判らないのは、第一工場の側線に配置された機関車がなぜ二種類もあったのかという点。
第一工場でも北側と南側で側線の扱いが違うので、北では電気機関車、南では内燃機関車を配置するという不経済な真似も許されたのか。
南側側線を設ける時に、多少余計な出費をしても電化して銚子電鉄に入換業務委託するという事を考えずにオットー君を探したのはなぜなんだろう?
オットー君で済む仕事量なのだから、デキ3型一両でも充分にこなせた筈と思う。

昭和32年といえば小型内燃機関車製造も量産体制ができており、酒井でも加藤でも、贅沢に日本車両でも新車購入ができたはずだ。
なぜヤマサ醤油は昭和32年にオットー君を活用しようと考えたのか?戦中を挟んだ状況から見て昭和32年時点で廃車同然であってもおかしくはない。

以下仮説
当初計画では新設する南側側線も電化し銚子電鉄に業務委託する方針であった。
ところが契約交渉をしてみると、経営難の銚子電鉄が出した見積もりが想像を超えて高かった。
怒ったヤマサ醤油は電化を中止し、近隣から中古機関車を急ぎ探して自前で入換を行った。
さらに第一工場から第二工場に向けてパイプラインを敷設し、製品出荷までも銚子電鉄に依存せずに済む体制に仕立て上げてしまう。
強気のヤマサ醤油を前に銚子電鉄は平身低頭したのだが時すでに遅し。北側側線は低調なまま、やがて他よりも先に活動を止めてしまう。
デキ3型の保存にヤマサ醤油が前向きに絡んでこないのに対し、オットー君に特別の愛着を感じるヤマサ社員がいるような気がする。デキ3型は他人でオット−君は身内。

ところでオットー君、デキ3型とどちらが強いんだろう??最弱を競うようにしか見えないんだが。
「探し回ってオットー君」というあたり、ヤマサ醤油はデキ3型を南側側線のために使う機関車の目安にしていたという、傍証ではあるまいか。
あるいは風向きによっては反省した?銚子電鉄と業務委託契約し南側側線も電化。オットー君は極めて短期間の活動で終わるという可能性も、昭和32年時点ではありえたのではないか。
デキ3型に期待した仕事がこなせれば、ボロボロの機関車でも何でもよかった。
ただ銚子電鉄と契約しないことが確定したので、ボロボロのオットー君は現役数年で二代目社有機へと交代した。

天下のヤマサ醤油とあろうものが、最初から非電化で考えた専用線に充てた機関車がよりによってオットー君だったというアンバランスな出来事に、納得がいかないんです。
繰り返しますが昭和32年は、普通に内燃機関車が買える年です。そしてヤマサ醤油はその時点ですでに大企業の筈です。