僕達は、研究し、
「呉誌呂岱傳に2度繰り返して書かれた「会稽東冶」の印象が強く、後世や現代の頭の悪い者達が、
揚子江デルタという割合狭い範囲での孫策という武将の軍勢の2回の合戦の記録で、三国志全体で何度も登場する東治や、
建安5年に孫権が屯した場所を説明する為に引用された典略の東治や、
地理的に無余が封じられた会稽との関係性に全く疑いの余地が無い、魏志倭人伝での東治を、
東冶に書き換えてしまった。」
という真実を、完全に突き止めてしまった。