松果体開発総合【番外編】
松果体開発にまつわる広範囲な情報交換・語りを取り扱う総合スレッドです。
直接的に関係がなくても開発過程で出てくるサブ的なこと、神秘体験談、独自の開発法、おすすめ方法など...ご自由にどうぞ。 白一色の感じは神気?霊気?みたいなエネルギーが充満している印象を受けました
みなさん開発が進んでますね コロナ放射光、オーラ・アトモスフィア、ファジーなオーブは
網膜に映る残像、あるいは室内光源からのまぶたへの透過光
最悪なのは空想イメージ、白日夢
要するに集中できてない、心ここに在らず、迷走状態 瞑想が完成した状態とは、絶対無"空"の経験
それは漆黒の闇 コロナ放射光はそうでしたか
謎が解けました
>>104
漆黒の闇ですか
光やビジョンを見るよりも到達しやすそう印象を受けましたが、しかしそれが瞑想が完成された状態なのであれば難易度は最も高いでしょうね 私が経験したことがある無は、特定のことに関して気持ちが反応しないっていう無の感じと、熟睡しているときの無の二つですね でも上記の無と瞑想が完成した状態の無とはやはり別物なのですよね? 業の操作って難しいね
私は特定の悪業に対してのみ浄化を祈願したのに、別の業の浄化が発動したの
それでもいいけど、簡単には操作できないものですね
これの応用?で、一部のスピ界隈では「◯◯時間以内にすごいことが起きる!」って強く願って大金を手に入れる方法が流行っているけど、それをしても私の場合は変なことしか起きなかった 自分の運、例えば結婚運、金運、健康運などを人に移し、それによってその人の願いが成就する方法があれば知りたいな
結婚運なら結婚が、健康運なら病気の治癒が 業の変遷というのを模式的に理解するには、易経の六十四掛をイメージすると良い。
あれは六十四掛で森羅万象すべてを表している。
あれを業のつながりと見れば全部繋がっていて業の乗り換えは可能。
ただやはり起承転結、順番があって一足飛びに
どこでも移動というわけにはいかない。
願望成就や業の転換がストレートに実現しないのはこのため。
でも、ちゃんと方法があってそれは早送りすること。
六十四掛で言うと、遠い卦に行くときその中間を実際的に
現実でこなすのではなく、抽象レベルで象徴的に成就させる。
そして自分の欲しい卦で現実化する。
呪術などでも色々象徴的な小物や呪文、図形を使うがこれは因果の早送りのため。
呪術的な方法を使わなくても本当に因果が動き出したら似たようなことが起きる。
つまり象徴的なレベルで因果の早送り現象。
全く関係ないことで起承転結の因果が動く、その時はきちんとそれを認知しておく
関わらないといけなければキチンと関わる。
関係ないように見えても業が転換するときの「綾」のようなもの。
よく開運前に起きる現象と言われるモノがあるがあれに近い
ただあれはあくまで一般的で、個人であるいは業によって現象が違う。
この辺判ると願望成就や業のコントロールがより繊細に出来る。
それから願望成就のプロセスを他人と共有したい場合は、自分にもその必要性が
ないといけない。
全く関係がないのにその人のために祈る、というのは特殊な業が必要。
願望成就自体は主語はあまり関係なく、必要性や必然性が多いほど
成就する力は強くなる、だから自分と同じ願望を持つ人を見つけて
相手の分も祈ってあげる、というのは悪いことではない。。
特殊な業というのは相手の持つ必要性を自分の中にいったん取り込んで
「自分の事として祈る」ことが出来るということ。
相手の業をいったん引き受けるということになるので、普通の人には難しい。 カルマヨーガに流儀も定石も無い
「ひたむきに馬鹿正直に愚直に生きろ」
「買ってでも苦労しろ」
「人を怨むな」
「一日一善」
手本となる人物は徳川家康、二宮尊徳、現代では笹川良一(日本財団) >>111
ありがとうございます
64掛とにらめっこしてみます
特殊な業は難しそうですね
>>112
その通りですね
無様に生きるしかないです私の場合 いわゆる実力主義の問題点は
”ギフト(天賦の才)”と"努力"の価値観
実は世界には単独・独力で成し遂げられる事、完全自給自足できる事など何一つ無い
努力厨が陥り易いトラップは、”傲慢”。つまり感謝と信仰の欠如
実は輪廻転生を越えて、利害・損得はトータルバランス0保存が成り立っている >>111
開運前に起きる現象ですか
開運前の一時的な運気の低下は聞いたことがあります
個人または業によって現象が違うのですね
私はお金関係は腰に出ますが、他の人はもしかしたら愛情絡みが腰に出るかもしれないですね
因果応報は早ければ早いほど心?の汚れがないと聞きます
でも繊細なコントロールとまではいかないです あと、願望成就とカルマでいえば、浄化が関わってますよね?!
よくあるのが先祖供養したあとに開運とか、身に降りかかった不運(浄化)のあと結婚とか
なにも浄化なしに願望って叶うんですね
そうなると必要性と必然性の見極めが大事ですね 浄化というのは抽象化のこと
抽象化することでエネルギー性が高くなって昇華する。
これは感情を昇華するときも判る。 例えば怒りの感情がある時、先ずそれを一歩離れて俯瞰することで
全体像をとらえる、するとその感情に固定された言語やイメージが変化する
それが抽象化。
抽象化されてエネルギー性が高くなる、エネルギーの属性自体に悟性があるから
感情は浄化される。
浄化された感情エネルギーは必要があればまた別の形で戻ってきて具象化される。
普通もこのプロセスで感情は処理されている、意識的になれば瞬時に出来る。
この浄化のプロセスは感情だけでなく、思考や感情や行動指向の塊である
業にも使うことが出来る。
その時に具象と抽象の狭の間で業の早送りのような現象が起きる。
よく心理学的夢解釈で事象を何かの象徴として扱うことがあるが
あれと同じことが現実に起きる。
個人の心理の反映に基づくものだから自分しか判らないことが多いが
パターンがあるので理解できると面白い。
これに気の物理的感覚を合わせると他も浄化できるようになる。 >>118
例えば、実際に怒りの感情がわいたとして、それがどう抽象化されエネルギー性がたかくなるのでしょうか
私の場合怒りは時間と共に消えますね
その間に色んなプロセスを経ているということでしょうか
感情がわいて消えるまで、意識してよーーーーーく観察し分析するといいのかな >具象と抽象の狭の間で業の早送りのような現象が起きる
このことと違うかもしれないですが、ある幸運な出来事に対して浮かれていたらその幸運に対して別の観点からの捉え方を目撃してその瞬間、恥、不信、憤りなど様々な感情が沸き上がり心の中はかなり波乱だったことがありましたけど、そのことも業の早送りかな
それらの感情は受け止めたら消えて、気持ちも元に戻りましたが 「理解」は文字や段階を介さずにある点を境に「できる、できない」で訪れるよね。
脳は不思議だ。
んで、そこを理解すると世間でいう勉強だけでなく、物事の習得が格段に楽になるね。 考えてもなかなか難しいので実践頑張るしかないですね! 理屈で書いてしまったので体験的に、以前レスしたように下腹に力を落として
他を抜くようにすると、普段でも丹田が落ち着く。
そこで怒りの感情が起きた時に、上半身の力を抜いて下腹に落とす。
所謂「怒りを腹に収める」感覚、前にレスした双方向集中が出来ると
気感とともに感情の変化を捉えることが出来る。
さらに快感原理がセロトニン型に転換していると、怒りの感情が
相手を理解したい、という衝動に変わる。
結果、怒りの感情を原動力にして余裕を持って対応できるようになる。
これを繰り返していると、自身のネガティブな反応は抽象化すれば
全て問題解決のための原動力になるから、悪縁のほうが無縁に優る、と
自然に思えるようになる。 良く丹田に力を籠める、入れる、というが
本当は丹田以外の力を抜くと自然に力が入る。
座った時にこの工夫をして日常動作では、余分な力を抜くことに留意する。
すると自然に丹田に力が必要な形で必要なだけ自動的に入るようになる。
これが筋感覚レベルから気の感覚に移行すると自分の外部から気が入って来る。
それだけでなく意識も自我に囚われず自在になる。
これが深くなると仙道で言う先天の神、先天の気の覚醒に繋がっていく。
丹田というのはエネルギーとしての気が集まる所ではなく
気のエネルギー的性質(求心性)と空間性(遠心性)を統合して感じる場所。
ここで求心的な感覚で気をエネルギーとしてだけ捉えると
空間の中を気を移動する平面的な気感になる。
エネルギー(求心)と空間(遠心)の双方向同時集中すると
普通の意識や感覚では捉えられないから、未知の感覚や意識が開発される。
後者は平面を無理に観ようとして脳が開発それてしまう3Dグラフィック
と同じ仕組み、ここが気功的気感で終わるか松果体開発につながるかの境目。
こうして掴んだ気はエネルギーの塊であり、異空間の入り口(異次元ポータル)
であり情報の端末。
以前、仙道板で丹田に穴をあけて色々出したり入れたりする。
というのがあったが詳細はこういうことではないのかな。 私は怒りがわいたとき、それをうまく鎮めることができたら相手に感謝の念がわきますね
でも高揚感が伴うものだからセロトニン型ではないかもしれないです
やはり肉体の訓練も大事ですね
具体的な例を出して頂いて自分でもできそう!って希望になります! MSM3000から初めて毎日1000追加して20000まで増やす奴
あれやってるけど本当に大丈夫なん?
松果体デトックスやばない? ここは入るな、他は書き込みできなくなっている。
脳のフィードバックが現状維持指向だと大量の刺激を与えても
恒常性によって現状維持にとどまってしまう。
逆に自己超越、進化指向だと主要材料がそろって居なくても
他の材料を代用したり少量でも体が工夫をして目的に向かって
フィードバックする。
このフィードバックを転換することが「悟る」ということになる。
刺激というのは、呼吸や筋刺激、気感等でも同じで現状維持モードは
個体保持のための恒常性でもあるから、過剰に刺激を与えられないか
与えてもある一定以上は反応せずもとに戻る。
仏陀の苦行はこの辺の逡巡を伝えている。
現状維持モードというのは個に対する囚われから生じているから
仏陀はここを処理して「悟る」ことにより脳のフイードバックを
超越、進化モードに切り替えた。
その後、強刺激=苦行を切り捨てたのは、悟って脳を切り替えると
ごく普通の生理機能が超越、進化のために全力でフィードバックされ
それで十分間に合うから。
そして菩提樹のもとで明星と対面=松果体を開いた。 強刺激といっても、詳しくないですがヨーガなんかは激しい呼吸法などもあると思いますが比較的穏やかな部類かなと思います
でも私は消耗体質なようで、普通はヨーガをやると気力が満ちてめっちゃ元気になるそうですが、なかなかそうならないですね
現状維持モードが関係してるんでしょうかね
あと他に考えられる原因はいくつかありますがね 中道を距離感ではなく質的なイメージで例えると
両端の片方を〇とする、そしてもう片方を△とする。
釈迦の掴んだ中道は〇と△の情報を統合した円錐になる。
〇と△の二次元の情報場では〇=△とはならない。
一つ上の次元の情報場で〇と△が情報として完全統合した円錐になる。
これを分かりやすいように身近なモノに置き換えると
対立する視点からの情報を右目と左目から取り入れて脳内で止揚
立体映像を結ぶ3Dグラフィックのようになる。
現在見えているモノを超えようと〇から△に視点を移動したり
〇や△を極限まで拡大したり、或いはデフォルメしてみたり
それが現状維持型の努力。
武道でもスポーツでも稽古事、或いは人生全般で、ギリギリまで
現象の際を追いかけると本来交わらないモノを止揚した境地に達する。
そこが〇も△も統合した円錐の情報処理の仕組みになる。
武道とかスポーツで言えば質の違う動き稽古事だと別格、人生だと天祐
普通の人でも、無我の境地やゾーンとして体験することがある。
そういう人達がきちんと瞑想すると松果体のスィッチが入って
生理的進化モードに入る、というか
そういう人達は日常自体が瞑想になっていく。
だから進化モードの資質というのは、円錐体験(統合的世界観)と親和性が
あるかどうか、ない人が色んなことをやっても横に広がって
〇や△のバリエーションの一つになるだけ、たとえ薬や神経への直接刺激で
ふつうでは出来ない体験をしたとしてもそれは情報の混乱であって
情報場の次元超越ではない。
釈迦が説いた修行法は自身の体験も含めて輪廻を抜けて進化モードに入る
過程を認知論的、行動心理学的にまとめた。
それがあくまで宗教(超越的進化法)なのは生理的進化モードのスィッチを
入れるということを見据えているから。
円錐を感得した人間がその感覚を肯定して認知論的、行動心理学的に
拡げていく(七科三十七道品=釈迦の修行法)と、行動を支配する快感原理が
内分泌レベルで転換する。
そこから禅定に入って行き松果体の進化モードのスィッチを入れる。
ちなみに円錐を感得するための指針が四諦処になる、原始的メタ認知法。
釈迦の修行法は進化モードに入る体験のための指針であって観念ではない。
後の大乗仏教は観念の部分を肥大させて自分たちの方が優れているとした。
以上を参考にしてもらえば自分がスイッチオンになっているのか
釈迦の修行法は普遍的なモノだからそれを参考にして
現代社会ではどう活用すれば良いのか判ると思うが。 >>135
いつもありがとうございますm(__)m
頑張ります >>127
11000mgまできたが何も変化がないわ😀 四念処と四諦、間違えて一緒に混ぜてしまった、失礼。
四念処が認知論的気づきで四諦が行動心理学的指針になる。 結論をいうと、松果体の開発法の最適モデルは原始仏教と言われる
釈迦の修行法にある。
その中でこれがないと絶対に無理だというのが、無意識によるメタ認知。
メタというのは超、今の自分の認識を超えるということ。
その手法を一言で言うなら「観照」
自分を離れた視点を設定をして自分を観察する。
これには意識を使ってやる方法と無意識を使ってやる方法がある。
心理学的自観法やマインドフルネスは意識を使ったメタ認知。
無意識によるメタ認知というのは、言葉やイメージを超えたところから
自己を「観照」する、これは普段は意識していない生理的感覚と
意識の接点に意識を向けることになる。
意識的メタ認知を行って言語やイメージの関係性が相対的になると
意識が無念無想に近くなり身体の生理的感覚が感じ取られるようになる。
一番感じるのは、体性感覚と言われる触覚の深部感覚
これは視覚や聴覚の特殊感覚と違って境界が無く全体に広がる。
生理的感覚というのはそれ自体が統合的で自律的、
だからそれに意識を乗せることで意識=言語的想起、イメージが調整される。
この時に個の意識と普段無意識で捉えている生理的全体性が結びつく。
この体性感覚が身体の枠を超えると「気感」として捉えられる。
体性感覚と気感の境界が個人の無意識と個を超えた意識との接点。
このように意識と無意識が繋がってさらに気感として広がると
現在の個を超えるための進化のスィッチが自動的にオンになる。
具体的には内分泌レベルで快感原理が自己中心型から他者共感型へ変わり
個を超えた認知のための生理的機能が動き始める。
無念無想とか無我とかいう言葉を持つ日本人にはもともと
無意識によるメタ認知の素質はある。
日本人の共通した無意識的感覚の一つでもある「お天道様に見られている」
というのは意識と無意識の境界線から自己を観た感覚、お天道様は
自分の無意識の事。
生理的宗教感覚がある日本人は観念的な宗教を必要としない
これが日本人が無宗教といわれる所以。
次に来るであろう精神世界が「無意識の時代」と言われているのは
価値観が多様化しすぎて観念レベルでまとまることが難しいのは
誰の目にも明らかだから。
個々が生理的に賢くなって個と全体を統合したホロン因子を
無意識な生理的レベルで持つことが出来ればそれぞれが
「心の欲するところに従いて法(のり)超えず」状態で
個人と社会の新しい調和の形が見えるかも
ある意味、一周回って昔に戻る感じかも知れない。 盲人のテレパシーは凄いよね。同じ部屋にいると「気」がビンビン伝わってくる もしかしてワンネスを地でいくことで達せられる境地ですかね
めっちゃ勉強になりました!!
私は自分が発した言動を別の人格が発しているかのように捉えるときがあって、その状態の時は「生きてる!」っていう実感の伴わないふわふわとした虚無感の感覚なのですが、
その状態に対しては自分を強く主張してなくていいなと思っていますが、
その感覚がまた進化すると全体と一体化しますかね?!
続けてみます 生きてます!気力充実しています!絶好調です!ってビシバシ力強い気はもう取り戻せないと思ってます自分の場合は
カルマ的に >>111
>全く関係ないことで起承転結の因果が動く、その時はきちんとそれを認知しておく
関わらないといけなければキチンと関わる。
関係ないように見えても業が転換するときの「綾」のようなもの。
天に願ったことが上記のように起きることは何となく感覚でわかりました
この間、全然関係があると思っていなかったので、天に願ってたことなど忘れ、誤った選択をしてしまいました
>六十四掛で言うと、遠い卦に行くときその中間を実際的に
>現実でこなすのではなく、抽象レベルで象徴的に成就させる。
>そして自分の欲しい卦で現実化する。
こちらがイメージ出来ないです・・・
実際の具体例がありましたら知りたいですm(__)m 業の変化とともに日常の質が変わって起きる現象だから
表層的にはジンクスやまじないのように見える。
しかし現象は完全な世界からの逆因果で、すべてが繋がっていて
必然であり、意識の焦点の調整でよりカスタマイズできる という
感覚が自然に沸き起こるようになると、日常の現象はそのままで
意味が深化していく、それが日常の質的変化。
その中で自然に体得して行く感覚なんだが、源泉は夢の質的変化。
夢が五感の属性で意識と無意識の境界線をただ受動的に「観る」から
五感が気感と融合して夢をエネルギー体験として捉えるようになったのが
本当の明晰夢、ただ観るだけではなく夢=気に働きかけることが出来る。
明晰夢をエネルギー体験として定義すると、必ずしも夢の自覚のない
夢も含まれるが、その時も夢に働きかけることが出来る。
例えばくたびれた靴を履いて歩いている夢を観たとする。
靴は社会的地位や状況を象徴する、と、分析すれば夢占いだが
明晰夢に入っているとその状態を不快に感じて靴を履き替えることが出来る。
実際は自分の気の状態をチェックしてその修正を「夢」としてスキャンしている。
分析が必要なら夢の心理学的象徴論を参考にすると良い。
そしてこの辺を体験すると、現実でも同じことが出来るようになる。
何か対外的に新しいことを始める時に靴を換えるとか、重要な人と会うときに
出かける前に儀式的に靴を磨く、とか。
傍から見るとジンクスやおまじないのように見えるが、明晰夢のレベルで
夢で気の転換が出来るようになっていると、今の現実の象徴として何を選ぶのか
どう働きかけて、それで手ごたえがあったのか、が判って来るから
普通のジンクスやおまじないとは一線を画すようになる。 >意識の焦点の調節によりカスタマイズ
瞑想のときにも意識の焦点の調節はやってそうですね この虚無感の使い勝手がわかってきたかも
この虚無感のお陰で生じるカルマが緩和されてる
この虚無感のお陰で自我が消失してるから助かってる
きちんと極めるとワンネスにたどり着けるやも (-ω-;)ウーン、何かに巻き込まれているのかな、判らん、シンクロだな、たぶん。
先日、粘菌の事をテレビでやっていた、粘菌は単細胞生物の集合体なのに
高度な集団行動をすることで知られている。
脳や神経系などの中枢機能とそれに繋がる神経系を持たずに
個に分布する全体子で行動するホロンモデルとして良く引き合いに出される。
人間が「1人は皆のために皆は1人のために」という理想を掲げて
実現し得ないのはそれが観念であって、それを為しえる
生理的な全体子(ホロン)を持ち合わせていないから。
むしろ自由競争下の方が経験的に全体子が形成される。
共産的思想に対しての資本主義の勝利はこの辺にあると思う。
生理的なレベルのホロンシステムを考える時、粘菌の団体行動を
可能にしているのは、最適生存状態を保つという目的の深いレベルでの共有
それと脳や神経系に依存しない何らかの方法による情報伝達。
これらをこれからの人間の進化に当てはめてみると
無意識レベルと気の開発がそれになる。
人間の意識が無意識と繋がりさらに気を媒介にして集合的無意識と繋がる。
そういうことが可能であれば、粘菌のように個が直接つながって
調和を取ることが可能かも知れない。
ただこれをまた観念で論じても仕方なく、問題は体験として可能なのか
ということ。 >>149
君が発想するレベル位は
スプーロル的に翌日に俺がソレを発見する。
離島のイモ洗いの猿と同じだ。その程度 まず言わせてもらう
松果体を鍛える ← 純度を上げる 逆である不純脳内物質を減らす
松果体開発 ← 臨死すると性能が上がる開発ではない苦行
松果体 ← ジメチルトリプタミン(DMT)の製造機
俺は20年前にメソアメリカでアヤワスカ(DMT)を呑んで知覚を上げた
以降20年は秘密にしていたが、その間は思考や未来が僅かに視えた。
最近は年とって生活保護になって
10日間断食をしたら餓死する3時間前に覚醒した。
結論を言えばアヤワスカでブーストするか
断食して脳代謝を生命維持エネルギーにしない限り不可能が結論だ。
どちらも常人には出来ないだろう。
最近解ったのだが、本体がDMTの1物質であり
ノルアドレナリン・ドーパミン・セロトニン
はアダムとイブが食べた林檎であったと思う
つまり欲求系の概念を拡大させる物質(悪い方)側だ。
こんな簡単な構造を人類は理解できなかった歴史は
そもそも人類の欠陥プログラムがこの林檎に気軽かなかッた事であろう。
この発見はノーベル賞ものだが、2chに記して置く。 因みに俺は精神系の超能力ならなんでも出来る。
物質に作用する超能力は苦手。(両系複合は出来る)
他者の技を盗むラーニングもできる始末だ。
過去に大ニュースになって世界を救っているも
表彰も逮捕もされていないが自己承認欲も金欲もないので
この文明の方向性だけを一部変えている。
金に変わる報酬系プログラムが存在し
それに移行すれば1年後にもこの文明の資本主義は終わる。
金に変わる報酬系プログラムがナニだか解るかね?
>>149くん 精神系の超能力って、予知とか霊視とか透視も範囲ですか? 1年後に資本主義が終わる未来なんてないよ苦笑い
いきった生活保護の糖質さんでございます 報酬系という言葉で思いついたのだが
マズローの五段階欲求説について
あれは実は一番上の自己実現欲求の上にもう一つあって
それが自己超越欲求、晩年にマズローが提示したらしい。
ただきちんと組み入れなかったのは、よく考えると五段階までは報酬系が同じだが
自己超越欲求だけ別モノになる、だからそれ以下の欲求と
同列にしなかったのだな、と昔思ったことがあった。
そして自己超越欲求と他の五段階欲求を真面目に融合させようとすると
欲求説の前提そのものが変わってしまうので
手を付けず別添えにしたのだな、とも思った。 なるほど、第六の欲求ですね
第六の欲求になかなか到達しないですね 聖者とか僧侶とかマスターとかは第六欲求の世界で生きているんでしょうね、人間社会にいながら 実は更にFがあるんだw
シリウス人から聞いたが
更に上もあるらしいw
第7段階 文明超越欲求 (他者に伝授し全体を昇華させる) 自己超越欲求というのは一言で言うと「創造のための創造欲求」
他の五つの欲求が「自我の充足」を依処にしているのに対して
自己超越欲求は「創造の為に自我を足場」にしている。
例えば、芸術系などで技術を極めて最後のプラスαで勝負する所で
あるレベルまでは「自己実現欲求」でそれなりに多様なモノを生み出せるが
質が違うモノ、既存を超えたモノは自我を超えて
「創造のために創造」モードに入らないと生み出せない。
では自己実現まで行った人がそのまま自己超越を目指すのかというと
これはセンスとかその人の持つパラダイムの違いだから
「自己超越欲求」を持っている人間は五段階のステージのどこにいても
それを発揮しようとするし、そうでない人間は自己実現まで行っても
その先を目指すことはない。
このセンス、パラダイムの違いを何かに例えるなら
ルビンの盃という図形、これは中心に盃が、盃のラインを反転すると
向かい合う人の形が見える、というモノなんだが
この盃の内側に自我認識の中心があるとして、普通は盃を自我として認識する。
マズローの五段階欲求説は、この盃だけを自我として認識する人を
モデルとしている。
ところが中には、ラインを自己の感性としてそれを軸に内側も外側も
自我の展開として捉える人がいる。
そういう人達にとって自我=盃を構成するラインは、盃と向かい合う人(図形)を
認識してその関係性を認知するための足場に過ぎない。
こう書くと、外向性、内向性の話をしているようだがもっと根源的な部分。
外向的でも自我が閉鎖的な人もいれば内向的でも自我が開放的な人はいる。
そしてこの違いというのは、どちらかと言えば生理的、生得的なモノに根差す。
人が胎内で生成して出産を経て成長して行く過程で、世界を自我を中心とした
閉鎖系として認識するのか、或いは周囲との関係性で自我が維持される
開放系として認識するのか。
これには、どういう状況で快感物質を出して行動の条件付けするのか、という
脳の仕組みが関わっている。
結論、自己超越欲求を持っている人は五段階欲求が当てはまる人とは
最初から別モノ。 人間社会でマスターたちはどんな気持ちで過ごしているんだろうと、この世は空しくはないのかと思ってたけど、私達とは違うもう一つ上の段階で生きてたんですね
6段階7段階の境地の世界はまだ私には到来しないですね
5段階までの世界でしばらく修行が必要かな >第7段階 文明超越欲求 (他者に伝授し全体を昇華させる
これは神仏の救済活動にあたるのでは 全体を昇華って大変な仕事よ
でもそれを成したいという欲求があるんだからすごいね 私が今7段階欲求と同じことしたら人々の闇に潰れてまうやね 近未来とか前世などはビジョンで見るものだと認識していましたが、
>>104でおっしゃってたようなビジョンを見る訓練をしなくても、未来映像、前世映像は見られるようになるのでしょうか? 生理的欲求 彼女できる
安全欲求 公務員宿舎
社会的欲求 大蔵省入庁 (日米合同会議ロックFなど
承認欲求 退社独立
自己実現欲求 編曲家で稼ぐ
自己超越欲求 音楽も飽きる
文明超越欲求 NEO仏教開始 虚無僧へ
飽きっぽいだけです。 段階別による願望成就がチャクラが開く?ことによる願望成就と似てますね
それぞれ167さんの出来事ですか
すごいです 厳密には常に 物質:精神=50:50
で人生を生きる事です。
常にどちらにも偏らない定常波は
合気の打ち消しで最強です。
人生に山と谷は必ず存在しますが
栴檀双葉・大器晩成を超えるものです。 http://abmilk.sa-kon.net/
こちらのサイト、ギブアンドギブとか○と△とか円錐とか、こちらのスレに書き込まれていた内容が書かれているけど・・・同一人物だったのでしょうか ああ、目的はそこです。
連絡は取れますか?
是非、NEO仏教にスカウトしたい。 まだ未練と執着があるから5段階以上の欲求が起きないのかもね 技術班はいるんだ、ライターが俺しかいないんだ。
気が向いたら連絡下さい。m( _ _)m ごめんね、今は独りでやる方が気楽なんだ。
ただマインドフルネスの一歩先が今の社会に必要かな、とは思っている。
マインドフルネスは意識で意識を観る、ということをやるが
これを「無意識で意識を観る」というところまでやると
個人が自分でハイヤーセルフと繋がりシンクロ現象を起こすことが出来る。
これは神道にもか〇ながらとして昔からある方法で
「お天道様が見ている」と感じる人間が無意識に自然にやっている方法でもある。
やり方はシンプルで単純だが今巷にある、観念として超越者(自身を含む)を
設定する方法よりもずっと害が少なくて普遍的。
宗教やスピ的観念によらない超越体験(主観と客観現象の一致現象)
こういうのが普通になると今の「超越的」と言えば宗教やスピ系しかない
日本の精神文化が変わっていくと思う。
ただ既存のやり方だとまた新しい宗教やスピ系の一分野になってしまう。
分野的には神道や原始仏教、トランスパーソナル心理学、これらの
エッセンスを取り出した実効性のあるやり方の提示。
これを中枢から下達ではなく、粘菌のような情報伝達のやり方で
最適方法論共有の仕組みを作れたら、と思っている。
あなたのアプローチの仕方には誠意を感じたので
こちらも真情の一部を吐露、でも当分は独りでやりたいのでゴメンナサイ。 科学認識 大脳
神智越超 心臓
仏教哲学 松果体
古代文明 内臓記憶 統合学問での啓蒙とか啓発ですね
義務教育にこれらの教育がないのがおかしい
生涯教育を阻む進次郎とかマジ困りますね 今の日本に必要なのは観念的な道徳教育よりも
自己が社会の中で真に主体的であるための
「メタ認知」の心理的技法を小さいころから教えるべき
というか望めば手に入るような所に置いておく必要がある。
もう一つは視聴覚に偏った現代人の感性を修正するために
原体験の想起による五感の体性感覚的統合。
この二つを幼少期に選択できるようにすれば日本人の精神性は
深みのある方向に変化していくと思う。
そこから意識と同じくらい無意識の重要性を社会が認識して
その辺が当たり前になれば、科学的な関心の比重もまして
まともな人たちがそれらに取り組むようになる。
そうすれば自然に人間が生理的に賢くなって多様な価値観を持ちつつも
共生できるようになる。
現在、多様性の飽和状態の中で人々が戸惑っているのを良いことに
脅迫的な観念で人を支配しようとする方向性が無力になる。
とりあえず、今、社会に必要なのは、そういう方向の選択肢も用意すること
選ぶのは個人が形成する社会の自由だけどね。 >>149
>(-ω-;)ウーン、何かに巻き込まれているのかな、判らん、シンクロだな、たぶん。
>>147
このことだったのですね笑
シンクロじゃなかったけど あれはこちらにようつべの出来をアピールするために
わざとこちらの言葉をそのまま使ったようだが、
咀嚼して消化されたモノであれば全然かまわない。
超越神秘行の世界は表現のためのツールが少なすぎるから
便利な表現や言葉、言い回しがあったら共有すべき。
ちなみに〇と△で円錐の喩えは確か物理学者か誰かが
相対性理論と量子力学の融合について述べたモノとして知られていて
全く相いれない情報を統合すると一つ上の次元の情報処理場が拓ける。
元々は、超越的弁証法の説明のバリエーションの一つだったと思う。
テーゼに対するアンチテーゼ、それを止揚したジンテーゼというのは
同じ次元上でイメージすると真ん中になりやすいが、こう例えると
情報場の次元上昇が理解できる。
そしてこれは釈迦のいう中道や仙道の背景にある道教の太極も同じもの。
釈迦の修行法は超越的弁証論を生理的実践法として展開した。
そしてそれを実践すると「松果体」が開かれる、そして生理的に
円錐を感得する情報場が得られる。
これが後に切り捨てられて観念的な部分だけ肥大したのが後の大乗仏教。
太極の気感についてはずっと説明して来たので省くが
仏教も仙道も最初に円錐を提示してそれを感得する方法を示しているのだが
後に続く人間が理解できずに〇と△の組み合わせで説明しようとした
するとそちらの方が理解した気になるものだから〇と△での
説明のバリエーションが増えてそれが仏教や仙道になってしまった。
本当に生理的なレベルで中道や太極を掴むと速攻に劇的な変化がある。
この辺は何度も3Dグラフィックを例に話してきたが
この世界は3Dの展開情報に満ちた2Dの世界で、一度3Dの感性を
正しく開くとどんどん業として3Dが展開するようになっている。
そしてそれはこの世界は3Dである、という観念ではない。
観念の中にあると思って追い続けると永遠にたどり着かない。
むしろ日常の中で生理的システムをバランス良く動かしている人に
それは訪れる、それが「無意識で意識を観照する」瞬間。
無念無想とか無我の境地、ゾーンと呼ばれるモノがそれで
言葉にすると大仰だが、普通に自分のやるべきことに真面目に取り組んでいる
人間には無自覚でも体験としてある。
そういう人達の特徴は無自覚にでも上位自我あるいは超越自我と繋がっていて
「お天道様に見られている」という感覚を持っていること。
「お天道様」というのは自身の無意識の事、生理的宗教感覚とも言える。
そういう人達は観念的な宗教やスピ系を避ける傾向にある。
ともすると宗教やスピ系に関わっていない人達の方が精神性が高く見えるのは
その辺だね。
そしてこの辺の自覚を促して、「無意識で意識を観照する」仕組みを
明らかにすることが、日本人の精神性を深くしていく方向性になる。
そのために必要なものはお互いに共有していくべきだと思う。 科学を哲学で答える
哲学を科学で答える
これを10年やりました。
これで言語の短縮化に成功しています。 >>181 の元ネタは勿論知っています。
同じ事を同じ説明でしてはアカンのです。
現代風にアレンジして隠喩で説明する練習は
色々な学問やウィキの擁護を研究して
独自の1本化の体形にしないと
劣化まとめブログになるのです。 >>185
最近このスレに参加されたのでしょうか? 欲と煩悩を満たそうとすると気が汚れるようになっちまったから、マズローの3とか4の欲求と縁がなくなった
自分の欲と煩悩をガイドにして生きることはもう終わりなんだね
悲しピー 実は新しい真理創造概念を発掘したんだ。
それ紀元前の原始哲学ではまだ転機でなかったもので
人類の一人以上が有現上の限界の未来を創造をすると
群生に影響するという概念。
シンクロニシティを利用し良い未来を表現する事です。
>>181さん連絡下さい。 三つの結節の破壊
https://youtu.be/qtdvasXGQb0
4:00〜
この動画によるとやっぱりもう1ランク上の考えがないとエネルギーも上昇しないものなんだね @ 生理的欲 ノルアドレナリン
B 社会的欲 セロトニン
D 自己実現欲 ドーパミン
E 自己超越欲 ジメチルトリプタミン
※ これはチートなんで一部にしか教えてない 信念体系を変えて上がらないと
超能力として外界に相互関与は
出来ない。常識を超えろ! クンダリーニヨガでのテーゼとアンチテーゼのアウフヘーベンは
気のエネルギー的性質(陽)であるクンタリーニと気の空間的性質(陰)を
持つチャクラを融合して円錐に至る、ということだと思うのだが
クンダリーニのエネルギー的側面ばかりを強調した体験談が目立つな。
クンダリーニを〇としてチャクラとして表現される気の空間的性質を△とすると
どこでも良いから円錐を作って全身に拡げる、或いは意識を円錐に没入すれば
クンダリーニ症候群と言われる現象は起きない。
釈迦の修行法は心理的導入部分からこれを丁寧にやっているので
クンダリーニヨガを直接取り入れずに神通力の身につく方法を展開出来た。
この辺を他に例えると、同じ核エネルギーを引き出すにも
核分裂と核融合があって釈迦は後者を選んだから
良く言われるように釈迦が密かに才能のある弟子にだけクンダリーニヨガを
教えていた、ということはあり得ない。
クンダリーニヨガでチャクラの様相とかクンダリーニ現象に相違があるのは
そもそもが〇と△が融合して高次で円錐になるプロセスを分析的に展開するのが
適切でないから。
部分から全体への統合のプロセスは、具象から抽象への変化でもある。
この辺を説明するにはトポロジーの相転移の概念を使うと判りやすい。
相転移というのは、例えば水が熱エネルギの関与により、固体、液体、気体
の相に変化することを言う。
この相転移の中での幾何学的変化の連続性の法則を学問するのが位相幾何学
(トポロジー)。
ウィキでググるとコーヒーカップがドーナツに変化するアニメが出てくる。
あれが相転移しながら幾何学的連続性を保っている状態。
実際は、物質に対してのエネルギーの関与で変化する。
そして〇と△を融合して円錐に止揚する過程を説明するのに最適。
その展開は体性感覚(気感)領域で行われる。
だからワンネスのシッポ=クンダリーニや先天の気を引き込んだら
それは〇=エネルギーではなく円錐だから、上げたり回したりせずに
バランス良く円錐と認識してそのまま身体意識と融合させていく。
そうすればクンダリーニ症候群などは起こらない。
典型的なクンダリーニ体験が稀なのは、そうでない方が正しいから。
ただ指導者がそれに沿って指導すると体現者は増えるが一般的ではないから
主流にはなり得ない。 知能(学習)と知性(研究)を兼ね備えないと
探究ですからアウフヘーベンはできませんね。
クンダリーニの体験談だけしてる人は
語彙力も比喩力もなくてアウトプット下手過ぎ。
アウフヘーベンって合気道だから
自分を強くするのではなく他人に工作する
ホワイトサイコパス思考なんです。 段階欲求を1〜5の順で実現していく様はきれいに理想的に開くチャクラのようですね マズローの5段階欲求説がチャクラに対応していたとは・・・・・・!
これは分かりやすいです
別スレで教えていただいた、時間軸にとらわれず俯瞰することで信念体系を変えジメチルトリプタミンの分泌に励めばいいのですね 失礼しました
時間軸についてはここですhttps://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/esp/1586031359/751
信念体系とジメチルトリプタミンについてはこちらのスレで学ばせていただきました