マハシ式のヴィパッサナー瞑想をやる
>>333
欲界善と解脱とでは、向かう方向性が違う。
座標軸で表した場合、縦軸が欲界善で、横軸が解脱だとすると
人が好み、喜ぶのは欲界善の縦軸方向を高くすること。
解脱を求める修行者がやってるのは、横軸に進んで彼岸に渡ること。
両方高いなら文句はないが、みんながみんな天才ではない。 縦軸だけ進んで、ぜんぜん解脱の智慧がない人ばっかりなのが
末法仏教の問題点だった。 >>336
質問良いですか?
で、その欲界善の縦軸が進んだ人というのは、どのような行動や
思考傾向になるのでしょうかね?
また、それとは異なる縦軸方向の解脱に進んだ人の思考傾向とは
どのような特徴がありますでしょうか? >>338
仏像でヴィジュアル的に言うと、前者は天部、後者は阿羅漢。
両方とも高いのが如来や菩薩。
前者は、欲六界から抜け出そうと思ってない。
人によっては欲六界の外があることを知らないし、信じられもしない
とすれば、そもそも抜け出せると思ってない。
欲を満たすことに対して肯定的、積極的。
後者は、欲六界から抜け出し、色界、無色界を含む三界すべて
から抜け出そうとしてる。
欲を満たすことに対して否定的、消極的。
如来や菩薩は、お釈迦さま、ゴータマ王子みたいな感じ。
だいたいこんな感じでしょうか。 縦軸が世間諦で、横軸が出世間諦と言ってもいいかもしれない。 >>339-340
なるほど・・・有難うございました。
前者として天部のたとえがありますが、実際我々人間の瞑想者の場合、
多くの情報が有るので、
>欲六界の外があることを知らないし、信じられもしないとすれば、
>そもそも抜け出せると思ってない。
は無いだろうと思います。
凡夫から天部の境地に到達するだけでも並大抵の努力ではないでしょし、
今世においては天部の境地でも十分と思う人も居るでしょう。 >>339
欲を捨てることは出来るのでしょうか?
遠ざけて消していくには出家でもしないと無理ですよね 欲は無くならないと思いますよ
生きている限りは
ただそれに気がついて、捕らわれないように
する事は出来るように思えます。 考え方にもよるが、解脱を目指して精進努力するのも「欲」と言えば
「欲」でもあろうと思う。
では解脱して場合はどうなのだろう?
凡夫のような俗な欲は無いかもしれないが、より向上したいとか
菩薩行を行いたいとかの「欲」はあるだろうと想像する。
その境涯「欲」の質は異なるが意識が存在である以上、「欲」は
永遠になくならないのでは? 仏教教学的にいうと、悟りにも四段階、より詳しくは四向四果の
八段階があって、段階に応じてなくなる欲も違ってくるようです。
四向四果の聖者たちうち、預流向から一来果までの悟りの段階
においてはまだ欲界を対象とする欲は残っているそうですが、
不還果から阿羅漢果に至った聖者は、もう欲界を対象とする欲
は残っていないと言われています。
そのため、この境地にいたっても出家せずに在家のままでいると、
一週間ぐらいで死んでしまうそうです。 日本の仏教では出家してもそれなりに仕事しないとならない・・・
日本仏教で阿羅漢果になったら一週間ぐらいで死亡かな? 菩薩として、あえて苦界に留まることを選べば、あるいは生きていけるのでしょうかね。
そこまで行ってみたいものです。 本読んで初めて1ヶ月半
今日強烈な喜悦感みたいなのに
吹っ飛ばされそうになった。
一瞬だけだったけどね
これ何でしょう? >>348
喜(パーリ語で piti ピーティ)。
尋、伺、喜、楽、一境性という五つの瞑想を支える要素があるのだが、そのうちのひとつ。
八正道に当てはめて言うと、正精進→正念→正定の部分をやってることになる。 喜や楽が生じてくると嬉しくて気を取られてしまうと思いますが、
集中すべき対象は喜ではないので、あくまで集中すべき対象に集中するようにして下さい。
心身の苦痛は消えるか、気にならなくなってくるはずなので、それ(喜や楽)に助けられて
さらに瞑想がしやすくなるはずです。 背筋を軽くただしてアゴ引いて
胡座で自然に呼吸してるの意識して
次に手足を意識して
体の各部を意識して
周りの音や空気の流れを意識して
自分が意識していない自分(心臓の鼓動、手足の痺れ、)と、自我(?)の両方を自覚して
雑念が浮かべば消して
こんな感じでラジオとか聞きながらのんびきしとったら
多幸感がすごいのだが
今を実感できて素晴らしいのだが
いわゆる魔境かね?
これはどう解釈すればいいのか
いったい何が起こったのか
頭が少し熱いです お釈迦様の親戚で以前は王子であり裕福な暮らしをしていた人がいました。
この人はお釈迦様にしたがって出家し、一人で森の中で托鉢をして食事を取り
家も無く見るからに貧しい状態で暮らしていました。
その人が歩きながらなんて楽しいのだろうとつぶやいていたので
それを聞きつけた人々が、昔の贅沢な日々を思い出してそんなことを言っているのだろう
と言っていました。
それを聞いたお釈迦様は、その人を呼んで、
楽しいとつぶやいていたみたいだけどなにが楽しいのか?
とたずねたそうです。
その問いに対してこのように答えたそうです。
私は王子であったときは、宮殿は常に軍隊に守られ、どこへ行くにも兵で守られていました。
けれど私は毎日、おびえて暮らして、夜も眠れませんでした。
しかし今は一人でだれも守ってくれませんが、おびえる事も無くいつも穏やかに過ごしています。
ですから、樹を見ても、山を見ても、川を見ても、食事をしていても、
いつもなんて幸せなのかと言う思いが出てきます。
そうすると、なんて楽しいのだろう と言う言葉が出てくるのです。
と答えたとの事です。 アーナンダよ、
ベーサーリーは楽しい
ウデーナ霊樹の地は楽しい
ゴータマカ霊樹の地は楽しい
七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい
タフブッダ霊樹の地は楽しいサーランダ霊樹の地は楽しい
チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
中村元訳(パーリー語より)
この世界は美しいそして、人生は甘美である
(サンスクリット語より)
涅槃経より ウ・ジョーティカより
景色でさえ、心が落ち着いていれば、
日の出や日没を眺める際、
私はそこに没頭することができます。
するとその景色は実に素晴らしいものになる。
世界は実に美しいのです。 お釈迦様が修行に入り成道して人生の真理に目覚め、
「人生は苦である」と言った。
しかしその人生を終えるに際して
「この世界は美しいそして、人生は甘美である 」とも言った。
そのどちらも間違いではない。どの様な経験とどの様な立ち位置で
モノを見て捉えるかで違いが出来るだけ。
更に言うなら、人生は、まさに苦であるが、その苦難すらも、
肉体を持って体験できるこの世界は、素晴らしく美しい・・ともいえる。 思考が出てこないとき、思考が止まっているとき
ただ見ているという事が、この不思議な美しく
平安な状態をもたらすことに驚いているんです。
ただ気がついている状態で居るという
猿が出てこないと言うか、このお猿を優しく観ている
とでも言う状態
目の前に見る電話機や、ノートが、やさしく微笑んでいる
なんてうれしいのだろうかと、
ビルに輝く光るが、とても美しくきらめいている
光が優しいのですよ これ、日常生活中に、感覚感じながら、サティを
入れるだけじゃ駄目なの?
別に一箇所に留まってやらなくても、効果を感じることが
出来るような感じがするし。 息を吸って吐く一回ごとに
体感温度が変わっていく
そんなことに気づいて
楽しくて
中心への集中が崩れた 瞑想のやり方を説明してる本って
沢山あるが、一冊あれば十分だよね? 集中力無くなると、ヤル気が失せます。
アドバイスを。 集中力がなくても集中できるようにする。例えば環境を工夫する。
環境が整えば自然に集中できるようになる。
瞑想では集中力はつかない。多分「集中」の意味が違うように思う。
瞑想ではやる気がなくなるというのは良いことだ。しかしやる気を出したい
なら別の方法が相応しい。どんなやる気がだしたいのか? 勉強だろうか?
それなら簡単にやる気がでるようになる。勉強がすこしづつでもできるように
なるとやる気がでてくる。例えば難しい数学を理解できるようになれば
数学が面白くなってやる気がでてくる。そのためには「無理だ」と思わない
で少しづつでも理解するようにする。一つのやり方でわからない時には
別のやり方も試してみる。いろいろな角度からすこしづつでも理解をすす
めて行くと、段々と解るようになる。 >瞑想では集中力はつかない。
? 瞑想を続ければ、集中力が付く、と書いてあったが。
スマさんか地橋さんの本のなかで。 ヴィパッサナ学んでから難しい専門書も一発でスラスラ理解&記憶できるようになった。
地橋先生とこに速読の生徒が来るとか
スマ長も何でも一発で覚えるとか言ってたが
ヴィパッサナの智恵は知的活動のレベルを一気に引き上げるよね
七回読みってのが流行ったがあれもヴィパッサナだろ
>>366
瞑想で得た集中力の出し方をどう多様な対象に工夫して当てはめるかってことだと思う >357
私も、ビッパーサナをしようとしてた時でも、サマタの瞑想してた時でもなく、
意図しなかった時に、一度だけ経験しました。
階段を降りてきてフローリングに反射した夕日を見た時、
今まで経験したことのない、この今を完全に見続けているのに、雑念が全く無い静けさと、
美しさだけを見ている状態を。 最近は、瞑想を行って悟り体験をしたいと思う人よりも、そんな事は
考えもしないのに、いきなり「ノンディアリティ」や覚醒してしまう人が
大勢現れている。
そういう時代なんだとしか言いようが無いが、一生懸命坐って瞑想してる
人が悟れずに、何もしない人でも悟れる不思議な時代だわ 過去世までの積み重ねが違うので、すぐ体験する人は、過去世ですでにすごい努力してる。 歩行瞑想について質問です。
通常、離れたー動いたー触れたー圧、の4つで行うと思いますが、
離れる時、踵から指先まで順番に離れて行きますし
圧も下ろした時の広角の圧から直角の圧まで変化します。
構わず4つでやればいいのでしょうか。
それとも細分化していくべきなのでしょうか。 >369
アーナンダよベーサーリーは楽しい
ウデーナ霊樹の地は楽しい
ゴータマカ霊樹の地は楽しい
七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
タフブッダ霊樹の地は楽しい
サーランダ霊樹の地は楽しい
チャーパーラ霊樹の地は楽しい 瞑想してからスパ銭行かなくなった
いつでもリラックスできる じゃまする思考が止まった状態は
とても平安で心地よいでしょ >377
この言葉はお釈迦様が亡くなられる模様を描いた
涅槃経と呼ばれる教典の一節です。
つまりそのようにお釈迦様は世界をずっと
見ておられたのではないかと思えるのです。 ウ・ジョーティカの言葉から
景色でさえ、心が落ち着いていれば、
日の出や日没を眺める際、私はそこに没頭することができます。
するとその景色は実に素晴らしいものになる。
世界は実に美しいのです 過疎ってるなぁ
俺は地橋秀雄氏のヴィパサナーをやってるんだけど… こないだヴィパッサナーを集中的にやる機会があったんだけど、過去のトラウマなのか
対人恐怖みたいなものが出てきてしまって
(なんかある気はしてたがずっと隠れてて忘れていた)
これこのままやり続けていけば治のかな
もっとひどくならないかな
結構苦しい
メンヘラになりつつある
過去精神疾患が
ぶり返した感じ
多分普通の人はそんなんならんと思うのだが 瞑想をテーマに議論してもまったく無駄やなあ。瞑想中にどんな意識状態になるか、なにを感じるか、なにを見るか
等どんな経験をするにせよ所詮、主観経験やもんな。共通の足場になるものはなんもないわ。 瞑想をはじめてわかったこと
ポジティブになろうなんて思っても無駄
本来の心は澄明で活力にあふれ静かでありながらぞくぞくするほど楽しい
(表現が難しいが)
無限の可能性を秘めている心、それを覆い隠してるのが自我の思い
無理やりポジティブになろうとすると逆効果
思考と思考の間の沈黙と無思考状態になると
普段の生活では感じない力みたいのを感じるようになる
瞑想続けると思考の波が静かにはなるけど
何かトラブルになると逆戻りしてしまう
まだまだ修行が足らないわ 現実世界でトラブルに巻き込まれるのはカルマのせいかな…
それとも魂の成長のための試練か??
折角うまく行きそうなときに滅茶苦茶になる
新たなカルマをつくらないようにすることも肝心だな
修行僧が出家するのも新たなカルマをつくらず解脱するためなんだけどね 瞑想って眠かけのようなぼんやりした感覚ではないし
普通以上に心が澄明になり、思考も明晰になり
力が湧いてくる、うまく行くと病気も治るし、怪我も早く治る…
特殊能力が身につくことすらある…
だけどそれを求めて瞑想すると、失敗するる
求めない願わない執着しない、それが難しい 長老の云う感覚の生滅を捉えることができたら無常無我を実感できたよ( ˘ω˘ )