周恩来(Wikipedia)

中華人民共和国
初代国務院総理

●生い立ち・日本留学
1898年3月5日に江蘇省淮安府に誕生し、天津の南開中学校で学んだ[2]。
南開中学卒業後の1917年に日本に留学した。日本語の習得不足により第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗した。
その後東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現在の政治経済学部)に通学した。

●日中戦争・国共内戦
その後日本軍の捕虜に対して、「服役期間中に態度が良好だった戦犯に関しては、早期釈放をしても良い。年配者や体が弱い者或いは病人も釈放を考慮し、家族の訪中や見舞いなどを許可する」
「民族間の恨み、階級間の憎しみ、それを忘れてはいけない。しかし、それでも私たちは彼らを「改造」し良くしなくてはいけない。彼らを生まれ変わらせ、我々の友にしよう。
日本戦犯を『鬼』から『人』に変えられるかどうか、これこそ中国文化の知恵と力量に対する試練なのである」と述べている[4]。
管理所職員やその家族などの多くが日本軍の被害を受けていたため戦犯を厚遇する事に反発がでたが周恩来は『復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後に解る」と諭した。
「最初の日本人戦犯裁判で起訴155人死刑7人執行猶予付き死刑3人が確定したが周恩来の指示で最終的に起訴51人死刑なし無期懲役なし懲役20年4人に減刑された。
あまりの寛大な処置に収容所スタッフから不満が出たが「今は分からないかも知れないが20年後、30年後に分かる。」周恩来は言ったという
(ちなみに連合軍側が裁いたBC級戦犯の裁判では死刑判決が920人、終身刑判決が383人だった)。

周恩来
「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し人民を傷つけ苦しめてきました。我々は深い恨みがあります。しかし、中国と日本の間には2000年に渡る友好の歴史があります。戦争による不幸な歴史はわずか数十年に過ぎません。我々は日本に恨みを持っていますが、それを忘れようと努力をしています。これからは日中が力を合わせてアジアを良くして行こうではありませんか。」