マハシ式のヴィパッサナー瞑想をやる
>>201
それは、瞑想法も書かれているのでしょうか?
四コマ漫画エッセイ集と銘打ってあります どのくらいのレベルで求めているのかわからないので
先ほどの本を読んでみて(アマゾンプレビュー)
判断しました。
一番優しいというか、根本の部分が(戒の土台の上に定がきてその上に慧が
出てくるという理解がとても重要であることに気がついてほしい)
(戒の重要性)
わかりやすいので、書いてみました。
マハシ式 瞑想法自体としては地橋、スマナサーラ、
を検索すれば出てきます。
その根源としては、マハシ長老のミャンマーの瞑想法がその土台に
なっています。
どこかの1日説明会くらいから、始めるのが
適当と思います。
ただこの手のものは変なものも多いので慎重に >>201
オススメのミャンマーで尼になりました、買って今読んでるところです。
なかなか面白い。初心者にはわかりやすくていいですね。 ヴィパッサナーの修行方法については
次の天野和宏さんの、ブッダの娘たちへをお読みください。
終章にやり方を書いてあります。
ミャンマーで尼になりましたと見比べて見ると良いでしょう。
この人はいつか位の高きよき観る人となると思っておりますので 畑違いとは思いますが、ヴィパッサナー瞑想が合わない場合は
アーナパーナ・サティなどの瞑想法に切り替えた方がいいのでしょうか
歩きながら「右足、左足…」と観察しても今ひとつ賢くなった気がしません
座る瞑想も立つ瞑想もやる気になれないし、長続きしなさそうで困りものです
そもそも私がヴィパッサナー瞑想に向いているかどうかというのは
A・スマナサーラ著「ブッダの実践心理学7 瞑想と悟りの分析(サマタ瞑想編)」において
それ専用の比丘がきちんと見ないと駄目なようなのです
そういう意味でもどういう人がどういう瞑想法をしたらいいのか、
わかりやすく指導して頂ける方がいらっしゃらないかどなたかご推薦お願い致します
長文失礼 聞くまでもない
最初の集中力をつけるレベルでは効果はどれも変わらんから色々試行錯誤したほうがいい
自分は結局は数息観(アナパナの亜種)に行き着いたし
ただ、このスレもそうだけど「自分のやってる方法が絶対だ」みたいに考えてる人が多くて絡まれる可能性があるけど気にせずに
ちなみに、マハシ式もマハシオリジナル(日本語版は世界平和パゴダが本を出してる)とスマナサーラと地橋ではやり方が違う
このことすら気づいてない人がネットには多い >>207
> マハシオリジナル(日本語版は世界平和パゴダが本を出してる)
新装版はアルマット、昔のは国際語学社が発行しているようです(大元は国際語学社ですが)
もし、スマナサーラ長老と地橋さんではなく、世界平和パゴダの瞑想法を忠実に教えている比丘がいるなら
日本人だとどういう人でしょうか(東京にいらっしゃいますか)
「ミャンマーの瞑想」という本でも結局は「師を求めるべきである」と独学を敬遠している様子なので
その点でお勧めの長老がいらっしゃったらよろしくお願いします
(それでもスマナサーラ長老の書籍は結構面白かったので今も買っています) >日本人だとどういう人でしょうか(東京にいらっしゃいますか)
あそこで学んだ人(井上ウイマラとか)は知ってるけど、教えてる人は見たことないな >>209
ありがとうございます
…そうすると、「ミャンマーの瞑想」オリジナルのヴィパッサナー瞑想を教えられる人は日本では皆無に近い状態で、
スマナサーラ長老や地橋さんの教え方が幅を利かせているのも当然かもしれない
そういうのってマズイ気がするのですが…
まるで「その本を読んでうまくいかなかったらミャンマーへいってください」とか
「ミャンマーの瞑想にある長老たちの名前を訪ね歩いてください」とか
「日本人は真のヴィパッサナー瞑想は教えられません 言葉の壁があるから」とか結論が出てきそうで怖いですね
あと10年はミャンマーが日本と安定した交流を結んでいる間、「ミャンマーの瞑想」は空白状態でしょうか…
寂しいです そうすると、>>201で「ミャンマーで尼になりました」という書籍は関連書籍として有力かもしれない
ひょっとすると書籍に僧侶の名前が書かれていたり、僧侶の指導がそれとなしに書かれていたりするのかもしれないから
「ミャンマーの瞑想」独学のお供に僧侶の代わりにつとまりそうな気がする
それでも今までスマナサーラ長老の書籍を好んできた身としては慎重にならざるを得ない 日本の座禅でも悟った人沢山出てるし
ヴィパッサナー瞑想とか手段よりそのひとのやる気が1番重要なんだろうね >207
試行錯誤すると言うことは
その通りとおもいます
はじめは何でもやってみるってことで
合わなければやめればよいだけですから
206さんへもしかするとらべリングの罠に
落ちているかも
東京近郊なら山下良道師がいます。
ブラユキ師の来日は秋でしょうし
ただ思うことは 気づきというのは
何を自分にさせようとしているのか
ということです。 >>214
ラベリングの罠というと、
「ミャンマーの瞑想」では「歩いている、歩いている」「右足が歩いている、右足が歩いている」
「左足が歩いている、左足が歩いている」ですし、
A・スマナサーラ長老だと「右足、上げます、運びます、下ろします、左足、上げます、運びます、下ろします」
と結構違いが大きいようです
こういうのってどうしたらいいの?と
小池龍之介さんですと「右足、左足」とそれぞれの足が動いている時にラベリングして観察するようです
こういうのは「ミャンマーの瞑想」に原点回帰してうまくできないものでしょうか? >>215
そこも試行錯誤
結局のところ、指導者はみんな試行錯誤して自分に合った方法を見つけただけなんだから
問題は、それを一般化してしまったこと
過去形だろうが現在形だろうが現在完了形だろうが自分にしっくり来るのをやればいい
もしくはラベリングをやめるって手もある 歩いていると言っても
意味が違うんです
たぶん 念ずるのは文字じゃないんだと
おもうのです。
まさかみぎともじでいっているのでは
ないですか? サティは微細に高速になってくるので
文字では駄目のはずですよ ミャンマーでの尼僧修行記
鳥頭紀行 くりくり編 西原理恵子編
ミャンマーヴィパッサナー瞑想修行記録
(3年修行した尼僧の記録の半年分) ミャンマーが熱いな
マハシ流観法が「ミャンマーの瞑想」で紹介されて主流になったからか? 取っつきやすいからです。とくに歩くってやつ
自分もこれならできるかで始めました。
ウォーキングが現在流行していますが
これを歩く瞑想に切り替えると、様々な道果を得られるように思います。 >>223
座るのはキツいけど歩くのは取っつきやすい
さらに、道果が得られなくとも、有酸素運動による体力維持にはなる
走るのと比べて苦しくない >>221
これ連載始まったときから読んでたけど、オチがおかしいんだよね
サマーディーに達したときに「間違った方向に進んでしまった」だの「実は自分のやってることはサマタだった」だの
少し仏教について調べれば間違った方向でもないし、初期段階でサマタもヴィパッサナーもないとわかるのに
もしかすると本をまったく読まない人なのかもしれないけど じつはこの3人の体験から、逆に分解して問題点などを
洗い出し、分析してみた。
3番目の体験については、一応真実として判断している。
どのような人物かは、わかっているが、消息は不明
事実なら超一流のシャーマンの素質がある。
最後の話はおそらく無色界を見ている。
しかしこの瞑想システムは、精緻にかつ広大で
おそるべきもの
またシステムであるので、そのシステムに
従えば、だれでも、絶対に進む事ができるように
組み立てられている。(とうぜん限界はあるが)
日本の大乗仏教は、この視点が欠落していると
思っている。瞑想から逆に経典をみていると
全く違った視点が現れてくる。
実は戒がとてつも重要であると判断している。 >>226
いや日本の大乗はそれはそれで完成されてるんだよ
悟った人をかなり排出してるし
ただ人によってあうあわないがあるので色んな方法論が出て来る
そして上座部と大乗に別れたんだよ
どの国の仏教も形骸化してなきゃ一心不乱に打ち込めば悟れるよ
方法論を追求していくと結局は学者になって終わるだけ >225
元々は全くの門外漢が旅行のついでで興味で始めたのだから
仏教瞑想のシステムの理解などないだろうし
外国であるから、それを知ることもできない
惜しいことだ
あの後2年半やったらしいのだが
おそらくそれとすれ違った記述らしいものがあるが 無色界を見ているのなら
その前に色界4禅を
駆け上がっているはずなのだが
その記述が無いというか、気がついて
いないのかもしれない。
ともかく初禅を形成すれば、修行は進む
この一段前の近定行でも
アラカンになったという話があるくらいだから
では初禅状態とは、これがよくわからない
一応初禅状態になり、そのときのサマタの集中力を
観察方向に変更したのが、お釈迦様の
システムだろうとおもっている。
観察部分は6門を観察していると推定 初禅の前にどうやってその領域にたどり着くかが
問題なんだろうとおもう。
思考を停止させろという
おそらくサティで心を覆い尽くせば良いのだと考えた
思考は出ようとしても、サティが邪魔して出れない
結果的に思考は停止する
ではサティとは何かという問題になる
心は常にさまよっている、とりとめも無く思考している。
こいつを停止させるには、気づきをずーーと
流し続けるしかなくなる。
しかし気づきと、気づきの間に隙間がある。
思考が出てくる寸前まで時間があるので、その隙間がみえてくる
またサティを流し続けると、思考自体が発生しにくくなる
どこかで隙間というか、その領域を捕まえれるかどうか
ここにサマタの力がいるはず
つかまえたらその領域を広げていく
その領域は安定して、動かない、静かな、領域
こいつが必要なんだと思う
この領域が知覚できると、こんどは思考が出てくる時がみえる。
そうなると心随勧ができたことになる。
問題はラベリングだ、右足とラベリングしてしまうと、右足と思考している可能性がある
そうなると、サティでなくなるから、いくらたってもわからない
ラベリングも使い様だとは思うが、この微妙な違いを認識する必要があるとみている。 戒の重要性はここでも出てくる 戒を守ることは心に雑音となる思考が減ってくるからだ 禅でいうところのいわゆる経行、キンヒンは元々はヴィパッサナだったんだろうか。禅でもキンヒンの時にサティを入れたりするような行はあるのかな? 大乗の禅のことを言ってるんだろうけど、そもそも修行中にサティを入れないわけで >>232
サティは単純かすると数息観だから
あるよ 数息観がsatiになるな そう
数息観も間違えるけど
間違いないように努力すべきなんだけど
その間違ったときが重要なんだろう
とおもうよ >>232だけど、いわゆる坐禅での数息観がサティとしても、経行は歩行のヴィパッサナかと思ったんだよ。
というよりもともとヴィパッサナだったものが様式化したんじゃないかと思ってね。
天台の常行三昧とかも案外元はヴィパッサナから来てるのかもとか。
ところで臨済の公案禅はサマタになるのかな。 根本はおなじだから 狙いはみなおなじだろう
あじ観もおなじだ
瞑想による変成を誘導すれば
理解がふかまるよ
ミャンマーで3年のひとの5カ月にあらわれている 頭良くなりたい
けど、瞑想がこんなにも複雑なものとは思わなかった
取っつき悪そう
お坊さんの説法書籍だけ読んで面白がっていよう 瞑想は集中力をあげるものみたいだから
まあなれないなら無理にしない方がよいよ
一切行苦くらいは、3分で理解できるから
諸法無我はまだ分らない
人によるけど、5分でわかる心髄観の実行によるとサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の
実践メソッドがある
それから導かれる所行無常が理解できるようになるが > 人によるけど、5分でわかる心髄観の実行によると
5分で語られても理解力がなければ何年経っても理解できないかも
そう思うと苦しい
てか、3分で理解できるとか一体… 隣の人にやってみるときくと
宇宙兄弟を見るからに
忙しいといわれた >>237
ちょっと言われている意味がわからないんですが、3年? 静かなところで
目を閉じて 息を ふくらみ ちじみと
観ていってください
ゆっくりと 長く息をかんさつしてください
それでわかるはずですが
そこにある苦を観て >>237
師にちゃんと付けば あじ観 だけでも悟れるらしいね 調子が狂ったときは慈悲の瞑想が良いですね。私が幸せ〜というやつです。
もう10日ぐらい経ちますが、心の反応がマイルドになります。
電車の中でも歩きながらでもできます。
なんだかんだ、自分の場合はここからかな、とおもいます。
心の荒みを取り除くのが最優先事項です、いまのところは。 人の顔色を気にして、憂鬱になるといったことが無くなりつつあります。
自分が幸せにならないと他人も幸せになれないというのは自分の中でパラダイムシフトになりました。
あと、まだ短期的ですが、欲しがらなくなってきた感じです。食事量が減りましたし、
モノも買ってないですね。ニュースもあまり見なくなって、ゴシップネタは
一切見なくなりました。心がシンプルになってきたのかな。良いか悪いかはまだわかりませんが。 >>244
そういう話はよく聞くんだけど、ではその悟ったという人が本当にいるのかという疑問もある。いつも伝聞型だからです。
そういう人を具体的に知っているんですか?
その方の話を聞いてみたい。 >247
自分も同じです。こころが静かと言うか
揺れない、そうなってくると心の雑音というか
色々な考えが減ってきます。
結局戒の重要性に気がつくのです。
正直な生きざまとでも言うものの大切さです。
戒の上に作られる定力を考えたとき
この雑音が少ないことは、定力の上昇を
容易にするようにおもいます。
よしんば、終着点に到達しなくても
そこには立派なよき人が現れるはずですから 戒ってネーミング、誤解招きやすいよな
一般的な宗教の戒律、要するに「問答無用で守るべきもの」と解釈されてしまう
実際は「やってもやんなくてもいいけど、やった方が瞑想はかどるよ」くらいなものなのに >>247
有名人だと
山岡鉄舟とか良寛とか
今だと
原田雪渓とかかな
日本は悟った後も静かに目立たないで生きるのが美徳って感じがあるから
表に出る人って少ないよね
その逆がスリランカの坊さんかな
悟る事よりもガンガン海外に出て布教して相手を論破して地位を築くことを重視してる感じかな 久松潜一とかね。
247だけどw
内証はなかなかハタから分からないしただの妄想かもしれないしね。
しかしこのことを突き詰めても不毛な気もするしどうなんだろう。 個人的には上座仏教は未だ日本に定着していないから
例の長老にはもう少しロビー活動のごとく冊子を刷っていろんな角度から説法して欲しい
信者に檀家になれとかそこまで定着することを要求しないから
せめて瞑想法やお釈迦様の教えで心理的な悩みなどを解決できる話を日本に残して欲しい 今の上座部は日本と大差ないレベルで腐敗してるからいらんわ
アメリカ経由の新仏教の方がまだ使える >>253
そうなんだよねw
上座部を隣の芝生は青いと思ってこれこそ本物って言う人多いよね
でも結局あちらでも色々問題が沢山あって腐敗してるし分裂してるしね それは向こうに修行に行ってる人もよく言ってるよな
佐藤哲朗はそういうのを暴露した奴に絡んでたけど しかし瞑想については1日の長が上座にあると思うな 何か結果が出てくるのは強い 問題はどのくらい素人受けできて効果がある瞑想法が発見できるかということと
お釈迦様の言葉をどのくらい広めることができるかだと思う 簡単な瞑想法は考え作って
一応何人も試したよ
結果
きつねにつつまれたような顔をしていたけど
理解してもらえた >>258
え?あるの?広めてくださいおながいします
って安全な方法ですか? それも重要
A長老はそれで信頼を勝ち得ている(たぶん) >154
から
>177
に書いてあります。
あまりにも簡単で、拍子抜けするかと思いますけど 一日何回も瞑想してる人いるみたいだけど、毎回毎回腹式呼吸で呼吸整えてから瞑想に入るのですか? 歩くとき、立っているとき、食事をしているとき、トイレに行っているときなど
最終的には、すべて瞑想になります。
一度やってみるとおもしろいと思いますよ
satiをしていることは、広義の瞑想だと思っていますから
やってみてわかることは、思考が出てこれなくなって
静かな心がずーーーーーーーーーと現れてきます。
これって涅槃寂静への道にみえてしまうのです。
satiをすることは、こころがsatiで埋められて
自動的に静かな心が現れますから >>262
でもさーこれってよく日本の武術や禅などでいわれてる
ずっと丹田に意識をおいとく
と同じだよね わたしも少林拳をしておりましたので、そのことはよくわかるのです。
師より残心ということばが残っております。
おそらくその意味するところは同じと思います。
同じ見解です。
また、茶道とか作法、所作においては
実はSATIを入れていけば、結果的に
そうなります。
その禅的な心の作り方は、satiと全く同じものとの認識です。
残心については千利休が
何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ
(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
この所作はsatiそのものとの認識です。 >何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ
>(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
よい言葉だね 茶道において侘びとよくいわれますが
この侘びも涅槃寂静に通じるとの
記述もあることからその共通性を
うかがい知ることができます
この境地を作る方法として
sati気づきがあるようにおもえるのです >154
ここにあるじっと観るということについて
こういうものを偶然見つけた
瞑想とは自分の心身に起こっていることを、それが自分にとって好ましいことであれ、不快なことであれ、リラックスしてそれを認知し、じっとただ見つめることをいいます。
これはアシンテジャニヤ師の言葉です。 ★サングラスをかけてプライベートジェットで移動、タイの僧侶に批判 AFPBB News2013年06月19日10時47分
http://news.livedoor.com/article/detail/7779908/ 欲界における瞑想の段階
(1)粗住または粗定
一つの物事だけに集中して、雑念と闘う段階
(2)細住または細定
一つの物事により深く集中する事です。
(3)欲界住または欲界定
意念が安定した後、身体に様々な感覚(感情と感触)が出てきます。
(4)未到定または来禅
次の瞑想の少し手前の段階です。体のいろいろな感覚が薄らいでいくと同時に、軽くなり、良い気持ちになった状態の瞑想です。 なぜ動作を観るのか?
感覚として視覚聴覚など6門と呼ばれる入り口があるのですが
この身体的感覚、接触しているなどの感覚は、最も受想行識の
受の段階で止まりやすいのです。
視覚などは一気に識まで行ってしまうので、じつはまずいのです。
一番行きにくいのが、身体的感覚であるというのは、ちょっと考えてみると
よく理解出来ると思います。 自分ではラベリングを使わなくなってきました。
この理由は、先ほど書いた理由に寄ります。
右足とラベルしたときに、もう認識まで行ってしまうのです。
でもラベリングという考え方は、はじめてこれを行うとき
どうやるかと言うとっかかりがないので、まず意識させる
と言う面からは、優れた方法なのです。
じつはこの事は、この先に現れる重要な問題を意識させることになります。 タイ(テーラワーダ仏教)のベジタリアンとは?(156号)
http://column.chaocnx.com/?eid=967325
タイにいると「私は今日ジェーだから」という言葉をよく聞く。
ジェーといえばベジタリアンという意味だが、
敬虔な仏教徒の中には仏日(ワンプラ)や仏教の大切な日、
誕生日「病気が治りますように」と
願をかけた時などにベジタリアンになる人がいる。(中略)
ベジタリアンとひと言で言ってもいろいろある。
肉を食べない人、卵や乳製品を口にする人、しない人、魚だけは食べる人、
皮など動物のものを身にもつけない人など様々で、
タイでは「ジェー」と「マンサウィラット」という言葉を使っている。
2つの単語を混同している人もいるが、実は使う素材が大きく違ってくる。
どちらも肉・魚を食べない、調味料に肉が原料のものを使わない
ということは同じだが、「マンサウィラット」は卵や乳製品を食べてもいいが、
「ジェー」は卵と乳製品の他、匂いの強いものも口にしてはいけない。 ■ウ・ジャナカ長老によるヴィパッサナー宿泊冥想会★
http://www.j-theravada.net/vp0106.html
>会場となる穂高養生園は、ホリスティック医学に基づいた保養所で、
>お食事は[玄米菜食]となります。豊かな自然に囲まれながらの瞑想会です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■ミャンマーのヴィパサナー瞑想道場とテーラワーダ仏教大学
http://hachisu-net.com/issei/doujou.html
>セヤドー(長老)が菜食主義のためか、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>菜食の食事がおいしいことでも有名である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>そのためか、ミャンマー人女性にも大変人気があるセンターで、
>瞑想修行者の約7割が女性であった。 >>280
そうそう、なるほどね。キミの言いたいことはわかった。よく頑張ってるやないか!
…ということはね…
神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em
キミの今後に期待してるよ。その調子でね。 ゴエンカ師による教えは、もちろん仏教の教義に違いありませんが、
ヴィパッサナー瞑想テクニックの伝授という位置づけなので、
宗教の壁を超えてキリスト教、ヒンズー教、イスラム教等の信者にも
広く門戸を開放しています。
ヴィパッサナー10日間コースのメニューは、
4時に起床して、4時半から21時までの間に約10時間瞑想を行います。
食事は、菜食で1日2回です。また、10日間を通して、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「聖なる沈黙」を守らなければなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本ヴィパッサナー協会
http://www.jp.dhamma.org/Dhamma-Bhanu-Open-House.1489.0.html?&L=12 【これは意外】瞑想が躁病やうつ病の引き金になる可能性ありと専門家が警鐘
ttp://irorio.jp/sousuke/20150526/232000/ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヴィパッサナー瞑想(初日/オリエンテーション)
http://ganesha.dreamlog.jp/archives/11699.html
オリエンテーションのあとは、食事。
カレーピラフとローティー。
ここでの食事は菜食なだけではなく、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
刺激の強いタマネギやニンニクは入っていない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
油や香辛料も控えめ。心落ち着けて瞑想に入りやすいメニューが
考えられている。
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酒肉五辛(酒、肉食、ニンニク、タマネギ、ニラ、生姜)を
手にしてはならない。口でかんではいけない。
手にとって口でかんで念仏を称えれば、
手と口に悪瘡(=悪性の腫瘍)ができるだろう
仏教経典 観念法門経より 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:c70c250dd91bb29f505857436e0bc8bd) 「怒りを含んだもの(肉食)を食べない」〜ティクナットハン師が導く食事瞑想法
http://www.el-aura.com/2014042004/
by グーグル瞑想講師 ティグ・ナット・ハン 内容はともかく、まじめなスレは伸びないな、個人救済はこの道しかないんだけれど。
世の中なんてこんなものだ、釈尊の言うとおり。 生きとし生けるものが幸せでありますように。
これはとても素晴らしい言葉で素晴らしい祈りだと思うのですが、この現実を考えた
場合、いったいどのような状態が「生きとし生けるものにとって幸せ」なのでしょうか。
皆さんはどのように考えますか?
人の目に見えない小さなウィルスから、鯨や象のような大きな生き物まで、全ての生物は
他の生物の命とその体を奪って自らを維持成長させようと生きています。
弱肉強食です。但し人間のように必要以上に多くを捕獲して、貯蔵したりはしません。
相手を食べ、そして自分も食べられるのが多くの生物の宿命であり、自然の循環とも
言えます。ですから人間が安易に保護したり、手を加える事は不自然であったり、
本当の意味で「幸せ」とは言い難いことでしょう。
弱い生き物が強い生き物に食べられ短い生涯を終える。
人間的に考えると、この状態が幸せと言えるかどうか難しいところです。
生きとし生けるものが真に幸せとは一体どのような事でしょう。
そしてそんな事は、成立するのでしょうか。 世界観の前提に輪廻転生がありますから、生命現象の捉え方も
今回のこの一生だけを見ているわけではないのだと思います。 少なくともAさんの人生は今回のこの人生だけでしょう。
植物や動物も同じように言えるかもしれません。
ですから「今回のこの一生だけを見ているわけではないのだ」と
言われても、シックリきませんが・・・。 >>293
仏教が提示する真の幸福とは、解脱です。
欲界で生きることはもともと苦しみなのです。
慈悲の瞑想の目的は、心に慈しみの念を起こし、慈悲の念で満たし
慈悲の念から出発して、身口意におけるすべての行いを為すことに
あるはずです。 >>296
>仏教が提示する真の幸福とは、解脱です。
>欲界で生きることはもともと苦しみなのです.
そうだとしたら、それはこの現実社会からの逃避や否定でしかありません。
幾ら慈悲の瞑想を行なった所でこの現実の流れを変えることはできません。
この世が苦しみなら生きる価値が無いという短絡的な考え方にもなり兼ね
ません。
この欲界で生きることは苦しみだと断定する事は間違いです。 >>298
仏教とは要するに四諦のことです、と言い換えることもできます。
しかし、世の中の人は皆がみな解脱を望んで出家修行者になる
わけではありませんから、お釈迦さまはそうした在家の方々にも
この世で幸福に生きる道を示されました。
仏教は世間諦、出世間諦という二階建て構造になっています。
世間向けには世間の人が理解できる、世間の真理を語ります。
一方、出家して山寺で修行に励むような人々が学んでいるのは
出世間の真理、解脱の智慧です。
主に瞑想修行を通して到達するものです。 >>299
瞑想修行によって到達を目指す先は解脱。
でも解脱を果たしたら、二度と人間に生まれる事はありません。
六道輪廻から解き放たれます。
でも本当にそれでよいのでしょうか。
この人間世界は苦に満ち満ちているかもしれません。しかし
苦とともに楽も美醜も善悪も、ありとあらゆる物が渾然一体として
存在し、苦として捉え生きるも、素晴らしい学びの世界として生きる
も皆夫々自分の自由です。
この世が苦ならば、そして人間としてそれを知った以上、多くの苦にあえぐ
人の抜苦与楽と自身の魂の向上の為に何度でも生まれ替わって生きるのが
人間の目指す方向ではないでしょうか。
世間から離れ出家修行でひとり解脱を目指すのは見方によっては
人間としてあまりに「自分勝手な生き方」ともいえましょう。 解脱できても出来なくても、六道輪廻があろうと無かろうと、
心が我々自身を操縦しているわけですから、
心をコントロールする訓練である瞑想は、とても有益だと思います。
瞑想の智慧にも段階があって、これ以上悟りが深くなると涅槃して
しまう、それ以上進まなければ輪廻世界に留まる、という分岐点が
あるそうです。
涅槃せずに菩薩としてこの世に留まりたいと願う人は、ヴィパッサナー
十六観智の11番目、行捨智(行道智見清浄)で自然と悟りの深化が
止まるそうです。
大抵の人は心に振り回されて生きているから、不自由を感じ、苦しむ
わけなので、ある程度、智慧を育てておくことは、この世で生きていく
うえにおいても有益なはずです。
そもそも、智慧がなければ菩薩行もおぼつかないでしょう。