[北海道の殖民軌道 聞き書き集 今井啓輔著]という本に、日曹炭鉱専用鉄道と平面交差する軌道についての非常に詳しい記事があった。
その内容は驚くよりほかはない。
また、実は私は「日曹豊富炭鉱」と認識していたのだが、それが誤りであることも判った。[日曹天塩炭鉱]が正しい。
その点についても述べたい。二つの問題の原因が絡み合うので同時に扱いたい。

宗谷本線豊富駅を起点とし、途中豊富温泉を経由しつつ向かう日曹鉱業専用鉄道の終点は「天塩炭鉱」。
一方で専用鉄道の途中駅[駅逓]から接続する762mmの専用鉄道の終点にあったのが「開発当初は豊富鉱山、後に改め赤松炭鉱」。
日曹炭鉱専用鉄道はしばしば、豊富炭鉱鉄道と呼ばれていた。

事情がよく判らないのだが、豊富では炭鉱の名前を被らせたくはなかったのか。
芦別では同じ地域に三井芦別と三菱芦別が同時に存在していた筈ですが、豊富では隣接する鉱区が「三菱豊富」と「日曹天塩」と別れた。
三菱は3年余りで操業を諦め撤退し、その後に赤松なる事業主が引きついて赤松炭鉱と名を改め昭和28年、操業再開する。
つまり三菱撤退の時点で豊富炭鉱を名乗る存在はなくなるのだが、だからといって日曹天塩が改名するわけではない。
豊富炭鉱鉄道と多くの人に認識されていた専用線の終点にあるのは「日曹天塩炭鉱」。

日曹天塩炭鉱専用線の建設時点では植民軌道「幌沼線」が全区間営業していた。全通は昭和11年のこと。
この幌沼線も名称の変化が多くてややこしい。
全区間通しての客貨は少なかったのか、昭和23年に南半分が先に廃線となる。しかし北側は植民軌道沼川線として営業継続。
南半分も、軌道は撤去されなかった。どうも行政が関与を止めたのが昭和23年ということらしい。
道路もないし、沿線住民による台車の運行は続いたのではないか。
いよいよ撤去されたのが昭和27年のこと。
翌昭和28年に操業を始めた赤松炭鉱は、日曹線との平面交差部から赤松炭鉱までの間の廃線敷を利用して線路を再敷設し運行再開。
植民軌道は馬力で機関車は入らないのに対し、赤松炭鉱専用線は最後はガソリン機関車が入ったそうなので線路の造りが違うのだろう。
昭和38年ごろまで赤松炭鉱専用線の線路は残っていた。

以上、まとめでした。