よりも悩み苦しむ人々を救済するために融通念仏宗の教えを広める必要がある。
今のままだったら離檀する檀家ばかりだ。田舎では廃寺も出てきている。
0531名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/22(火) 23:17:41.31ID:LEUvt2T8K
融通念仏宗さんは、現在が「末法」であるという幻想を前提とする法然系念仏宗派と異なり、時空を透徹し万民と渉入し合う念仏という強力な教義と実践の歴史があるのだから、ネットでも出版でもいいからもっと自らの教義を発信しないと。
親鸞の戯言でも信じてしまうバカが多かった時代と違い、日本人の知的水準が膿み爛れるほどに高まった今こそ、「ホンモノ」である融通念仏宗の教義と念仏が勝負に出られるはず。
0532名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/22(火) 23:25:23.09ID:0yGmW5oSK
>>531
そうだよね。テレビを有効活用してほしいよね。
吉村宗務総長などは説法が上手なんだからNHKのこころの時代とかに出てほしいよね。
0533名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/03/25(金) 19:40:56.59ID:DWYHQah8K
融通念仏宗における紫金職(しきんしょく)とは、僧籍簿に登録されている年数が古く教師補任後、住職を20年以上勤めた者の中から選ばれます。
昭和40年代までは終身制でしたが、その後改正され、今は1年ごとに交替することになりました。
紫金職(しきんしょく)の名の由来は、紫衣(しえ)・金襴袈裟(きんらんげさ)の着用を許された者という意味です。
0535名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/04/16(土) 21:17:17.46ID:ikxMALnKK
熊本県の大地震が1日も早く治まりますようにみんなで阿弥陀様に祈りましょう。
余裕のある人は寄付もしてあげてください。
0536名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/05/01(日) 21:46:53.58ID:tKtg/FL1K
今年も万部法要が始まった。
管長猊下はお達者で杖もつかずに橋を渡られ、内外十念を授けられた。
あんなに健康なのは凄いなと思った。
0537名無しさん@京都板じゃないよ
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2016/05/02(月) 17:22:38.23ID:EELTaUVy0
大念仏寺で5月5日まで万部おねり開催中だね
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