最弱は大阪で決まりデショー哀れですな

 たとえば大阪の人間が二十人ほどの団体旅行をすると、まるでその列車全部を借り切ったように大騒ぎをする。
何とおそれを知らない、行儀の悪い集団だろうと、大阪人の評判が悪くなる。
また、大坂の人間は戦争に行くと弱いといわれます。〝またも負けたか八連隊〟などと言われた。
 そうそう、軍隊のことにすこしふれておきましょう。その弱いはずの大阪の兵隊の歴史は、日本史とのかかわりがふかいのです。
鳥羽伏見の戦いを幕軍の歩兵として戦ったのも、大阪徴集兵が多いんです。大阪兵が負けて、つまり幕軍が負けた。
西南戦争に行ったのも、大阪の人間が多い。
西南戦争の初期には、薩摩の士族隊に、百姓町人の官軍部隊がさんざんにやられるでしょう。大阪兵がやられているわけです。
そうだ、明治七年の佐賀の乱を鎮圧に行った政府軍の主力も大阪鎮台でした。
日清・日露の戦役にも出る。どういうわけか、たいてい激戦場に出ているんです。それで〝またも負けたか八連隊〟になるわけです。
まったく維新前後から明治政権の動揺期、日清・日露にかけてずいぶん大阪兵がかりだされた。
兵としては日本最弱で最不適といわれる大阪人が、日本歴史の檜舞台でつねに銃をもたされて戦わされたといのは、皮肉というか、こっけいというか。
 大阪兵の弱さとは、お上のおそろしさをより軽くしか知らないという弱さなのです。
軍隊における兵の強弱とは、勇敢であるかどうかというより、後方から受ける恐怖の度合いではかることもできます。
ここを一歩でも退いたら国家によって家族まで殺されてしまうかもしれないという、どうにもならない恐怖感が、兵士をして強からしめることが多い。
 大阪人は律儀者でないということはいえませんが、ともかくも権力というものに対して伝統的になめているところがある。
権力のなかでももっとも権力的な軍隊社会というものにはどうも適合しない。
それが維新から明治初年いっぱい、日本のまがり角ごとに、新徴募の幕府歩兵や新徴募の鎮台兵にさせられて登場する。
哀れですな。
(集英社文庫『手掘り日本史』司馬遼太郎・大阪市出身)