大大阪を築いた関一(せきはじめ)市長  
                                

大正・昭和初期に、大阪市助役を経て第七代大阪市長を務めた関一(せき はじめ=1873年― 1935年)は、

市営公園や公営住宅の整備、御堂筋・地下鉄・大阪港の建設や大阪城天守閣の再建、

大阪商科大学(現大阪市立大学)の開設など様々な都市政策を実行した。

大阪の近代都市への飛躍に大きな業績を残した人物です。  

大大阪の恩人、学者市長であった。

1935年大阪市天王寺区の自宅でチフスのため死去。享年63歳。

葬儀は、天王寺公園で大阪市初の市葬として行われ、約8万人の市民が別れを惜しんだ。

のち、大阪市政への功績がたたえられ、中之島にその銅像が建立された。

大阪市民の活気が溢れる御堂筋界隈。亡き関一市長の思いは、大阪のメインストリートとして、現代に継承されている。


関一(せきはじめ)大阪市長の家柄

東京府士族

父親の家系 江戸東京士族

母親の家系 江戸東京士族

妻 関東千葉県出身 

戦前の「大大阪時代」を築き上げ
「大大阪の恩人」「大阪の父」と呼ばれた
東京の偉人。