[鈴木g3蒸機好き出入禁止]【HOn3-1/2 HOm】1/87 12mmスレ【HOj HO1067】 -12- [無断転載禁止]©2ch.net
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:----: EXT was configured キット、パーツ等だいぶ手に入りやすくなりましたし 待望のプラ客車も・・! 楽しんでまいりましょう。 【注意事項】 他規格批判スレッドではありません。 他規格(16番、13mmなど)に対する批判や否定的な書き込みは厳禁です。 また他規格狂信者の荒らし煽り行為は徹底無視でお願いします。 作れないものには作れなかった合理的な理由が千もあると思って良い。 サザンパシフィック鉄道の使う重油は重油でも一番重いクラス。 一つ上がアスファルトという重さ。だから液体だと思ってはいけない。アスファルト同様に捨て場所のないゴミなので燃料に採用された。 使用後の蒸気をテンダー内に引き込んで重油を加熱していた。 その昔、国鉄もアスファルト輸送用貨車を持ち、積み下ろし用にバーナーを2本もつけていた事を思い出して頂きたい。 加熱してようやく流動性を出して、特殊なポンプで圧送していた。 だから、液体といえば液体なのだが・・・w パイプライン的な送油管を想像している場合は、様相は違う。 一方で我が国鉄が石炭液化にご執心であったことは、あまり知られていない。いつまでも実用にならないから今がある訳ですけど。 隙がないような「作れなかった壁」にも、お話を広げるひび割れはある。 書いた後に思ったけどサザンパシフィックの円筒形テンダーは、ボイラー並みとまではいかないまでも接近すると温もりを感じたはずだよね。 完全に冷えてしまうと体積が変わるので、中で割れる音がする筈だ。 保存鉄道にあるんだろうか。重油は石炭より厄介に思える。圧送する管の中で冷えたらどうやって取り出すんだろうか。重油は石炭よりも水よりも遥かに厄介な代物ですぞ。 似たような燃料を貨物船が使っているけど船体内の空間が大きいので、構造に無理はないと言われる。排気管で温められた重油は重力で落ちてくるだけらしい。 大型キャブフォワードがSP以外に広まらないのは燃料がゴミとして入手できるかどうかという地域性以外に、案外面倒臭い代物であったという疑惑が出てきたぞ。 同じ地域を走るサンタフェなども燃料は入手可能なのだから。 >書いた後に思ったけどサザンパシフィックの円筒形テンダーは、ボイラー並みとまではいかないまでも接近すると温もりを感じたはずだよね。 円筒型の炭水車というのはホエールバックテンダーでしょうか? >保存鉄道にあるんだろうか。重油は石炭より厄介に思える。圧送する管の中で冷えたらどうやって取り出すんだろうか。重油は石炭よりも水よりも遥かに厄介な代物ですぞ。 圧送管は二重構造になっていて蒸気を循環させる構造になっている可能性があります。 蒸機現役時代の末期にはユニオンパシフィックのFEFやSNCFの141R等重油専燃の蒸機も多数運行されていたようですね。 またC重油はユニオンパシフィックでもガスタービン機関車の燃料として一時期使用されていたそうです。 後にオイルショックや石油化学産業での原料としての用途が見いだされた事もあり値段が上がり経済性が損なわれたようです。 そういえば復活したビッグボーイは軽油を燃料として使用しているそうですね。 送風機の探求から派生した話。 凸電の、機械室を簡単にセンターからずらして置いてしまう癖はなぜなのだろう? そして凸型ディーゼル機関車には同類が見当たらないのはなぜ?? 機械室というのは凸電の車体中央のキャブから突き出た部分を指します。 凸電を凸電たらしめる部分ですね。 東濃鉄道の電気機関車。ED1000型。この機械室が車体中心線上にないと言われるが、写真から判断できるだろうか?? 原因はキャブ妻板についている乗務員扉で、通行できる幅にするために機械室を端に寄せた。 似た様なサイズ感の類例が近江で最期を迎えたロコ1100型で、これはもうはっきりと片側に寄せていることがわかる。 近江の例ほど幅が広い乗務員扉を設けてもらえば納得するしかない。 振り返って東濃を見ると、乗務員扉も狭い。キャブ前後の機械室の食い違いが目視では判らない。 なぜそこで妥協したんだろう??もっと大胆に寄せればイイのにと形状の理屈が判らない。 もっと判らないのが伊賀電気鉄道の機関車、近鉄デ8型。 いわゆる川崎製凸型の始祖ですが、この小さな鼻先のような機械室がセンターにない。 乗務員扉を避けて、偏っているんだそうです。 そうなると小田急ED1010型はどうなっていたんだろう? 右側運転台で乗務員扉の位置が違う西武E21型はどうなっていたんだろう?? 岳南に現存する同形機を誰が、実測して欲しい。 次の問題は、凸型が多い中型小型のディーゼル機関車で寄せた例を全く耳にしないこと。 DD13型など乗務員扉が狭そうではあるが、気にはならないのか。 重油用テンダーにはチューブタイプなど色々な形があります。 会社により呼び方が変わることもあるようです。 ホエールバックはSP固有の蒲鉾型の奴ですね?平らな床板があり台枠を持つタイプ。 私には長所が今一つ掴めない形なんですがw 容積が減って工作が難しくなるだけでは? 模型にすると面白く、乗工社ミニランドが有名ですね。 米国型模型には色々と緩い部分がありまして、異形のテンダーだけの単品製品が出ていました。 最近でもバックマンなどは重油用円筒形テンダーの単独製品を出しています。 付け替えて遊べということで、USRAなどの定番機関車もテンダーで雰囲気が変わりますからね。 私はホェールバックが意味不明なところが大好きで、中古市場で単品を見つけ次第求めていた時期があります。 米国型模型は元々緩い考え方が支配的で、韓国製ブラスモデルの固有番号の追及っぷりが異常でした。 ディーゼル機関車も中華製は車体を会社ごとの作り分けを徹底して先行するカトーの追い落としを計ります。 カトーも最近は細部の作り分けをアッピールしないと売れないみたいです。 ひと昔前は沢山あった加工用パーツ市場が静まりかえっています。完成品が出れば皆それを買うからね。 線路に載せるたびにテンダーを選んで付け替えを楽しむ程度に緩い遊び方が、私には合ってます。 重油燃料は難しいですね。Wiki見ても粘度の定義の幅が、液体以下アスファルト以上と大き過ぎる。 どれぐらいドロッとしたものを使用していたのか、動画が見つかれば良いのですけど。 >重油用テンダーにはチューブタイプなど色々な形があります。 チューブタイプというのはヴァンダービルト式とは別なのでしょうか? >ホエールバックはSP固有の蒲鉾型の奴ですね?平らな床板があり台枠を持つタイプ。 >私には長所が今一つ掴めない形なんですがw 容積が減って工作が難しくなるだけでは? >模型にすると面白く、乗工社ミニランドが有名ですね。 かつて東海道線で特急つばめで使用されていた水槽車ミキ20形もホエールバックに似ていますね。 入れ替えやバックで運転する時に後方の視界が良い事が長所でしょうか? >どれぐらいドロッとしたものを使用していたのか、動画が見つかれば良いのですけど。 製油の残渣で温度によって粘性が変化するようで糖蜜状だったとの説もありますね。 チューブというのは会社によってはソーセージって呼ばれる事もあったらしい。 バンダービルドは大手私鉄三社を束ねた資本家が統一形式を出そうとして採用したテンダーで、機関車の方は上手く行かないこともあったけどテンダーは普及したので名を残した。 1日おきの同じ様な時間帯に交互に書き込まれるの、面白いですね >>482 >バンダービルドは大手私鉄三社を束ねた資本家が統一形式を出そうとして採用したテンダーで、機関車の方は上手く行かないこともあったけどテンダーは普及したので名を残した。 そのような経緯があったのですね。勉強になります。 >>475 >一つ上がアスファルトという重さ。だから液体だと思ってはいけない。アスファルト同様に捨て場所のないゴミなので燃料に採用された。 揮発性の可燃ガスがある時点で別にゴミではないし、重さと粘度も関係はない。 >>746 >完全に冷えてしまうと体積が変わるので、中で割れる音がする筈だ。 アスファルトではなく重油の、融点を何度だと想定してます? >>481 >製油の残渣で温度によって粘性が変化するようで糖蜜状だったとの説もありますね。 融点を越えれば大抵のものは温度が上がると流動性も上がるものなのだが、 何か例外ってありました? まず、なぜ喧嘩腰でないと発言一つできないのだ? 原油の採掘が始まったころのアスファルトは使い道のないゴミでしかなく始末の悪いものだったのだよ。 それを道路の舗装に使おうというアイデアが後から出てきて初めて商品価値が出てきたのですよ。 アスファルトと重油の境界線上にあるような、重油としては使い道に困るような重い液体を機関車の燃料に使おうとしたのですよ。 石油の知識はあるようだけど歴史的な知識が、あなたには不足してないかい? あとさ、鉄道会社は経費にすごく敏感であるわけですよ。 バーナーで加熱すれば良い、で終わる問題じゃなくてバーナーの燃料が勿体無いから減らそうとか、何度に保とうとか真剣な検討があって当然なんです。 熱すればいいというところで終わってほしくない。キャブフォワードの火室までどうやって運んだのか。どうやって火室にとうじたのか。 そこまで考えての発言とも思えないものが、なぜ喧嘩腰なの? 今の時点では石油の商品化も限界に達し何もかも商取引の対象になって、だからゴミ呼ばわりに納得行かないんだろうなとは思う。 でも道路の舗装を開発した人はタダ同然のゴミが使えると知って商品化に動いているんですね。 蒸気機関車だって重油採用の前に、こんなもんどうやって使うんだという段階があったわけです。石油の歴史から見てもそういう時期ではありませんか? だからキャブフォワードを語る時にゴミの有効活用という話題になってくるんですよ。 ところで、 JNRのC59127は、どんな重油を焚いていたのだろうか? >>486-488 石油の知識が無いらしいあなたは喧嘩腰でないと発言一つできないのかね? >>487 >熱すればいいというところで終わってほしくない。キャブフォワードの火室までどうやって運んだのか。どうやって火室にとうじたのか。 >そこまで考えての発言とも思えないものが、なぜ喧嘩腰なの? アスファルトではなく重油なのだからポンプ使えばいい。 粘度に問題があるなら加熱が必要になるだろう。 コストに問題がというならば軽油なりガソリンも選択肢になるだろう。石炭も選択肢だ。 オタクはなにも考えずに話を難しくしようとしているだけなの? なぜそんなに喧嘩腰なの? >コストに問題がというならば軽油なりガソリンも選択肢になるだろう。 重油よりも高価な軽油やガソリンが選択肢になるのでしょうか? >石炭も選択肢だ。 長大なトンネルのあるSPでは機関助士の労力を軽減するために重油燃焼が採用されたそうです。 沿線に油田があったことも要因だそうです。 またキャブフォワードの燃料は焚口が前にあるので流動性のない石炭は選択肢になりません。 いま稼働状態にはなくなったものの技術的な話をしているのだから、過去の話が主になるのは当たり前でしょう。 いまの石油の知識を持ち出して何になるというのだろう。ガソリンが候補になると本気で考えているのか。 大人同士の会話に口を差しはさみたがる子供のようだ。ご指摘の通り、難しい話がしたくてしているのです。 簡単に答えが見当たらず、想像で補うよりほかにないような話です。 子供のような割り込み方を喧嘩腰とは言いませんでしたね。失礼しました。それは幼稚というのでしたね。 ホェールバックと言えばSPの18号機が復活しましたね。現存することは知ってはおりましたが、まさか復活するとは思いませんでした。 独特のテンダーが行き来する動画が公開されてますから探してみてください。SP 18 だけで動画検索できます。 本当にソーセージのようなチューブタイプは鉄道模型でクマタ製造と思われる小型機を見て思わず購入したことがあります。 余り姿を見てないので製造数は少ない筈。模型で満足して実物の正体も追及してません。 サイズ感はいわゆるソーセージで、フランクフルトではない。用が足りれば格好良さなど関係ないという割り切りぶりが凄い。 極限まで追求したタキ43000型のようなテンダーも可能性はあったのでしょうけど、それより先に蒸気の時代が終わったのでしょう。 アメリカ人はロコモティブとエンジンを使い分けており、機関車の事をエンジンと呼んだ時にはテンダーを含まないそうです。 エンジンとテンダーの間は棒連結器のようなもので半永久固定されているかと思うのですが、別の車両という意識が強いようです。 つまり、それぐらいテンダーの付け替えを常に行っていることになります。 列車の写真を見ていてもよく判りませんが、ロングタイプとショートタイプがあるようなことは普通の模様。 ペンシルバニア鉄道やサンタフェ鉄道で特にみられたそうです。 >>493 >ご指摘の通り、難しい話がしたくてしているのです。 あなたは簡単に言える話を難しく言ってるだけでしょ。 >想像で補うよりほかにないような話です。 あなたの想像力が大人同士の会話に口を差しはさみたがる子供のようなだけでしょ。 >>492 >重油よりも高価な軽油やガソリンが選択肢になるのでしょうか? コストを考えた結果が重油ということでしょう。 あと、日本のガソリンスタンドで売っているガソリンは税金が半分くらい(うろ覚え)だから、 日本の値段の感覚とはちょいと違うよ。 重油と比べて安くなるってわけではないが。 >長大なトンネルのあるSPでは機関助士の労力を軽減するために重油燃焼が採用されたそうです。 煙対策の意味も大きかったらしい。 >またキャブフォワードの燃料は焚口が前にあるので流動性のない石炭は選択肢になりません。 石炭を選択肢にあげる以前に、重油だから テンダー機関車でもキャパフォワードが設計できたんじゃない? >>494 アメリカの模型のカタログではテンダーだけ売ってたりしますよ。 本体とテンダーは一体という認識は薄かった模様。多分、テンダーだけ付け替えて変化を楽しむ人も多かったのではないでしょうか。 子供の頃はそんなカタログを見て「テンダーだけ買わせてどうやって遊べというつもりなんだ?」と 思ったものです。 >>496 見えるよ もう何度も小学生扱いしてんのに、まだ理解してなかったのかw 熊谷組の草創期の話として三信鉄道が重要だと思うが、余り流布していないな。今どきの価値基準では受け入れ難いためか。 引き受け手がいないほどの難工事と言われるが、現場から語らせると必要なお金が下へ流れてこないという事。 それで現場を高効率で廻して開業に持ち込ませたことが「手腕を評価されて」熊谷組設立へと至る。 評価される価値基準が今と違・・・わない。アマゾンの倉庫係の労務管理も似た様なものだ。 熊谷独立の動機を深読みすれば、元受けである飛島建設が現場監督をバックアップ仕切れなかったことへの不満が疑われる。 飛島は精一杯支援したつもりでも現場を仕切る熊谷の立場からは許せる限度を超えていた。 現場を終わらせる力量が買われて熊谷独立へと向かうのだが、表面的には仲良く暖簾分けの体裁をとる。 作家葉山嘉樹氏の「万福追想」(青空文庫で無料で読めます)など露骨に三信鉄道の飯場を描いている。凄まじい描写に言葉を失う。 その飯場に熊谷という現場監督は姿を現したのか。葉山氏は現地で働いていたのだから監督を知っている筈だ。 さらに川村カ子トは版場にどう関わっていたのか。wikiの記述は美談仕立てであるがゆえに鵜呑みには出来ぬ。 仮にそんな扇動をしたと知れたら大事になるし、現場の工事は止まるだろう。殺人未遂で大量検挙となるからだ。 美談と「万福追想」の間の落差が、いずれかが噓つきだと証言する。川村を助けたという監督が熊谷さんだったら桁外れに面白いのだが。 熊谷組設立に向けて資金が集まることと「万福追想」は、悲しいことに内容が矛盾しない。 しかし川村カ子トのwikiの美談とは矛盾する。川村カ子トは熊谷に雇われた現場監督であった筈だ。そして地位と立場を貫いて現場を去った筈だ。 どうも、検証不能であることを逆手にとって美談でアイヌと朝鮮人労働者を接着したかった輩がいるようだ。 川村カ子トの生涯を美しいものにするためには、三信鉄道の現場監督という経歴の言い訳をせねばならぬ。 たとえ無力であったとしても記録を残した葉山氏の姿勢のほうが、真摯な姿勢であり価値が高い仕事だ。 万福追想に引用すべき部分があった。 以下引用 もし、人が、誰だつて構はないが、同情、博愛、共存共栄、社会主義と云ふ風な美徳を帯びて、その上、その美徳を単なる装飾の範囲から、 実行の域にまで移したいと云ふ熱意に燃えてやつて来るならば、工事場には来ない方がいい。 どこにも行かない方がいい、とは、私は思はないが、少なくとも工事場に来ても、法がつかないと云ふ事を発見するのが落ちであらう。 引用終わり Wiki川村カ子ト氏の項目の美談を創作(言い切る)した奴に読ませたい。 出典リンクを遡ると公益財団法人 アイヌ民族文化財団へ飛んだ。だからこういう団体は嫌いなのである。 野上電鉄の戦前に闇がありそうで探ってみたけれど別に後ろめたい?部分は無かった。 高野山を目指すなどと言い出すから惑わされる。本気度が判らない。 どういう性格の会社だったんだろうか。 近鉄の旧吉野の電機(51・52)、スイス製かと思たら、国産だったんだなw 輸入機スレと間違えたのではないか。 吉野鉄道は、面白いですよね。話題の宝庫。 凶悪なヤクザとヤクザのシマの間という立地運の悪さ。この時点でもう面白い。 樫原神宮と吉野神宮。この二つの巨大神社の建設が周辺の私鉄を寄せ集めました。 吉野鉄道もまた帝国の熱気に踊らされた会社の一つでしょう。 当初描いたようなデ51型牽引の旅客列車は遂に実現しなかったという見解が有力ですが。 つまりはそれぐらい、踊らされまくった会社であり、浮かれたハレの日の電気機関車でした。 >>512 > 樫原神宮と吉野神宮。この二つの巨大神社の建設が周辺の私鉄を寄せ集めました。 橿原神宮、ね。 きょうぼくはまちがえましたが、あやまらないですませました。 ディアゴスティーニが1/87 あれは使えるんじゃね? キハなんか特に 改軌して 久しぶりに紙の本を買ってしまった。 重くて邪魔なものだな。 >>179 激亀で申し訳御座いませんが 先日、仕事の合間に名古屋の鶴舞図書館に行く機会があったので 中日新聞社の “せとでん100年” 探しましたが、ありませんでした(泣) こんど愛知県立図書館(旧堀川駅の近く…まぁ関係ないけど)へ 行く機会があったら、探してみます。 鶴舞では他の資料が見られたので、まぁいいか。 フォトパブリッシングの “名古屋鉄道の貨物輸送” は読み応えがありますね。 なかんづく、DED8584・8589が気になったので。 (模型ではDD12は持ってませんが、バックマンのGE44トン機なら持ってますw) ご存知でしょうけど44トンの由来。 第一世代ディーゼル機関車では各社から44トン機が出揃っておりました。 それはワンマン運転が認められる上限が45トンであったため。ディーゼル機関車は釜炊きが要らないので会社側はワンマン運転に注目する訳ですけど、当時の米鉄道業界は花形産業で労組が強い。 連邦政府を巻き込んだ調停案が45トンで、重量から牽引力も限界があるので幹線列車のワンマン化はとりあえず阻止できた。蒸気機関車の恐竜的進化は続く。 各社から出揃った44トン機というのはワンマン運転に特化した存在であり、制限が無くなってからもそういう印象が強い。 制限がなくなるとエンジンの巨大化が優先され機関車はL字型になってゆく。 アメリカなのにキャブが中央にあり、しかも床が高いことが各社の44トン機に強く見られる傾向。 日本がDD51まで44トン機の影響下にあったことは面白い。 シングルエンジンの方が良いことはわかっていたと思うけど、作れなかった。 DD12型は44トン機の発展型で、確かヨーロッパにも送るので車両限界からキャブを低く下げたもの。 重量制限がないので45トン以上の自重があるはず。 エンジンはキャタピラー社製で、軍用にも使われるタイプだった筈。国鉄機になってからも部品は簡単に入手できたらしい。 シレジア地方 ドイツに感情移入できない原因は、知り過ぎた日本と違い近代史の知識が全くないから。 たびたびシレジアという地名が出て来たが、ドイツ内で場所すら判らず何の感情も沸かない。 少し調べたよ。 現在は全域がポーランド領で、オーストリア国境に近い南西の、サツマイモのような形のエリアだった。 そういえば戦前のドイツ領域図で中枢部から東へバルト海沿いに突出した領土の他に、東南方向にも別の脚が出ていたぞ。 その、東欧へ突き出たドイツ人の脚がシレジア地方。 ただ、ドイツ人エリアとも言い切れないらしい。ドイツナショナリズム高揚前は、近所のポーランド語話者が多く住むエリア。 中世末期にオーストリアハプスブルグ家とプロイセンの間で係争地となり、プロイセンの領有となる。 この時にポーランド語方言を話す多数派農民被支配層とドイツ語を話す上流階級支配層という図式ができ、紛争の種となる。 第一次大戦後にドイツの領有が争われた辺境地域の一つとなり、帰属意識について母語を異にする住民間の対立が激化。 埋蔵資源として石炭が注目されたこともあり、ポーランド系住民の幾度かの武装蜂起をドイツ人は弾圧して凌ぎ切る。 ポーランド系住民への弾圧、アメリカなど他地域への転出とドイツ系住民の移民が続き、人口構成も変わる。 そして第二次大戦。戦後にオーデルナイセ線によりシレジアのポーランド帰属が決定。 ロシアは戦前のポーランド東部をベラルーシとして分捕り、代わりにドイツからポーランドの領土を分捕った。 つまり赤軍が支配する戦後のポーランドは、国家全体がドイツ寄りに移動する羽目に。 ロシア領域で暮らしていた多数のポーランド系住民が、それまでドイツ系住民が暮らしていた地域へ移動する。 東西ドイツ統一で新ドイツも現状を追認し、領土問題は決着を見る。 中国人にとって満州という地名が許せないように、ポーランド人にもシレジアという地方名は許せないようだ。 歴史上、ポーランドの縄張りになったことが実はあまりない土地なのだが、それは言わない国際間の約束。 で、何で鉄道に関わるか。 ドイツの手によりこの地域の鉄道電化が積極的に進められたのは、第一次大戦から第二次大戦までの間。 ドイツから見ると領有が不安定な辺境に、大きな炭鉱が多数ありエネルギー依存をしている状態。 火力発電があるし、山岳地帯でもある。初期の化け物のような大型電気機関車が、シレジア地方に集中的に配置された。 しかもこの電化区間、ドイツ南部の電化区間と遂に結ばれなかった、孤立した存在であったらしい。 赤軍が迫ると、入線して日が浅い虎の子の機関車から疎開を計り、逃げ損ねた車両は戦利品としてソ連に運ばれた。 大混乱の敗戦の夏が終わり秋口になり、ようやく新生ポーランド国鉄が支配を確立させたころには電化設備自体が残っていない。 だからポーランド国鉄から追いかけると、辺境の非電化ローカル線という印象が強まる。まるで別の国の鉄道のようだ。 シレジアの石炭は共産圏にも重要資源であったらしく、ロシア鉄道はシレジアとモスクワを結ぶ広軌線を持つ。 ドイツ型の鉄道模型で、ブラゥアが好んで製品化するような、大きな恐竜のような古典電気機関車。 彼らに、シレジアに関わる存在がやたらと目立つのよ。 どこでどのように働いていたのか、模型製品の紹介では触れられないことが多い事情が初めて判った。 日本で喩えれば「満州や朝鮮で働いた日本型機関車」「敗戦後はソ連が持ってゆきました」という車両たちなんだね。 ウクライナ戦争でポーランドの民族右派が紛争拡大を目論んでおり、アメリカやイギリスが警戒しているようだ。 チャンスだからポーランドを東に拡大してやれ的なことを公言する政治家がいるらしい。それが世論に影響し始めてる。 これはNATOは決して正義の味方ではないよと一部の評論家が言い始めたことにも影響を与えているんだろう。 米英はNATOの暴走も止めねばならない。 ポーランドは米英が自国への戦車供給を緩めない方針と知るや、国内に韓国製戦車の製造ラインを誘致した。 シレジアは沼だねえ。 18世紀以降のドイツ史を学ぶはめになった。 特に大モルトケ率いる参謀本部が鉄道を駆使して戦局を有利に運ぶことなど、世界史の授業で居眠りしていたんだろうなと思うほどの学習量。 世界史で扱う内容はほぼ全て飛ばしますね。 シレジア山岳鉄道はオーストリアとの開戦を予想したプロイセンが建設したもので、両国の国境地帯に沿ってプロイセン側を貫くあたりに嫌らしさが光る。 いざ紛争が始まれば、プロイセン側は国境に沿って進退自由な陸軍に潤沢な補給が加わる。 プロイセンとオーストリアに挟まれた位置にあるザクセン王国は当時、どちらの味方に付くか態度が明確ではなかった。 ザクセンとしては最近軍事大国化が目立つプロイセンには反感があり、昔から大国で格上のオーストリアに味方する可能性は高いと言えた。 プロイセンとしては小国ザクセンは個別に占領するとして、仇敵オーストリアには軍事的な優位を保ちたい。だから直接国境を接するシレジア地方で優勢を得る。 この構想は大当たりし、普墺戦争によりプロイセンは短期間でオーストリアを倒すことに成功する。 プロイセンはザクセンはもちろんドイツ南部諸邦までその影響下に置くという、ドイツ統一に向けた戦略目標を達成。 そしてこの時、同じドイツ言語圏としてオーストリアからは領土割譲や賠償請求の類を求めなかった点が潔過ぎて凄い。将来の同盟を予測していた。 さほど間をあけず今度も格上の筈のフランスに鉄道を整えて挑み、倒してプロイセン=ベルリン主導によるドイツ帝国が成立する。 仏語圏とは将来も同盟できないとして、フランスにはドイツ語話者のいるアルザスの領土割譲を要求して揉めまくる点がまた凄い。ここに第一次大戦の導火線は仕掛けられた。 シレジア山岳鉄道は、普墺戦争という第一次大戦の一つ前の段階の戦争が成立に深く関わる。 普墺戦争の戦後、長年の宿敵であったオーストリアとの緊張関係が緩んで平和な場所になったシレジア地方では観光産業が発達し始める。 折から鉄道電化技術が熟成してくると、ベルリンから距離も近いシレジア地方は格好の実験対象となる。 適度な勾配と曲線があり、適度な輸送量があり、さりとて幹線ともいえない。 (戦後のベルリンとウィーンを最短距離で結ぶ重要幹線は旧ザクセン領域内を通る平坦線が確保され、シレジア地方を経由しない。) 草創期の電気機関車はベルリン近辺でちょっと試験をしたら、続々とシレジア地方にやって耐久試験を受けるという流れに。 電化設備も標準化が進み、いまメルクリンの緑色の架線柱と言えば誰もがボンヤリとは見当がつくであろうアレもシレジア地方で確立された。 第一次大戦で架線が金属回収の対象となるなど停滞もするけれども、戦間期はいよいよ本格的な電気運転が始まる。 その消滅は第二次大戦末期。 ベルリンに南方から迫る赤軍集団が、シレジア地方に襲い掛かる。 脱出する避難民で大混乱の中、出来る限りの機関車を引き揚げたものの、電化設備もろともシレジア地方という土地を失ってしまう。 ポーランド国鉄の下で長く非電化線として過ごし、かなり時間が経過してから直流3000Vで再び電化されつつある。 その架線柱の一部はソ連に奪われそこなったドイツ国鉄のものが再利用されているというから、驚きです。 >>525 鉄道の軍事利用なら現在のロシアによるウクライナ侵攻にも影響あるし、 日本の東京大阪のルートも無関係ではない。 鉄道の軍事利用や、軍部絡みのルート選定なんてよくある話。 似ていることよりも違うことを見つけることの方が、この場合は興味深いのですよ。 よくあることで終わるのは惜しいことです。 ついでですけど日本国内で軍事絡みの路線変更の例は例外的と言って良いほど少ないです。 免許申請の際に軍事的価値を入れるのは行埋めみたいなもの。現小海線の佐久鉄道すら軍事的価値を申請書類に上げてました。 軍に見解を問うのもお約束みたいなものですが、意見を受け入れた例は極めて少ない。要塞地帯であろうが構わず線路は通る。 鉄道忌避伝説と同類です。当時の当たり前の手続きの当たり前に流されていた実情まで検証せず、額面通りに解釈していては不味いわけです。 余計な連投ですけど日本の軍部に鉄道利用の重要性を強く叩き込んだ事件がこの、シレジア地方の先進事例。 感銘受けすぎて指導を仰ぐ先生をフランスからプロイセンに変えるぐらいでした。 しかし政府に対するプロイセン参謀本部ほどの影響力は、遂に日本の軍部は得ること叶わず。 その辺まで深読みしてほしいな。日本でよくあることではなく日本ではかなり無理であり、しかし日本軍部が手本にしようとした海外事例です。 大モルトケはその長い履歴の中で鉄道会社の重役を務めるという軍人としては異色の経歴の持ち主。 そこで、活用すればナポレオンが確立した戦術を上回ることができると確信し、シレジアで実行した。 モルトケの孫弟子の様な日本軍がどこまで師に迫れたのか。まず日露戦争が検証対象でしょう。 全て同じことに見えるのならば、それは観察力不足。 まず時系列に並べ思想の伝播を調べて当事者の視点や知識を再現する。 その辺まで深掘りしてほしいなぁ。全て同じに見えてしまう前に。 GE44t www.militarynewbie.com/wp-content/uploads/2013/11/US-Army-Locomotive-Davenport-Besler-TM-55-1279.pdf 80t、670 hp www.militarynewbie.com/wp-content/uploads/2013/11/US-Army-Operator-and-Unit-Maintenance-Manual-Locomotive-Model-B-B-160-and-160-4GE747-A1-TM-55-2210-224-12.pdf USATC TM55 1268 www.chartertoconductor.com/wp-content/uploads/2019/06/Operation_and_Maintenance_of_Diesel_elec-1.pdf www.liberatedmanuals.com/TM-55-2210-223-12.pdf www.liberatedmanuals.com/TM-55-2210-223-24P.pdf もう少し日本の鉄道が痛めつけられていたら間近に見る機会もあったのでしょう。 ルクセンブルク国鉄の戦後復興はこういう機関車であったらしいです。 ノルマンディ上陸で車両は根こそぎドイツ国内に引き上げたところにバルジの戦いが起きて、国土荒廃の極みであったと言います。 ベルギーとか自国のことで手一杯。復興できないんなら併合しよか?などと言い出す始末。英は同情的で自国製戦時型を贈ってきた。 東側ソ連占領圏で作り過ぎたドイツ戦時型蒸気がバーゲンセールをしていたのを見ざとく見つけ、まとめ買いしてようやく一息ついたらしい。 そう思うと本土決戦を回避できたことは行幸なのでありましょう。 シレジアの電化線を調べていたら、上越線とのシンクロが気になった。 言われてみれば当たり前の事だが、例えば1923年に生きる人間は伝達に多少の時間差があれど、日も独も同じ情報に接している。 それはいつの時点でも同じで、最新技術は世界のどこでも同じように新しく、未来のことは全く判らない。 上越線は1910年代初めには夢想から具体化へと動き始め、1920年代には予算がつくに至る。 つまり具体的に考え始めたころには国鉄に碓氷峠しか電化区間はなくEC40型しかない状態。 想像してみると面白いが手持ちの駒がそれしかない状態で、先人たちは清水トンネルが前提の路線計画を練り始めていたのです。 気宇壮大と言いますか、結果が後からついてくると言いますか・・・。どんな機関車が走ると想像していたんでしょうか。 1920年代前半はドイツでもサイドロッドを持つ電気機関車が当たり前であった。最後の新造機は何年になるのだろうか。 高速機であればブフリー式が幅を利かせている。1938年製造のE19型で遂に頂点に達し最高速度は180キロになる。 1930年代半ばのE44型でようやく、ようやく吊りかけ式が実用になり急速にロッド伝導を過去のものとしてしまう。 そう思うと同じ1930年代半ばに量産に移したEF53型というのは、世界最先端に喰らいつこうとしていたんでしょうか。 日本がロッド伝導式電気機関車を碓氷峠に封じ込めることに成功?したのは、ただの偶然であったのかもしれない。 東海道線電化時は1920年代の初めの事で、この時にロッド伝導式電気機関車を輸入機に含めなかったのはなぜだろう。 そんなの優劣が頼む時点で判っていたというのは、後知恵ではないか。超能力の類だ。 ハイスペックなED54型を注文したように、東海道線にもサイドロッドを持つ電気機関車が来ても何らおかしくはない筈。 1926年前後というのは、吊り掛けが勝つというには早過ぎる。世界的にそういう年です。 ED41型は、たまたま碓氷峠用であっただけ。 狭軌の台枠内に収まらない大型電動機を持ちサイドロッドで伝導する、1067mm幹線用電気機関車。有り得たんじゃないかな。 そう思うと、Be4/6に国鉄ナンバーをつけて遊ぶのはアリかなと思えてきます。 D型軸配置ながらEF級に匹敵する牽引力を持ち、大きな動輪で速度で優位に立つ旅客列車牽引機。 先従輪もあるけど、重過ぎるかな。EF53型が存在しない、並行世界の日本。 秘められた旅路 ローカル線をめぐる という本がある。以前も触れたかもしれない。 書名を確認したら、著者がご存命でびっくりした。97才でしょうか。 昭和31年の刊行で「ローカル線」という言葉が使われた最初のころのものではないだろうか。 いつごろから、何年ごろからローカル線という言葉を当たり前のように使うようになったのだろう。 戦前の文献では見た記憶がない。 過疎の進行とともに多用されるようになった言葉ではないだろうか。 本の話だが、全通前の大糸線訪問記が好きだ。しかも南線も北線も両方とも訪れているのがうれしい。 確実にC12牽引の経歴怪しい木造客車に揺られた体験記であり、しかしながら文体は平易で読み易い。 大糸線へのC56の進出は全通後らしい。 ほかの「ローカル線」も合わせて読むと異国を旅したような気分になる。 今の姿から見ると、駅長がいた時代があったことが信じられないような駅が出て来ます。 >>535 サイドロッドが国内で普及しなかったのは欧州でも既につりかけ伝動への過渡期だったのだろう。 1920年代に電機を輸入したけど当時、本国の電化すら進んでいなかったのに英国製が多かったのは 海軍の保有艦船を制限するワシントン海軍軍備制限条約で英国を懐柔しようとして英国製電機を大量に輸入したのが原因で それらは欠陥機で苦労させられたそうだけど、そのおかげで技術陣の技術が向上したという。 ktymtskz.my.coocan.jp/yuge/hidaka6.htm アメリカ製の電機が優れていたので手本になった。 ktymtskz.my.coocan.jp/yuge/hidaka7.htm >>537 > 今の姿から見ると、駅長がいた時代があったこ>とが信じられないような駅が出て来ます。 交換設備(信号扱い)があったり貨物扱いのポイントがあったら基本駅長が必要だったんじゃない? あくまで停留所じゃなくて“駅“扱いということで。 高知の路面電車に新地線という支線があった。 御免線の知寄町二丁目から南へ、途中に停留所はあったんだろうかというぐらいに短い。 存在は知ってはいたが、目的が判らなかった。 土讃線開業まで桟橋線が高知の主な外界への玄関であったことを知り、ひょっとしたら他の船会社がこちらにも埠頭を設けたかな、と漠然と捉えていた。 ふと気になって米軍作成地図を見ると、新地線の終点の前の海は浅瀬であり大型船など入れない。 その代わりに稲荷新地という四角い土地に建築がある。 ははぁ・・・遊郭か。 戦前の都市にありがちだが風紀を乱す遊郭は郊外の誰も好まないような土地に隔離する政策があちこちで見られた。東京の吉原に倣ったのだろう。 米軍地図を見ても遊郭以外は湿地帯の記号があるばかりで、さぞ日が暮れたらネオンが目立つことであろう。歩いて帰るなど御免被りたいところ。 道理で戦時中に不要不急線に指定されるわけで、空襲後に料亭が市中に移転した戦後は誰も顧みず忘れられた。 名古屋の中村電車も遊郭目当ての客で賑わったとされるが、終点に遊郭しかない路線というのは珍しいのではないか。 稲荷新地、宮尾登美子さんの小説の舞台ではなかろうか。 天北地方 行ったことがない。天北の荒涼とした風土と炭鉱鉄道の物悲しい雰囲気が好きです。 夕張地方などと異なり、セキ3000型同等の車両がほとんど見られない点が面白い。 天塩炭鉱、留萌炭鉱から南はセキが活躍する地域であり、天北地方とは石炭産業の有り様が大きく異なった。 天北地方は石炭埋蔵量は膨大なものの炭質が悪く、他地域の産炭と同じ取引はできなかった。 コークスに加工するか、地元で暖房用に活用するなどして消費された。だからあまり遠方へは出荷されなかった模様である。 荷降ろし設備がセキ対応ではないのでしょう。冬季など荷降ろしには相当苦労した筈。 輸送中に石炭に含まれる水分が凍結して積荷が岩のように一体化してしまうそうなんである。ツルハシが必要だ。 セキですら厳冬期には車体の鋼板に冷やされガッツリと張り付いてしまい、ホッパーを開けても塊が塞いで落ちてゆかなくなるという。 外から扉をガンガン叩いて落下を促すことになり、吹きっ晒しの高架線の上で大変な重労働であった。叩く音が周囲に響いたらしい。 無駄に時間も喰うので、室蘭港には車体ごと反転させるカーダンパーが整えられた。 その末裔であるホキ2500型の荷扉には、丸い凸模様が一定間隔でついている。いた。 積荷が凍結したら丸を狙って叩きなさいという意味がある。 しかし活躍場所は暖かく、冬季に叩いて回る作業員が必要になったことは無いようだ。 更新車ホキ2000型は扉の構造が変わり丸はない。部品交換されたかホキ2500型からも消えた。 セキの名残で面白く眺めていたものだが過去のものになったようだ。 セキ1000型とセキ3000型で扉の補強の本数が違うのは、叩かれる事への対応でしょう。 ホキ2000型で扉が厚くなったのは、叩かれる懸念がないからでしょう。箱の中は空洞と思います。 いったことがないのにえんえんかたれるぼくはすごいです 日曹炭鉱専用線の記述で一つ腑に落ちない部分があった。開業を危うくさせた登龍隧道の件です。 wiki等によると危険だから隧道内部を木枠で補強せよということになり、それが間に合わないので峠越えの別線を急遽建設したという。 すごくないですか? 地図を見ていても、この隧道がどこなのか全く判らない。ふつうトンネルポータルの前には切通があって、樹木が生い茂ようが判る筈。 開業間もない時点での米軍撮影の航空写真では隧道へ続く路盤がよく判るが、それが現在のグーグルアースでは全く判らない。 しばし眺めていてふと思う。この隧道、要りますか??? 登龍峠越えなど仰々しい名前だから、明確な高低差のある地形があると思い込むじゃないですか。現地は川筋から隣の川筋へと低い尾根を越えているだけ。 なぜ、隣の川筋へ移動させるのだろう?谷は緩く広がるのだし最初から目指す鉱区へと川筋を遡れば良い。 以下憶測です。 日曹炭鉱のある谷間の下流側に、豊富(とよとみ)温泉という温泉郷があるのです。この温泉は石油試掘中に発見されたものだとか。 つまり温泉のある一帯は、かつて鉱区が設定されていたという事。 どういう法人が試掘に当たったのかは判らないが、隣接鉱区の日曹とは折り合いが悪かったのではないか。 ライバル日曹の申し込みに対し、うちの土地は通さん!とか子供じみた対応をしたのではないか。 困った日曹は豊富温泉のある谷間を避けて、隣の谷間から遡って具合の良さそうな場所で緩い尾根一つ越えなくてはならなかった。 急遽決まったのだろうか。隧道は大変危険な状態のまま竣工検査を迎えダメ出しを喰らう。 低い尾根とはいえ、隧道を切り通しにしようとすると大変な土量の工事となる。 木枠で補強せよというのだから内壁は剥き出しで、風化が進んだ岩石が主体と想像できる。 崩落の危険は大きかったと思われる。操業開始までの間に木壁の厚みだけ削って拡大せねばならない。 間に合わないので尾根を越えてゆく線路を敷いて、芋づる式に9600型をおねだりしたら貰えてしまった。 この辺りは検査でダメ出しをした役所の温情を感じさせます。アメとムチです。 検査時に大枠の話は出来上がっており、9600型投入を前提に隧道を迂回する線路の設計ができたのでしょう。 開業時点で余っていたのは9200型や8100型の筈で、まだ9600型のおねだりには早過ぎます。 このような経緯を経て開業した尾根越えの路盤跡は、現在のサロベツリフレッシュロードで間違いないと思います。 現在の道路は鳥t家部や幅など若干手を加えたと思われるが、勾配はそのままではないだろうか。短いとはいえ蒸気機関車には厳しかろう。 道路(線路)の片側に、所々にかなり大きな掘削の面があります。西の端では完全な切り通しとなっている。 これが、突貫工事で土を運び去った後に出来た斜面なのでしょう。 9600型を前提に勾配を設定し、人海戦術で切り通しを作る。如何にも北海道の開拓地らしい粗っぽい仕事です。 日曹天塩炭鉱で撮れる石炭の品質は低く、コークスに加工するか家庭用燃料にするかしか用途が無かったという。 そうなると、9600型は何を燃料に動いていたのだろうか。機関車用の高品質な石炭を他の炭鉱から購入していたら面白い。 低品質とはいえその何十倍もの石炭を採掘し運べば割に合う計算なのでしょう。 なるほど、陽に当てるとしばらく出て来ないが日陰のままだとすぐ湧いてくるのか マジで害虫だな なんでじっしゃ板でやらないんだろう。 無知がバレるから? >>545 小学生時分に “ザ・ガードマン” 見てたら9615号機が出てきたのを 今更乍ら思い出しました。 日曹って旅客営業してたの? 客車は居たみたいだけど 専用線一覧に記載があり時刻表にないので、美流渡などと同等の扱いでしょう。 ただここは31系客車がいたんですよね。なんと珍しい。 9600の譲渡が早かったことと併せ、「当局の格別の計らい」、悪く言えば癒着を疑っておりますw 当時の記事でも、ここまで出かけて写真の一葉でもあれば上出来のような扱いの路線です。 情報が少ない。 10日前から、網走番外地が公式から無料公開されてます。 クライマックスはご存じですよね? ザ・ガードマンもそうですが昔のドラマは鉄道を舞台にした大掛かりなアクションに挑戦してきました。 今はCGですらやりませんね。それだけ鉄道が生活から遠ざけられたか、それとも子供が真似するという類の自主規制か。 アニメじゃ脱線転覆させてたりするから、生活から遠ざけるだの子供云々だのは的外れだ >>552 難しいことを言いたいだけなんだろうけど、結局は 面白い企画を思いつく人がいるかどうか、ってだけじゃね? 日曹の記事はキネマ旬報蒸気機関車誌の18号D51特集が代表的なもの。 しかし割と最近の、鉄道黄金時代シリーズの7、ニッポンの蒸気機関車9600にも、掲載誌の傾向から機関車主体ですが記事はあります。 ただ判らない事は、どちらも汽車クラブ名義の記事なのですが滞在時間が異なる。片方は一泊しているのに他方は一時間の滞在。 ちょっと面白い謎ですが、長時間滞在の記事の方は国鉄で移動しているのに対し短時間の方は自動車の機動性に触れており、別の訪問機会なのだとわかる仕掛け。 自動車を使うと効率も上がりますが、同時に何かを失っているような気にもさせられる記事でした。 うれうぼくはかっこいいです …小学生だって、もうちょっと中身あること書けるぞ 日曹炭鉱ネタ続き。 HO641X-C5-10という、昭和39年撮影の航空写真を見て欲しい。 登龍峠を含む区間だが日光の状態がよくて地形の凸凹が把握し易い。 開業に至る峠超え区間の切り通しがまばゆく白く輝き、いまの道路に多くの路盤が転用されている。 この写真の白眉は、旧線の路盤もかなり追跡できる点にある。米軍撮影よりも表現が良い。 豊富市街地側から下エベコロベツ川沿いに遡る線路だが、豊富温泉の手前で支流(名称不詳)に入ってしまう。 この支流を越えたところからすぐに新線が旧路盤から別れる。 斜面を大きく削り高度を上げ、やがて大きな切り通しとなって峠のピークを越えてゆく。 一方で旧路盤は川沿いに進み、やがて隧道に入る。反対側の出口も読み取れるため追跡は容易だ。 問題はその、隧道のあるべき場所にある不思議な地形です。 アリジゴクの巣のような漏斗状の穴が、五つぐらい並んでいる。 これ、竣工検査時に予見された隧道陥没の痕跡じゃないか。 補強もしないまま放棄後から約20年、リアルに陥没してる。地表面に影響が出ない崩落もありそうだ。 隧道の南側出口の位置も驚きだ。 新線は旧線南側出口の切り通しを埋めて、旧線線路敷を越えている。 これで新旧線の高低差が、大まかだが把握できる。この高低差を勾配でつないで新旧路盤が合流する地点は遠い。 この航空写真を見ていると、なぜ面倒な峠越えをしたのか全く判らなくなる。 新しい仮説は、線路が迂回している間の下エベコロベツ川の湾曲が酷いことに注目する。 線路を真っすぐ敷こうとすると何度も橋梁で渡る羽目になる。地形は平坦なようだ。 おそらく湿地帯、氾濫原であり、さらに冬季の凍結など考慮したうえで線路は敷けないと判断したのではないか。 すれがしずむまでがまんしたぼくはえらいです 人に見られたくないなら書くなよ、気でも違ってんのか またやっちまう。 オクで相場に著しく低いと感じる模型を見るとお節介で、ギリ相場より下かなと思う金額で入札する『遊び』 本音で言えば要らないんスけどw で、時間まで、誰か上回る入札をしてくれないものかと手に汗握り見守るという・・・・。 一種のギャンブルだが、負けても模型が手に入る。 ●蒸気機関車 88622 若松 キット 79616 倶知安 キット C59/C60 戦後型 キット C55・9600・8620・C59・C60 完成品各種(MODELS IMON) 鹿島参宮鉄道(関東鉄道)竜ヶ崎線4号機(アートプロ) ●ディーゼル機関車 DD16 三菱大夕張 DL-55(アートプロ) DE10 キット(WesterWiese) ●電気機関車 EF66 キット・完成品各種(MODELS IMON) EH500(アートプロ) ●客車 14系14形寝台客車・24系25形寝台客車(MODELS IMON) 丸屋根旧型客車各種(WesterWiese/FAB) ●気動車 キハ82系(FAB) ●電車 103系(アートプロ) 711系(FAB) ●貨車 タキ1900・タキ35000(FAB) タキ2000・タキ9900(HOKUSEI WORKS) (公式発表のない型式を除く) >>559 そう言う人がいるから結果として値段が上がってくるんだな。 結局欲しい人なんて数少なくて>>559 みたいな人が相場を操作しているだけ。 それは資力の裏付けのある度胸の足りないあなたの、八つ当たりでしょう?w オークションは安く買える場所ではない。自由市場だよ。自由を楽しめ。 >>563 買わずに相場を引き上げる貧乏人の楽しみ方なんですね。 それも投資の一種なのかな? 相場など動かしようがない事もご存じない。 ただ妥当な落札価格に届く金額が用意できないあなた自身の問題なのに、他人を悪者に仕立てて憎しめば問題が解決すると思っている。 オークションに参加するでもない。ただひたすら無駄な時間を八つ当たりに費やすw 憐れみしか湧いてこないよ。おやすみ。 >>565-566 > 相場など動かしようがない事もご存じない。 価格の吊り上げは相場を動かしていることに他なりませんよ。 更新されるであろう金額を入札する貧乏人は、 時間が無駄に有り余っているようですね。 覆されなきゃ俺が安く落札できている簡単なことさえ、理解できてない様子。 怒りと嫉妬で頭が回らなくなっているんだろうねw 日曹は本当にネタの宝庫ですね。 簡易軌道と平面交差していたことは間違いなく、交差部から南が一足先にに廃止となり北の僅かな区間だけが取り残された。 しかし国土地理院地図上ではともに軌道の記号で区別はない。片方は762ミリ馬力で片方はセキも入るというのに・・。 このため日曹専用線に支線があったと誤認する文章がいくつか見受けられた。 こんな馬力線に資料など少なく、きちんと地図を見た証でもあるが。 平面交差の写真が見たいが無理というものだろう。通る車両の格差が大きいので1067ミリ側のレールにフランジウェイはない筈だ。 ウマが通るために枕木の敷き詰めはあっただろうが、トロッコは1067ミリのレールを乗り越えていただろう。 数年で交差部から南は廃止になるが、原因は峠で崩落が起きた事らしい。 現地は固まりきらぬ泥岩の様な土質で侵食されやすく脆く崩壊しやすい。日曹専用線はそこに隧道を掘るという企てに無理があった。 炭鉱のある土地はうまい具合に地質が違う。 簡易軌道で、国鉄線と連絡が絶たれたのちも営業が続いた例って他にあるんだろうか。 しかも長い路線の南北が廃止となった後の中間部だけ。 日曹の残存区間は本当に記事が見当たらないので運営は想像するしかないが、行政の記録では運行停止状態と考えるしかない。 馬力線はトロッコの所有権が曖昧で、自家用の馬で勝手運行がまかり通るらしい。 この残存区間は沿線農家が廃線を活用し続け、地図測量者の現地調査では営業線と認められ日曹専用線と同じ地図記号で記録されたのではないだろうか。 地名が判らないが行政の記録、認識とは一致しなさそうだ。さて、本当に線路が撤去されたのは何年のことなのだろう? 木曾森林鉄道でも公式の廃線後にも数年運行し続けた作業軌道があると聞く。国鉄との接続が絶たれても奥地ではひっそりと知られず生き延びることがあるわけだ。 >>569 > 日曹専用線はそこに隧道を掘るという企てに無理があった。 >炭鉱のある土地はうまい具合に地質が違う。 地質が違うから炭鉱なわけで、 地質が同じなら全部露天掘り地域か、炭鉱自体が存在していないことになります。 なんか勘違いされてる様だけど、一番上にあり続けても平気で書き込むからね?w 書きたいときに書くけど常に書きたいわけではない。当たり前でしょ。 嫌がらせになると思い込んだか、現時点でソコに異様な拘りを見せておるのは約一名だけですし。 ≫579 まあ、違うことを推定するのは当たり前です。地質図を見ると断層が南北方向に走ります。 地質図を探さないと、推論が仮説にならないんですよ。 あなたは既に地質図をご覧になりましたか?未見であれば、常識を元に推論を述べている事になります。 私はソコから一歩でも、たとえ半歩でも先へ進みたい。 >>572 でした間違い。 トンネルが崩れることを指摘されたことだけで、そこから、坑道掘りらしい炭鉱との間に断層など地質に影響を及ぼす要素があると推定できたのなら、大したものだと思います。 でも私はそうではないので、地道にデータを集めるしかないのです。 read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる