[鈴木g3蒸機好き出入禁止]【HOn3-1/2 HOm】1/87 12mmスレ【HOj HO1067】 -12- [無断転載禁止]©2ch.net
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:----: EXT was configured キット、パーツ等だいぶ手に入りやすくなりましたし 待望のプラ客車も・・! 楽しんでまいりましょう。 【注意事項】 他規格批判スレッドではありません。 他規格(16番、13mmなど)に対する批判や否定的な書き込みは厳禁です。 また他規格狂信者の荒らし煽り行為は徹底無視でお願いします。 この取引を調べていて、有田鉄道に行った元東武の気動車が最終的に尾花沢線に入っていたので同線を調べていたところ、戦後まもなく燃料難の時代に同線も電化を計画していたという。 顛末はRMライブラリ参照。尾花沢線よ、お前もか。 こういう歴史のほころびを見つけると嬉しくなってしまう。 近隣の秋田中央交通はようやく電化に漕ぎつけ、尾花沢線は内燃化を選んだ。その差はおそらく紙一重であるだろう。しかし史書には結果しか記述されない。 電化された尾花沢線を考えてみよう。 尾花沢線はディーゼル機関車牽引だが1067mmとしては国内最小クラスの筈。協三工業製で貨車移動機といっても通用しそうな機関車です。 順調に当初計画通り電化されていたとしたらどんな電気機関車が入っていたのか。メーカーに設計を依頼していたというから、新製機です。 結論を先に言いましょう。 尾花沢線の電化計画に際しメーカーに依頼されていた電気機関車の注文流れは、越後交通→秋田中央交通のEB111型ではないだろうか? タイミング的には符合するし、越後交通には小さ過ぎる。 越後交通の電化工事は驚異的な短期間で済んだそうじゃないか。車両の手当てをしている時間はないのにEB111型だけ新車で入ってきている。 後に沿線に工場進出相次ぐと秋田中央交通へと渡っていった。この越後交通の体質改善の話も出世物語のようで、すごく面白い。 >>151-152 レスサンクスです。 当方もネットで調べてみたら、このコッペルは有田から持ってきた当初は、ひとまず 新高徳に回送されたとの資料もありますね。 だからといって、(元国鉄5500が主力の)矢板線で使うとも考えにくいし。 やはり東武はハナから使うつもりなど無かったのでしょうね。 余談ですがこのコッペル、廃車手続き後の一時期どういうわけか「東上鉄道1号機」として 池袋の東上業務局前に約1年間ほど展示してあったとか。 現代から見れば笑えるようなデタラメを堂々とやってのけるほど長閑な時代だったのですね。 >>153 > この取引を調べていて、有田鉄道に行った元東武の気動車が最終的に尾花沢線に入っていたので 尾花沢線では廃線まで在籍していたとの事ですね。エンジンは東武時代に既に抜かれていたとか。 結局は有田でも(気動車としては)使い物にならなかった、という事でしょうか。 もっとも有田には件のコッペル以外にも雨宮の12t機(Bタンク)とか居たみたいだし。 東武から来たキハは、客車として少しは役に立ったのかな? > 越後交通の電化工事は驚異的な短期間で済んだそうじゃないか。車両の手当てをしている時間はないのにEB111型だけ新車で入ってきている。 > 後に沿線に工場進出相次ぐと秋田中央交通へと渡っていった。この越後交通の体質改善の話も出世物語のようで、すごく面白い。 長岡線の電化は、田中角榮が旧長岡鉄道の社長在任中の事業ですね。 越後交通は私にとって鬼門ですね。 私は最終目標を模型のための架空鉄道づくりにおいてます。 かりそめの匿名に甘えて過去にいくつも駄作を公表してます。 史実は様々なエピソードの中から、どこまで逸脱すると真実味を失うか判断力を養うために調べるようなものです。 過去に苦手だと感じた史実は、たとえば名古屋市電800型。 アレを空想ででっち上げた文章にリアリティを与えるなど私はできそうにない。だけど実在はするようだ・・・(半信半疑 田中角栄も、その類なんですよ。この人は自伝を綴っても多分、嘘くさくなる。 堤康次郎は架空のお話のテコとして大いに利用価値があるけど、角栄は器が違う化け物だ。 頭が良過ぎる。サイコロで、相手だけ全ての目が6のようなものだ。 角栄の名を出せば新幹線でも何でも敷けてしまうのでリアリティも何も、問題外なんですよ。 チートしているようで実に扱いづらい。チートを疑われ、逆にリアリティが遠のくように感じます。 越後交通は、特に車両調達が非常に上手いんですよ。越後線も栃尾線も凄くうまいと思います。 昔からこの点が不思議で仕方がないんですね。 それに廃止など重大な決断も異常に素早く、しかも貨物列車だけ残したりする。すべてが上手い。 もし仮に判断が田中角栄近辺から出ているとしたら、金権政治という派手なレッテルに隠されて見えなくなっている怪物の天才の証ではないか。 こんな超人的なチート、創作で真似して綴っても嘘くささが増すばかりで上手くまとまらないんですよ。 津島軽便堂に東武矢板線の写真が追加。 くうううううう・・・・ 矢板線問題 米軍撮影の戦後間もなくの航空写真で新高徳駅付近を見ると驚くよ。 三角線の路盤がほぼ出来上がっている。出来立てなので白く目立つ。 たぶん、東北本線鬼怒川橋梁が爆撃されることを懸念したのでしょう。未成に終わったためかほとんど取り上げられないので、知名度が低い。 現在の土地区画からも痕跡に乏しく、おそらく敗戦後速やかに復元されたのだろう。 矢板線は、最後の区間をなぜ建設したのだろうか。 東武日光線建設の件は公示などで当然知っていただろうし、下今市駅付近で東武線と平面交差するという交渉さえ始まっていたかもしれない。 時間的に微妙に前後して、もう矢板線全線開業も近いというときになって東武鉄道から平面交差を申し込まれたのかもしれない。遅いよ。 温泉街となった鬼怒川からは想像し難いが、下野電気鉄道の建設目的は鉱山にある。 結果論的に言えば足尾のように鉱脈にたどり着けなかったらしいが、付近は成功した鉱山も多い。 矢板までの建設に踏み切った理由は、今市から高徳までの間に面倒くさい川が三つもあったから以外にないだろう。河原を見ればいずれも相当な暴れ川であることが判る。 下野電気鉄道は、根拠はないが沿線鉱山の成功を信じて疑わなかったのではないか?すべて上手くいかなかった結果を知る私たちが断罪することは不可能だ。 少量の貨物輸送なら日光線に接続した軽便鉄道で充分であったはずだ。しかし実際に営業して軽便鉄道の限界を知ったことだろう。 1067mm鉄道への輸送力強化を目論見、しかし、三つの川に架けた橋梁が障害となった。 軽便鉄道の橋梁が耐えられるはずがない。しかし架け替え費用は高額なものになった。 そこで、橋を架ける必要がない矢板までの建設を検討したら、そのほうが安上がりだった。 (橋梁の工事費用はとてつもなく高価なものだそうです。) 矢板線を作っていたら、東武日光線ができるという噂を聞く。 でも下野電気には関係ないし建設は続行される。貧弱な橋梁を強化する資金は、矢板線の建設でいよいよ当てが無くなっていたからだ。 東武線のため下今市駅まで路線が短縮される件も大きく揉めないだろう。矢板駅で東北本線に接続できれば、東武線との接続などどうでもいい。 この時期の下野電気鉄道は、今市と高徳の間の廃線さえ考えていてもおかしくない。まず鉱山鉄道であり、東北本線と1067mmの線路で結ばれればよかった。 そして日光線が開業。東武の怒涛の攻勢が始まる。 資金不足に陥った下野電気鉄道の経営に食い込み、問題の三橋梁に東武の資金が潤沢に注がれ改築強化され鬼怒川線となる。 下野電気鉄道の本線となる筈だった矢板線は、全線開通後わずか数年で無用となった・・・・・。 河川争奪という現象があるそうで、この説明がまさに矢板線の運命。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/Stream_capture.png 下野電気鉄道経営悪化の原因が矢板線建設強行にあるとしたら、何が悪いのか全く判らないよ。 東武とて日光線開通にまだリスクがある状態で鬼怒川線を推進することなど出来ないだろうし、その時点での下野電気鉄道は交渉相手として難しい筈だ。 下野電鉄株主は鉱山の将来に期待して、まだガッポリ儲けるつもりでいるので東武との交渉に応じない可能性もある。 なにしろ矢板線を作らせるほどの強気の株主がいたのだから。 東武進出後数年間の変化は下野株主たちを呆然とさせたのだろう。 それでもなお、買収が昭和18年まで遅れた辺りに、鉱山の成績に期待する下野株主たちの抵抗が見て取れる。 しかし戦時体制下に強化対象とならない銅山に、何の価値があろう。 国は価値を認めず東武に併合され、株価は二束三文のまま。 不思議なのは、戦時体制下に矢板線が不要不急線に指定されなかったことだ。 不要不急線の指定自体が条件が曖昧で根拠不明なのだが、国も鉱山が大化けするかもなど考えて両天秤をかけたのだろうか。 それとも三角線つまり東北本線の迂回ルートとして価値ありと認めたのか。 東武にとっては誠にありがた迷惑であった筈で、要らない矢板線は残されるのに日光線は単線にされるという始末。 既に関係が断たれた旧経営陣は東北本線迂回ルートという思いもよらぬ活用策に、何を考えたのだろう。 >>158 鬼怒川線の前身、下野軌道の敷設目的のひとつに、鬼怒川発電所のダム建設の資材運搬があったとも言われていますが。 …でもまさか小田急とは関係無いですよね?w (Wikipediaで「鬼怒川水力電気」をクリックすると小田急電鉄のページに飛ばされてしまいますw) 電力業界と鉄道業界の結びつきは面白過ぎますよね。 時期にもよりますが資金調達能力は電力業界の圧勝であることが多い。 戦前の電力会社が弱肉強食で競っていた時期にも、陸上交通の王者であるはずの鉄道会社を圧倒します。 電力=ライフラインと輸送業界では収入構造が全く違うのでしょう。 電力業界は副業で電鉄経営しますし、発電所を作るために線路を敷きます。 この、発電所建設のための線路ですが、電力業界からみれば使い捨て出来てしまいます。 実際に使い捨てた実例が複数見つかっています。典型が、草軽のL型電機が輸入時に使われた軌道。 草軽が大変に有名ですので遡って調査されておりますが、地図に載る暇もなく廃線になっています。 鉄道業界から見ると、電力業界の需要は最大瞬間風速です。短期間に膨大な貨物を輸送して途絶えてしまう。 地方私鉄が巻き込まれた典型が松本電鉄上高地線でしょうか。儲かったとも言われますが松電の設備投資額も大きい。 使い捨て出来るほどの資金力を振るって、工事完成後に不要となった路線。 この鉄道をなんとかして永続的に維持したい地元などの関係者の振る舞いが、非常に面白い。 そもそも地元には地方私鉄を作る資金力などないのです。 特に山間部では軌道の存在は奇跡に等しいのですから、払い下げを受けたりして自主運営したケースが見いだされる。 揖斐川上流部はイビデンがダムを含む発電所を、かなり早い段階から建設しています。 この資材輸送に軌道がつかわれ、建設終了後に地元に移管され運営されているのです。 そんな場所に鉄道など、かつて報告されたことはないと思います。もちろん地図でも見当たりません。 法的に鉄道でもなく、森林鉄道などで管理もされていないので公的な資料がない。 起点と終点さえわかりません。現地には当時の古レールが使われた柵があるらしいのですけど。 下野電気鉄道もそうした電力会社の残した路線の、典型の一つでしょう。 莫大な資金力で暴れ川に架橋して、あとは欲しければ差し上げるから頑張ってね、という展開ではないか。 路線維持は大変だったかと思われます。 東武が来る前に水害一つあれば、鬼怒川線は随分と様相を変えていたことでしょう。 >>162 電力会社と鉄道会社の関係で少し特殊な存在だった北恵那鉄道を調べているうちに、 北恵那の車両関連で、なぜか名鉄瀬戸線が気になってきました。 少年時分の一時期を沿線の小幡で過ごした私としては、瀬戸電の車両については かなり種々と調べましたが、未だに写真が見られない車両があります。 それが1号蒸機。これまで得られた情報としては、 ・1920(大正9)年5月雨宮製 ・運転整備重量8トン ・1922(大正11)年、開業当初の淡路鉄道(→淡路交通)に数ヵ月間貸し出し (淡路の発注した蒸機の納車が遅れて開業に間に合わなかったので) ・1937(昭和12)年7月、会社が蒸気動力廃止を届出 (肝心の1号機自体がどうなったのかは不明) で、既出の元・有田鉄道のコッペルと同様、3呎6吋軌間で8トンとは超小型であり 軸配置はおそらく0-4-0と思われますが。。。 しかし乍ら、そもそも電車と電動貨車(どちらも路面電車然としたもの)で 営業していた瀬戸電が、何に使うつもりで蒸機を買ったのか。 瀬戸電は開業当初“瀬戸自動鉄道”で、皆さんご存知の通りフランスから輸入した “セルポレー式蒸気動車”3両で開業。このセルポレーが故障多発で取扱いに難渋し わずか2年で電車に切り替えられた。 しかし、皮肉にもセルポレーの扱いにも次第に慣れてきたのか、故障も少なくなり 電化後も補助的に使われ続けた、とのこと。 このセルポレーの廃車時期だが、1911(明治44)年と云う説と、1922(大正11)年と 云う説があります。私は後者が正しいと考えておりますが。 瀬戸線はかなり特殊な路線だと思います。 普通、セルボレー式に手を出して素早く電化に切り替える資金の出所がない。そう思いませんか? 蒸気機関車の存在も霞んでしまいそうです。 開業時から複線というのも、沿線を考えるとすごい。終点瀬戸以外はほぼ水田ですよ。 確かにすごく特殊な路線ですよね。戦前はどちらかと云えば貨物本位の路線だったようで。 あの凸型電機(名鉄機号デキ201・202)にしても、あの当時ポール集電だった割には ハイスペック(75.5kW×4)なものを入れているし。 ところで、セルポレーですが、電化後は貨車の入換にでも使っていたのではないか? 尾張瀬戸、堀川の両終端か、国鉄線と接続する大曽根のいずれかの駅で。 旅客用としての稼働記録が1911年で途絶えているとは云うが、導入後6〜7年で廃車とは いかに厄介者といえども早すぎないか、とも思えるので。 雨宮の8トン蒸機は、3両のセルポレーの何れかの代替機ではないかと。 その蒸機と相前後して導入されたのがテワ(実質デト?)1・2で、これが電車に代って デキ入線まで貨物を牽いていたのでしょう。 それにしても、1号機の写真がどこからも出てこないのは何でだろう。 当然乍ら名鉄には引継いでいないので、どこへ行ったかも判らないし。 瀬戸は心くすぐられますね。鉄道史を無視しても興味があります。 狭い地域で長期間、活発な経済活動が営まれたことでは日本でも指折りかと思います。 土地利用の変化の激しさが面白い。いまだに瀬戸を掴み損ねている思いが強いのです。 たとえば写真家臼井薫さんの写真集を見ると、裸の子供に衝撃を受けます。陶土採掘現場の男たちも半裸でトロッコを押しています。 亡くなられたころに瀬戸市美術館で展覧会がありましたが、撮影年代は昭和30年代とのこと。 瀬戸線の踏切ですら撮影場所が判らない。狭い谷間から出ていない筈で、その狭い地域にどれほどの人が住み何本の煙突が建っていたのか。 その燃料を搬入し製品を搬出する手段が、瀬戸線です。 古い地図を見ると瀬戸の谷間に入る寸前まで、ぽつぽつと集落のある水田地帯です。瀬戸だけが真っ黒な市街地として表されます。 その昔、瀬戸線に乗れば、行く手の狭い谷間に何本もの煙突が重なる異様な景色が見られたかと思います。矢田川の水も白く濁っていたと聞きます。 小さな電気機関車が十数両もの貨車を牽いて日に何度も往復したことでしょう。尾張瀬戸駅は本来は旅客スペースの何倍もの面積の貨物扱い施設を持つ駅です。 電車は昭和24年の体質改善まで、単車を含む路面電車タイプの高頻度運転。戦時中は美濃町線モ510型が応援に来たとされる。 戦後までホームは低いままであったことは驚くよりほかにない。 (瀬戸線車両の転出で「近代化」される岐阜市内線ってどうかという件もあるがw) 貨物列車は、軌道法時代は電車に貨車一両程度しか許されない筈です。デキ導入で貨物列車になるのは地方私鉄になってから、です。 ですから、軌道時代に入換機は無いんじゃ無いかと思います。むしろ、貨車一両の牽引に駆り出されていたのでは無いでしょうか? 複線ですし、頻繁に貨物列車が行き来する光景が想像できます。 蒸気動車の整理は、鉄道法規に何かが適合しなかったからでは無いでしょうか。廃車は鉄道法移行の翌年の筈です。 瀬戸線は面白いですね。 でも調べても調べても、雨宮製蒸気機関車のことは判りません。 誤植じゃ無いんでスカ?(w >>168 “瀬戸電気鉄道1号機”についての記述は、私も鉄ピクの古い号で2つしか見たことがありません。 ひとつは1971年4月号の名鉄の記事。(寄稿者は加藤久爾夫氏と渡辺肇氏。) 旧瀬戸電の電車と気動車については詳らかに述べられていますが、1号蒸機については 在籍したことが述べられているのみ。 もうひとつは1972年2月号の淡路交通の記事。(寄稿者は藤井信夫氏。) こちらは洲本口(宇山)〜市村間開業当初の借入れ記録に関する記述のみ。 因みに、Wikipediaの記述も、この2冊を出典として書かれているようです(笑)。 8トン機が真実ならばセルポレー式の予備機でしょうか。 https://fr.wikipedia.org/wiki/Mat%C3%A9riel_roulant_du_tramway_de_Gen%C3%A8ve#/media/Fichier:1VEGi.jpg wikiから拾えたセルポレー式の画像で判明しているスペックは、これで自重10トンだそうです。 瀬戸線の同系機は一回り以上小型のようですので、自重からは一致する。 当時の電車は単車ばかりですので、8トンがレール負担力の限界なのかもしれません。当時の矢田川橋梁など細いですからね。 セルポレー式は廃車こそ免れているが稼働率は低かったされます。 稼働三両では足りないのではなく、満足に動かないので同等品を買ったのではないか。 その目的は、地方鉄道への鞍替えに伴う諸々の工事用ではないでしょうか。 Wikiに1920年〜1937年とありますが、雨宮の事情から見て1920年の製造に納得できるとして、早くも1922年に一旦不要になる。 1921年に地方鉄道になるまで大忙しで働き、翌年は暇になったという筋書きは出来過ぎか。 淡路の借入は1922年11月から翌年4月までのようですね。 セルポレー式が廃車になったという1922年と符合します。 セルポレー式の末期はやはり、ほぼ稼働しなかったのでしょう。しかし社内には熟練の機関士が電車運転士とは別に大勢いる(w そこで同クラスの蒸気機関車を一両だけ購入し、セルポレー式もなんとか動かして、信号機など地方鉄道に必要な建設工事を行う。 一段落したのでセルポレー式は廃車処分。雨宮は淡路に貸す。返還後は複線化工事どに時折使う。 全線複線化されると電気機関車も投じられ、雨宮は車庫の奥で眠りにつく。 購入から17年目で廃車というのは減価償却期間だったりして。 当時の単車がけん引できる貨車は、せいぜい一両が限度でしょう。 セルポレー式や8トン機は、貨車二両程度が限界だったのではないか。いずれもエアブレーキを装備できないとおもいます。 堀川駅まで来たんでしょうね。有名なサンチャインカーブを通る貨物列車・・・・。 堀川駅の大正時代の写真を見て、北側のホームが南側よりも背が高いですよね。 旅客用としては実質一面一線で、北側は貨物専用ということですね.。 他の貨物扱量の多い軌道線では見ない光景で、他では荷扱いは地面から貨車の床まで長い渡り板を斜めにかけて人夫が上下するのが当たり前でしょう。 セルボレー式の評価はこの、末期の印象が決定的になったんでしょうね。 製品としては決して粗雑なものではなかったと思います。まず外観は試作然とした感じが全くしない。 セルボレーも会社としては蒸気自動車のメーカーとして有名なようで、生産台数も少なくはなさそう。 ですから日本側の受け入れ態勢が調わなかったのでしょう。 瀬戸線の歴史の前半分、瀬戸電気鉄道の経営内容は判らないですね。 当線に限らず被合併企業の歴史は語られ難い部分があります。社史は、しばしば、自らに都合の悪い事実を書き残しません。 それは会社にとっても編纂の意味を揺るがしかねない問題ですので、社史編纂の外部委託が進んでいるわけです。 一昔前は、社史編纂室といえば窓際の象徴のようなポストでしたけど、派閥と縁を絶ったような立ち位置でなければ歴史の記述は不可能でもあります。恨まれても左遷のしようがない。 名鉄の社史も例外ではなく、最新のものほど「よく書けているなぁ」と思ってしまいます・・・・w 時代を経れば当事者への聞き取り調査も困難になるわけで、時間との戦いです。 話は変わりますがモンスター経営者のいる会社の歴史は難しいですね。 まず社史の類がまともではない。代表例が西武鉄道。西武が本当の意味での普通の会社になる目安は、社史を刊行できるかどうかに懸かっていると思います。 外部のライターから散々貶められた内容を会社自ら筆を曲げすに記録として残せるか。 越後交通も同じ。田中真紀子が大株主である間は「お父ちゃんの悪口」など不可能でしょう。 こうしている間にも、たとえば電化工事の当事者などはどんどん鬼籍入りしてしまいます。 裏返せば、社史を多数読むことで、外部から判る事象との差異があれば、そこに組織や経営の歪みを見出すことは可能になってきます。 不都合な経営者の存在ごと素っ飛ばすような社史が、他社の事例ですがあるようですよ。 朝日新聞社は、他社による戦前の大見出しの刊行を妨げました。軍国主義を煽った当事者そのものであった歴史が暴かれることを嫌ったためです。 新聞社は同族経営やワンマン経営が多くて、社史は面白い読み物になりがちだそうですよ。 メガバンクも社史編纂できるのでしょうか。旧行の対立が噂される「みずほ銀行」の歪みをどう客観視して残せるのか。 戦史編纂も筆の曲げ具合がいかようにも調整出来て、歴史家の注目の的です。 日露戦争の戦史は誰も責任を問われることがない総花的なものであり資料として信用に値せずと、司馬遼太郎から嘆かれておりました。 その司馬も自ら関わったノモンハン戦役の研究ではソ連側資料の欠落により判断を誤っております。 太平洋戦争の戦史を防衛省が編纂しておりますが、負けた戦争だけあって客観視には努めているようで研究者からも一定の評価を得ているようです。 しかしこれも、アメリカ側の戦果報告書との甚だしい食い違いがしばしば見られるようで記述の難しさを感じさせます。 アメリカは無批判に前線の報告を受け入れて真偽の検証を怠る傾向が強くあり、問題を引き起こしてもいます。南北戦争の戦史編纂でまだ南北間で揉めてるという噂も。 外国の戦史はどうなんでしょうね。 歴史認識の基礎資料となる自国の戦争の客観視を許さない政治情勢の国は、危ういです。 話が大きくそれました。 瀬戸電に戻りますが、今なぜ全く別の話にそらせざるを得ないかというと居場所の問題で名鉄社史を参照できないストレスがあるからであって・・・・・・w ただ名鉄社史ですが昭和33年版よりも百年記念事業版のほうが踏み込んだ内容になり、これが部外者の編纂関与による影響かどうかは判断しかねますが名鉄社内に何らかの原資料があることを示します。 資料検証の立場から見れば昭和33年版の編集で丸ごと省かれた部分がもしあれば、「行間を読む価値」が出て来ます。 商用交流電化の始まりについて、ヘレンタール線のことを調べています。 Wikiを中心に海外テキストの翻訳が中心です。 紙の本を読む、特に洋書を手に入れて辞書片手に一行づつ解読するという読書法は完全に過去のものになっています。 大昔はそうやって重く厚い本を楽しんでいた記憶があるのですが。 鉄道書は日本より海外のほうがハードカバーの歴史が古く、日本でも「トレイン」など盛んに立派な写真集を刊行してきました。 その歴史ももう終わるのでしょう。「レイル」が電子版になるときが楽しみです。 読書という習慣そのものが大きくスタイルを変えているのです。読書が廃れたとは思いません。 私はwikiや青空文庫へのアクセス数はありますし、youtubeの視聴時間まで含めると、読書とテレビの時間が新しい方法に置き換わっただけです。 そもそもの始まりは鉄道模型で、メルクリンの95型が大好きだってことです。 小さな動輪が多数ある機関車が、動力方式を問わず好きなのですね。C62は嫌いです。 そうなるとヘレンタール線専用機ですので編成を組むとなると調べねばならない。 洋書頼みでは難解で小さな版のドイツ語文献しかなく、読書を妨げていた。 ところがwikiのドイツ語版などの充実ぶりは目覚ましく、絶壁が溶けて消えてしまう。 ヘレンタール線の支線にドライゼーンバーンという路線があるのですよ。 ドイツという国は線路に路線名が付いたりつかなかったりする不思議な国で、たとえばライン西岸線というのは大雑把な路線の集合体で、日本の東海道線に諸々の貨物線がついてくるのと似てる。 ただし定義は難しく文献により終点や範囲が違う。 どうも法律でも明確でないというか、分邦鉄道時代はまた別の名前、二度の戦争もあって名称が二転三転しているためか、文献ごとに筆者が分かり易く説明しようと悪戦苦闘している気配を感じる。 支線は固有名が付いているケースが多いが、それよりも最近はSバーンの地方への浸透により系統番号のほうが幅を利かせて路線名は使われていないようなケースがある。 ルクセンブルクのような隣の小国は全土系統番号だけで問題の収拾を図っている模様。 やはり命名基準がないことが利用者にも判り難さとなって受け取られているんでしょう。 ヘレンタール線は昔からヘレンタール線で、固有名として定着してます。 商用交流電化の試験のためか、地理的に独立しているからか。ヘレンタールというのは訳せば地獄谷だそうで、通過する著名地名を路線名としています。 「地獄谷」が例えば「箱根八里」のようにドイツ文化圏で浸透しているので、ドイツ人誰でも分かり易いアイコンになっているのですね。 そのヘレンタール線から「ドライセンバーン」?なる路線が支線として分岐しています。 このドライゼーンが判らない。三重線という訳語が出てきて困りました。ドイツ語で13というのは綴りが違うけど、13番線なる路線名が山奥にありうるのか。 地名ゆえに何かを足した合成語だろうけどドイツ語の素養は全くない。 しばし困った末に,wiki英語版を和訳してみて疑問氷解。 三つの湖をめぐる路線という意味なんだそうで、やはり単語を合成した造語らしい。 三湖線とでも訳しましょうか。 これで、小一時間を費やしている。やれやれ。 >>172 YouTubeに“昭和初期のせとでん”と云うタイトルで動画が上がってます。 https://m.youtube.com/watch?v=OnGpdQTevZY 矢田川鉄橋がまだ単線ですが、デキや半鋼製ボギー車がデビューしているので 昭和2〜3年頃の撮影と思われます。 素晴らしいですね。 逆ハの字に上が広がった木製架線柱。 故意に枕木を埋めて、さりとて砕石ではなく土で埋め、しかし道路としては使わない軌道。 いずれもいつのまにか日本から消えました。 尾張瀬戸駅の、自動車の数が多過ぎw 凄まじい好景気なのか。 二つ目玉、付随車牽引してますね。乗客も多い。 当時最も成功した電鉄の一つではないでしょうか。 これだけ連結した列車が多いと、終点での付け替えが気になります。 尾張瀬戸駅は良くわかるのですけど、堀川駅ではどうやっていたのか。 側線が気になります。映画でもチラリと出てきますけど、手前に客車が入っています。 これが入換方法を物語るのではないか。 >>177 時代的には昭和恐慌の直前ですね。 瀬戸電自体も羽振りがよかったのでしょうね。 全線複線化工事を一気に進め、電機2両に鋼製ボギー電車10両を投入した頃。 (明治末期に投入した単車を9両廃車したのもその頃、と云われています。) 矢田川鉄橋を渡る貨物列車、何故か懐かしい気分になりますね。 私の小学生時分(昭和40年代後半)もあのような貨物列車が走ってました。 デキの屋根上こそパンタグラフでしたが、国鉄の貨車数両+しんがりに小柄な 木造ワフをしたがえていたのは同じ。 因みに私が見た最長牽引は8両(国鉄ワム7両+ワフ)でした。 小幡駅を通過する貨物の中にワム90000によく似た「ポム」の記号を見つけて 帰宅して早速「ポムって何だ?」と鉄道図鑑を調べたのも懐かしい思い出(笑)。 せとでん100年という本のp18に雨宮製蒸気機関車の写真がある。 若干不鮮明だが040の、1067ミリ用に見えない小型機。 しかし車両紹介では全く取り上げていないようだ。 瀬戸電時代の車両一覧表からも抜け落ちている。 本当に謎なんだろうね。 パンナム、パンアメリカン航空のブランドは今、米北東部の田舎鉄道会社が所有している。 http://www.panamrailways.com/ https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/Mec_31933_08-04-2005.jpg お年寄りには懐かしいパンナムのマークが入った貨車があるらしいのだが、田舎過ぎて数が少ない。 おまけにインターモーダルの浸透でボックスカーに出番が少ない。 北米のファンでも、見かけるとちょっと嬉しいネタとなっている。 何で北東部の鉄道が気宇壮大な、ということだけど、実は距離的にヨーロッパに一番近い。 だからこの大き過ぎるブランドを掲げる行為も、一種の伝統なのでしょう。 European and North American Railwayという冗談みたいな会社が実在した。 なんとかパシフィツク鉄道という企画倒れ会社が米中西部に数多くあるが、こちらは大西洋が間にあるのに気にしないという破格のスケールで迫る。 「京福電鉄」で京都と福井の間ガーなどと悩む島国根性が、恥ずかしい。 この地域は似たようで少し大人しい、でもローカル線には似合わない大袈裟な名前の鉄道がしばしば歴史に出てくる。 現在では航空機の航続距離が伸び、軍用では空中給油機が当たり前になって、北東部の空軍基地はほぼ消滅したようだ。 第二次大戦中は英国へ空輸される戦闘機などは当地に集結し、増槽まで燃料満タンにして、長い長い滑走路をえんやコラと離陸していったという。 それでもギリギリの航続距離という機種が多かったみたいだ。 船で運ぶとUボートに遭って全損するかもしれないので仕方がない。 冷戦時もアイスランドや北欧に最も近い米本土とあって、B52の根拠地として重要だった。 冷戦終了とともに膨大な燃料輸送が途絶え軍人家族も引き上げ、鉄道会社も潰れ再編成された。 かつて飛行機で世界と結ばれ栄えた地域の歴史を継承するための、パンナムブランドなのでしょう。冷やかされても気にしない。 鉄道模型、パンナム鉄道、格好悪いんだよネええ・・・・w(有個人差、しかし認めん 群青の濃いめの色は夜間や荒天時の視認性最悪では? 実物はライト点けっぱなしだから関係ないのか。 汚れが全く判らない色であり、実物写真見ても埃だらけに見える機関車が多い。 >>179 > せとでん100年という本のp18に雨宮製蒸気機関車の写真がある。 名古屋近辺の図書館ならあるはずなので探してみます。有難う御座います。 余談ですが、>>180 パンナムと聞くと私はどうしても、昭和時代の大相撲千秋楽の デヴィッド・ジョーンズ氏を思い出してしまいます。 あぁ、昭和は遠くなりにけり。。。 表彰状という文章があるとつい、ヒョーショージョーと読んでしまう私ですけど、若い人には通じなくなりましたね。 パンナムを調べていて気がついたのですけど、戦前の太平洋便はミッドウェー島からサイパンまで南下してフイリピンを通り香港へ向かうのです。 1930年代半ばの事ですけど、そこまで日米関係は悪化していたのか。 羽田に来るのは戦後のことです。東京湾に大型水上機が飛来することを、日本は嫌がったのでしょう。 >>182 航空会社の目的が太平洋横断であり、目的地が日本じゃ無いだけ。 えっと、一行では説明が全く足りないと思います。 航空会社の目的は商業航路の開設にあり、記録に挑戦する事ではないと思いますよね?「太平洋横断」自体は目的ではないです。 利益を得るために新しい航空路を模索するのです。 それになぜ日本を目的にしなかったのかという謎を大きくしますね。 当時、横浜航路などの商船航路は花盛りであり、客を奪うには絶好の相手であるはずです。 パンナムはなぜ需要(利益)が見込める日本に寄らず、営利企業としては狂気の沙汰であろう「太平洋横断」という記録に固執したんですか? いま現時点でもたとえば「世界一周に挑む航空会社」などという記録に挑む航空会社がいたら、正気を疑うと思います。 別にパンナム(航空史)に興味があるわけではないのでどうでもいいです。 ただこちらも色々調べているうちに、太平洋航路開設にしては不自然だと既に考えていたから納得できないだけの事。 >>185 商業としての目的地が横浜ではなく大陸であり香港だっただけ。 太平洋航路っても、太平洋横断が目的ってわけじゃないしね。 パナマ航路って言ってもパナマ運河通過の観光旅行なわけないし。 >>185 要らん解説がどうでもいいとか言うんなら、このスレの大半の書き込みがそれだぞ ここ一応12mmスレなのに、無関係な解説だらけだぞ いや、もはやここは要らん解説のスレですからw しかも個人的見解ですから。 あえて言えばパンナムや初期の太平洋の航空路に興味がある人が居られるのなら、自由帳として使っていただいて結構です。 要らん解説は、その時点まで興味が薄くても刺激を受けるやも知れず面白いですから。 うんだから過疎スレの目的外乗っ取り専有をすんなって話ね ちゃんと目的に沿ったスレ立てて、過疎スレはそのまま落とせって事 嫌です。 念を押しておきますが、別にこのスレに執着している訳ではないので、ここで邪魔をしても移動するだけです。 読者を想定しておりません。 こうしているのも無駄なやりとりですね。 このスレに執着してない、読者を想定していないのならば 自分でブログ立ててやればいいのに。>>191 廃物利用ですよ。 誰かに迷惑かけてますか? 他のスレに移動しましょか?w 別にあなたの機嫌を伺う必要は無かったんだったねゴメンなさい。 私の次の行動は、私の自由です。 誰かに迷惑かけてるかと聞いたやつが、他所に迷惑かけに行こうとしてるんだから世話ねえわ 構ってもらえて嬉しそうだが、キチガイのやる事を遠巻きに見てるだけだぜ?(たまに口は出す) たまに、だからな? そうそう遊んでもらえると思うなよ うっはw謎の上から目線、何の役にも立たないクズw おっといけない時間の無駄だ。 ドイツなどで車輪が三軸の短めの客車を二両、半固定連結にする事がある。 理由がわからなかったけど、最近、最高速度向上のためだと判った。 やはりというか、三軸車両は高速では走りにくい。 そこで二両を組にして、その間のバッファに数トンの圧力をかけて普段外せないようにする。 そうすると、安定性が向上するんだそうだ。 日本にはほとんどない車種なので、面白い。 >>199 二軸運材車は2台の間を丸太で固定してボギー車としてひかれてるよ。 目的が高速ではないだけで。 それ、丸太だけだと牽引力でスッポ抜ける事があるそうですね。 米のディスコネクトログカーの場合は、先方は丸太の直径が大きくて重いので自重で抜けない。丸太の定尺も長く20mぐらいありそうな写真を見る。 しかし日本は、場合によっては直径30センチを切ったり、定尺8mでしたっけ?積荷は軽い。 そこを十組以上の列を連ねる訳で、スッポ抜け事故の話を聞きます。 木曽などは丸太の定尺を厳しくして台車間を連結棒で結んで丸太に牽引力が伝わらないようにしていた筈。 またまた米では細い丸太はディスコネクト台車に載せない規制があり、代わりに長物車の枠組みのような特殊な運材貨車がありました。 ケィディがしっかり製品化してますけど、その使い分けまで知る人は少ないと思う。 >>201 ディスコネクテッド・ログカーとコネクテッド・ログカーと、フラット・ログカーの使い分けをごちゃごちゃにしてません? ぜひ解説してくださいな。 1級鉄道などへの乗り入れ条件なども絡めながら。 どうして素直に知らないので教えて下さいと言えないのか 私は色々な考え方があるし各自が自分の考えを言えばいいと思ってるんですけど、どーしても勝ち負けにしないと我慢できない心の病を抱えた人がいるようで。 ログカーには様々な形式があるし、踏み込めば泥沼だと思ってますよ。 航空機の時もそうですけど、どんどん意見を言ってくれて構わないんですよ。 理解し難いのは、それら全て、勝ち負けのフォーマットに乗せないと発言も出来ない病んでる人が多いこと。怖いのかなあ? >>205 キミがマウント取れる日が来るといいね。 ひとつ前の発言ぐらい読んでくださいよ。 あなた、ここで自分なりの見解も述べずに立ち去ったら、あなた自身に対しての負け犬ですよ。 見解を述べる勇気がないのですか? >>208 なぜいちいちマウントを取らずにいられないのかw 好例として蒸気好き氏を挙げさせてもらいますが、氏の意見に「ん?」と思う部分があってもいちいちひっかけません。 他の人がどんな史料に目を通しているのか判らないし、同じものを別の角度から見ればカタチが違うのは当たり前です。 むしろ予想外の形を示してくれることが有難くもあります。「ん?」は宝物としてとっておいて、頭が冷えてから自分なりに深めています。 他の人が私よりも楽しくこの場を使ってくれるのなら、私はその間は黙って引きます。この場の占有が目的ではないからです。 その、ステージに、上がれない人がいる。 これはマウントとかそういう類の可愛い問題ではなくて、もっと相手に関して深刻な要素があると思います。 相手は言葉をそのまま混ぜ返せば対抗できていると思っているみたいですけど、そもそも対等な場に上がれていない。 これで遊んでやっているとか強がりを重ねるわけです。己の意見を言う勇気もないくせに。 >>199 ドイツでは客車が必ずしも“牽かれるもの”とは限らないから、と云うことも 関係してないでしょうか?(※個人の見解です。) 朝日新聞社の“世界の鉄道・昭和51年版”にいわゆるペンデルツークの写真が 載っていますが、運転室付きのボギー客車と小型DLの間に3軸小型客車が2両 挟まってます。速度もさることながら、こういう使われ方が定期の営業列車で 当たり前な国なので、走行安定性を高める必要があったのかな、と。 ペンデルツークが日本で実用化された例はJR北海道の“オクハテ”など数例 あるようですが、いずれもジョイフルトレインの類にとどまっていますね。 >>211 大井川とか。 嵐山のトロッコとか黒部峡谷もでしたっけ。 >>203 がある意味マウント行為だという自覚がない子が占拠したがるスレ 三弦橋?夕張で湖に沈んだ、トラス三枚を断面が三角形になるように組み合わせて内側に車両を通す鉄橋。 ダム湖の水位観測施設や水道橋では当たり前に見るけど、中を車両を通すには狭いので国内の鉄道橋では夕張の一例しか知られていない。 アレを上下逆にして三角形の平面を頂辺にして、上に線路敷けばいいんじゃないかという実例をドイツで見つけた。 ライン川の洪水で流された鉄道橋の、どうしますか困ったねというYouTubeの動画で橋台に残された桁の断面が逆三角形だったのです。 橋台に乗る桁の端部の作りに少し無理を感じたけどね。 ドイツの蒸気機関車が、戦後に軒並み溶接ボイラーへ換装している。 それは以前から知っていたが、ドイツは性能向上のため絶え間ない努力を続ける技術の国なのだと解釈していた。 事実は、そもそも製作したときに選定した特殊鋼材に問題があり、急速に劣化し、いつ破裂するか判らない状態になったため。 戦前の段階でボイラー圧力を設計値からいくらか落して使用していた。 戦時設計世代は問題発覚後の改良品なので大丈夫らしいが・・・・・。 戦後になり車両不足の中で危機的な状況を迎え、西ドイツも東ドイツもそれぞれ全溶接ボイラーを大量に製作し換装している。 へー知らんかった。技術大国のメッキが剥がれそう・・・・w ボイラー換装は日本でも戦後に戦時中に生産されたD52等で実施された。 >へー知らんかった。技術大国のメッキが剥がれそう・・・・w 不良品はボイラーに限った話ではなく ドイツから輸入したDC10形、DC11形ディーゼル機関車の故障頻発や 水中翼船のMB820Dbエンジンのガスケットに関する設計不良が報告されている。 水中翼船"伊勢湾戦争"旧聞 dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111C0000001-92.pdf すごく羨ましい人生を発見。 ポールセン・スペンスさん。1895年生まれ1961年没の米国人。 高圧蒸気配管の調圧バルプの発明で知られ、ニューヨークで手広く商いをして第二次大戦中に軍需生産で大いに稼ぎ、戦後まもなく莫大な特許収入を確保しつつ経営を離れて自由の身となる。 氏は郷里でもないルイジアナに転居して、実に不可解な行動をとりはじめる。ルイジアナでは当時、川砂利の採取業が将来有望と言われていることを知り、採取業をおっぱじめた。 この川砂利屋が、鉄道趣味的に大迷走し始める。その最大の要因が、経営者であるスペンス氏が特許収入で潤い、全く金に困っていないこと! 採取同業者にとっては実に扱いにくいライバルであったそうだ。 では何のために事業をするのか。スペンス氏が突然の死を迎えたことと、自身の手記などが見当たらないため、この点が謎に包まれている。 ひょっとしたら、大義名分を得るための偽装が目的なんじゃなかろうか。 彼は、砂利輸送用という名目でショートラインを敷設し、何両か蒸気機関車を買ったのです。本物。 うわぁ・・・・。 以後、次から次へと買うわ、買うわ・・・・。ディーゼル化の圧力が激しい当時、各地で荒れるに任せていた蒸気機関車をどんどん買い漁る。 ほとんどが稼働状態になく、近隣鉄道の工場に持ち込んで再起のための修繕を依頼した。細いレールでは持たないと知ると太い中古レールに敷き替えた。無限の資金力。 どんどんコレクションの数が増え、スペンスさんは場所が足りないと思ったのだろう。 かなり大規模な入換小鉄道の敷設計画を、真剣な裏付けがあるという計画をぶち上げる。その動力車はなんと、すべて蒸気機関車! 1950年代のことで、さすがに当局も真意を疑ったらしく計画は取り上げられなかった。 氏は、中古の蒸気機関車を数十両購入したほうが安上がりで運行経費も優れていると主張した。予定線は平坦なのでライドミカドもしくはヘヴィーパシフィックの単機牽引で貨車100両程度は問題ないとも。 遠大な計画は進まなかったが、その間もスペンス氏は自腹で周辺各社から引退してゆく蒸気機関車の購入を続けた。業界内で相当の有名人になったことだろう。 希少な古典機も含む何両もの活きている蒸気機関車が、鉄道ファンの目に留まらぬわけがない。 撮り鉄が大勢押し寄せるが、ある一人はスペンス氏から、撮りたい機関車があれば勝手に動かしていいよ、と言われたとか。私有地で所有者が言うのだから問題ない、のか・・・・? 夢は長く続かない。スペンス氏の天命が尽きた。 1961年、旅先で心臓発作を起こして亡くなってしまう。遺産管財人は蒸気機関車に興味を示さず、丸ごと動態保存への望みは絶たれてしまう。 数十両ものコレクションのうち4両だけが救い出されて遊園地などに現存するか、大半は美しい記録写真を残してスクラップにされてしまった。 形として残らないのは誠に残念ではあるが、なんとも羨ましい銭の浪費であることよ・・・・。 鉄道模型ではなくて、鉄道を敷くという鉄道趣味が本当にあるとは。 D&GRNの元ネタだったりして。 入換機ですから、連結時に衝撃が大きいと丸棒がゴロゴロ―ッと転がって戒めになる?・・・・w 名古屋市電800型はオーパーツの様なものと思っていたけど。 戦前ヨーロッパでは似た様な駆動方式の電車が覇を競っていたのですね。 超軽量車体も、第二次大戦の寸前にはいくつか形になっていた様子。 海外文献をよく研究したうえで、戦後に機会を得て実践をしてみた電車なのでしょう。 惜しむらくは、独自の開発では何かか足りない経験不足でしょうか。 超低床電車も戦前から欧米で先行事例があり、戦後に戦前から連続するチャレンジがあって初めて大成したもの。 ドイツとベルギーの国境に面白いトンネルを見つけた。 国境の丘陵地帯をトンネルで抜けるわけだが、建設限界が狭い。電化工事の際に拡幅したが、まだ一部の貨物列車に対しては狭い。 そこで複線断面のトンネルの、複線の中央にもう一本線路を敷き、限界を超える断面を持つ列車が通過する際はトンネル中央の線路を通すことにした。 中央の線路を列車通過中は、単線扱いとなる。つまり、ガントレットのようなものだ。 日本で類例は聞いたことがないが、なるほどと思ってしまった。 この工事ができたのは1991年のこと。それまでは大型貨物輸送のためだけにトンネル無しで峠越えをする線路(旧線?)が維持されていた。 このローカル線のドイツ側は既に線路も撤去されているが、いまもベルギー側だけが残され、鉄道愛好家らしき人が使っている。 なぜ廃止できないのかは判らない。 曲がっているトラス橋梁というのが話題になったことがある。 上から見てハの字、片側が広がっている橋梁はご存じだろうか。 線路の上に枠がないポニートラスと呼ばれるタイプだが。 ニューヨーク地下鉄のリヴォニア・アベニュー駅Livonia Avenueの少し南150mほどのところ。 地下鉄高架線から分岐し、ロングアイランド鉄道の側線を跨いで保線基地らしい区画へと入ってゆく。 その保線基地?も興味深いが、側線を跨ぐ橋梁が、上から見てハの字になっている。 地下鉄線路のS字曲線が急過ぎてこうなったらしい。 イギリスのディーゼル機関車の歴史は死屍累々。特に草創期には変態的な作品が並ぶ。 蒸気機関車末期もすごいし同時代の飛行機もすごかった。大英帝国どうした。 ディーゼル機関車だが現在はアメリカの技術を無理やり縮小車両限界に押し込んだ様な機関車が主力なのは皮肉というか、可哀想だな。 で、class 17という機関車を調べてみてほしい。 DD 51がおる!笑ってしまうほど似ている。まぁ中間台車はないし電気式なので全く違うと言えば違うんですけどね。 wiki読むとボロクソに書いてある。 エンジン二個を端に、運転室を中央にというアイデアは視界確保のためだったが実際は視界が悪かったとか。 ほんとダメダメな機関車だったらしいですね。 不人気ゆえに模型化が最近になったおかげで、結構良い模型が出ている。物欲が騒ぐ。 DD 16と言われるとつい、物欲がくすぐられる。 これは買うかもしれない。買ってしまうかも。 wiki外国語は情報の宝庫だ。 米国の鉄道速度 列車の向き などなど日本語項目にはない事柄が特に面白い。 例えば米国では >多くの鉄道は、東に走る同じクラスの列車が西に走る列車よりも優れていると指定しています。 単線区間で待避線に入るのは、原則として西行列車なのだそうだ。 へーーー!(100へえ オーストラリアでは >シドニーからメルボルンに移動する州間列車は、オルベリーで州境を越えるまで「下り」列車であり、そこで分類が「上り」列車に変更されます。 へーーーー!(2000へえ よく事故が起きてないな。 国境地帯の鉄道には非常に興味があります。 ドイツとベルギーの接するところは両大戦での激戦地にも近く、鉄道路線に影響が大きい。 東西方向にも南北方向にも廃線があり、国境の移動や分断が影を落としている。 同じ西側に属し同じEU圏でもこの有様だ。 東西ドイツ国境やドイツポーランド国境など、触れば何が出てくるか判ったものではない。 ソ連が絡むと底なしの泥沼だろうが、しかしwikiの記事量が増える見込みは薄い。 まず東西方向の廃線だが、シュリーフェンプランを支える兵站輸送線がある。 路線記事に民間輸送をさほど考慮していないとあるから驚きだ。 ベルサイユ条約でベルギー領になり、第二次大戦の開戦初日に撤退するベルギー軍により橋梁が爆破され使命を終えた。 つまり、ほぼ、両大戦間にしか存在しない鉄道路線という事だ。 しかもこの東西方向線は本来あるべき企画の西半分に過ぎない。 幻に終わった東側は第一次大戦の停戦により着手の機会を永遠に失ったという。 南北方向は、隣国ルクセンブルグとアーヘンを最短距離で結ぶ路線として企画された。 計画時点ではルクセンブルグ国境から北は全てプロイセン領であり、後に起こる問題はなかった。 しかし第一次大戦で路線の経由地が、継ぎ接ぎでベルギー領に編入されてしまう。 またまたベルサイユ条約では、両端が外国になった鉄道の管理権について規定する項目があるという。 ドイツとベルギーの間を行ったり来たりするので、素直に読めばドイツ側が管理権を主張しても構わない筈だ。 しかし戦勝国ベルギーが強く、線路敷地もベルギー領になるのでドイツには飛び地がいくつも出来てしまった。 ベルギーは飛び地も全てベルギー領に編入せよと迫るなど、大変であったようだ。 これで、この南北方向の路線も命運が断たれてしまう。 EUのような関税同盟が無いわけですよ。ルクセンブルグを出てドイツ領アーヘンにたどり着くまでに、何回国境を越えるやら。 ベルギー税関職員との折衝や納税が面倒くさくて、そのままローカル線へ転落した。 第二次大戦で侵攻したドイツ軍によりすべてドイツ領に編入されるのだが、数年後のバルジの戦いで戦場になる。 戦前のドイツ国境の良い目印だということで、アメリカ陸軍は反撃の到達目標にしてしまう。 この線路を越えたらドイツ本土に侵入したということですね。鉄道が無事で済むはずがない。 戦後もベルギー国鉄により管理されるが、2002年に最後の区間も運行を終えた。 この地域は大きな凸凹が多く、路線のルート選定は大変に難しかったようだ。 どの鉄道も、直線距離の倍近い迂回ルートで距離を稼いで線路を敷いている。大きな橋梁や180度におよぶループ線が多い。 その廃線ですから眺めも良く、サイクリングロードになっている場所が多い。 架空の鉄道は難しい。 まず自分自身を騙さねばなるまい。 自ら書いた文章を寝かせておいて、読むと騙される域を目指したい。 万葉線のことが判らねえ・・・・今までの理解が浅かった。 万葉線の歴史を、越中電気鉄道から解きほぐしつつ国鉄新湊線も絡めてスッキリと解説したい!! 特に現万葉線の新湊駅(現六渡寺駅)と現JRの新湊駅(現在廃止?移転改名により消失)の関係。 六渡寺という中州のような場所の意味。 まずこれが鍵だった。余所者の悲しさか、庄川河口部が明治時代に付け替えられていたことを知らなかった。 六渡寺は幕末の新湊では不可分の一部であり、だから現在も小さな道路の筋が庄川を跨いで川の両岸で連続している。 (これは現地で六渡寺の存在に興味を持ち、さ迷って地図も見た筈なのだが、うかつにも気が付かなかった) 東西に大きな新湊を分断するように、庄川と小矢部川の分離工事が行われ、いまある庄川河口部は人為的に造成された人工地形です。 六渡寺集落はこの工事の結果、両河川に挟まれた中洲のような場所になってしまった。 そう考えると「新庄川橋」の古さも合点が行く。何度も通りながら歴史のある古い橋だとは感じていた。 集落を分断する事業の補償案件なので,地域で一番古い橋という事になるらしい。 現在架け替えが決まっているが、現存する古い側の橋よりさらに遡って明治時代の橋梁があった。 六渡寺集落は新湊の、不可分の一部である。いまも祭礼などで庄川を間に挟んでなお、結びつきは強固なことだろう。 これが何年昔の事案の補償であることかと踏まえると、人為的に地形を変更した結果の補償である渡船が簡単に廃止できない事情も見えてくる。 また六渡寺集落の現状は、港口切断反対運動が過熱化した遠因ではないだろうか。 話を線路に戻す。 いま六渡寺駅と呼ばれている駅の名前が、万葉線と現JR線で何回か駅名が変わっている。 同じ場所にあり、違う駅名であった時期がかなり長い。 国鉄は、中越鉄道として1918年に先行開業し、新湊駅という名前で旅客営業をした。 幅広い庄川下流部があるが、既に橋はあるし、六渡寺集落は新湊の一部というアイデンティティもある。問題は少なく理解はできる。 その後に1933年、越中電気鉄道が伸びてきたときに、問題が起こる。 越中電気鉄道は富山市方向から「新湊の市街地を半周して、庄川を渡り、国鉄線と接続を持った」 こちらの立場になって考えてみよう。新湊中心部をすでに通りすぎて庄川も渡ったのに、そこにある国鉄駅が新湊駅とは混乱するじゃないか。 そこで越中電気鉄道はややこしいことに、国鉄新湊駅に隣接して「新伏木口駅」と命名した。 せめて六渡寺駅にしてやれよと思うのだが、営業上の理由がある。 六渡寺と小矢部川対岸の伏木市街地を結んで渡船があり、電車線はコレに接続して伏木から集客したいのだ。 富山へ行くのに、高岡経由で汽車に乗るよりも渡船を使って電車に乗ってくださいよ、ということ。 翌1934年に「新伏木港駅」に改称する。越中電気鉄道は駅名改称について大変に尻軽であり、他の駅も改称履歴が多い。 しかし終点を改称しては訂正する場所が多くはないかと、要らぬお節介を焼きたくなる。 ところでこの河口部、新湊港なの?新伏木港なの?双方に言い分がありそうで、六渡寺の意向が気になるところ。 数年後1939年、この問題が解決する。伏木港から岩瀬港までの幅広い地域の港湾設備が行政面で統合され、「伏木岩瀬港」になる。 同時に「新伏木港駅」は「新湊駅」に改称する。 国鉄線とめでたく同じ駅名になったけど、越中鉄道としては旅客の案内で大いに問題アリ。 既に述べたとおり富山市方向から順に「東新湊」「中新湊」ひとつおいて「西新湊」を経てから「新湊」駅という順番になる。 浦和問題よりも酷いぞ。遠来の客は新湊中心市街地を通り過ぎて、新湊でも場末の六渡寺(失礼)で降りてしまう。 改称の原因は伏木港が無くなったからか。それよりも渡船連絡客が定着しなかったのだろうか。 それらよりも、周辺に工場の立地が相次いで貨車の扱いが急増したからではないだろうか。 貨車受け渡し駅の駅名が違うことの面倒くささは想像がつく。 戦後1951年になり高岡軌道線が開業したことを機会に、国鉄線が旅客営業を廃止した。 国鉄新湊駅は貨物駅となり、揃える理由は薄くなった。 しかし駅名が六渡寺駅になるのは実に1985年のこと。 この間1959年に加越能鉄道へ軌道線が譲渡され、新湊駅は会社の分割位置になった。 1966年に港口分割が行われ、鉄道線も加越能鉄道へ譲渡された。 改称の機会はあった筈だ。 穿った見方だが、分離後も東新湊にある日本高周波鋼業へ貨物輸送があった。 新湊貨物駅において貨車の受け渡しが行われ、デキ6501型が活躍していた。 この貨物列車、廃止時期がはっきりしない。それどころか写真が一枚も見当たらない。昼寝を貪る電気機関車の写真が数枚あるのみ。 デキ6501型も従来除雪用と説明されることが多かったが、他に小回りの利く古い電車が除雪専用でおり、こんな小さな電鉄に二種もいるものか。 貨車受け渡しに同じ駅名であった方が都合がよく、譲渡時も分割時もチャンスを逃したのではないだろうか。 デキ6501型の廃車は1973年のことで、既に稼働状態から退いて長かったらしく、貨物列車の最終日は判らない。 以上 庄川水力電気専用線の電気機関車について 形式は「庄水3号型」だとされる。でも複雑極まる改番の履歴の中で、KEL型という不思議な形式が頻出するのです。 しかも譲渡先の複数の会社で同時に見られる。KELをデキに改番したのに合併で再びKELに戻した車両さえある。 庄川水力から地方私鉄へ譲渡されるより前に、「庄水」から「KEL」へ、改称されていたとしか考えるしかない。 カワサキの電気機関車という意味なんでしょうね。譲渡を受けた私鉄各社は現車をKEL型であると認識していたはず。 専用鉄道は届け出がいらないので改番履歴はわからないままだ。無届でオープン客車の運行もしていたという。 デキ6501(元KEL3?)元とデキ6502(元KEL1?)は1943年から1950年まで射水線に配置され、同線の貨物最盛期を支えたのだろう。 1950年にデキ6502型が笹津線へ移動、一両減車になる辺りに射水線のささやかな輸送量が偲ばれる。 それからデキ6501一両で孤塁を守り続け、加越能鉄道により1973年まで生き延びた。 その後1975年に笹津線が廃線となるとデキ6502が射水線の富山市側に移動し、1980年に射水線廃止により富山南車庫へ移動している。 加越能鉄道の区間が1966年まで元射水線なので、一度読んだぐらいでは混乱してしまう。 デキ6501型は1966年の港口切断まで四方車庫で検査を受けられたであろうが、地鉄から加越能へ譲渡されてからは米島口車庫に出入りした訳だ。 併用軌道をゴロゴロと走っていたのだろうが、貨物列車が走っているうちは新湊駅の行き止まりの側線で昼寝を貪っていた。 さすがに毎日路上を走らせることは気が引けたのだろうか。 海をゆけば、海を見る鉄道の好ましさを考えてしまう。 小さな造船所のスロープのレールも触りたい。 漁港の片隅に赤錆色の平行線を見ると、その場へ行きたくなる。 雨脚が強くなってきた。 庄川争議に出てくる、流木権って何だろう。 電力会社は県から森林鉄道の類を建設しろと命ぜられ、それは承諾されている。 だから木材輸送手段は出来上がる予定だった。 しかし、地域の多くの人が筏流しで現金収入を得ていた、のだろう。 森林鉄道に反対し、このまま筏流しが続けられる事を権利として主張したのが、流木権という、他所ではあまり聞かない言葉なのだろう。 争議に触れた文献は結構あるが、この前近代性に触れた論文は見たことがない。 地域に国有林が多ければ、業務内容の改善ということで運送方法の変更も命令で済んだのだろう。 民有林が多かったのではないか。 林業の単位が小さいと輸送量も小さく分割されてしまい、森林鉄道に馴染みにくくなる。 吉野杉で有名な吉野がこの典型で、あまり大きな森林鉄道を見なかった。 その中で高野山森林鉄道が目立つが、コレ高野山が突出した山林主だというオチじゃないの? 敷設事には所有は過去形でも良いけど、大きな一塊の山林がそのまま維新後の林業の単位として引き継がれたのが高野山付近だけ、とか。 話を庄川に戻すけど、森林鉄道には使いにくさもあった、ということだろう。 庄川上流部に電力会社の手で作られたのは道路であって鉄道では無かった。 森林所有が分割され過ぎていて、トラックで運べる様な単位でしか丸太の出荷がないのだろう。 この森林鉄道の話は独り歩きしたらしい。 上流部に利賀村という自治体があるのだが、高山本線を起点にした森林鉄道予定線の密な路線図が存在するらしい。 それは交通機関に恵まれない山村の切ない夢、なのだろう。 利賀森林鉄道というのは、仮想鉄道の可能性の一つだと考えている。 吉野鉄道は、近鉄に呑み込まれて幸せになれたのだろうか。 大阪鉄道と早くくっ付いて耐え凌げば、戦後に戦時統合から分離できたのではないか。 フランスの交流電化の始まりを解説する仏の動画。 字幕はないが画面を見ていると流れは掴めて面白い。 でもしかし、仏の試作機だけちょろっと紹介してドイツの努力をろくに説明してないのはどういう事だw 独仏でも微妙な問題では仲が悪い、ただ間を取り持つ人の活動が目立つだけだ。 >>241 周回遅れでゴメソ。 吉野は近鉄(大軌)に呑み込まれる以外に生きる途があったのかな? どこの会社も経営難に喘いでいた時代に。 それと、あの小私鉄の、あの輸送量に、何故あの馬鹿デカい電気機関車。 まさか国鉄の客車でも牽くつもりだったのか? 一応、畝傍と吉野口で線路はつながっているけど。 吉野鉄道の電気機関車ですが、畝傍駅からの国鉄客車直通を目論んだもの、だと思います。 デ51型は、実は弱め界磁に重連総括制御装置付なのです。 おそらく畝傍駅から樫原神宮最寄駅までの平坦な短区間は単機で、そして吉野までは重連を想定したのではないか。 国鉄客車の7両〜8両ぐらいなら勾配もグイグイ超えて吉野川橋梁を渡ってゆけそうです。 ただ、乗り入れが実際に行われたかどうか判らない。 ともあれ、わが国の1067mm私鉄電気の中で、新製時に旅客目的であったことが確定している数少ない事例です。 大阪鉄道と吉野鉄道には、吸収された身として「実は言いたかったこと」が沢山あったように思えます。 近鉄の社史は大軌視点からしか綴られません。大阪鉄道と吉野鉄道の間で交わされた会話や将来構想など大軌も詳しくは知らないでしょう。 その辺りが、物語作者としては常に気になります。気に障ると言ってよい状態。 実際起きなかったことには起きない理由がある。 でも、南海鉄道が現在の南大阪線を抑えず放置した理由が全く判らない。 河南鉄道は大阪側親会社(関西鉄道)が国有化され、高野山側が南海になることで意義を失ったも同然でした。 そこで大阪を目指すわけですが、発想が大胆過ぎる。河南鉄道沿線には大都市がない。 関西本線と南海高野線のちょうど中間にある松原を経由しているのだけれども、全体としては高野線をトレースしている。 南海にしてみれば、物凄く目障りじゃない? しかも河南鉄道改め大阪鉄道は、この時点で資金難でした。当たり前でしょう。 しかも×2、大阪寄りではほぼ鉄道線規格の南海平野線とがっつり、重なる。 当時南海は盛業中で、経営に問題はない。強いて言えばなんば駅の連続高架事業や高野線乗り入れ工事などに意欲的であったか。 大阪鉄道へ出資し翼下において、平野線を1067mmに造り替え、荻野茶屋付近だけ市街地の新線を設け、なんば駅まで入れることは出来た筈。 この時代ならなんば駅出口付近に三複線用の敷地の手当ても、出来た筈。 この状態で固定し樫原神宮へと路線を伸ばせなかったとしても、南海は泉南を「南海平野」としてがっつり確保して安泰で居られたと思う。 南海グループの手で樫原神宮へ伸ばすとしても、資金的には随分と余裕がある。 史実の大阪鉄道は経営難の筈なのに物凄い数の大型車を入れ、結果的にこれが大事故につながっている。 南海翼下であれば本線の2001系同系車となるだろうし、吉野乗り入れは1900型同系車になる。 普通列車としても当時本選に増殖していた酷い鋼体化電車などが融通できただろう。 吉野鉄道は落ち目の大阪鉄道を見限って、孤立無援の中で標準軌の大軌に屈した訳です。 もし大阪鉄道が南海翼下で、吉野鉄道の頭上で南海が大軌とガンの飛ばし合いをしていたら? 大軌の「吉野へ線路伸ばすぞ!」という脅しに吉野は屈することなく、南海大親分の元へと走ると思うわけです。 南海は大軌に、「アンタは伊勢をシマにするんでしょ?吉野に構ってる場合じゃないでしょ?」と諭す。南海は伊勢、行かないから。 こうして大物ヤクザの間で手打ちが行われ、樫原神宮前駅にて両社は共存共栄の道を選び接続を持つ。 そのまま戦時体制に入り大近鉄になったとしても、戦後の分割で近鉄に南大阪線がもっていかれる筋は無いと思う。 晴れて南海の吉野線になり、あの緑色の二扉車がなんば駅から吉野駅を目指す。 「南海吉野線」というのは、私の脳裏にずっとこびりついている妄想なのです。 その南海の元でデ51型は南海色になり、大出力を買われて南海本線を快走していたらどうしましょう。 少数派という事で吉野のヌシ的地位は変わらないかな。 近鉄大阪線と南海吉野線はライバル関係になり、これも目が離せない競争になることでしょう。 >>245 『南海吉野線』、なんか、いいですね…寒っwww で、もし『南海吉野線』で1960年代に突入したら? 難波からは「こうや号」みたいなデラックスズームカーの「よしの号」が走り 京都からは国鉄奈良・桜井線を介して国鉄型DCもどき(社形キハ55みたいなヤツ)が直通運転。 お花見のシーズンには国鉄から客車が乗り入れてデ51形電機が大活躍。 もっとも、針中野辺りから都心寄りの区間と、阿部野橋駅の地位というか位置付けがビミョーになるなw 大阪阿部野駅の場所は何もないか、阪和線が使っている筈なんですよ・・・ 大阪鉄道が大胆にも南海平野線に被せてきて、なぜ南海が激怒しなかったのか私には南海の気持ちが理解できないw 普通、企みが公然となる免許申請を知った時から、平行線だと捻じ込んで支配下に置こうとするでしょう。 そして現実の南大阪線は関西線と高野線の中間を狙ってきます。三等分すると分け前が一番大きくなるからでしょう。 しかし南海が関与すると平野線をそのまま道明寺駅へと伸ばすような、北よりの線形になるでしょう。 南海の縄張りを北へ北へと広げるのが目的に変わりますから。 南海なんば駅は3+3+3の、阪急梅田駅と双璧を成す大ターミナルとなり何かと比較されるようになる。 阪急と違うのは、妍を競う特急列車の競演です。 四国接続、高野山、よしのと三方面の列車の同時発車が一日に何度か。(四国連絡は流石に一日に何本もない) まさか、ズームカーと全くの同型をよしの方面へは入れないと思います。勾配も緩いし20m級が入れますからね。 南海が愛用していた帝国車両が、さてどんな電車を生み出すか。私の想像を越えます。 だから、近鉄じゃないほうが幸せだって思うのですよ。 近鉄って10100系の1067mm版を造ろうとしなかったのですよね。 16000系は乱暴に言えば11400系の幅を詰めた様なものでしょ。 10100系だって幅を2740mmに出来た筈でしょ。 そんな努力もしないから、俺に飽きられてしまうんですよ。 38型(P8)はドイツ蒸気機関車の中のロバみたいな存在です。プロイセンの馬車馬。 特に尖った性能は無いが経済性に優れ、なにより時局に乗って大量生産された恩恵を充分に発揮した。 製造数で上回るアインハイツロコは、戦時型050型ぐらいしかない筈。 アインハイツロコの記述で、制式設計の確立後も意外と製造数が伸びなかったというものがある。(多分、篠原氏の著作内) それは先に38型が何千両と作られ役に立っていたからではないか。 ゆっくりとしたペースだが幹線電化が始まった影響を受けたせいもあるだろう。 ドイツ国内でもアインハイツロコが存在感を増すのは、戦争が本格化してからのことだった。 それも050型の大増殖で、何十年か安定していた勢力図が塗り替えられたかのような表現をあちこちで目にする。 アインハイツロコは幹線筋では主役であったものの、地方に下るとP8型やT3型の世界がずっと続いていたという事かな。 38型を見るとどうしても、8620型に連想が向かってしまう。では55型、56型辺りが9600型になるのだろうか。 鉄道省で主流を占めたという「ドイツ派」設計者たちは、大いに親近感を抱いた筈である。 050型の桁違いの万能ぶりも改めて思う。辺境の地方ローカル線へも盛んに浸食している。 いくらなんでも、機関車として大き過ぎやしないだろうか? 038型と050型の並びは違和感を感じていたけど、実はそうではなかったのだ。 050型に置き換えられつつも戦時の損耗を生き延びた038型は、戦後の機関車不足の中で重用された。 東西双方とも蒸気機関車の末期まで長命を保つ。面白いことに東西双方とも、テンダーを交換して容量を増している。 P8原形では古い小さいターンテーブルに合わせて燃料搭載量を犠牲にしていた。 ところが050型の大増殖は、地方の機関区に転車台の大型化を否応なく強いていたらしい。(大量投入は本当に合理的なのか?w) 制限が外されるとなると不満は燃料搭載量に向かうのは当然のこと。 特に西側では先に廃車になった052型辺りから近代的な全溶接バスタブテンダーを譲り受けて、アンバランスな姿になった。 鉄道模型では以前からアンバランスな38型を目にし、その理由が判らず嫌っていた。 理屈が判ればなるほど、です。 小型蒸気機関車全記録という本、何度見ても良い本だな。 ほぼ全て写真付きというのが凄い。 もっと判型が大きくても良いのに。 ウィスマールレールバス=ハノーバータイプ 通商豚の鼻。わが国の端単式と同じ発想だがドイツのほうが賢いと思う。 まず豚鼻が長い。エンジンルームを豪快に突き出して客室内空間をしっかり確保している。日本ではバランス上無理であったのだろう。 次に両端式です。同じシステムを前後に対称に配置しただけ、らしい。 標準軌まで範囲に含めている。何両かの1435mm仕様があり、ベモのOEMでメルクリンが製品に含めている。 もちろんベモからは二線式HO仕様も出ており、実に小さい。 両端式は常に半分の機関が遊んでいることになるのだけれども、進行方向を転じるに転車台を必要としない。 豚鼻の長さは両端式ならではないだろうか。前後でバランスがとれる。wikiによると全溶接軽量車体であったという。 ハノーバータイプとは、メーカーは先行して様々なレールバスを生産していたことから区別する必要があったため。 最初にハノーバーから大量注文を受け様式を確立し、標準化された設計で何十両と手広く販売している。 彼我の戦力差というか、物質的豊かさの差を感じる。 ドイツでは超ローカル線と言えども全溶接軽量車体の両端式になる。これが彼らの思う最底辺?の車両。 一方同時代の日本では?? 両端式も稀にあったけど、主流は半鋼製の単端式に落ち着き普及を見た。丸山式辺りが日本のスタンダードなんだろうね。 ドイツにも銀龍号同然の奴はあったんだろうか? 日本では高級品であろう日本車両の単端式など、ドイツを大いに意識していたスタイルと思うんだけどね。 例えば、東北の小私鉄の写真を見たとするじゃない。地域はどこでもいいけどあなたの居住地から遠方が条件。 心打たれることがあるけど、なぜなんだろう?? いま集中的に見ているドイツの片田舎の鉄道は、当然ながら初見の写真が多い。 でも心打たれるかと言えば、正直そーでもない。なぜ? 当たり前の事だけれども、なぜかと気になると理由が判らない。 背景となる社会の情報量の差だろうか。遠隔地と言えど国内であれば、知らず知らずのうちに情報は厚くなる。 例えばNHKの「新日本風土記」を見る。好きな番組だけど、全国の暮らしのことを見知ってしまう。 細部の記憶はないけれど、たとえば「岩木山」というパワーワード一つで数限りない要素が刺激される。 なんとなく、だけれども、今まででに様々な書物や番組などで見知った周辺地域の情報の厚みに囲われたような気がする。 それはおそらくほとんどが正確ではないと思う。思い込みや他の地域の情報と入れ替わったりする。 それは問題ではなく、共感を起こさざるを得ない厚みに押し切られてしまう。 知らない私鉄の写真一枚に共感するかどうかというのは、この差なんだろうと思う。 先日のウィスマールレールバスだけれども、ウィスマールはバルト海沿岸の港町。 ドイツ北部でも旧東ドイツ。ホルスタインとか近いらしいけど、そのホルスタインがもう意味不明。乳牛の事だと思ってた。 知識の量が、完全な空白なのですよ・・・・。 ベモのカタログで見た両端式気動車だけれども、背後の風景に思入れが全くない。何も湧いてこない。 その、転んで手を付いても何の反応もないスカスカ感が逆に凄くて面白い。 誰が住んでいるのか。どんなお話があるのか。「新日本風土記」みたいな番組はないのかよう・・・・。 そもそもドイツ人って、何喰っているんだっけ。ビールとソーセージか? 本家クロコダイルも改めて調べると面白い。 Ce6/8UとCe6/8Vがある上にBe6/8になっていることもある。意外と複雑です。 これら日本でいえば全てEF10、EF11、EF12ぐらいの差異しかない、と思う。 以下退屈でしょうが私の学習の復習メモです。読まずにwikiでも読んどくれ。 まずUとVの違いはロッドの差だと思っていい。具体的には「遊軸」の有無です。 先行するUは当然ながら古典的で、電動機出力軸と遊軸の間に渡された大きなロッド(通称三角ロッド)が特徴。 第一動輪はこの大きな三角ロッド内に上下動を許された軸受けを持ち、直接伝導される。 第二、第三動輪は三角ロッドと細いロッドで結ばれ伝導される。 続くVは「ウィンターツールドライブ」と呼ばれる合理的な方法を採用。まず目立つ際は遊軸が存在しないこと。 電動機出力軸から第三動輪にむけて細く長いロッドが伸び、第三動輪から第二を経て第一動輪までサイドロットが結ばれる。 見た目にも簡素であるし部品点数が大幅に減っている。ずいぶんと軽量化に貢献したことだろう。 後期型であるVのほうが性能良さそうに思えるじゃない?でも違う。 乗務員によると断然静かなのはUのほうで、Vは振動が激しく五月蠅かったんですと。Vには揺れる揺りかごのような綽名がついていた。 動輪は動輪でめいめい勝手に動きたがるわけですし、簡素な方法には無理があった、という事か。 実用に耐えるのなら問題ない。乗務員は我慢しなさいというメーカーの声が聞こえてきそうだ。 Uは総計33両のうち13両が1941年に大幅な出力増強改造を受けて新形式Be6/8Uに改番されている。同時に最高速度も75キロに増加した。 しかしVに同様の改装は施されず、増速の試みにも失敗し最高速度は65キロに据え置かれたまま引退した。 出力はBe6/8UのほうがVよりも大きく、立場が逆転されている。引退もVのほうがUよりも10年近く速い。 Uの最終的な引退は1986年にまで下がったが、これは新型汎用機の開発失敗が原因。(何型かなぁ?w) 当時のSBBは老兵を予備としていつでも使えるように維持しなくてはならないほどの機関車不足に陥っていたため、だそうな。 あと数年を予備機として延命できたら、シングルアームパンタグラフ化されたりして。 現在もなお観光列車を頻繁に牽引しているわけです。 read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる