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フィリピンの贅六「あきまへん、あきまへん」
ビルマの贅六「あきまへん、あきまへん」

1944年11月3日、レイテ島バレンシア〜リモンにて
▽宮内良夫元陸軍大佐(第1師団佐倉57連隊長、鹿児島県出身)
「途中向こうからブラリブラリと幾人ずつか一組になった兵隊が歩いて来るんですね。
聞いてみると、第1師団(東京)より先にこの道を進んだ第30師団の41連隊(福山)や102師団(熊本)の独立大隊、それに16師団(京都)の兵隊だというんですね。
見るからにもう敗残兵でした。やられて逃げてきたという。『逃げるとは何事か』と憤慨しました。
うちの田中という曹長のごときは軍刀を引き抜いて、『貴様ら、それでも日本兵か』と脅かして、一個小隊ばかりの兵隊を集めて、我々と一緒に来いと連れていったんですが、いったん戦線を離脱した兵隊はもうダメですね。
それも、よほどこっぴどくやられたらしく、一人消え二人消えで、とうとうみんないなくなってしまった。
いや、ただ一人だけ名は忘れたが、最後まで付いて来た兵隊がいました。確かに生きて、我々と一緒に内地へ帰ったはずです」

神子清元陸軍伍長(第1師団佐倉57連隊、千葉県出身)
「11月4日、…我々は進むにつれ、次々と負傷兵とすれちがった。
どうしたのか、と聞きたいが、行軍中言葉を交わすことは軍紀で禁じられているから、我々はただ黙々と進むだけである。負傷兵たちも何も言わない。
しかし、この様子から、行く手によほどの激戦があったのだなと想像されて、身の引き締まる思いだった。
そのうちに『守備隊の16師団(京都)が全滅した』という噂が、小休止のときなど、どこからともなく流れてきた。
この噂は我々全部隊の緊張を呼んだ。
しかし我々は動揺しなかった。
敵を恐れる感情は少しもなかった。だから、ただひたすらに前線へ前線へと、戦意を燃やして進んでいたのである」

島田殖壬元陸軍上等兵(第1師団東京第1連隊)
「街道を行くと守備隊の16師団(京都)の兵隊がオルモックへ逃げてくる。格好が凄い、ボロボロ、「あきまへん、あきまへん」と言いながら来る。当時はまだ威勢の悪い兵隊がいるもんだと思っていた」