もしハワイ王国が独立維持していたら・・・? [無断転載禁止]©2ch.net
ハワイの独立維持には、少なくともキャプテンクックが到来する前段階である程度、
社会の統一と文明水準が成立している必要がある
最低でも、文字(及び初歩的な算術)と鉄器が不可欠だと思われる
ググって見るとハワイには、ラテライト土壌がある。つまり製鉄技術が無かっただけ
で、鉄資源は皆無ではない。鉄の利用法が分かっていれば、農耕の効率を上げて人口
も増えただろうし、軍事力も強化されていた。また文字は文明の要として不可欠だ
なおハワイはほかのポリネシア諸島とも行き来があったから、文字と鉄器は交易を
活発化させ、サモアやトンガやタヒチ、さらにマオリにも波及した可能性がある
そうなれば、ポリネシアン・トライアングル自体の歴史が変わったかもしれない ハワイ併合は、明治日本に衝撃を与えた
東郷平八郎が威嚇砲撃を行ったら、調子こいていたアメリカ人がびびってアメリカ国旗
をおろしてしまったことは有名
ハワイ王国が健在だったら、たとえアメリカの同盟国でアメリカ海軍の軍事基地常駐と
いう形式だったにしろ、日本の危機感や不安は解消できたかもしれない サイト歯科相模原日吉サンテラス歯科藤沢なのはな内科スマイル歯科アイ整形外科亀有リリオ歯科八王寺アクロスみなみの歯科足立ハート新宿くろさか歯科熊本ファミリー歯科桜台歯科森林公園滑川モール歯科小田原めぐみ歯科保土ヶ谷西谷富士見おとなこどもeedd ハワイ王朝がアメリカの保護国という形で残っただけでも、太平洋戦争は様相を変えた
だろうね。ハワイ王が日米角逐の緩衝材になったはずだから てrびかな いちるいやくかな いちるいはてれびからだから てれびだ - さんのついったの|さんとしごとなかま?のひとのだっけ ZEP 有難う
飯塚 最後まで御馳走様でした
お家も時間も仲間 単純に土人国家だったろうな
白人の保養地になったから今がある
ポリネシアのほかの島々とおなじ感じ 唐澤貴洋(観光中に出したらハワイ観光終わるナリ…)
唐澤貴洋(そうだ、大声出して音をかき消すナリ!)
唐澤貴洋「ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」
ガイド「唐澤貴洋くん、ど、どうしたんだいきなり大声出して」
唐澤貴洋「なんでもな(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ)」
火山「ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ(噴火)」 ハワイのばあい原住民が疫病カタストロフで激減した広大な土地を、白人の移民集団が
埋めてしまったからな。多少の文明があっても、運命は変わらなかったかもしれない
西洋と接触した時点で30万人だった人口が、そのあと1世紀で5万人に転落したという プレ社会の文明度が高い地域は、併合されても
独自の国民意識を生みやすく、独立の根拠になる
旧インカ帝国の領域である南米諸国では、スペイン人
移民の末裔が、インカ帝国を自国の誇りとしている ハワイ王朝は白人との接触によって誕生したようなもので、
カメハメハ大王は火器と白人軍事顧問を調達してハワイを統一した
王室といっても現代アフリカとおなじで、出身部族を基盤とする軍閥の
トップの性格がまだ強く、早くから白人に権力基盤を牛耳られていた カメハメ波
曙ぐらいの頑張り
おや?夏川りみ 浦山
佐々木理江
飴玉 キャイーンかキャイーンじゃないか
誰も知らない ゴリも有難う 七割五分 アンカー一つの心使い
愛フォンからそう捲り
極めつけはあれ!捲り!
アンカーからありがう!!! ああ!!有り難や!!
SOMEWHERE FOR BEYONDから
頑張って行きましょう
スティーブン キング
インドも宜しく!! ポリネシア世界で、近代以降も独立と君主制を維持できたのはトンガだけ
小国だけど、12世紀から17世紀にかけては太平洋世界における帝国といっていい
ハワイもマオリも、トンガの一部だったらまた違った歴史があったかもしれない そうだろうね さかんかどうかだろうね いたるところで おもいつきそう 有難う
コテはあそこでにしましょう
あそこの宇宙ダイブ
映画みたいにかっこよくありません
秘密のコテ
有難う 最後の女王は、悲劇のヒロインといっていいのかどうか。旦那が白人、それも欧州貴族
なんてもんじゃなくアメリカの貿易商。併合される数え役満の、ダメ押し的な感じだ ハワイの王室は初代カメハメハの直系が絶えたあと、
選挙制で次期王家を決定。しかも王位をめぐる内紛では
イギリスやアメリカの援軍を引き入れて、鎮圧している
西洋が到来してから誕生した王権ならではの、特異な歴史 リリウオカラニは白人に、感情にまかせて正面からケンカを挑んで自爆した痛い人
かえってハワイ先住民を窮地に追いやった。最終的に負けるにしても、もう少し
やりようが無かったものかとは思う いちおう今でも、先住民のハワイ独立運動というのはやっている
だが人口で少数派になっている以上、マジョリティを振り向かせるための
デモンストレーション以上の意味は無いだろう 今は日系人を筆頭に、アジア系がハワイ経済を握っているって聞くな
とりわけ地主なんか、いつの間にか白人が排斥されてアジア勢が牛耳っているとか
白人地主が併合の音頭をとったことを思うと、それはそれで妙な空しさも無くもない 鎌倉時代にハワイに日本人(恐らく琉球人)が漂着したという
興味深い説があるが、どう考えても白人の創作臭くて萎える
無文字社会なのに、正確な西暦換算年が分かるのが痛すぎる 日本人によって文字が伝わっておれば、歴史がもっと鮮明になっていたのに残念 独立派のネイティブ・ハワイアンがホノルルにある旧王宮イオラニ宮殿を占拠して暫定政府宣言
ttp://native.way-nifty.com/native_heart/2008/05/post_35f2.html
9年前の記事だが、今でもこういう騒動が起こるものらしい
なおこの独立派は、武装はしていなかったとのこと ちなみにポリネシア世界で現代に至るまで王権と独立を維持できたのは、トンガだけ
トンガの覇権がもう少し強力だったら、ハワイもトンガに属していた可能性が微レ存
フィジーあたりは微妙な気もするが、サモアはもちろんハワイ・タヒチ・NZマオリ
は政治的にはトンガ帝国の一部になったほうが、アイデンティティを保てた気もする キャプテンクックのハワイ来航が1779年
カメハメハ大王によるハワイ統一が、それから16年後の1795年
カメハメハ朝の断絶が1872年
カラカウア朝ハワイ王国の終焉は、それから20年たらずの1893年
短命王朝だったが、そもそもあだ花だったという印象 結局ジャレル・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」が、ポリネシアの運命へのFA
蛇足だがダイアモンドは、イースター島文明の崩壊理由を「乱伐による森林崩壊」
と解析しているが、これについては近年、否定されている。真因は、イースター島に
人類と共にネズミが上陸し、天敵の居ない島で繁殖した結果だ。猫の有無が運命の岐路 ハワイと琉球は、ちょっと似ている。琉球も日本に併合されてしまった王国
むろん琉球は、ハワイと文化レベルがちがう。ハワイは、アイヌとおなじレベル
琉球の鉄器普及は11世紀以降。かなり遅いが、石器社会ハワイとは比較にならない
文字(ひらがな・漢文)の普及も13世紀以降
なお原始的な火器は日本より150年は早く、遅くとも14世紀の末に普及
船舶も中国のジャンク技術が13世紀以降導入され、急激に発展している
さらに常用・荷役を担う牛馬が居るのも、大きく違う。馬は11世紀に渡来したらしい
然るに中国への輸出品になり、競馬も盛んだった 馬と銃と鉄器と文字。南北アメリカ先住民と太平洋世界には無かった文明4点セット
あったら何か変わっただろうか? これは歴史の謎である
なお北米先住民とアイヌは、白人や日本人との交易を通し鉄器、銃、馬はすぐ保有した
ものの文字だけは、その存在を知ってからも自発的普及はかなり不活発だったといえる アイヌといえば、ゴールデンカムイが漫画界のホットな話題
アメリカでもディズニーアニメ「リロ・アンド・スティッチ」で、ハワイが題材に
なっている
ちなみに「モアナと海の伝説」は「ディズニー初のポリネシア系ヒロイン」という
触れこみだったが、「現代ハワイを除けば」という注釈を入れるのが、妥当だろう ハワイに王権が生じて、アイヌに生じなかったのは何故か? 考えてみた
そもそもアイヌ社会は半農半猟で人口密度が低く、季節ごとに移動する。定住社会に比べて人が離合集散しやすく、
家庭内においても個人の流動が激しかった。定住社会に比べ共同体の拘束力が弱い社会では、王権が自生しにくい
北米や北方ユーラシアの先住民も、アイヌとおなじ理由から王権が生れなかったのであろう
いっぽうハワイは閉鎖系の島国であり、高度な武器さえあれば統一王権が自生するのは自然な流れだったといえる
なお、彼らを母体としたステップの遊牧民たちは例外的に王権を自生したが、これは彼らが農民と同じく、家畜の
世話など組織的な共同作業や役割分担のため社会が固定化しやすく、かつ牧草地をめぐる抗争が激化したことや
農耕民王朝との緊張関係から、優れた軍事指導者を求める社会的欲求が強かったためだろう。馬の機動力もあって
農耕民王朝の大軍とも互角以上にはりあえたことが、王権誕生を促進したことは言うまでもない アイヌは、日本人との接触はもちろん中国沿海州と山丹交易を通しても、明らかに
文字の存在を知っていたはずだ。然るに、自発的な文字の習得・普及の形跡はない
王権が無い事と、教典を用いる宗教およびその拠点としての神殿(学問所の原型)が
なかったことが、大きいと思われる。シャーマニズムの世界では万事、口承で事足りた ハワイを含む太平洋世界の先住民には樹皮をなめした衣服しかなかったが、たぶん麻
や木綿の栽培は、平均気温の高さからみて可能だったろう。アイヌの生活圏がその手
の繊維原料を自生しなかったのに比べ、惜しい気がする
なおアイヌもポリネシア同様、樹皮を衣類とするが、より高度な紡績工程を経ている 常夏と思われがちなポリネシアも場所や季節によっては、夜かなり冷えるとか
毛皮とか綿製品の潜在需要も、それなりにあったと思う キャプテン・クックがハワイ発見者の栄誉を担っているのは周知のとおりだが、これ
はあくまでも記録上、という注釈が付く
1778年11月、2度目のハワイ訪問(初回は同年1月)を果たしたクックは、マウイ島
の王カヘキリが持っていた槍の穂先が、さびた鉄の刃だったことを報告している
つまり、クック以前の外国人の来訪は確実である。ただし誰だったかは、歴史の謎 カメハメハ一世の生誕年月日は、無文字社会のこともあり不明だが、
1736年〜40年の間というのが有力
ウィキペディア日本語版ではなぜか「1758年」となっているが、こういう場合は
英語版を信じるのが王道だろう (後藤明著「カメハメハ大王」より)
カメハメハ一世は雨季の11月に、ハワイ島の北西部コハラという土地でうまれた
かれが誕生したのは嵐の夜のことで、波乱の人生を予告するかのような雷鳴が鳴り響いていたという
事実かれは出生からして、スキャンダラスな伝承を持つ
カメハメハの祖父は、ハワイ島の王アラパヌイ。アラパヌイには腹違いの2人の王子がおり、1人が
アラパヌイ王の後継者となるカラニオプウ。そしてもう一人が、系図の上でカメハメハの父とされる
カラニクプアケオーウア。どうでもいいが、舌を噛みそうな名だ
さて、「系図の上で」カメハメハの父ということになっているカラニクプアケオーウアだが、奇妙な
ことに、実父は別だったという説がある。マウイ島の王カヘキリこそがその該当者で、カメハメハが
誕生するとすぐに、赤子を守るべく護衛の男2人を遣わしたのが、その傍証なのだという
(続く) 千葉県松戸市で超有名なバドミントンクラブの新スレです
【このハゲー】八ヶ崎バドミントンクラブって何?【違うだろ】
https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/gage/1505815941/
関係者ほか大勢の皆さまの書き込みをお待ちしております ちなみにゲーマーズ!のアニメのつづきは
11話の原作ルートでアグリとキス未遂
↓
マジキチ雨野弟登場で天道さんゲス原ワカメ妹の心を揺さぶる
↓
ワカメが雨野に自分がMONOのべであることと雨野が好きなことを告白するがフラれる
↓
修学旅行で雨野がアグリアグリのことを馬鹿にした男にマジギレ(ゲス原何もせず)
↓
天道さんがワカメ姉妹に揺さぶられる
↓
ダブルデート再び
2組キスしたあとカップル解消
↓
ワカメ妹が雨野てワカメとデートを提案、天道さん了承
↓
ワカメ妹の策略で雨野がワカメにも恋心を抱いていたことをワカメに知られる >>51続き。まずは前回の訂正から
>赤子を守るべく護衛の男2人を遣わしたのが
この部分は間違い。「赤子を守るべく王族の男を護衛として派遣した」に修正
また実父説のあるマウイ王カヘキリは、カメハメハの誕生を予知していたともされる
ともあれ。カメハメハが息子の実子でないと知ってか知らずか、祖父のアラパヌイ王は彼の誕生を不吉だと考えた
そのため、生まれたその夜のうちに彼は父母から引き離され、母方の一族であるナエオレに預けられ、匿われたのである
とはいえ岐阜県ほどの広さのハワイ島の中のこと、「父親」のカラニクプアケオーウアは、すぐ息子の居場所を探し当てた
しかしナエオレは、カメハメハが5歳になるまでは自分がハク(育て親)となることを、「父」に認めさせた。なぜそれが
通ったのかは分からない。一説にはナエオレが裏でカヘキリ王と繋がっており、カヘキリの介入があったためだともいう
ともあれカメハメハは生まれてすぐ両親と離れ、ひっそり隠れ住むという異様な雰囲気で育った。そしてこれがかれの名の由来でもある
すなわちカメハメハというのは、「孤独なやつ」という意味である >>54続き
1778年1月18日のこと。ソシエテ島を発ちアメリカへと向かっていたキャプテンクックは、ぐうぜん巨大な島影に出くわす
オアフ島であった。それがハワイ列島発見の端緒となる。たちまち先住民のカヌーに取り囲まれ、鉄器と食糧(魚やイモ)の物々交換が始まった
釘一本で、子豚が手に入ったという。なお、慧眼なクックは遠く離れたタヒチ語とハワイ語が、ほぼ同じであることを看破している
当初のうち先住民たちは何よりもまず鉄器を欲しがり、それ以外のものにはまるっきり関心が無い始末だったという
1778年11月26日。ハワイを再訪したクックは、マウイ島にて王カヘキリの訪問を受け会見するが、おりしもこの時、ハワイ島の王
もまた、マウイに上陸していた。なおハワイ島の王位はこの時期、すでに先代アラパヌイから後継者カラニオプウに移っていた
カヘキリの訪問からほどなくして、カラニオプウもクックの船を訪れている。彼は当時、カヘキリと戦うためマウイに来ていたのだ
30代のカメハメハも、伯父カラニオプウに同行してクックと相まみえた。クックは彼に強い印象を受け、こう書き残している
「頭髪を茶色の汚い油でべったりさせていたので、顔つきはいちばん野蛮だった。だが性格も良くユーモアセンスもある
立ち居振る舞いはやや威圧的だが、交渉団の中で中心的な役割を負っていた」 >>55続き
さて。ハワイ島に移動したクックはカラニオプウ王の肝いりで、当初は大歓迎を受ける
ところがクックは薪を調達する際、神殿の柵棒を引っこ抜く失策をしでかしてしまう
かれは司祭に三本の斧を渡して和解を図ったが受け取ってもらえず、またクックの部下が神像までをも
薪にしてしまったこともあり口論が増え、島民との関係はしだいに険悪になっていった
それでも2月3日、出航前日の時点ではカラニオプウ王から大量の芋・豚・羽毛・タパ(樹皮布)を贈られ、
歓声を背に船出することができた。なお、クックはこの時の贈与品が多量だったことに驚き、「トンガや
タヒチでも、これだけの捧げ物は無かった」と書き残している。ハワイ島が他に比べ広大なことの反映だろう
そのままクックはハワイ諸島の北西部を調査し、北極海に向かうつもりでいた
しかるに2月6日、ハワイ島の北西域カワイハエで強風に遭い、レゾリューション号のマストが折れてしまう
クックは元居たケアラケクア湾に戻っての修理を決定するが、それがこの偉大な探検家の運の尽きとなった >>57続き
2月10日。クックの船隊を、見事な羽毛マントを着けたカメハメハが訪問した
かれはマントと鉄剣の交換を申し出てきた。またそれ以外の鉄器(斧や大工道具)にも、強い関心を見せたという
結局、9本もの剣を得たかれは上機嫌でディスカバリー号に一泊した
翌11日、クックはケアラケクア湾に戻った。だがその時の様子は、以前とは一変していた。沈黙が支配し、一艘の
カヌーも寄ってこない。怪しんだクックが斥候のボートを派遣すると、「王はタブーに入っており会えない」と、
そっけない返事だった。島民の態度も豹変しており、友好的なムードではなかった
ともかくもクックは湾内で船の修理を始める。だが島民たちがこっそり接近しては盗みを繰り返し、これを制止して
取り返そうとする船員との乱闘も起こる。あげくカッター艇を盗まれて、クックの堪忍袋も緒が切れた。かれは王を
人質にとって、盗人を捕えようと企てる。これまでもクックは南太平洋の島々で、この手で何度か成功していたのだ
2月14日。クックは自ら上陸し、カラニオプウの家へと向かった >>58続き
クックはカラニオプウ王を自分の船に招待する。その一方でひそかに武装ボート3隻で湾を封鎖していた
クックの甘言に騙されたカラニオプウは護衛をひきいて岸に向かうが、そこに最悪の急報が届いてしまう
湾で待機していた武装ボートに、王族の一人が近づいて射殺されたのだ。謀略がばれて群集は大さわぎに
なり、槍や剣でクックたちを殺そうとする。クックら一行も銃で応戦しつつ、海岸へと逃亡をはかった
しかし海岸にたどり着き、砲撃をやめるよう帽子を振ったクックのスキを突き、1人の戦士が彼の背中に
ナイフを突き立てる。かくして皮肉にもクックが与えた鉄の短剣が、彼の命を奪ったのである。享年50
士官フィリップスは「その場で下手人を殺してクックの仇を討ち、然るのち泳いでボートに戻った」と主張して
いるが、真偽は不明である。指揮官を守れずに逃げた失態を取り繕うための嘘である可能性も、否定できない
ともあれレゾリューション号の備砲が島民たちに火を噴くも、クックの亡骸は島民たちに持ち去られてしまった
おそらく彼の遺体は、神殿で捧げられたに違いない >>59続き
クック亡き後も艦隊はなお数日間、ケアラケクア湾にとどまって艦砲射撃をおこない、クックの遺体回収を試みた
なおこの時の砲撃では、カメハメハも軽傷を負っている。しかし捜索は一進一退。4日後、王族の使者があらわれ
講和交渉となり、遺体の一部(右手首と下顎の無い頭蓋骨)が返還された。ただし、残りは王族に分配されていた
クックの死から9日目に、2隻の艦隊は出帆。カウアイ島で補給したあとカムチャッカ半島にむかった
さて。クックの死後2,3年目のこと。老境のハワイ島王カラニオプウは息子のキワラオーを、後継者にさだめた
甥のカメハメハは、軍神クーカイリモクの司祭に任じた。従兄弟キワラオーの、補佐役に配するための措置だった
しかしキワラオーとカメハメハは反りが合わず、王の葬儀の段取りをめぐって口論になったあげく、両者の仲は
決裂。カメハメハは故郷のコハラに帰ってしまう。そして1782年。2人の和解を見ぬまま、カラニオプウ王は死んだ >>60続き
新王キワラオーが王位につくと、コナ地方の首長などが土地の再配分をめぐって不安に陥り、カメハメハを擁立する
かくして内戦が勃発し、カメハメハがキワラオーを倒した。とはいえこの時点でカメハメハが掌握したのはハワイ島
の中でもコハラ、コナ、ハマクアの三地方だけであり、残りの地域はキワラオーの異母兄弟であるケオーウアが支配
していた。二人の間には緊張状態が続いた
この間にカメハメハは、2人の妻をめとっている。1人は、彼がもっとも熱愛したと言われるカアフマヌ。彼女の父
は、キワラオーとの闘いのときカメハメハを助けてくれた、マウイ島出身の首長ケアモクである
そしてもう一人が、宿敵キワラオーの娘であるケオプオラニ。彼女は母方から、マウイ島首長の純粋な血を受けつぐ
貴種でもあった。要するに政略結婚である。ケオプオラニと、彼女にとっては父の仇でもあるカメハメハの間に生ま
れる子供は、王族における最高ランクを約束されていた。事実、二世は彼女の胎内から生まれることになる
そのため、カアフマヌはカメハメハの寵妃とよばれる一方で、ケオプオラニは聖なる妻と呼ばれている >>7
阪口さん、妬みですか?勉強解らないから世の中解らないでしょ。 >>61続き
1788年12月6日、イギリスの船団がハワイ島ケアラケクア湾に投錨した。カメハメハは12隻のダブルカヌーをしたがえ、
船長ダグラスと会見。しかもこの船には、海外を見聞して帰国したカウアイ島の王子カイアナが同乗していたのである
王子はカメハメハと旧知の仲で、カメハメハはカイアナとの再会を喜んで涙を流したという
なおカイアナ王子は海外見聞を希望し、昨年、英国船に広東に連れて行ってもらっていたのである
かれはその地で火器、とくに大砲の操作法をマスターした。だが貨幣の利用法は、ついに理解できなかったという。また
中国人に対しては、そのヘアスタイルや無表情な様子に嫌悪を示したとのことである
ともあれカイアナは、カメハメハから「カウアイ島の王カエオが、おまえに敵意を持っている」と知らされ、大量の火器を
手土産に、カメハメハの領土に留まることにする。ダグラス船長も協力し、カイアナの妻子と弟ナマケハをハワイ島に護送
してくれた。さらにカメハメハはダグラスから、回転砲を入手。ダグラスの部下の船大工が、大型カヌーの甲板に装着した そうだなー とうろくったけどさ はこだいとそうりょうでせんえんましなんだやめたのが
まいいや とうぶんとったらか
でもできたら いいめのwがしがなー ぶつぶつ
うん 野菜ジュース わrだかなきがする 感だけどさ ぐいぐいのむけどね >>64続き
かようにカメハメハが火器武装に必死だったのも、すでに他の首長らが別の西洋船と接触し、火器で軍備を刷新していたから
である。1786〜87年にかけてカウアイ島の王カエオはかつてクックの部下だったディクソン船長と接触し、多くの火器を入手
していた。カメハメハの実父説があるカヘキリ王も、いまやマウイとオアフ両島を掌握。かれもまた、西欧人と積極的に接触
して西欧文明の利器を獲得し、山の上に輸入品用の倉庫まで建設していた。早くも1789年には、ジブ(船首の三角帆)つきで
二本マストの洋風帆装のカヌーを造っており、白人水夫をして西洋船と誤認させるほどであったという。カヘキリもまた火器
時代に入って風雲急を告げるハワイ諸島の、天下統一を狙っていたのである
ともあれ西欧文明を即座に導入するハワイ人の進取の精神は、タヒチなど他のポリネシアの島々と比べても白人の航海者に
強い印象を残したものらしく、当時の航海者の記録ではくりかえし指摘されている
なおダグラス船長は1789年7月、親友カイアナ王子から「敵対部族に、船の襲撃計画がある」と聞かされ、中国に出帆した >>66続き
さて、マウイ島の王カヘキリの勢力拡大は続き、オアフ島ばかりかカウアイ島にまで及ぶにいたっていた
これに対しカメハメハは1790年に軍を動員、マウイ島に上陸する。両軍は名勝イオア・ニードル付近で激突した
河は血潮で赤く染まるも、形勢はカメハメハに有利であった。しかしこの時、本国のハワイ島で宿敵ケオーウアが
カメハメハの領土を攻略しているとの報に接し、かれはやむなくハワイ島に帰島する
カメハメハの本隊が反攻に転じると、ケオーウア軍はあえなく退却。しかもこのとき偶然キラウエア火山が噴火し、
ケオーウア軍は溶岩流の災厄まで受けて虫の息となった。だがカメハメハがとどめを刺そうとした時、こんどは
マウイ島の軍が、ハワイ島北岸に接近しているとの急報を受ける。カメハメハは直ちに転戦し、辛うじて水際での
撃退に成功した。このとき両軍の船は、白人から得た大砲を装備している。即ち、ハワイ初の本格的な海戦だった そっかー わからないこともなんていうか ろまんじゃない? >>67続き
その後4年間にわたり、カメハメハとカヘキリはにらみ合いを続けることになる
ちなみに、カメハメハ艦隊の艦載砲を指揮していたのは英国人デービスとヤング。2人はカメハメハの軍事顧問でもある
彼らがカメハメハの幕下に参加したのは、偶発的事件が契機であった。1789年冬、ハワイ島のオロワルに到来したアメリカ船
2隻が住民とのトラブルのすえ銃撃で多くの住民を殺してしまい、翌年3月3日、現地の首長カメイアイモクの巧妙な作戦で迂闊
に岸に誘導された1隻が襲撃される。若い船長は海に突き落とされ、生き残った船員は一人だけだった。それがデービスである
僚船の最期を見た残る1隻の年配の船長は、すぐ出帆する。なお2隻の船の船長はともにメッカトーフといい、父子関係である
が、こちらの船からも一人だけ乗組員が残留した。それがヤングである。彼の残留が、特命によるものか脱走かは不明である
デービスとヤングは首長カメイアイモクの手中に落ちるが、首長の行動を良しとしないカメハメハが、2人を保護したのである サイト歯科相模原日吉サンテラス歯科藤沢なのはな内科スマイル歯科アイ整形外科亀有リリオ歯科八王寺アクロスみなみの歯科足立ハート新宿くろさか歯科熊本ファミリー歯科桜台歯科森林公園滑川モール歯科小田原めぐみ歯科保土ヶ谷西谷富士見おとなこどもeedd >>69続き
1791年5月、メットカーフ父子とは別のアメリカ船がハワイに来島。カメハメハとカイアナ王子は同船の船長イングラハムと
贈答の交換を行い、マスケット銃を受け取っている。しかしこの時、カメハメハが船室から辞してカイアナ王子だけが残る
瞬間があり、そのとき王子が「カウアイ島に行くなら、同行したい」と呟いたことがイングラハム船長に、強い印象を残した
「カイアナは、出身地カウアイ島の軍に合流し、カメハメハと対抗しようともくろんでいる」と、船長は看破したのである
ともあれメッカトーフ船長が襲撃された事件のことはイングラハム船長も調査して手記を残しており、その余波であろうが
カメハメハの彼に対する態度にも不自然さがみられた。イングラハム船長はカメハメハの誘いを断り、沖合にとどまった
さて。カメハメハはコハラに、神殿を造った。その名もプウコホラ・ヘイアウ。人身御供をおこなう戦争用の神殿である
その上で「講和しよう」と偽って宿敵ケオーウアをおびき寄せ、カヌーに乗って訪れた彼を、儀礼用の神聖な槍で突き殺す
時に1791年。かくてハワイ島は再統一され、新築神殿のクーカーイリモク神は、その格式にふさわしい生贄を得たのだった >>71続き。なおその前に>69、>71の誤記を訂正。「メットカーフ」と「メッカトーフ」が混じっているが、前者が正解です
1792年3月2日、英国の提督ジョージ・バンクーバーが、再統一されて日も浅いハワイ島の西海岸を来訪する
当時、カメハメハは宿敵ケオーウア亡き後の土地再分配で忙しく、東海岸に滞在中だった。そのためバンクーバー提督との
折衝には、広東帰りのカイアナ王子が当たることになる。ところが彼はこの時、英語をすっかり忘れてしまっていたという
カイアナは例によって火器の入手を試みるが、提督はこれを拒否。代わりにブドウやオレンジの苗木を贈った。なお、この
時カイアナは自らを「カメハメハと同格の王だ」と偽り、「ハワイ島六郡のうち、南の三郡は自分の国だ」と主張している
バンクーバー提督は次にオアフ島のワイキキを訪問する。折しもカヘキリ王とカエオ王が、カメハメハの侵攻に備えて躍起
になっているとの情報にも接した。続いてかれはカウアイ島に向かい、ワイメア湾に一週間ほど滞在する
このときバンクーバー提督の船には王族イムナウ並びに、カエオ王の息子カウムアリイが訪れている
カウムアリイ王子は当時12歳。30人の従卒をしたがえ、自らは鉄の剣を帯び、13丁のマスケット銃と弾薬を装備していた
弱年のカウムアリイ王子の利発さは、英国の提督を感銘させた。彼の聡明さについては、他にも複数の西欧人が記述している
バンクーバー提督は、この航海ではカメハメハに会うことなくハワイを発った。なお提督が去った直後の3月7日、英海軍の
貨物船ダエダラス号がオアフ島に上陸したところ、ハーゲスト船長をふくめて3名の乗員が殺害される事件が起きている