>>1の「音楽は理論や屁理屈ではない」という意見に半分賛同し、もう半分は
それに逆行し、一人のリスナーとして(短文だが)率直な意見を言わせてもらう。

はっきり言って姫神の新作「天∴日高見乃國」は世に出なかったほうがよかった。
いったい何を主張したいのかわからないアルバム。
まず、「ヒメカミは"いのちのひかり""いのちのねつ""いのちのかぜ"を伝えます」
…なんて帯に書いてあるが、何が言いたいのか意味不明。曲を聴けばわかるのか
といえばそうでもない。
近作で顕著な、相も変わらぬ打ち込み重視の曲、それに「未来の瞳」の笛の音色や
「都母之謡」の笛もどきなどを使いまわすだけで新鮮味はない。
そうした「どこかで聴いた音色」とヴォイスでなんとか曲を取り繕っているという
だけで、まさに「ハリボテ」。何が「新生」なの?
こんなアルバムに、みんな「感動しました」「癒されました」などというの
だろうか。
「天∴日高見乃國」などというタイトルをつけずに「星吉紀作品集」とした
ほうがどれだけまともだったか。テレビ番組のテーマ曲だったり神社仏閣の
イベント用に作られた曲などをかき集め、一貫したテーマ=アルバム全体に
通る一本の筋があるわけでもない。
「心が揺さぶられる」ほどの強いインパクトを与えてくれる曲はない。
先代が築き上げてきた音世界を乗り越えて新たな出発を期待し、新たな音世界の
構築を待っていた一人の姫神ファンとしてこのアルバムの平凡さには失望した。
音色だけ継承して「姫神」を名乗っているに過ぎないのでは?
やはり人生経験の足らないお坊っちゃんの作る曲はダメだねという括りに
なってしまうのだろうか。



…昨年10月、俺は伊勢の外宮で行われた神嘗奉祝祭を祝う奉納演奏を聴きに行ったが、
そのあまりのひどさ、いい加減さに怒りがこみ上げてきた。
今まで散々指摘されてきた「カラオケ演奏」満載の奉納演奏だったからだ。
しかもそこで披露された曲すべてが既発表曲、もしくは数日前岩手でのコンサート
で演奏された曲目と一緒。アルバムにも収録されず今までどこのコンサートでも
演奏したことがないという姫神の新曲・初公開のオリジナル曲は1曲もなかった。
既製品をカラオケで流し、それにヴォイスや太鼓・三味線で若干肉付けして
「生演奏しましたよ」と言い張っているに過ぎない。
どうして「奉納演奏」のはずなのに演者や生演奏そのものをケチるのか、そして
それを堂々と人前だけでなく神々に捧げるのか。神への冒涜も甚だしい。
太鼓奏者と三味線奏者がソロ演奏を披露したが、それが精一杯の「奉納」という
ありさま。

「奉納演奏」などと銘打ち、現場でやっていることはテープで再生しているのと
同じなのである。そもそも神々に捧げる「奉納演奏」なら神楽と同義のはず。
たとえ伊勢でなくとも全国各地の神社でテープを再生してさっさと神楽を済ませて
しまおうなどというのがどこにあるだろう。
どんなに田舎の小さな神社であっても神に捧げる曲は氏子による笛や太鼓や雅楽器を
用いての生演奏が基本だ。
…そういえば姫神は伊勢の神々に「奉納演奏」をしたはずなのに、過去平泉の毛通寺の
花供養法要のために捧げたはずの「悠久ノ華」まで流していたが、あれはいったい
どういう意味なのだ? 毛通寺に対しても失礼ではないか。


(つづく)