大江戸とやっこ(奴鰻)の関係は謎。

やっこの説明はシンプル。HPで寛政年間(1789〜1801)に田原町で創業としている。
1824年の史料に奴のロゴで浅草田原町の草加屋吉兵衛の広告があり、1848年にも草加屋吉兵衛、それ以外の史料では1815年以降奴鰻、やっことあり、同一の店舗と見做せる。
経営は戦後間も無く引き継いだそうで、1904年〜1935年は榊原吉兵衛氏、2014年2015年に矢野昌宏氏とある。

一方、大江戸の説明は上記との整合性を取りづらい上、少しずつ変化している。
1. 現在のHPでは、1800年蔵前で初代草加屋吉兵衛が創業した後、日本橋へと移ってこの地でずっと暖簾を守ってきたとしている。
2. Bridgine 2019.03.07で10代目の涌井浩之氏は蔵前の話の後、1946年から現在の場所で営業、江戸末期の官軍と町民の争いを鉄灸を背に通し追い払って奴鰻と呼ばれ屋号になった時代もあったとしている。
3. dressing 2018.07.14で浩之氏は、1800年の中頃には田原町に移転した、支店もあったが戦争で取り壊された、戦後まもなく現在の場所で小さく商売を始め、父の代に現在の店舗としている。
4. まち日本橋2014.11で9代目涌井恭行氏は、1802年初代が長逝、田原町を経て初代の出身地へ戻り、1946年に現在の地で商いを始めたとしていた。

4.から1.までを比較すると、大江戸が田原町を経たという説明はトーンダウンしたように見える。
奴鰻の名が早期にあった事を考えると2.も悩ましい。
3.に見える建物の写真も、新撰東京名所図会第56編(浅草区之部其3、明治41年6月20日)の「やつこ蒲焼店」である。

なお明治大正の美談に、日本橋薬研堀の鰻屋の草加屋安兵衛の娘が松平定信に仕えたとある。真偽も正確な時期も不明だが、もし初代忠兵衛が日本橋出身ならこの店か。なお当時は移転すると初代になるはず。

ある番付では草加屋が蔵前・田原町・稲荷町にある。この発行年は不明だが1850年頃〜1868年と考えられる。稲荷町には1848年にも草加屋長八と記されている。
仮に大江戸がこの蔵前の草加屋に由来したとしても、戦後の大江戸に繋がる店を見つける必要がありそう。