マハシ式のヴィパッサナー瞑想をやる
>>82
>現実世界が変わっていかないとねえ
それでわかったわ
お前、やりもしないで文句言ってるだけだ >現実世界が変わっていかないとねえ
もし毎日1時間を3ヶ月ほど続けても何にも変わってないのならそれはやり方がおかしいだけ
実際にやってからそういう管を巻けばいい
まあ、いろんな体験談を見たり、自分の体験からいえば、数日で変化は感じられるだろうけど ありゃ、かぶったか
過疎スレでも上げるとレスがつくもんだな 難しいよこれ
続かない
楽しい気持ちでなんてできない
雑念しかないもん 「自分を変える気づきの瞑想方」Aスマナサーラ著
っていう本です
「雑念、思考は自分が戦う相手、敵だと思った方がやりやすいでしょう。
(中略)瞑想する「私」は敵に負けず、雑念が割り込むたびに
「雑念、雑念、雑念」と三回実況中継して退治してください。」
って書いてあって雑念をなくすことをがんばってたんだけど
わたし、理解し間違えてるのでしょうか・・・ 「退治しろ」と書いてるだけで「力ずくで消せ」とは書いてないでしょ?
そこだけ読んだらそう解釈するかもしれないけど、退治するのは雑念じゃなく、雑念をしようとする気持ちの方
嫌いな虫が目の前を現れたらそれを殺してしまえといってるのではなく、気にするなといってるだけ
大体、雑念を力ずくで押さえ込んだら体の症状となって現れる危険があるわけだし
偏頭痛や高血圧なんかいい例だな ありがとうございます
退治する事と、消すって事の違いが分からないです
雑念を退治してしまったら>>91の「雑念を観察する」事ができなくならないのでしょうか
雑念をしようとする気持ちっていうのも分からない
分からないなりに続けてれば分かるようになるのかなぁ
>>95
あたなもしかして、かなり前に私と遣り取りしたかな?
たしか被害妄想が酷いという人じゃなかった? やってみたけど続かない
難しくて、すぐに飽きる
そんな初心者におすすめの本教えてく 別にマハシのヴィパッサナーにこだわる必要はないかと 健康法としてならどの瞑想法も大差ないしな
一部健康に悪いのもあるけど >>12
歩く瞑想なら地橋もスマナサーラも変わらん
スマ…動きに対してずっと言葉で実況中継する。
例『右足が上がった上がった上がった進んだ進んだ進んだ降りた降りた降りた』
地橋…黙って動きを観察し、動きの最後に言葉で確認を入れる。
例『(右足を上げおえてから)上げた(進めてから)進んだ(降ろしてから)降りた』 >>105 スマ氏は「右足あげる、運ぶ、下ろす」の3つだよ。そんなに連続して言わない。
スマ氏・・・「(1)スローモーションでやること (2)実況すること (3)それを解釈することなく、感じること。」
地橋氏・・・「しかし最初は現在形よりも完了形のラベリングの方がよいでしょう。
「離れる」「着く」あるいは「上がる」「下ろす」…など、現在形では動作の最中
に言葉を付けてしまいがちだからです。感覚を実感する仕事がいい加減な、曖昧なもの
になってしまうのです。
言葉を言いながらでは、よく感じることができません どう違うの?と自分で聞きながら自分でわかってるじゃん
スマ氏はマハシ氏に忠実で、3分割にしてる
地橋氏はラベリングを固定化しないで4つでも6つでもする
この辺、相当前からもめてるから人の多いスレを見てくるといい >>106
スマの直接の指導では『上げる上げる上げる…運ぶ運ぶ運ぶ…』と説明している。
本にも途切れなく実況とある。
まあ、役に立たないやり方だと思うけどね。 本やサイトによって言ってる事違うんだよな
と思って、マハシの本家本元の本を読むと、歩く瞑想だけ特殊だとわかる
特殊というか、適当なんだけどな
そういう型はどうでもよくて、とにかく集中力が切れないように切れ目なく実況するのが大事って事らしい
地橋氏のやり方は他の宗派のやり方の影響をかなり受けて、中心部分を決めてるけど、本来は決めない ヴィパッサナーもいろいろ流派があるけど、
共通している要はサティを絶やさないこと。
仏陀は、起きているときは起きていると、歩いているときは歩いていると、寝ているときは寝ていると知りなさいと言った。
(順番違うかもしれんけど)
結局、ヴィパッサナーとはそれだけのもの。
ラベリングはあくまで初心者がサティを入れるための補助に過ぎない。
修行の初歩が終わり、より微細なサティを入れるためには余計なものになる。
なぜなら言葉は思考なので、ラベリングを入れている間は完全に思考から離れた状態にはならないから。
思考というか、言語を伴った思考だな
言語を伴った思考の暴走を止めるために言語を使うという、一見すると矛盾した方法がマハシ式
ただ、アメリカで色々実験してるけど、ラベリングは感情の暴走を止める作用が証明されてるから効果はあるんだろうな うん。確かにラベリングにはそういう効果はあるだろうけど
ただそれは言葉に一点集中して精神統一しているためで、
マントラと同じく、ヴィパッサナーでなくサマタなんだと思う。
ヴィッパッサナーはあくまで気づきを連続させる瞑想だから、ラベリングをヴィパッサナーと呼ぶことはできないよ。
なのに、ラベリングをヴィパッサナーといって宣伝してる現実 ラベリングは補助輪みたいなもんだろ。
ないのが本来のチャリの姿だしいつかははずすもの。
だけどつけてたからと言って「これはチャリじゃない」と騒ぐほどのものでもない。
大事なのはいかにしっかりこいで目的地に達するか。
最後にはチャリ(方法論)に対するこだわりも捨てる。 >>106
それって、言語野と身体感覚を密接に連動させることになるけど、
他人の洗脳に掛かりやすくなったりする弊害ないの? >>119
もしそうだったとしたら、都合の良い自己暗示がかけやすくなるっていうメリットも
生まれるね。 >>106
>スマ氏は「右足あげる、運ぶ、下ろす」の3つだよ。そんなに連続して言わない。
初期の本やテレビではそういう風に指導してたぜ
というか、あの人指導法ころころ変わりすぎなんだよな >>105
スマ先生に「あがった」とか過去形を使ってる感じで、質問すると
にがにがしい顔をされてしまいます。 /www.youtube.com/watch?v=-BZf4nF8DU8&feature=plcp 瞑想をやるなら、「フォーカシング」を学ぶのが非常にお勧めです。
自己回復のエッセンスが凝縮されたような技法です。
自己の内部、潜在意識下に溜まっている心の傷や痛み苦しみを、
自分で取り除いていくことができます。
自己回復してくためには、「フェルトセンス」というものに意識をフォーカスする事が、
非常に大切な事のようです。それがフォーカシングの一番の核心部分です。
フェルトセンスに意識をあてることで、無意識下に抑圧されているものが顕在化してきます。
それを感じ続けるほどそれが解放されていき、自己回復が進んでいきます。
これは私自身、精神疾患の激しい心の痛み苦しみを自分自身で取り除き、
回復してきた実体験があるので本当です。それなりに時間はかかりましたが。
潜在意識下に抑圧されている痛みを顕在化させて少しずつ解放していった感じです。
ただし、激しいものを抑圧している人ほど、解放過程は過酷なものになります。
また自己回復だけでなく、様々な「気付き」も得られるようです。自己理解も進みます。
自己回復と気付きが得られるので、非常にお勧めです。
フォーカシングとスピリチュアリティ:仏教
http://www.focusing.org/jp/buddhism_rlevin.htm
要するにヴィパッサナーなんだけどな
しかもエビデンスがないくせに医学的っぽいアピールしてる分たちが悪い >>125
なぜエビデンスがないと言われるのでしょうか。
どの変がそう感じるのか理由をお聞かせ願いたい。
フォーカシングは、もともとカウンセリングの中で、
良くなっていく人と良くならない人の膨大なケースを調べた結果、発見されたものです。
地道な調査による沢山のエビデンスに支えられているからこそ、
一つの心理技法として確立したわけです。
そして私自身も実体験からの明確なエビデンスを持っています。
ただ、こういった「心的事象」というのは
他者から確認する事が難しいため、理解が難しいという面はあるかと思います。
実体験や経験則がエビデンスになるってのはおかしい
悦にフォーカシングに効果がないってわけではなく、医学的根拠があるかのように装ってるのが問題という話
漢方薬と同じだな フォーカシングとやら
いたるところにマルチポストされてるな
ぶっちゃけ、ヴィパッサナー瞑想を早く西洋医学的に解明してくれよ!
ってのがこのスレの住民の総意じゃね?
なんだかんだ言ったって「誰でも安全にできる」ことが第一条件じゃないと危ないよ。
その為には西洋医学的な「副作用がある場合の但し書き」とかも必要になってくるわけ。
その点漢方薬や針灸の東洋医学は曖昧な部分が多すぎるから今ひとつの信用をえられていないんじゃね? >>130
ある程度やってるぞ
英文だから見かけないだけで、ゴロゴロでてる
後、西洋医学もそんなに論理的に緻密なわけではない
特に薬学は経験則メイン マハシもゴエンカもサマタ(止)とヴィパッサナー(観)をいっしょくたにしすぎ。
もともと、ヴィパッサナーはサマタで培った集中力を使って瞑想する。
ラベリングは雑念を止めるためのサマタの一手段に過ぎない。
本当のヴィパッサナーは仏陀の瞑想方法からなにも小細工しない
パオの瞑想だってのは常識。
パオではサマタで第四禅定までいかないとヴィパッサナーには入れない。
あと安全を求めるなら坐禅も瞑想もやめときな。
ロックがかかってる脳みそにアクセスしてロックを外すんだぜ?
メンヘル気味の人はこのロックがきついんだ。
外すとショックがでかいからな。
ショックがでかいからこそそれにふりまわされないように信仰心が必要。
だから五戒や八正道を守ることが必要なんだ。
それなしに面白半分にロック外すと精神が壊れちゃうぜ。 そんな5年前に散々言われたことをいまさらドヤ顔で語られても いやだって、いまだにラベリングがどうの…って議論してるんだもん。
もともと瞑想や坐禅は、出家して死ぬ気で「悟ろう」と決意した者の修行なんだから、
病気を治療するとか自分を成長させるとか全く関係ない。
たまたま副次的な現世利益が現れるだけなんだからそれもとめちゃいけない。
しかも「悟った」からってなにがあるわけでもないんだぜ。 >>132
足の裏から脚の神経系統などから大脳まで電気信号が走っているのに
ただ歩いただけでは大脳の進化はありえないとおっしゃるわけですね
猿は二足歩行を経て人間に進化したというダーウィンの「進化論」の肯定に待ったをかける物言いですな
俺は生きているうちも死後も地獄に行きたくないだけだ
人間として智慧を得たいだけだ
それらの望みを破壊するようなことを>>132さんはおっしゃっているのだがその点はどうするのだろうか
メンヘラは生きているのが大事だから、バカはバカのままでいろというのはあまりにも非人道的すぎるのではないか?
その辺はどのように釈明するのであろうか?無論ロックを外して極端なショックを得たいという無謀でもないが >>127
おかしいと感じる理由が述べられてない。
そこをはっきり説明してもらわないと、こっちはあなたが理解できない。
なぜ実体験がエビデンスになるのがおかしいと感じるのですか?
私の考えを述べてみます。
まず証拠(エビデンス)の定義から。
「証拠とは事実を明らかにする根拠となるもの。」
そして、実体験は「実際に起こった現象」の一つですね。
その実際に起こった現象である「実体験」というのは、
ある一定の事実を明らかにしていますね?
実際に起こった現象は事実ですから。
よって、実体験は一つの証拠になるといえます。
ただし、前にも言いましたが、心的現象というのは、物的現象と違って
他者から直接的な観測が難しいので、理解しづらい面はあるかと思います。
だからといって、それは事実ではないという事ではないでしょう。
あともう一つ、フォーカシングが医学的根拠があるかのように装っている
という言説も理由と根拠が説明されてないので、理解に苦しみます。
あなたが何を見て、どんな資料を見てそう思ったのか、
ぜひその根拠を明示して説明していただけますか?
そうでないとこちらも分かりかねます。 >>137
「医学的根拠がないのに医学的というのはおかしい」
↓
お前「おかしいという理由が述べられていない」
どっちが頭おかしいかは誰が見ても一目瞭然だな
>>137
フォーカシングをマルチポストしてる行為は宣伝行為
と思われますが!宣伝行為は嫌われて当然です。
自己回復とかいってますが、どの程度のレベルからの
自己回復かも問題で。
フォーカシングなどは、まだまだレベルが浅い。
根源からの自己変容、そして悟りがであり
フォーカシングとは、レベルが違います。
うつ病のアラハンはありえないでしょう。
フォーカシングで悟れるのですか?
フォーカシングとは、心理面を扱っているものであり、
その程度のレベルないでのことなんです。
ヴィパッサナーとは、自己観察瞑想であり、フォーカシングは、その一部なのです。
ヴィパッサナーの一部がフォーカシングなのです。
ただ、順番、レベルというものがありますので、
まず、単純に、腹のへこみふくらみとか、足の裏の感覚からはじめていくわけです。
あなたがフォーカシングをすすめるというのは、プロセスを無視しているわけで、
修行の邪魔をしているということです。
「瞑想」の話をするから「フォーカシング」って単語使っている人は否定できないけど
一応「マハシ式のヴィパッサナー瞑想」ってスレタイにあるから「仏教系の瞑想だ」「禅的な要素もあるんじゃ?」
って思う人も出てくるわけで…
だから「瞑想」ってスレタイにあるからって神秘主義的なインド要素が入った瞑想や
マハシ式以降に開発されたの瞑想法っぽい話はスレ違いになると思う。
このスレで「フォーカシング」とか安易に使っていると「なんかコイツ違くね?」って思われるから気をつけた方がいいよ
やるなら「マハシ式の瞑想法が仏教経典(お釈迦様直属の言葉)に密接になっているかどうかを話しした方がいいとおもうんだけど
あとは、「お釈迦様は精神病患者の治し方をどのように経典に書き記したか」にスポットを当てて
瞑想できるような方向へ持って行けるようにすればいいと思う。
今ラベリングはつけるのかつけないのかとかフォーカシングとか言っている人はスレに微妙に外れていると思う。
どうせマハシ式を教えている人物がどのように教えるかで決まるのだからラベリングの論議は必要ないと思う。
「今教わっているグルの教えが嫌なら他所当たりな」ってことで 昔の話なんですけど、当時、ネットなどもなくて情報が少なく、道を探しあぐねていたころ、ヨガ指導者の本に「日常生活を修行化する」とか「自分の行為を観察する」とかかいてあったんだけど、
具体的にどうするのか書いてなくて、全然わからなかった。
ラベリングというのは、それらを具体的なメソッドどして、提示したことが画期的なんだと思うわけです。 >>138
お前こそ本当におかしいぞ。
言説がまったくごっちゃになって混乱してる。
しかも自分の論理をすりかえてる。
>「医学的根拠がないのに医学的というのはおかしい」
論理が摩り替わっている。これがおかしい。
「おかしい」とお前が述べたのは「実体験や経験則が証拠になる」
って事についてだろ?それがおかしいと感じるんだよな?
>>127でそう述べているだろ?
だからなぜ「実体験や経験則がエビデンスになるってのはおかしい」と感じるのか
その理由は?って事。
もう一つの問いは>>127で
「フォーカシングが医学的根拠があるかのように装っている」と
お前が決め付けてるものについての具体的な証拠は?って事。
どこの文献でどのようにフォーカシングが医学的根拠があるように装っているのか?
自分の言説の証拠もしめせないで、証拠が云々いいなさんな。
二つの問いは別々だぞ。
一緒にごちゃまぜにして言説を摩り替えて混乱させるな。 >>139
確かにマルチポストはよくなかったですね。失礼しました。
以後気をつけます。 医学的根拠を示せと突っ込まれて何にもいえないからってぎゃーぎゃー騒いでるお前の方がよほど頭がおかしいだろ >>144
すごい馬鹿だなお前。
まずだれがどのレスで医学的根拠を示せって突っ込んだんだ?
俺が言っているのはお前自身の言説の理由と証拠を示しなさいって事だぞ。
議論の流れに無いものを出してくるなよ馬鹿。
俺はフォーカシングが医学的だとも医学的根拠があるとも一切主張していない。
そもそもフォーカシングは医学ではなく、臨床心理学だ。
にもかかわらず、お前が「フォーカシングが医学的根拠があるように装っている」
と主張するから非常におかしいと感じているわけ。
そのおまえが主張している言説の証拠を示せって言っているだけなのに論点ずらすな馬鹿が。
自分の言説の証拠も示せないのに、エビデンス云々言うわ、
論理をすりかえるわ、論点がおかしくなるわ、お前のほうこそ頭がおかしいな。
馬鹿を相手にするとストレスが溜まるので、これで最後にしておきます。 126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/30(日) 16:03:35.50 ID:5k3Lrrki
>>125
なぜエビデンスがないと言われるのでしょうか。
自分の言ってることも忘れて発狂してるのか
そもそもそんな頭と混乱した精神状態なのに「これは私自身、精神疾患の激しい心の痛み苦しみを自分自身で取り除き、
回復してきた実体験があるので本当です。」と言ったのは何なんだ?
むしろ一般人より病んでるじゃねえか
エビデンスもない、そして実際効きもしないのはおまえ自身の言動が証明してしまってるんだよ
人に噛み付く前に自分の治療方針を見直せ とりあえず、フォーカシングをやると興奮してひたすら罵倒しかできなくなるのはわかった。 フォーカシングであれヴィパッサナーであれ
なんであれ妄信的なキチガイが布教(普及)させようとすると
必ず逆効果になるよね フォーカシングは、言語を使って自己との会話をするでしょう。
それって、瞑想ではないよ。
ラベリングでも言語を使うけど、単語一個だし、左脳は使われない。
思考を落とし、雑念回路を弱めていくということをやってるのに、
言語を使って自己と会話するようでは、右脳は活性化されないよ。
フォーカシングのような方向性の違うものをもちこまないでほしい。 入院している母のお見舞いに遠方から叔母さんがきて、車で送り迎えしたりして、夜、家で泊まることになり、晩ごはん作ったんですけど、味噌汁にはいってたシイタケが国産のものでなかったことに文句をいわれました。
翌日、駅まで車で送る間にも「私は国産のしいたけしか食べない」といわれました。
こっちは、朝早くから車で迎えに行き、いろいろ移動のために運転し、宿泊も用意し、ご飯も一生懸命つくったのに、スゲー腹が立ちました。
先日もまた来るということで、メールとかしてきていたのですが、もう二度と会いたくもないので、無視していました。
仏教では、慈悲とかいいますが、このような失礼な叔母さんでも許さなくてはいけないのでしょうか?怒るのはおかしいのでしょうか? おかしいとかおかしくないと考えるのが不自然な行動になってると気づくほうが先かと
サマタをちゃんとやらずにヴィパッサナーをいきなりやらせるとこういう迷宮に入りがちなんだよなあ いちいちその程度で腹が立つって、いったいどんなぬるい人生送ってきたんだよ 許すとか と言うより
あ 今 自分怒ってる と気がついているのかな?
気がついているのだけど、許すか
怒っていると気がつくと、それを観ると じっと観ると 消える
なるほど サマタが不足いているという指摘なんだな
怒りに振り回されている
その怒りの固まりを まず止めてみる必要があるのか
止めてそして、それを認識して、観察する
と消える事に気がつく
サマタで止めてヴィパッサーで観て、サティで気がつく
止められないと観れないそうなると、気がつけない
その一連の動作が一度でも出来ると、許すも、許さないも
何も無い 1ちゃんいないのかな?
ぼくちゃんもやろうかな?
地橋さんの本ね、持ってるよ。
あれでいいね。ヴィパッサナーね。 きのうはなかなか瞑想が上手くいかなかった。
水を飲み過ぎて満腹だったからかな。
今日は腹を減らしてやろう。 吸った、吐いた、聴いた、考えた、気にした、吸った、吐いた……
こういう感じで繰り返しました。今日もやるね。 やみくもに長時間やるのは良くないようだね。
思考が暴走して息に集中できなくなるね。
15分ぐらいで休むようにしよう >>159
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
。。。を理解して意識の暴走を それに巻き込まれずに
観察すると良いかも
意識で想起する雑念自体が細かい要素の集合体で
その要素が生まれては消えていくのがわかるようになる
そうしているとそのうちに意識そのものがフラットになっていく >>160
そういうのいらんよ
俺はいいたいことがあったけどあえて黙って見守ってた
この瞑想法を離れた方がいいと本人が気づくまで色々試行錯誤させたほうがいい
そもそも瞑想にお前のような知識偏重のタイプは百害あって一利なし
そういうのはただの宗教だと実践者なら1年もたたずに気づく そういうサティとかの概念にこだわるからみんなおかしくなってるんだよ
ラベリング=サティとかいまだに思ってる奴がいるしな
公式掲示板でも7年やってノイローゼになったとかあるけど、こだわるからそういうドツボにはまる おお、カキコが。みなさん上級者の悪寒…
>>160
仏教的な諦めの気持ちを基本にすると良いのかな。
たしかに「寂しさ」や「諦め」をベースにした
気持ちでいると雑念が暴走しない感じがする。
今は、「吸った」「吐いた」だけを観察してるつもりでも、唐突に
嫌な思い出や人前で演説する妄想とかが始まるような状態。
集中できるのは約10分ぐらい…かな。
>>161
>この瞑想法を離れた方がいい
>サティとかの概念にこだわる
重要な指摘のような気がする…。まだわからないけど。
もう少し続けてみるね。 >>163
メソッドには向き不向きがあるし 禁忌の病気もある
>>164
指導者についたほうが良いですよ
地橋さんお勧め 指導者には絶対付くな
理由はネットでの体験談を見たらわかるだろ
結局はただの宗教になってるし、そもそも地橋は母親の介護のあたりから情緒不安定でおかしくなってる
「自灯明」という言葉があり、またメソッドを書いた書物が腐るほどあるのになぜ誰かに頼ろうとするのか
誰かに頼ってると結局は教祖と信者の関係になって同じところをぐるぐる回るだけだぞ >164
呼吸を観察しているとき、いろいろな雑念がでてくる
じつはこれに気がついて、元に戻る作業が大切だと思える
ありがとう雑念、とも思える サティの一側面として
今の一瞬しか現実は無いと言う事を、知らしめる意味があるように思う。
それがわかると、楽になるとおもう。
サティをかけるたびに、今は安心であり、生きていると言う事を観る事ができるから >160
嫌な思い出が出たとき、それを止めて(サマタ)、そしてそれを観て(ヴィパッサナー)
消える事がわかれば、その思いも変化するものとわかる(それも諸行無常だから)
その瞬間から、あなたをずーーーといじめていたやつが、出てこれなくなる
それに気がついたとき、心に喜びがわきあがる、
そして平坦(不動、ゆらがない、静まりかえった)な自分の心が観測できるようになる >>170
サティでその喜びの向こう側も現れてきますね
>そして平坦(不動、ゆらがない、静まりかえった)な自分の心が観測できるようになる
その通りだと思います 今日は17分ほど。比較的集中できた。
みなさんのカキコを見てイメージできたからかな…?
始めは雑念に「いらない」とラベリングして、
息に集中して調子が出始めてから「考えた」「おもった」とラベリングした。
本を見てみたら慈悲の瞑想というのが載ってた。
嫌な体験の回想などはこれで抑えられるかもしれない。
明日からはこれも取り入れつつ、やってみるね。
>>170
観るのがヴィパッサナーなら雑念に「いらない」というのはまずいかもね。
今はそうしないと引きずられる。まぁ、イジメ体験ですね…。
過去の体験と心の中で闘わないようにする感じなのかな…。これは課題。 観るとき
それを否定もせず、肯定もせず ただじっと観る 私も慈悲の瞑想やってますよ。半年くらいかな。
基本的にスマ氏の教えに沿ってやってます。 過去
過ぎ去ったものに意味は無い
過去を思い出すたびに、自分を痛め続ける
それこそ観てみれば、自分が作り出すまぼろしとわかる
今一瞬が真実
今しか無い
一期一会
これは
仏の教えから自動的に導き出されたもの
未来のことも何が起こるかわからないから
考えても無駄
今を生きる、精一杯生きる、それを続ける
今を気づきつづける
そうありたいとおもう >170
喜びが出たあと、それを続けて行くと
その喜びすらも出なくなってくる。
あれっ?とそれに気がつくようになった。
(はじめはおかしいと思えた)
しかし、それを続けて行くと
苦しみと、喜び、これは根源的には同一の物なので
じつは当たり前の事だ
ということが、わかる様になる。 今日は15分ほど。
やり始めたらちょっと不穏になったので、目を開けて瞑想。
「吸う」「吐く」だけにこだわるとジョギングみたいになってしまう感じがしたので、
途中から弱く静かに呼吸しながら心を観察。まあまあ上手くできたかな。
慈悲の瞑想の文章を黙読して、静かに反芻した。リラックスするような感じ。
明日は30分にチャレンジの予定 早いもので、2013年も4月。新年度に突入した。ますます時間が進むのが速くなる。
このまま、どこに向かうのか?
地球の次元上昇は、着実に進行している。「次元が上昇しているというのなら、
証拠を見せろ」という人もいるけど、証拠はある。
「波動が上がっている」というのが、その証拠だ。
もっとも、「波動が上がっている」と言っても、「ボクにはそんなの、ちっとも
感じられないよ?」という人もいるだろう。
そういう人には、「残念でした。ご愁傷さま」としか言いようがない。
でも、ちょっと呼吸を止めるか静めて、雑念を消し、意識を集中してみよう。
何か、ビリビリ感じられるものはないかな?
そう、それが上がってきた地球の波動なのだ。もしくは、地球の波動に合わせて、
自分自身の波動が上がってきているのだ。何ヵ月かするうちに、ビリビリ感が
だんだん上がってくるから、そのうち実感できるはず!?
どちらにしても、全員がそれを感じ取れるわけではない。
「地球の次元上昇」にもともと興味がなければ、まず無理だろう。
これは植物の生長と同じで、日々の変化は微細なものでしかない。
でも、何ヵ月かすれば、明らかに違ってくる。もちろん、植物と言っても
タケノコとか、ツクシとか、ああいうのではなく、普通の樹木の話。
こんな話を世間の一般人にしたって、笑われるのがオチかもしれない。
「お前は、アセンションを信じ込んでいるのか?」と言われるかもしれない。
でも、まさに、その通りだ。こちらは、アセンションを信じ込んでいる。
それで、何が悪いのか?
そちらも、「このままの地球が続く」と信じ込んでいるのであり、それもまた
一種の信仰なのだから、お互いさまだ。 慈悲の瞑想について
これを各項目ごとに、わき上がる感情を観るという方法がある
慈悲の瞑想はサマタと言われているが
これをヴィパッサナーで観ると言う事を、してみる
言葉で誘導された感情が出てきたとき、それを止めて、観て焼いてしまう
と言う事を続けると、
どの言葉においても、感情が沸き立たず、同じように唱えることが
できる事に気がつく
言葉はよく観れば、空虚であると感じると同時に
色々な自分の言動を観たとき
本当に大切にして
良く気がついて使わなければならない
と言う事に気がついてくると思う。 30分近くできた。瞑目してやった。
無理やり時間を延ばした感じだけど、質は後から付いてくる…と思う。
昨日から放りっぱなしになってた本を読みだした。
ここ2年ぐらい読書欲が無かったのに。これはヴィパッサナーの効果かな。
取りとめのないネットサーフィンも止めてお気に入りを巡回するだけになった。
頭が動き始めたような気がする。
悟る気配は全然無いけど…w
>>181
>どの言葉においても、感情が沸き立たず、同じように唱えることが
>できる事に気がつく
これはちょっと感じています。
あ、あと隣の生活音にイライラしなくなったのも変化かな。昨日気づきました。
嫌な思い出の回想も無いですね。