マハシ式のヴィパッサナー瞑想をやる
>>170
サティでその喜びの向こう側も現れてきますね
>そして平坦(不動、ゆらがない、静まりかえった)な自分の心が観測できるようになる
その通りだと思います 今日は17分ほど。比較的集中できた。
みなさんのカキコを見てイメージできたからかな…?
始めは雑念に「いらない」とラベリングして、
息に集中して調子が出始めてから「考えた」「おもった」とラベリングした。
本を見てみたら慈悲の瞑想というのが載ってた。
嫌な体験の回想などはこれで抑えられるかもしれない。
明日からはこれも取り入れつつ、やってみるね。
>>170
観るのがヴィパッサナーなら雑念に「いらない」というのはまずいかもね。
今はそうしないと引きずられる。まぁ、イジメ体験ですね…。
過去の体験と心の中で闘わないようにする感じなのかな…。これは課題。 観るとき
それを否定もせず、肯定もせず ただじっと観る 私も慈悲の瞑想やってますよ。半年くらいかな。
基本的にスマ氏の教えに沿ってやってます。 過去
過ぎ去ったものに意味は無い
過去を思い出すたびに、自分を痛め続ける
それこそ観てみれば、自分が作り出すまぼろしとわかる
今一瞬が真実
今しか無い
一期一会
これは
仏の教えから自動的に導き出されたもの
未来のことも何が起こるかわからないから
考えても無駄
今を生きる、精一杯生きる、それを続ける
今を気づきつづける
そうありたいとおもう >170
喜びが出たあと、それを続けて行くと
その喜びすらも出なくなってくる。
あれっ?とそれに気がつくようになった。
(はじめはおかしいと思えた)
しかし、それを続けて行くと
苦しみと、喜び、これは根源的には同一の物なので
じつは当たり前の事だ
ということが、わかる様になる。 今日は15分ほど。
やり始めたらちょっと不穏になったので、目を開けて瞑想。
「吸う」「吐く」だけにこだわるとジョギングみたいになってしまう感じがしたので、
途中から弱く静かに呼吸しながら心を観察。まあまあ上手くできたかな。
慈悲の瞑想の文章を黙読して、静かに反芻した。リラックスするような感じ。
明日は30分にチャレンジの予定 早いもので、2013年も4月。新年度に突入した。ますます時間が進むのが速くなる。
このまま、どこに向かうのか?
地球の次元上昇は、着実に進行している。「次元が上昇しているというのなら、
証拠を見せろ」という人もいるけど、証拠はある。
「波動が上がっている」というのが、その証拠だ。
もっとも、「波動が上がっている」と言っても、「ボクにはそんなの、ちっとも
感じられないよ?」という人もいるだろう。
そういう人には、「残念でした。ご愁傷さま」としか言いようがない。
でも、ちょっと呼吸を止めるか静めて、雑念を消し、意識を集中してみよう。
何か、ビリビリ感じられるものはないかな?
そう、それが上がってきた地球の波動なのだ。もしくは、地球の波動に合わせて、
自分自身の波動が上がってきているのだ。何ヵ月かするうちに、ビリビリ感が
だんだん上がってくるから、そのうち実感できるはず!?
どちらにしても、全員がそれを感じ取れるわけではない。
「地球の次元上昇」にもともと興味がなければ、まず無理だろう。
これは植物の生長と同じで、日々の変化は微細なものでしかない。
でも、何ヵ月かすれば、明らかに違ってくる。もちろん、植物と言っても
タケノコとか、ツクシとか、ああいうのではなく、普通の樹木の話。
こんな話を世間の一般人にしたって、笑われるのがオチかもしれない。
「お前は、アセンションを信じ込んでいるのか?」と言われるかもしれない。
でも、まさに、その通りだ。こちらは、アセンションを信じ込んでいる。
それで、何が悪いのか?
そちらも、「このままの地球が続く」と信じ込んでいるのであり、それもまた
一種の信仰なのだから、お互いさまだ。 慈悲の瞑想について
これを各項目ごとに、わき上がる感情を観るという方法がある
慈悲の瞑想はサマタと言われているが
これをヴィパッサナーで観ると言う事を、してみる
言葉で誘導された感情が出てきたとき、それを止めて、観て焼いてしまう
と言う事を続けると、
どの言葉においても、感情が沸き立たず、同じように唱えることが
できる事に気がつく
言葉はよく観れば、空虚であると感じると同時に
色々な自分の言動を観たとき
本当に大切にして
良く気がついて使わなければならない
と言う事に気がついてくると思う。 30分近くできた。瞑目してやった。
無理やり時間を延ばした感じだけど、質は後から付いてくる…と思う。
昨日から放りっぱなしになってた本を読みだした。
ここ2年ぐらい読書欲が無かったのに。これはヴィパッサナーの効果かな。
取りとめのないネットサーフィンも止めてお気に入りを巡回するだけになった。
頭が動き始めたような気がする。
悟る気配は全然無いけど…w
>>181
>どの言葉においても、感情が沸き立たず、同じように唱えることが
>できる事に気がつく
これはちょっと感じています。
あ、あと隣の生活音にイライラしなくなったのも変化かな。昨日気づきました。
嫌な思い出の回想も無いですね。 やはり自分と同じ事が起こっている
これはシステムであり、だれでも同じようにすると
同じ道をたどるようにできている
経典に書いて有るとおりと思う。
今の気づきが増えてくると
心の無駄なおしゃべりが、出てこれなくなる
不安とか後悔とかのマイナスイメージ
出ても薄くなる、出てもすぐ消えるようになる 「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方
という本を読んでみると良いと思う。
どういうルートで変化していくか、事細かく書いてある。 言葉は空虚であると知ると同時に
言葉を大切に扱わなければならないと
気がつくようになる
これは思考と言葉は同じようなものだから >今の気づきが増えてくると
そのうち、それは気づきでもなんでもなく、ただ単に集中力が増して頭が休んでいるだけと気づくから
しかも経典っていうけど、経典では気づきの効果でそんなことおきると書いてない
いい加減、盲信しないで自分の足で歩いてみたらどうだ? 育児中の瞑想はなかなかいいリフレッシュになるわ。
ヴィパッサナー続けていたら子供に腹が立つこともなくなったし
だんだん家庭の雰囲気が良くなってきた。 /plasticdrea.ms/post/47775636426/shnkb-5w2h-taps 【すべては】真・マネゲ【幻】
1 :盥(たらい)らま:2013/05/07(火) 16:35:22.00 ID:/G7q38bP
「ザ・マネーゲーム」から脱出する法12
ロバート・シャインフェルド著「『ザ・マネーゲーム』から脱出する法」
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/siberia/1367912122/
7 :いやあ名無しってほんとにいいもんですね:2013/05/07(火) 16:39:19.03 ID:/G7q38bP
色即是糞 糞即是色 です
8 :いやあ名無しってほんとにいいもんですね:2013/05/07(火) 16:44:46.86 ID:/G7q38bP
お金の呪縛から自由になりたいすべての人へ!巧妙にしくまれた、お金の幻想から脱出する法。
だってさ。 >>150
自分のささやかな経験と、ひょんなことから聞いた話などを総合すると、
嫌な相手の幸せを願う方法が一番効き目があると思う。
私見だけど、無視するのも縁を切るどころか縁をがっつり結んでしまうことになって
縁といういうパイプを通って「反撃」が逆流してくるから要注意。
叔母さんの幸せを願ってあげてください。
あなたの平和のために そう思います。無視するとかともかくそういうことを思っていると
体から、なにかキライですよと言うような無意識な
放射が出ているようで、人はそれを無意識に敏感に
察するようです。
幸せを祈るというのは、このものが消えてきますから
難しい事ですが、
これが出来ると、このものを見ることが出来るようになりますから ヴィパッサナーは貯金ができないタイプの瞑想ですね。
サボると頭の中がゴチャゴチャしてきて、ちょっとしたことから
感情の渦に巻き込まれるようになってしまう。
毎日コツコツやって心の仕組みを作り変えなきゃいけない 同感です。
すれば無駄なというか、そういうものが
減っていきますし
その心(感情)を消しやすくなりますから
悟るまではいかなくても、少しでも心安んじて
おれるということは
ありがたいことだと思っています。 おばんです(^^)
自分のヴィパッサナー瞑想のやり方が独りよがりだったような気がしてます。
というのは、嫌な思い出については、息を基本にしてラベリングすることで対処できたのですが、
現在進行形の悩み(職場の女性同僚とのぎこちなさ)についてはまったく対処できない状況なのです。
頭の中がゴチャゴチャして、お酒をたくさん飲んでしまいました。せっかく良い習慣(瞑想)を身に付けられたと思っていたのに…。
ちょっとつらいですけど、ヴィパッサナーを続けてみます。
神秘修行の基礎訓練というぐらいの軽い気持ちで始めたのですが、なかなか厳しいですね。頑張ります。 瞑想で深いところに行っても現実で嫌な事があると一気に吹っ飛ぶよね
瞑想は現実の前では無力なのかもしれん
もちろん大成すれば別かもしれんけど >194
それでもいいのです。またもどれば
心はさまようものですから、気がついて戻れば
なんら問題はありませんから
自分はそう思っています。
しょうがないなと思って
これってよくよく考えたら、瞑想とか関係なくて
当たり前のことのように思えるのです。 >195
つらい毒矢に刺さった状態で、観ても抜けないとき
それに何か追加の矢がエネルギーを供給している可能性があります。
その瞬間身体を観てください。
肩に力が入っているとか、呼吸が浅くなっていると
なっていませんか?
観ればそれ消えませんか? またいつものがわいてきた
実践してないのバレバレなんだよなあ・・・ 耳栓を買ってきましたよ。
これで少なくとも外界の音に注意を削がれることがないので、
しっかり、息と感情を観察できそう(^^)
まだまだ始めたばかりなのでこういうのを使うのも良いかなと。 この瞑想法はマハシ式のヴィパッサナー瞑想でしょうか
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4799102486/
やたらとイメージが良さそうな瞑想法です… ヴィパッサナーではない、ヨガ系統だろう
ミャンマーで尼になりましたを推薦 >>201
それは、瞑想法も書かれているのでしょうか?
四コマ漫画エッセイ集と銘打ってあります どのくらいのレベルで求めているのかわからないので
先ほどの本を読んでみて(アマゾンプレビュー)
判断しました。
一番優しいというか、根本の部分が(戒の土台の上に定がきてその上に慧が
出てくるという理解がとても重要であることに気がついてほしい)
(戒の重要性)
わかりやすいので、書いてみました。
マハシ式 瞑想法自体としては地橋、スマナサーラ、
を検索すれば出てきます。
その根源としては、マハシ長老のミャンマーの瞑想法がその土台に
なっています。
どこかの1日説明会くらいから、始めるのが
適当と思います。
ただこの手のものは変なものも多いので慎重に >>201
オススメのミャンマーで尼になりました、買って今読んでるところです。
なかなか面白い。初心者にはわかりやすくていいですね。 ヴィパッサナーの修行方法については
次の天野和宏さんの、ブッダの娘たちへをお読みください。
終章にやり方を書いてあります。
ミャンマーで尼になりましたと見比べて見ると良いでしょう。
この人はいつか位の高きよき観る人となると思っておりますので 畑違いとは思いますが、ヴィパッサナー瞑想が合わない場合は
アーナパーナ・サティなどの瞑想法に切り替えた方がいいのでしょうか
歩きながら「右足、左足…」と観察しても今ひとつ賢くなった気がしません
座る瞑想も立つ瞑想もやる気になれないし、長続きしなさそうで困りものです
そもそも私がヴィパッサナー瞑想に向いているかどうかというのは
A・スマナサーラ著「ブッダの実践心理学7 瞑想と悟りの分析(サマタ瞑想編)」において
それ専用の比丘がきちんと見ないと駄目なようなのです
そういう意味でもどういう人がどういう瞑想法をしたらいいのか、
わかりやすく指導して頂ける方がいらっしゃらないかどなたかご推薦お願い致します
長文失礼 聞くまでもない
最初の集中力をつけるレベルでは効果はどれも変わらんから色々試行錯誤したほうがいい
自分は結局は数息観(アナパナの亜種)に行き着いたし
ただ、このスレもそうだけど「自分のやってる方法が絶対だ」みたいに考えてる人が多くて絡まれる可能性があるけど気にせずに
ちなみに、マハシ式もマハシオリジナル(日本語版は世界平和パゴダが本を出してる)とスマナサーラと地橋ではやり方が違う
このことすら気づいてない人がネットには多い >>207
> マハシオリジナル(日本語版は世界平和パゴダが本を出してる)
新装版はアルマット、昔のは国際語学社が発行しているようです(大元は国際語学社ですが)
もし、スマナサーラ長老と地橋さんではなく、世界平和パゴダの瞑想法を忠実に教えている比丘がいるなら
日本人だとどういう人でしょうか(東京にいらっしゃいますか)
「ミャンマーの瞑想」という本でも結局は「師を求めるべきである」と独学を敬遠している様子なので
その点でお勧めの長老がいらっしゃったらよろしくお願いします
(それでもスマナサーラ長老の書籍は結構面白かったので今も買っています) >日本人だとどういう人でしょうか(東京にいらっしゃいますか)
あそこで学んだ人(井上ウイマラとか)は知ってるけど、教えてる人は見たことないな >>209
ありがとうございます
…そうすると、「ミャンマーの瞑想」オリジナルのヴィパッサナー瞑想を教えられる人は日本では皆無に近い状態で、
スマナサーラ長老や地橋さんの教え方が幅を利かせているのも当然かもしれない
そういうのってマズイ気がするのですが…
まるで「その本を読んでうまくいかなかったらミャンマーへいってください」とか
「ミャンマーの瞑想にある長老たちの名前を訪ね歩いてください」とか
「日本人は真のヴィパッサナー瞑想は教えられません 言葉の壁があるから」とか結論が出てきそうで怖いですね
あと10年はミャンマーが日本と安定した交流を結んでいる間、「ミャンマーの瞑想」は空白状態でしょうか…
寂しいです そうすると、>>201で「ミャンマーで尼になりました」という書籍は関連書籍として有力かもしれない
ひょっとすると書籍に僧侶の名前が書かれていたり、僧侶の指導がそれとなしに書かれていたりするのかもしれないから
「ミャンマーの瞑想」独学のお供に僧侶の代わりにつとまりそうな気がする
それでも今までスマナサーラ長老の書籍を好んできた身としては慎重にならざるを得ない 日本の座禅でも悟った人沢山出てるし
ヴィパッサナー瞑想とか手段よりそのひとのやる気が1番重要なんだろうね >207
試行錯誤すると言うことは
その通りとおもいます
はじめは何でもやってみるってことで
合わなければやめればよいだけですから
206さんへもしかするとらべリングの罠に
落ちているかも
東京近郊なら山下良道師がいます。
ブラユキ師の来日は秋でしょうし
ただ思うことは 気づきというのは
何を自分にさせようとしているのか
ということです。 >>214
ラベリングの罠というと、
「ミャンマーの瞑想」では「歩いている、歩いている」「右足が歩いている、右足が歩いている」
「左足が歩いている、左足が歩いている」ですし、
A・スマナサーラ長老だと「右足、上げます、運びます、下ろします、左足、上げます、運びます、下ろします」
と結構違いが大きいようです
こういうのってどうしたらいいの?と
小池龍之介さんですと「右足、左足」とそれぞれの足が動いている時にラベリングして観察するようです
こういうのは「ミャンマーの瞑想」に原点回帰してうまくできないものでしょうか? >>215
そこも試行錯誤
結局のところ、指導者はみんな試行錯誤して自分に合った方法を見つけただけなんだから
問題は、それを一般化してしまったこと
過去形だろうが現在形だろうが現在完了形だろうが自分にしっくり来るのをやればいい
もしくはラベリングをやめるって手もある 歩いていると言っても
意味が違うんです
たぶん 念ずるのは文字じゃないんだと
おもうのです。
まさかみぎともじでいっているのでは
ないですか? サティは微細に高速になってくるので
文字では駄目のはずですよ ミャンマーでの尼僧修行記
鳥頭紀行 くりくり編 西原理恵子編
ミャンマーヴィパッサナー瞑想修行記録
(3年修行した尼僧の記録の半年分) ミャンマーが熱いな
マハシ流観法が「ミャンマーの瞑想」で紹介されて主流になったからか? 取っつきやすいからです。とくに歩くってやつ
自分もこれならできるかで始めました。
ウォーキングが現在流行していますが
これを歩く瞑想に切り替えると、様々な道果を得られるように思います。 >>223
座るのはキツいけど歩くのは取っつきやすい
さらに、道果が得られなくとも、有酸素運動による体力維持にはなる
走るのと比べて苦しくない >>221
これ連載始まったときから読んでたけど、オチがおかしいんだよね
サマーディーに達したときに「間違った方向に進んでしまった」だの「実は自分のやってることはサマタだった」だの
少し仏教について調べれば間違った方向でもないし、初期段階でサマタもヴィパッサナーもないとわかるのに
もしかすると本をまったく読まない人なのかもしれないけど じつはこの3人の体験から、逆に分解して問題点などを
洗い出し、分析してみた。
3番目の体験については、一応真実として判断している。
どのような人物かは、わかっているが、消息は不明
事実なら超一流のシャーマンの素質がある。
最後の話はおそらく無色界を見ている。
しかしこの瞑想システムは、精緻にかつ広大で
おそるべきもの
またシステムであるので、そのシステムに
従えば、だれでも、絶対に進む事ができるように
組み立てられている。(とうぜん限界はあるが)
日本の大乗仏教は、この視点が欠落していると
思っている。瞑想から逆に経典をみていると
全く違った視点が現れてくる。
実は戒がとてつも重要であると判断している。 >>226
いや日本の大乗はそれはそれで完成されてるんだよ
悟った人をかなり排出してるし
ただ人によってあうあわないがあるので色んな方法論が出て来る
そして上座部と大乗に別れたんだよ
どの国の仏教も形骸化してなきゃ一心不乱に打ち込めば悟れるよ
方法論を追求していくと結局は学者になって終わるだけ >225
元々は全くの門外漢が旅行のついでで興味で始めたのだから
仏教瞑想のシステムの理解などないだろうし
外国であるから、それを知ることもできない
惜しいことだ
あの後2年半やったらしいのだが
おそらくそれとすれ違った記述らしいものがあるが 無色界を見ているのなら
その前に色界4禅を
駆け上がっているはずなのだが
その記述が無いというか、気がついて
いないのかもしれない。
ともかく初禅を形成すれば、修行は進む
この一段前の近定行でも
アラカンになったという話があるくらいだから
では初禅状態とは、これがよくわからない
一応初禅状態になり、そのときのサマタの集中力を
観察方向に変更したのが、お釈迦様の
システムだろうとおもっている。
観察部分は6門を観察していると推定 初禅の前にどうやってその領域にたどり着くかが
問題なんだろうとおもう。
思考を停止させろという
おそらくサティで心を覆い尽くせば良いのだと考えた
思考は出ようとしても、サティが邪魔して出れない
結果的に思考は停止する
ではサティとは何かという問題になる
心は常にさまよっている、とりとめも無く思考している。
こいつを停止させるには、気づきをずーーと
流し続けるしかなくなる。
しかし気づきと、気づきの間に隙間がある。
思考が出てくる寸前まで時間があるので、その隙間がみえてくる
またサティを流し続けると、思考自体が発生しにくくなる
どこかで隙間というか、その領域を捕まえれるかどうか
ここにサマタの力がいるはず
つかまえたらその領域を広げていく
その領域は安定して、動かない、静かな、領域
こいつが必要なんだと思う
この領域が知覚できると、こんどは思考が出てくる時がみえる。
そうなると心随勧ができたことになる。
問題はラベリングだ、右足とラベリングしてしまうと、右足と思考している可能性がある
そうなると、サティでなくなるから、いくらたってもわからない
ラベリングも使い様だとは思うが、この微妙な違いを認識する必要があるとみている。 戒の重要性はここでも出てくる 戒を守ることは心に雑音となる思考が減ってくるからだ 禅でいうところのいわゆる経行、キンヒンは元々はヴィパッサナだったんだろうか。禅でもキンヒンの時にサティを入れたりするような行はあるのかな? 大乗の禅のことを言ってるんだろうけど、そもそも修行中にサティを入れないわけで >>232
サティは単純かすると数息観だから
あるよ 数息観がsatiになるな そう
数息観も間違えるけど
間違いないように努力すべきなんだけど
その間違ったときが重要なんだろう
とおもうよ >>232だけど、いわゆる坐禅での数息観がサティとしても、経行は歩行のヴィパッサナかと思ったんだよ。
というよりもともとヴィパッサナだったものが様式化したんじゃないかと思ってね。
天台の常行三昧とかも案外元はヴィパッサナから来てるのかもとか。
ところで臨済の公案禅はサマタになるのかな。 根本はおなじだから 狙いはみなおなじだろう
あじ観もおなじだ
瞑想による変成を誘導すれば
理解がふかまるよ
ミャンマーで3年のひとの5カ月にあらわれている 頭良くなりたい
けど、瞑想がこんなにも複雑なものとは思わなかった
取っつき悪そう
お坊さんの説法書籍だけ読んで面白がっていよう 瞑想は集中力をあげるものみたいだから
まあなれないなら無理にしない方がよいよ
一切行苦くらいは、3分で理解できるから
諸法無我はまだ分らない
人によるけど、5分でわかる心髄観の実行によるとサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の
実践メソッドがある
それから導かれる所行無常が理解できるようになるが > 人によるけど、5分でわかる心髄観の実行によると
5分で語られても理解力がなければ何年経っても理解できないかも
そう思うと苦しい
てか、3分で理解できるとか一体… 隣の人にやってみるときくと
宇宙兄弟を見るからに
忙しいといわれた >>237
ちょっと言われている意味がわからないんですが、3年? 静かなところで
目を閉じて 息を ふくらみ ちじみと
観ていってください
ゆっくりと 長く息をかんさつしてください
それでわかるはずですが
そこにある苦を観て >>237
師にちゃんと付けば あじ観 だけでも悟れるらしいね 調子が狂ったときは慈悲の瞑想が良いですね。私が幸せ〜というやつです。
もう10日ぐらい経ちますが、心の反応がマイルドになります。
電車の中でも歩きながらでもできます。
なんだかんだ、自分の場合はここからかな、とおもいます。
心の荒みを取り除くのが最優先事項です、いまのところは。 人の顔色を気にして、憂鬱になるといったことが無くなりつつあります。
自分が幸せにならないと他人も幸せになれないというのは自分の中でパラダイムシフトになりました。
あと、まだ短期的ですが、欲しがらなくなってきた感じです。食事量が減りましたし、
モノも買ってないですね。ニュースもあまり見なくなって、ゴシップネタは
一切見なくなりました。心がシンプルになってきたのかな。良いか悪いかはまだわかりませんが。 >>244
そういう話はよく聞くんだけど、ではその悟ったという人が本当にいるのかという疑問もある。いつも伝聞型だからです。
そういう人を具体的に知っているんですか?
その方の話を聞いてみたい。 >247
自分も同じです。こころが静かと言うか
揺れない、そうなってくると心の雑音というか
色々な考えが減ってきます。
結局戒の重要性に気がつくのです。
正直な生きざまとでも言うものの大切さです。
戒の上に作られる定力を考えたとき
この雑音が少ないことは、定力の上昇を
容易にするようにおもいます。
よしんば、終着点に到達しなくても
そこには立派なよき人が現れるはずですから 戒ってネーミング、誤解招きやすいよな
一般的な宗教の戒律、要するに「問答無用で守るべきもの」と解釈されてしまう
実際は「やってもやんなくてもいいけど、やった方が瞑想はかどるよ」くらいなものなのに >>247
有名人だと
山岡鉄舟とか良寛とか
今だと
原田雪渓とかかな
日本は悟った後も静かに目立たないで生きるのが美徳って感じがあるから
表に出る人って少ないよね
その逆がスリランカの坊さんかな
悟る事よりもガンガン海外に出て布教して相手を論破して地位を築くことを重視してる感じかな 久松潜一とかね。
247だけどw
内証はなかなかハタから分からないしただの妄想かもしれないしね。
しかしこのことを突き詰めても不毛な気もするしどうなんだろう。 個人的には上座仏教は未だ日本に定着していないから
例の長老にはもう少しロビー活動のごとく冊子を刷っていろんな角度から説法して欲しい
信者に檀家になれとかそこまで定着することを要求しないから
せめて瞑想法やお釈迦様の教えで心理的な悩みなどを解決できる話を日本に残して欲しい 今の上座部は日本と大差ないレベルで腐敗してるからいらんわ
アメリカ経由の新仏教の方がまだ使える >>253
そうなんだよねw
上座部を隣の芝生は青いと思ってこれこそ本物って言う人多いよね
でも結局あちらでも色々問題が沢山あって腐敗してるし分裂してるしね それは向こうに修行に行ってる人もよく言ってるよな
佐藤哲朗はそういうのを暴露した奴に絡んでたけど しかし瞑想については1日の長が上座にあると思うな 何か結果が出てくるのは強い 問題はどのくらい素人受けできて効果がある瞑想法が発見できるかということと
お釈迦様の言葉をどのくらい広めることができるかだと思う 簡単な瞑想法は考え作って
一応何人も試したよ
結果
きつねにつつまれたような顔をしていたけど
理解してもらえた >>258
え?あるの?広めてくださいおながいします
って安全な方法ですか? それも重要
A長老はそれで信頼を勝ち得ている(たぶん) >154
から
>177
に書いてあります。
あまりにも簡単で、拍子抜けするかと思いますけど 一日何回も瞑想してる人いるみたいだけど、毎回毎回腹式呼吸で呼吸整えてから瞑想に入るのですか? 歩くとき、立っているとき、食事をしているとき、トイレに行っているときなど
最終的には、すべて瞑想になります。
一度やってみるとおもしろいと思いますよ
satiをしていることは、広義の瞑想だと思っていますから
やってみてわかることは、思考が出てこれなくなって
静かな心がずーーーーーーーーーと現れてきます。
これって涅槃寂静への道にみえてしまうのです。
satiをすることは、こころがsatiで埋められて
自動的に静かな心が現れますから >>262
でもさーこれってよく日本の武術や禅などでいわれてる
ずっと丹田に意識をおいとく
と同じだよね わたしも少林拳をしておりましたので、そのことはよくわかるのです。
師より残心ということばが残っております。
おそらくその意味するところは同じと思います。
同じ見解です。
また、茶道とか作法、所作においては
実はSATIを入れていけば、結果的に
そうなります。
その禅的な心の作り方は、satiと全く同じものとの認識です。
残心については千利休が
何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ
(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
この所作はsatiそのものとの認識です。 >何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ
>(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
よい言葉だね 茶道において侘びとよくいわれますが
この侘びも涅槃寂静に通じるとの
記述もあることからその共通性を
うかがい知ることができます
この境地を作る方法として
sati気づきがあるようにおもえるのです >154
ここにあるじっと観るということについて
こういうものを偶然見つけた
瞑想とは自分の心身に起こっていることを、それが自分にとって好ましいことであれ、不快なことであれ、リラックスしてそれを認知し、じっとただ見つめることをいいます。
これはアシンテジャニヤ師の言葉です。 ★サングラスをかけてプライベートジェットで移動、タイの僧侶に批判 AFPBB News2013年06月19日10時47分
http://news.livedoor.com/article/detail/7779908/ 欲界における瞑想の段階
(1)粗住または粗定
一つの物事だけに集中して、雑念と闘う段階
(2)細住または細定
一つの物事により深く集中する事です。
(3)欲界住または欲界定
意念が安定した後、身体に様々な感覚(感情と感触)が出てきます。
(4)未到定または来禅
次の瞑想の少し手前の段階です。体のいろいろな感覚が薄らいでいくと同時に、軽くなり、良い気持ちになった状態の瞑想です。