マハシ式のヴィパッサナー瞑想をやる
>日本人だとどういう人でしょうか(東京にいらっしゃいますか)
あそこで学んだ人(井上ウイマラとか)は知ってるけど、教えてる人は見たことないな >>209
ありがとうございます
…そうすると、「ミャンマーの瞑想」オリジナルのヴィパッサナー瞑想を教えられる人は日本では皆無に近い状態で、
スマナサーラ長老や地橋さんの教え方が幅を利かせているのも当然かもしれない
そういうのってマズイ気がするのですが…
まるで「その本を読んでうまくいかなかったらミャンマーへいってください」とか
「ミャンマーの瞑想にある長老たちの名前を訪ね歩いてください」とか
「日本人は真のヴィパッサナー瞑想は教えられません 言葉の壁があるから」とか結論が出てきそうで怖いですね
あと10年はミャンマーが日本と安定した交流を結んでいる間、「ミャンマーの瞑想」は空白状態でしょうか…
寂しいです そうすると、>>201で「ミャンマーで尼になりました」という書籍は関連書籍として有力かもしれない
ひょっとすると書籍に僧侶の名前が書かれていたり、僧侶の指導がそれとなしに書かれていたりするのかもしれないから
「ミャンマーの瞑想」独学のお供に僧侶の代わりにつとまりそうな気がする
それでも今までスマナサーラ長老の書籍を好んできた身としては慎重にならざるを得ない 日本の座禅でも悟った人沢山出てるし
ヴィパッサナー瞑想とか手段よりそのひとのやる気が1番重要なんだろうね >207
試行錯誤すると言うことは
その通りとおもいます
はじめは何でもやってみるってことで
合わなければやめればよいだけですから
206さんへもしかするとらべリングの罠に
落ちているかも
東京近郊なら山下良道師がいます。
ブラユキ師の来日は秋でしょうし
ただ思うことは 気づきというのは
何を自分にさせようとしているのか
ということです。 >>214
ラベリングの罠というと、
「ミャンマーの瞑想」では「歩いている、歩いている」「右足が歩いている、右足が歩いている」
「左足が歩いている、左足が歩いている」ですし、
A・スマナサーラ長老だと「右足、上げます、運びます、下ろします、左足、上げます、運びます、下ろします」
と結構違いが大きいようです
こういうのってどうしたらいいの?と
小池龍之介さんですと「右足、左足」とそれぞれの足が動いている時にラベリングして観察するようです
こういうのは「ミャンマーの瞑想」に原点回帰してうまくできないものでしょうか? >>215
そこも試行錯誤
結局のところ、指導者はみんな試行錯誤して自分に合った方法を見つけただけなんだから
問題は、それを一般化してしまったこと
過去形だろうが現在形だろうが現在完了形だろうが自分にしっくり来るのをやればいい
もしくはラベリングをやめるって手もある 歩いていると言っても
意味が違うんです
たぶん 念ずるのは文字じゃないんだと
おもうのです。
まさかみぎともじでいっているのでは
ないですか? サティは微細に高速になってくるので
文字では駄目のはずですよ ミャンマーでの尼僧修行記
鳥頭紀行 くりくり編 西原理恵子編
ミャンマーヴィパッサナー瞑想修行記録
(3年修行した尼僧の記録の半年分) ミャンマーが熱いな
マハシ流観法が「ミャンマーの瞑想」で紹介されて主流になったからか? 取っつきやすいからです。とくに歩くってやつ
自分もこれならできるかで始めました。
ウォーキングが現在流行していますが
これを歩く瞑想に切り替えると、様々な道果を得られるように思います。 >>223
座るのはキツいけど歩くのは取っつきやすい
さらに、道果が得られなくとも、有酸素運動による体力維持にはなる
走るのと比べて苦しくない >>221
これ連載始まったときから読んでたけど、オチがおかしいんだよね
サマーディーに達したときに「間違った方向に進んでしまった」だの「実は自分のやってることはサマタだった」だの
少し仏教について調べれば間違った方向でもないし、初期段階でサマタもヴィパッサナーもないとわかるのに
もしかすると本をまったく読まない人なのかもしれないけど じつはこの3人の体験から、逆に分解して問題点などを
洗い出し、分析してみた。
3番目の体験については、一応真実として判断している。
どのような人物かは、わかっているが、消息は不明
事実なら超一流のシャーマンの素質がある。
最後の話はおそらく無色界を見ている。
しかしこの瞑想システムは、精緻にかつ広大で
おそるべきもの
またシステムであるので、そのシステムに
従えば、だれでも、絶対に進む事ができるように
組み立てられている。(とうぜん限界はあるが)
日本の大乗仏教は、この視点が欠落していると
思っている。瞑想から逆に経典をみていると
全く違った視点が現れてくる。
実は戒がとてつも重要であると判断している。 >>226
いや日本の大乗はそれはそれで完成されてるんだよ
悟った人をかなり排出してるし
ただ人によってあうあわないがあるので色んな方法論が出て来る
そして上座部と大乗に別れたんだよ
どの国の仏教も形骸化してなきゃ一心不乱に打ち込めば悟れるよ
方法論を追求していくと結局は学者になって終わるだけ >225
元々は全くの門外漢が旅行のついでで興味で始めたのだから
仏教瞑想のシステムの理解などないだろうし
外国であるから、それを知ることもできない
惜しいことだ
あの後2年半やったらしいのだが
おそらくそれとすれ違った記述らしいものがあるが 無色界を見ているのなら
その前に色界4禅を
駆け上がっているはずなのだが
その記述が無いというか、気がついて
いないのかもしれない。
ともかく初禅を形成すれば、修行は進む
この一段前の近定行でも
アラカンになったという話があるくらいだから
では初禅状態とは、これがよくわからない
一応初禅状態になり、そのときのサマタの集中力を
観察方向に変更したのが、お釈迦様の
システムだろうとおもっている。
観察部分は6門を観察していると推定 初禅の前にどうやってその領域にたどり着くかが
問題なんだろうとおもう。
思考を停止させろという
おそらくサティで心を覆い尽くせば良いのだと考えた
思考は出ようとしても、サティが邪魔して出れない
結果的に思考は停止する
ではサティとは何かという問題になる
心は常にさまよっている、とりとめも無く思考している。
こいつを停止させるには、気づきをずーーと
流し続けるしかなくなる。
しかし気づきと、気づきの間に隙間がある。
思考が出てくる寸前まで時間があるので、その隙間がみえてくる
またサティを流し続けると、思考自体が発生しにくくなる
どこかで隙間というか、その領域を捕まえれるかどうか
ここにサマタの力がいるはず
つかまえたらその領域を広げていく
その領域は安定して、動かない、静かな、領域
こいつが必要なんだと思う
この領域が知覚できると、こんどは思考が出てくる時がみえる。
そうなると心随勧ができたことになる。
問題はラベリングだ、右足とラベリングしてしまうと、右足と思考している可能性がある
そうなると、サティでなくなるから、いくらたってもわからない
ラベリングも使い様だとは思うが、この微妙な違いを認識する必要があるとみている。 戒の重要性はここでも出てくる 戒を守ることは心に雑音となる思考が減ってくるからだ 禅でいうところのいわゆる経行、キンヒンは元々はヴィパッサナだったんだろうか。禅でもキンヒンの時にサティを入れたりするような行はあるのかな? 大乗の禅のことを言ってるんだろうけど、そもそも修行中にサティを入れないわけで >>232
サティは単純かすると数息観だから
あるよ 数息観がsatiになるな そう
数息観も間違えるけど
間違いないように努力すべきなんだけど
その間違ったときが重要なんだろう
とおもうよ >>232だけど、いわゆる坐禅での数息観がサティとしても、経行は歩行のヴィパッサナかと思ったんだよ。
というよりもともとヴィパッサナだったものが様式化したんじゃないかと思ってね。
天台の常行三昧とかも案外元はヴィパッサナから来てるのかもとか。
ところで臨済の公案禅はサマタになるのかな。 根本はおなじだから 狙いはみなおなじだろう
あじ観もおなじだ
瞑想による変成を誘導すれば
理解がふかまるよ
ミャンマーで3年のひとの5カ月にあらわれている 頭良くなりたい
けど、瞑想がこんなにも複雑なものとは思わなかった
取っつき悪そう
お坊さんの説法書籍だけ読んで面白がっていよう 瞑想は集中力をあげるものみたいだから
まあなれないなら無理にしない方がよいよ
一切行苦くらいは、3分で理解できるから
諸法無我はまだ分らない
人によるけど、5分でわかる心髄観の実行によるとサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の
実践メソッドがある
それから導かれる所行無常が理解できるようになるが > 人によるけど、5分でわかる心髄観の実行によると
5分で語られても理解力がなければ何年経っても理解できないかも
そう思うと苦しい
てか、3分で理解できるとか一体… 隣の人にやってみるときくと
宇宙兄弟を見るからに
忙しいといわれた >>237
ちょっと言われている意味がわからないんですが、3年? 静かなところで
目を閉じて 息を ふくらみ ちじみと
観ていってください
ゆっくりと 長く息をかんさつしてください
それでわかるはずですが
そこにある苦を観て >>237
師にちゃんと付けば あじ観 だけでも悟れるらしいね 調子が狂ったときは慈悲の瞑想が良いですね。私が幸せ〜というやつです。
もう10日ぐらい経ちますが、心の反応がマイルドになります。
電車の中でも歩きながらでもできます。
なんだかんだ、自分の場合はここからかな、とおもいます。
心の荒みを取り除くのが最優先事項です、いまのところは。 人の顔色を気にして、憂鬱になるといったことが無くなりつつあります。
自分が幸せにならないと他人も幸せになれないというのは自分の中でパラダイムシフトになりました。
あと、まだ短期的ですが、欲しがらなくなってきた感じです。食事量が減りましたし、
モノも買ってないですね。ニュースもあまり見なくなって、ゴシップネタは
一切見なくなりました。心がシンプルになってきたのかな。良いか悪いかはまだわかりませんが。 >>244
そういう話はよく聞くんだけど、ではその悟ったという人が本当にいるのかという疑問もある。いつも伝聞型だからです。
そういう人を具体的に知っているんですか?
その方の話を聞いてみたい。 >247
自分も同じです。こころが静かと言うか
揺れない、そうなってくると心の雑音というか
色々な考えが減ってきます。
結局戒の重要性に気がつくのです。
正直な生きざまとでも言うものの大切さです。
戒の上に作られる定力を考えたとき
この雑音が少ないことは、定力の上昇を
容易にするようにおもいます。
よしんば、終着点に到達しなくても
そこには立派なよき人が現れるはずですから 戒ってネーミング、誤解招きやすいよな
一般的な宗教の戒律、要するに「問答無用で守るべきもの」と解釈されてしまう
実際は「やってもやんなくてもいいけど、やった方が瞑想はかどるよ」くらいなものなのに >>247
有名人だと
山岡鉄舟とか良寛とか
今だと
原田雪渓とかかな
日本は悟った後も静かに目立たないで生きるのが美徳って感じがあるから
表に出る人って少ないよね
その逆がスリランカの坊さんかな
悟る事よりもガンガン海外に出て布教して相手を論破して地位を築くことを重視してる感じかな 久松潜一とかね。
247だけどw
内証はなかなかハタから分からないしただの妄想かもしれないしね。
しかしこのことを突き詰めても不毛な気もするしどうなんだろう。 個人的には上座仏教は未だ日本に定着していないから
例の長老にはもう少しロビー活動のごとく冊子を刷っていろんな角度から説法して欲しい
信者に檀家になれとかそこまで定着することを要求しないから
せめて瞑想法やお釈迦様の教えで心理的な悩みなどを解決できる話を日本に残して欲しい 今の上座部は日本と大差ないレベルで腐敗してるからいらんわ
アメリカ経由の新仏教の方がまだ使える >>253
そうなんだよねw
上座部を隣の芝生は青いと思ってこれこそ本物って言う人多いよね
でも結局あちらでも色々問題が沢山あって腐敗してるし分裂してるしね それは向こうに修行に行ってる人もよく言ってるよな
佐藤哲朗はそういうのを暴露した奴に絡んでたけど しかし瞑想については1日の長が上座にあると思うな 何か結果が出てくるのは強い 問題はどのくらい素人受けできて効果がある瞑想法が発見できるかということと
お釈迦様の言葉をどのくらい広めることができるかだと思う 簡単な瞑想法は考え作って
一応何人も試したよ
結果
きつねにつつまれたような顔をしていたけど
理解してもらえた >>258
え?あるの?広めてくださいおながいします
って安全な方法ですか? それも重要
A長老はそれで信頼を勝ち得ている(たぶん) >154
から
>177
に書いてあります。
あまりにも簡単で、拍子抜けするかと思いますけど 一日何回も瞑想してる人いるみたいだけど、毎回毎回腹式呼吸で呼吸整えてから瞑想に入るのですか? 歩くとき、立っているとき、食事をしているとき、トイレに行っているときなど
最終的には、すべて瞑想になります。
一度やってみるとおもしろいと思いますよ
satiをしていることは、広義の瞑想だと思っていますから
やってみてわかることは、思考が出てこれなくなって
静かな心がずーーーーーーーーーと現れてきます。
これって涅槃寂静への道にみえてしまうのです。
satiをすることは、こころがsatiで埋められて
自動的に静かな心が現れますから >>262
でもさーこれってよく日本の武術や禅などでいわれてる
ずっと丹田に意識をおいとく
と同じだよね わたしも少林拳をしておりましたので、そのことはよくわかるのです。
師より残心ということばが残っております。
おそらくその意味するところは同じと思います。
同じ見解です。
また、茶道とか作法、所作においては
実はSATIを入れていけば、結果的に
そうなります。
その禅的な心の作り方は、satiと全く同じものとの認識です。
残心については千利休が
何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ
(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
この所作はsatiそのものとの認識です。 >何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ
>(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
よい言葉だね 茶道において侘びとよくいわれますが
この侘びも涅槃寂静に通じるとの
記述もあることからその共通性を
うかがい知ることができます
この境地を作る方法として
sati気づきがあるようにおもえるのです >154
ここにあるじっと観るということについて
こういうものを偶然見つけた
瞑想とは自分の心身に起こっていることを、それが自分にとって好ましいことであれ、不快なことであれ、リラックスしてそれを認知し、じっとただ見つめることをいいます。
これはアシンテジャニヤ師の言葉です。 ★サングラスをかけてプライベートジェットで移動、タイの僧侶に批判 AFPBB News2013年06月19日10時47分
http://news.livedoor.com/article/detail/7779908/ 欲界における瞑想の段階
(1)粗住または粗定
一つの物事だけに集中して、雑念と闘う段階
(2)細住または細定
一つの物事により深く集中する事です。
(3)欲界住または欲界定
意念が安定した後、身体に様々な感覚(感情と感触)が出てきます。
(4)未到定または来禅
次の瞑想の少し手前の段階です。体のいろいろな感覚が薄らいでいくと同時に、軽くなり、良い気持ちになった状態の瞑想です。 なぜ動作を観るのか?
感覚として視覚聴覚など6門と呼ばれる入り口があるのですが
この身体的感覚、接触しているなどの感覚は、最も受想行識の
受の段階で止まりやすいのです。
視覚などは一気に識まで行ってしまうので、じつはまずいのです。
一番行きにくいのが、身体的感覚であるというのは、ちょっと考えてみると
よく理解出来ると思います。 自分ではラベリングを使わなくなってきました。
この理由は、先ほど書いた理由に寄ります。
右足とラベルしたときに、もう認識まで行ってしまうのです。
でもラベリングという考え方は、はじめてこれを行うとき
どうやるかと言うとっかかりがないので、まず意識させる
と言う面からは、優れた方法なのです。
じつはこの事は、この先に現れる重要な問題を意識させることになります。 タイ(テーラワーダ仏教)のベジタリアンとは?(156号)
http://column.chaocnx.com/?eid=967325
タイにいると「私は今日ジェーだから」という言葉をよく聞く。
ジェーといえばベジタリアンという意味だが、
敬虔な仏教徒の中には仏日(ワンプラ)や仏教の大切な日、
誕生日「病気が治りますように」と
願をかけた時などにベジタリアンになる人がいる。(中略)
ベジタリアンとひと言で言ってもいろいろある。
肉を食べない人、卵や乳製品を口にする人、しない人、魚だけは食べる人、
皮など動物のものを身にもつけない人など様々で、
タイでは「ジェー」と「マンサウィラット」という言葉を使っている。
2つの単語を混同している人もいるが、実は使う素材が大きく違ってくる。
どちらも肉・魚を食べない、調味料に肉が原料のものを使わない
ということは同じだが、「マンサウィラット」は卵や乳製品を食べてもいいが、
「ジェー」は卵と乳製品の他、匂いの強いものも口にしてはいけない。 ■ウ・ジャナカ長老によるヴィパッサナー宿泊冥想会★
http://www.j-theravada.net/vp0106.html
>会場となる穂高養生園は、ホリスティック医学に基づいた保養所で、
>お食事は[玄米菜食]となります。豊かな自然に囲まれながらの瞑想会です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■ミャンマーのヴィパサナー瞑想道場とテーラワーダ仏教大学
http://hachisu-net.com/issei/doujou.html
>セヤドー(長老)が菜食主義のためか、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>菜食の食事がおいしいことでも有名である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>そのためか、ミャンマー人女性にも大変人気があるセンターで、
>瞑想修行者の約7割が女性であった。 >>280
そうそう、なるほどね。キミの言いたいことはわかった。よく頑張ってるやないか!
…ということはね…
神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em
キミの今後に期待してるよ。その調子でね。 ゴエンカ師による教えは、もちろん仏教の教義に違いありませんが、
ヴィパッサナー瞑想テクニックの伝授という位置づけなので、
宗教の壁を超えてキリスト教、ヒンズー教、イスラム教等の信者にも
広く門戸を開放しています。
ヴィパッサナー10日間コースのメニューは、
4時に起床して、4時半から21時までの間に約10時間瞑想を行います。
食事は、菜食で1日2回です。また、10日間を通して、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「聖なる沈黙」を守らなければなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本ヴィパッサナー協会
http://www.jp.dhamma.org/Dhamma-Bhanu-Open-House.1489.0.html?&L=12 【これは意外】瞑想が躁病やうつ病の引き金になる可能性ありと専門家が警鐘
ttp://irorio.jp/sousuke/20150526/232000/ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヴィパッサナー瞑想(初日/オリエンテーション)
http://ganesha.dreamlog.jp/archives/11699.html
オリエンテーションのあとは、食事。
カレーピラフとローティー。
ここでの食事は菜食なだけではなく、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
刺激の強いタマネギやニンニクは入っていない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
油や香辛料も控えめ。心落ち着けて瞑想に入りやすいメニューが
考えられている。
------------------------------------------------
酒肉五辛(酒、肉食、ニンニク、タマネギ、ニラ、生姜)を
手にしてはならない。口でかんではいけない。
手にとって口でかんで念仏を称えれば、
手と口に悪瘡(=悪性の腫瘍)ができるだろう
仏教経典 観念法門経より 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:c70c250dd91bb29f505857436e0bc8bd) 「怒りを含んだもの(肉食)を食べない」〜ティクナットハン師が導く食事瞑想法
http://www.el-aura.com/2014042004/
by グーグル瞑想講師 ティグ・ナット・ハン 内容はともかく、まじめなスレは伸びないな、個人救済はこの道しかないんだけれど。
世の中なんてこんなものだ、釈尊の言うとおり。 生きとし生けるものが幸せでありますように。
これはとても素晴らしい言葉で素晴らしい祈りだと思うのですが、この現実を考えた
場合、いったいどのような状態が「生きとし生けるものにとって幸せ」なのでしょうか。
皆さんはどのように考えますか?
人の目に見えない小さなウィルスから、鯨や象のような大きな生き物まで、全ての生物は
他の生物の命とその体を奪って自らを維持成長させようと生きています。
弱肉強食です。但し人間のように必要以上に多くを捕獲して、貯蔵したりはしません。
相手を食べ、そして自分も食べられるのが多くの生物の宿命であり、自然の循環とも
言えます。ですから人間が安易に保護したり、手を加える事は不自然であったり、
本当の意味で「幸せ」とは言い難いことでしょう。
弱い生き物が強い生き物に食べられ短い生涯を終える。
人間的に考えると、この状態が幸せと言えるかどうか難しいところです。
生きとし生けるものが真に幸せとは一体どのような事でしょう。
そしてそんな事は、成立するのでしょうか。 世界観の前提に輪廻転生がありますから、生命現象の捉え方も
今回のこの一生だけを見ているわけではないのだと思います。 少なくともAさんの人生は今回のこの人生だけでしょう。
植物や動物も同じように言えるかもしれません。
ですから「今回のこの一生だけを見ているわけではないのだ」と
言われても、シックリきませんが・・・。 >>293
仏教が提示する真の幸福とは、解脱です。
欲界で生きることはもともと苦しみなのです。
慈悲の瞑想の目的は、心に慈しみの念を起こし、慈悲の念で満たし
慈悲の念から出発して、身口意におけるすべての行いを為すことに
あるはずです。 >>296
>仏教が提示する真の幸福とは、解脱です。
>欲界で生きることはもともと苦しみなのです.
そうだとしたら、それはこの現実社会からの逃避や否定でしかありません。
幾ら慈悲の瞑想を行なった所でこの現実の流れを変えることはできません。
この世が苦しみなら生きる価値が無いという短絡的な考え方にもなり兼ね
ません。
この欲界で生きることは苦しみだと断定する事は間違いです。 >>298
仏教とは要するに四諦のことです、と言い換えることもできます。
しかし、世の中の人は皆がみな解脱を望んで出家修行者になる
わけではありませんから、お釈迦さまはそうした在家の方々にも
この世で幸福に生きる道を示されました。
仏教は世間諦、出世間諦という二階建て構造になっています。
世間向けには世間の人が理解できる、世間の真理を語ります。
一方、出家して山寺で修行に励むような人々が学んでいるのは
出世間の真理、解脱の智慧です。
主に瞑想修行を通して到達するものです。 >>299
瞑想修行によって到達を目指す先は解脱。
でも解脱を果たしたら、二度と人間に生まれる事はありません。
六道輪廻から解き放たれます。
でも本当にそれでよいのでしょうか。
この人間世界は苦に満ち満ちているかもしれません。しかし
苦とともに楽も美醜も善悪も、ありとあらゆる物が渾然一体として
存在し、苦として捉え生きるも、素晴らしい学びの世界として生きる
も皆夫々自分の自由です。
この世が苦ならば、そして人間としてそれを知った以上、多くの苦にあえぐ
人の抜苦与楽と自身の魂の向上の為に何度でも生まれ替わって生きるのが
人間の目指す方向ではないでしょうか。
世間から離れ出家修行でひとり解脱を目指すのは見方によっては
人間としてあまりに「自分勝手な生き方」ともいえましょう。 解脱できても出来なくても、六道輪廻があろうと無かろうと、
心が我々自身を操縦しているわけですから、
心をコントロールする訓練である瞑想は、とても有益だと思います。
瞑想の智慧にも段階があって、これ以上悟りが深くなると涅槃して
しまう、それ以上進まなければ輪廻世界に留まる、という分岐点が
あるそうです。
涅槃せずに菩薩としてこの世に留まりたいと願う人は、ヴィパッサナー
十六観智の11番目、行捨智(行道智見清浄)で自然と悟りの深化が
止まるそうです。
大抵の人は心に振り回されて生きているから、不自由を感じ、苦しむ
わけなので、ある程度、智慧を育てておくことは、この世で生きていく
うえにおいても有益なはずです。
そもそも、智慧がなければ菩薩行もおぼつかないでしょう。 >>301
>瞑想の智慧にも段階があって、これ以上悟りが深くなると涅槃して
>しまう、それ以上進まなければ輪廻世界に留まる、という分岐点が
>あるそうです。
>涅槃せずに菩薩としてこの世に留まりたいと願う人は、ヴィパッサナー
>十六観智の11番目、行捨智(行道智見清浄)で自然と悟りの深化が
>止まるそうです。
ヴィパッサナー瞑想を行なうと「バンガ」というある種の「悟り体験」を経験し、
更に瞑想が進むと「ソータパンニャー(流れに入る者)」と云われる段階に至ると
言われます。
そして、カカダガーミィー・アナーガーミィーの段階を経て、
遂には
アラハンに至る。そして更に究極の真理を体験して
アナーサボーとなると聞いています。。
>>301で紹介されている
それ以上進まなければ輪廻世界に留まるとか、十六観智の11番目、行捨智
(行道智見清浄)で自然と悟りの深化が止まるとかは、どんな本に書かれて
いるのでしょうか。或いはネット上にあるのでしたら、そのURLを教えて
頂けると有難いです。 ミャンマー上座部のパオ系で聞いた話です。
「行捨智 菩薩」といったキーワードでグーグル検索すると、この話題に触れた
記事を見つけることができます。
例えば、このブログ記事などです。
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2014/02/03/151656
その他、周辺情報は菩提樹文庫およびそのリンク先に詳しく掲載されています。
簡単に補足説明しますと、
悟りの階梯、四向四果において最初の悟りの段階である預流果に達すると
最大でも七回生まれ変わるうちには阿羅漢になってしまうので、菩薩として
この世に留まるためには、その手前で踏みとどまる必要があるのだそうです。
その段階をヴィパッサナー十六観智に対応させてみると、行捨智(行道智見
清浄)に相当するということのようです。 >>303
お教え頂きまして有難う御座います。
坐り瞑想している諸氏にお尋ねしてみたいものです。
「アナタは本気で解脱したいのですか?」と。考え方は人夫々ですから
他人の生き方をとやかく言うことは出来ませんが、この世の苦を知り、
多くの人が苦によって苛まれた人生を送るなら。
その苦を少しでも軽減し、苦に人々の手助けすることこそが、人間と
しての務めではないでしょうか。
自分ひとり「解脱」してしまって、「後はよろしく」ではあんまりではありませんか。
坐り、バンガを体験し、生まれ変わり死に変わり、人々の抜苦与楽に尽くして
こそ人として「あるべき姿」ではないでしょうか。 自分と他人との区別があるのは、肉体ごとに自我を区切った視点から見た場合の見え方で
心の本質の視点からみると、本質的に自分と他人は繋がっていますから
自分が解脱することは、他人を苦しみから救い出すことと、本質的な意味に於いては同質なのだと思います。 >>305
......φ('д'*)フムフム・・・なるほどですがな・・・
しっかしこの世の殆ど全ては自己と他を区別して回ってますから、
本質と現実とに大きな差がありましょう。
その区別が無くなれば世の中の争いは解決され、この地上は神の国に
なる事も出来ましょうが、有史以来いままでも、そしてこれからも戦いは
続くのがこの三次元世界の現実なのでしょう。
またこのような世界も必要なのでしょう。
この世の中が本当に「次元上昇」され、為政者や人々の心が変化するなら
兎も角。人として生まれ修行するならば、どうか解脱することなく、幾度も
生まれ変わって人類の救済に尽くして欲しいと願うばかりです。 「ゴエンカ式」のヴィパッサナー瞑想をやってますが、それはこのスレで言われる
「マハシ式」のヴィパッサナー瞑想との違いについて詳しい方がお出ででしたら
お教え戴けませんか。
また、自分がやっている「ゴエンカ式」のヴィパッサナー瞑想について言えば、所謂
「悟り」を目指すというよりも「浄化」を目的に行なわれているように感じます。
瞑想にも様々な方法や、何を主眼としたものか、幾通りもの瞑想があるようですが
、ヴィパッサナー瞑想と悟りについては皆さんどのようにお考えでしょうか。 >>307
わたしも数年前、同様の疑問を抱いておりました。
その後、瞑想の実習を含めた学びを通して分かってきたことを率直に記しておきます。
主観も入っていると思いますが、各流派の特長は次のような感じだと思います。
ゴエンカ
在家向け。社会生活を送りながら修行できるようにしてある。
マハシ
社会生活を送りながらの修行を意図して指導している(と見受けられる)。
パオ
出家向け。
おそらくブッダの時代の出家修行者たちが行っていたスタイルに最も近いと思われる。
一方で、社会生活との両立は不可能ではないにしても、本格的に取り組むためには
かなりの覚悟が必要かも知れない。
日本国内におけるパオの活動は、現在、主に教学を行う日本道場と、主に瞑想を行う
ミャンマー僧院の二系統がパラレルに存在する状態になっている。
マハシもパオも共通してパーリ三蔵を修行法の典拠としている。
特に大念処経(マハー・サティパッターナ・スッタ)の内容を把握しておけば、各流派の
違いが表面的なものに過ぎない(であろう)ことが見えてくると思います。
ゴエンカ氏は、仏教そのものを在家向けにアレンジする思想があるようです。
それを良しとするか、ブッダ由来の伝統を重んじるかは、個人の選択でしょう。 >>308
ご親切に説明戴きまして有難う御座います。
「マハシ式のヴィパッサナー瞑想」をなさっている方で、スレ主さんでしょうか。
>>307 にも書きましたように自分は「ゴエンカ式」のヴィパッサナー瞑想を行なって
います。 なかなか日常での瞑想は思うように時間を費やしていませんが、
ヴィパッサナーを始めてからは一年程です。
このスレは「マハシ式」と銘打ってありますが、時々書き込ませて戴いてもよいでしょうか。
自分の場合「ヴィパッサナー瞑想」に関しては、最初に縁のできたのが「ゴエンカ式」でし
たので、それ以外は知りませんでした。
「ゴエンカ式」での場合、10日間コースに参加してもその費用は全て随意の「喜捨」と
なっていますので、その点でも参加し易いと言えそうです。
人によっては全く喜捨せずに去る方もいますし、奉仕活動等で貢献される方もいます。
究極はどの方式であろうが目指す境地は同じなのでしょうが、坐禅等で目指す
「悟り」とはまた微妙にそのポイントが異なるような気がしてます。
「ヴィパッサナー瞑想」での「バンガ」は坐禅の「心身脱落」に相応するものでは・・・
などと思っておりますが、「ヴィパッサナー」では、「悟りの境地」を目指すというよりも
「自身の浄化」によって苦を無くそうという方向付けのように感じてます。 端的に言うと、各流派の違いは集中と観察のバランスの取り方。
この二つの訓練をするにあたっての順番の違い、指導法の違い
ではないかと思います。
集中力の訓練を個別にやっているのは、ゴエンカとパオ。
集中して観察していれば、観察を通して集中力の訓練も一緒に
できるから、個別に集中力の訓練はやらないのがマハシ。
わたしはそんな風に捉えています。
ちなみにスレ主さんではありません。 また、自身の浄化の延長線上に智慧の発現や悟り、苦しみからの
解脱といったものがあると捉えています。
これらは、それぞれ異なるものというよりも、それぞれが道の途上に
配置されているようなイメージです。
これらの修行法自体は、八正道を通して四諦を悟り、苦しみから解脱
することを目的として、釈尊によって説かれたものだと思います。
つまり、行法の設計思想というか目的はあくまで悟りと解脱ですが、
それを行ずる人の目的や動機はそれぞれ、ということではないかと
思います。
自身の浄化のために行ずる人もいるでしょうし、来世、良い生まれの
ために行ずる人もいるでしょう。 そもそも一般凡夫の我々は「悟る」ことに意味がないし、「悟る」必要もないと思う
第一、「悟る」状態を定義できないのだし、「悟る」ことでその先にある何かを今の時点で
期待したり想像したりすること自体がそもそも妄念だろう
むしろ、瞑想したら日々の生活で腹が立たなくなった、ネガティブなモードに落ちなくなった、
ツキのない出来事が自分のまわりで起きなくなった、自分や家族の健康や運が上向いた、
人間関係が良くなった・・・
そんな現実的事象でも感じることができたら、それで十分な気がするが?
だから自分は「悟り」に何の興味もないし、ここに引っかからない >>313
あぁ、それで十分だと思う。悟りだの解脱だのそんな遠い遠い目標など持つ必要は
ないと思う。
ただ、真剣に坐っていれば「ある種の悟り体験」を経験する事は珍しくない。
しかし、それはあくまで課程の一里塚。あってよし。なくてもよしの境地で
過ごせばよいこと。 皆さんは「アルコール」に関してはどうしてるの?
中には調理用の「みりん」ですらアルコールが入っているから・・・と
使わない人がいるけど、おかしいと思う。
酒を飲んで酩酊するならともかく、在家が梅酒の梅を数個食べたり、
風邪を引いた時に「たまご酒」を飲んだりまったく問題ないと思うが・・・
麻薬もいけないと言うけど、病人の末期治療などでは必要。
それを悉くダメと言い張るのは「本来の戒律」を履き違えている。
あくまで人間がよりよく生きるための戒律なのだから・・・。 >>313
仏教における悟りは四向四果、または十結(五上分結と五下分結)との関係で定義できてる。
悟る意味については、初転法輪の時から四諦との関係で説明されている。 生老病死をはじめ、人間はいつか必ず苦しみに直面しなければならない時がくる。
生きる者の定めとして避けることのできない苦しみはあるが、
しかし、それらの苦しみは乗り越えることができる。
あるいは望むなら、無くしてしまうことができる。
それが悟りであり、解脱ということ。
いつか必要を感じた時に、思い出したら良いのではないでしょうか。
※四苦(生老病死)
八苦(愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦) まぁ苦しいことも辛いことも沢山在るけど、この苦の人間世界が
俺は好きだ。
苦しいからこそ楽しいことも沢山あるし、価値を感じる。
だから解脱なんかしなくていい。来世もその次も人間世界に生まれたい。
今世よりも来世が少しでもマシであるように、今世多くの罪を作らない
よう。尚出来れば多少の徳も積みたいものだ・・・ 【奇跡の脳】脳科学者ジル・ボルト・テイラーの悟り体験 http://goo.gl/VifUuy >>315
アルコールは、飲まなくなりました
でも初詣で御神酒が出されたので、飲みました。 >>313
それって一つのさとりですよ
理解したというか、なるほどそうかって!!! 七覚支
悟りの7つの支分をなす項目
七覚支の内容
1.念覚支 - 気づき。心で今の瞬間の現象を自覚すること
2.択法覚支 - 法の中から真実のものを選ぶ
3.精進覚支 - 努力
4.喜覚支 - 喜びに住する
5.軽安覚支 - 心身に軽やかさ・快適さを感じる
6.定覚支 - 心が集中して乱れない
7.捨覚支 - 対象に囚われない
思い当たる所が有るのでは無いですか? 覚者より 『彼らの時代はほとんど終わっている。間もなく起こる出来事が政府の力を再分配し、国民を解放するだろう。』 2016、8
【安倍マリオ】 どっちが勝つかな? 【メロリンQ】
∧,,,∧
(´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
(| |)
し--J
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。
マイト レーヤはまずアメリカに現れ、それから日本です。彼は日本語で話し、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。
矢追純一 「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」
抑制のない成長に基づく現在の経済の終焉を見るでしょう。
日本国民はどう対処すればいいのか。新しい政権は民意を反映し、適切な食糧、住宅の供給、健康管理、教育が最も重要な責任となるでしょう。そして最後に防衛です。
国民の意志を裏切ることは、極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。民衆の指導者は職業的政治家ではない人々から見つかるのです。 >>324
(´・ω・`)新しい世界秩序とか現れてほしいものだが、まぁそんな夢物語の
様なことは起きないよ。
2016年秋は次元上昇とかバシャールやらいろんな人が言ってるが
秋って、もうなりかかっているんだけど、兆候すらない。 んじゃ、キミはその自覚症状ある?
それに、個々人の心の中で起きていれば、社会は個々の集まりだから
社会にも変化が現れているはず。
新しい秩序や次元上昇の気配が今の社会にあるとは到底思えない。 >>328
では、その「内面的な自覚」について、どのような変化なのか
詳しく話して貰えないだろうか。 ブッダの正法と思えるものに出会って、修行が進んできているので
この先に悟りや解脱があるだろうとは思ってる。
しかしこれは自分の内面的な変化なので、周囲から見ても何も
分からないと思う。 >>330
俺もそれ系だと思ってるけど、俺にそんなことが起きるとは思えないんだよなぁw 平安で静かで、動かない
それだけで十分ではないでしょうか? ヴィパッサナーやってる人の中で時々見かけるのは、物静かで淡々としていて
落ち着いているのは良いんだが、どうにも人間らしい喜怒哀楽や元気や覇気が
無い。
そしてそんな指導者がいると、そうなることが良い事で、それが瞑想を深めて
人の「有るべき姿」のように思っている人がいることだ。
未熟な俺にはようわからんが、なんか違うような気がしてならん!
瞑想指導者って、そんなものなのか?
禅宗の師家とかは違うんだが・・・。 人に戻る日
長老
はい、あなたたちは今から人です。気をつけて暮らして、ハハハ。。。。。
女
ソープランドでさんざんえばって遊んだやなきゃくじゃねえんだから
そんなにあっさり追い出すこったねんだろうもうちっと何か一言
男
すみません彼女質問があるそうです。
女
わたしのこのお寺で人の一番いけないのはねたみとおそわりました。
でもワタシは、ねたみを紙に書いて生活しています。
長老
いいですどんどんやって、ハハハ。。。
女
だから仏だろもっと親身になってこっちは七日間も飲まず食わずでおっさん.....
男
ハイおしまい、帰ろう帰ろう >>333
欲界善と解脱とでは、向かう方向性が違う。
座標軸で表した場合、縦軸が欲界善で、横軸が解脱だとすると
人が好み、喜ぶのは欲界善の縦軸方向を高くすること。
解脱を求める修行者がやってるのは、横軸に進んで彼岸に渡ること。
両方高いなら文句はないが、みんながみんな天才ではない。 縦軸だけ進んで、ぜんぜん解脱の智慧がない人ばっかりなのが
末法仏教の問題点だった。 >>336
質問良いですか?
で、その欲界善の縦軸が進んだ人というのは、どのような行動や
思考傾向になるのでしょうかね?
また、それとは異なる縦軸方向の解脱に進んだ人の思考傾向とは
どのような特徴がありますでしょうか? >>338
仏像でヴィジュアル的に言うと、前者は天部、後者は阿羅漢。
両方とも高いのが如来や菩薩。
前者は、欲六界から抜け出そうと思ってない。
人によっては欲六界の外があることを知らないし、信じられもしない
とすれば、そもそも抜け出せると思ってない。
欲を満たすことに対して肯定的、積極的。
後者は、欲六界から抜け出し、色界、無色界を含む三界すべて
から抜け出そうとしてる。
欲を満たすことに対して否定的、消極的。
如来や菩薩は、お釈迦さま、ゴータマ王子みたいな感じ。
だいたいこんな感じでしょうか。 縦軸が世間諦で、横軸が出世間諦と言ってもいいかもしれない。 >>339-340
なるほど・・・有難うございました。
前者として天部のたとえがありますが、実際我々人間の瞑想者の場合、
多くの情報が有るので、
>欲六界の外があることを知らないし、信じられもしないとすれば、
>そもそも抜け出せると思ってない。
は無いだろうと思います。
凡夫から天部の境地に到達するだけでも並大抵の努力ではないでしょし、
今世においては天部の境地でも十分と思う人も居るでしょう。 >>339
欲を捨てることは出来るのでしょうか?
遠ざけて消していくには出家でもしないと無理ですよね 欲は無くならないと思いますよ
生きている限りは
ただそれに気がついて、捕らわれないように
する事は出来るように思えます。 考え方にもよるが、解脱を目指して精進努力するのも「欲」と言えば
「欲」でもあろうと思う。
では解脱して場合はどうなのだろう?
凡夫のような俗な欲は無いかもしれないが、より向上したいとか
菩薩行を行いたいとかの「欲」はあるだろうと想像する。
その境涯「欲」の質は異なるが意識が存在である以上、「欲」は
永遠になくならないのでは? 仏教教学的にいうと、悟りにも四段階、より詳しくは四向四果の
八段階があって、段階に応じてなくなる欲も違ってくるようです。
四向四果の聖者たちうち、預流向から一来果までの悟りの段階
においてはまだ欲界を対象とする欲は残っているそうですが、
不還果から阿羅漢果に至った聖者は、もう欲界を対象とする欲
は残っていないと言われています。
そのため、この境地にいたっても出家せずに在家のままでいると、
一週間ぐらいで死んでしまうそうです。 日本の仏教では出家してもそれなりに仕事しないとならない・・・
日本仏教で阿羅漢果になったら一週間ぐらいで死亡かな? 菩薩として、あえて苦界に留まることを選べば、あるいは生きていけるのでしょうかね。
そこまで行ってみたいものです。 本読んで初めて1ヶ月半
今日強烈な喜悦感みたいなのに
吹っ飛ばされそうになった。
一瞬だけだったけどね
これ何でしょう? >>348
喜(パーリ語で piti ピーティ)。
尋、伺、喜、楽、一境性という五つの瞑想を支える要素があるのだが、そのうちのひとつ。
八正道に当てはめて言うと、正精進→正念→正定の部分をやってることになる。 喜や楽が生じてくると嬉しくて気を取られてしまうと思いますが、
集中すべき対象は喜ではないので、あくまで集中すべき対象に集中するようにして下さい。
心身の苦痛は消えるか、気にならなくなってくるはずなので、それ(喜や楽)に助けられて
さらに瞑想がしやすくなるはずです。 背筋を軽くただしてアゴ引いて
胡座で自然に呼吸してるの意識して
次に手足を意識して
体の各部を意識して
周りの音や空気の流れを意識して
自分が意識していない自分(心臓の鼓動、手足の痺れ、)と、自我(?)の両方を自覚して
雑念が浮かべば消して
こんな感じでラジオとか聞きながらのんびきしとったら
多幸感がすごいのだが
今を実感できて素晴らしいのだが
いわゆる魔境かね?
これはどう解釈すればいいのか
いったい何が起こったのか
頭が少し熱いです お釈迦様の親戚で以前は王子であり裕福な暮らしをしていた人がいました。
この人はお釈迦様にしたがって出家し、一人で森の中で托鉢をして食事を取り
家も無く見るからに貧しい状態で暮らしていました。
その人が歩きながらなんて楽しいのだろうとつぶやいていたので
それを聞きつけた人々が、昔の贅沢な日々を思い出してそんなことを言っているのだろう
と言っていました。
それを聞いたお釈迦様は、その人を呼んで、
楽しいとつぶやいていたみたいだけどなにが楽しいのか?
とたずねたそうです。
その問いに対してこのように答えたそうです。
私は王子であったときは、宮殿は常に軍隊に守られ、どこへ行くにも兵で守られていました。
けれど私は毎日、おびえて暮らして、夜も眠れませんでした。
しかし今は一人でだれも守ってくれませんが、おびえる事も無くいつも穏やかに過ごしています。
ですから、樹を見ても、山を見ても、川を見ても、食事をしていても、
いつもなんて幸せなのかと言う思いが出てきます。
そうすると、なんて楽しいのだろう と言う言葉が出てくるのです。
と答えたとの事です。 アーナンダよ、
ベーサーリーは楽しい
ウデーナ霊樹の地は楽しい
ゴータマカ霊樹の地は楽しい
七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい
タフブッダ霊樹の地は楽しいサーランダ霊樹の地は楽しい
チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
中村元訳(パーリー語より)
この世界は美しいそして、人生は甘美である
(サンスクリット語より)
涅槃経より ウ・ジョーティカより
景色でさえ、心が落ち着いていれば、
日の出や日没を眺める際、
私はそこに没頭することができます。
するとその景色は実に素晴らしいものになる。
世界は実に美しいのです。 お釈迦様が修行に入り成道して人生の真理に目覚め、
「人生は苦である」と言った。
しかしその人生を終えるに際して
「この世界は美しいそして、人生は甘美である 」とも言った。
そのどちらも間違いではない。どの様な経験とどの様な立ち位置で
モノを見て捉えるかで違いが出来るだけ。
更に言うなら、人生は、まさに苦であるが、その苦難すらも、
肉体を持って体験できるこの世界は、素晴らしく美しい・・ともいえる。 思考が出てこないとき、思考が止まっているとき
ただ見ているという事が、この不思議な美しく
平安な状態をもたらすことに驚いているんです。
ただ気がついている状態で居るという
猿が出てこないと言うか、このお猿を優しく観ている
とでも言う状態
目の前に見る電話機や、ノートが、やさしく微笑んでいる
なんてうれしいのだろうかと、
ビルに輝く光るが、とても美しくきらめいている
光が優しいのですよ これ、日常生活中に、感覚感じながら、サティを
入れるだけじゃ駄目なの?
別に一箇所に留まってやらなくても、効果を感じることが
出来るような感じがするし。 息を吸って吐く一回ごとに
体感温度が変わっていく
そんなことに気づいて
楽しくて
中心への集中が崩れた 瞑想のやり方を説明してる本って
沢山あるが、一冊あれば十分だよね? 集中力無くなると、ヤル気が失せます。
アドバイスを。 集中力がなくても集中できるようにする。例えば環境を工夫する。
環境が整えば自然に集中できるようになる。
瞑想では集中力はつかない。多分「集中」の意味が違うように思う。
瞑想ではやる気がなくなるというのは良いことだ。しかしやる気を出したい
なら別の方法が相応しい。どんなやる気がだしたいのか? 勉強だろうか?
それなら簡単にやる気がでるようになる。勉強がすこしづつでもできるように
なるとやる気がでてくる。例えば難しい数学を理解できるようになれば
数学が面白くなってやる気がでてくる。そのためには「無理だ」と思わない
で少しづつでも理解するようにする。一つのやり方でわからない時には
別のやり方も試してみる。いろいろな角度からすこしづつでも理解をすす
めて行くと、段々と解るようになる。 >瞑想では集中力はつかない。
? 瞑想を続ければ、集中力が付く、と書いてあったが。
スマさんか地橋さんの本のなかで。 ヴィパッサナ学んでから難しい専門書も一発でスラスラ理解&記憶できるようになった。
地橋先生とこに速読の生徒が来るとか
スマ長も何でも一発で覚えるとか言ってたが
ヴィパッサナの智恵は知的活動のレベルを一気に引き上げるよね
七回読みってのが流行ったがあれもヴィパッサナだろ
>>366
瞑想で得た集中力の出し方をどう多様な対象に工夫して当てはめるかってことだと思う >357
私も、ビッパーサナをしようとしてた時でも、サマタの瞑想してた時でもなく、
意図しなかった時に、一度だけ経験しました。
階段を降りてきてフローリングに反射した夕日を見た時、
今まで経験したことのない、この今を完全に見続けているのに、雑念が全く無い静けさと、
美しさだけを見ている状態を。 最近は、瞑想を行って悟り体験をしたいと思う人よりも、そんな事は
考えもしないのに、いきなり「ノンディアリティ」や覚醒してしまう人が
大勢現れている。
そういう時代なんだとしか言いようが無いが、一生懸命坐って瞑想してる
人が悟れずに、何もしない人でも悟れる不思議な時代だわ 過去世までの積み重ねが違うので、すぐ体験する人は、過去世ですでにすごい努力してる。 歩行瞑想について質問です。
通常、離れたー動いたー触れたー圧、の4つで行うと思いますが、
離れる時、踵から指先まで順番に離れて行きますし
圧も下ろした時の広角の圧から直角の圧まで変化します。
構わず4つでやればいいのでしょうか。
それとも細分化していくべきなのでしょうか。 >369
アーナンダよベーサーリーは楽しい
ウデーナ霊樹の地は楽しい
ゴータマカ霊樹の地は楽しい
七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
タフブッダ霊樹の地は楽しい
サーランダ霊樹の地は楽しい
チャーパーラ霊樹の地は楽しい 瞑想してからスパ銭行かなくなった
いつでもリラックスできる じゃまする思考が止まった状態は
とても平安で心地よいでしょ >377
この言葉はお釈迦様が亡くなられる模様を描いた
涅槃経と呼ばれる教典の一節です。
つまりそのようにお釈迦様は世界をずっと
見ておられたのではないかと思えるのです。 ウ・ジョーティカの言葉から
景色でさえ、心が落ち着いていれば、
日の出や日没を眺める際、私はそこに没頭することができます。
するとその景色は実に素晴らしいものになる。
世界は実に美しいのです 過疎ってるなぁ
俺は地橋秀雄氏のヴィパサナーをやってるんだけど… こないだヴィパッサナーを集中的にやる機会があったんだけど、過去のトラウマなのか
対人恐怖みたいなものが出てきてしまって
(なんかある気はしてたがずっと隠れてて忘れていた)
これこのままやり続けていけば治のかな
もっとひどくならないかな
結構苦しい
メンヘラになりつつある
過去精神疾患が
ぶり返した感じ
多分普通の人はそんなんならんと思うのだが 瞑想をテーマに議論してもまったく無駄やなあ。瞑想中にどんな意識状態になるか、なにを感じるか、なにを見るか
等どんな経験をするにせよ所詮、主観経験やもんな。共通の足場になるものはなんもないわ。 瞑想をはじめてわかったこと
ポジティブになろうなんて思っても無駄
本来の心は澄明で活力にあふれ静かでありながらぞくぞくするほど楽しい
(表現が難しいが)
無限の可能性を秘めている心、それを覆い隠してるのが自我の思い
無理やりポジティブになろうとすると逆効果
思考と思考の間の沈黙と無思考状態になると
普段の生活では感じない力みたいのを感じるようになる
瞑想続けると思考の波が静かにはなるけど
何かトラブルになると逆戻りしてしまう
まだまだ修行が足らないわ 現実世界でトラブルに巻き込まれるのはカルマのせいかな…
それとも魂の成長のための試練か??
折角うまく行きそうなときに滅茶苦茶になる
新たなカルマをつくらないようにすることも肝心だな
修行僧が出家するのも新たなカルマをつくらず解脱するためなんだけどね 瞑想って眠かけのようなぼんやりした感覚ではないし
普通以上に心が澄明になり、思考も明晰になり
力が湧いてくる、うまく行くと病気も治るし、怪我も早く治る…
特殊能力が身につくことすらある…
だけどそれを求めて瞑想すると、失敗するる
求めない願わない執着しない、それが難しい 長老の云う感覚の生滅を捉えることができたら無常無我を実感できたよ( ˘ω˘ )