【泰皇】周の後半春秋戦国4【皇帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
平凡に
【五覇】周の後半春秋戦国5【七雄】
でもいいんじゃね。 勢いを失い過疎りながらも春秋戦国総合スレはとうとう4スレ目まで来たか。
中国英雄版全体が死滅するなかよくがんばってるアッパレじゃ!!
>>2次があれば関連スレに周の前半も加えてあげてくれ。
殷〜西周こそ熱い時代!!!!!
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1422786910/ 春秋の初めに戻るんなら、スレタイは
【幽王】周の後半春秋戦国5【狼煙】
これでどうじゃ? 殷〜西周スレ以外は事実上稼働停止状態だが一応乙
(分散は得策じゃないから関連スレは次はもう貼らなくてもいい希ガス) 978辺りから急ピッチでスレが埋まったな(いい意味で) 前スレの最後辺りなんの話してたっけ
類似エピソード? 周王に最も近い出自をもつ鄭にはもっと頑張ってほしかったわ >>19
荘公死後20年くらいのゴタゴタが痛すぎたな。
昭公が何事もなく治世を全うして、
その間に周と和解するという展開が一番幸せになれそうかな? >>16
諸子百家の議論はなぜ万学の祖の域に至れなかったのだろうか?
ダムスレでちょっと紀元前中国文明が語られるのを見物しててふと気になった
>>17
そっくりさん逸話を列挙すると面白そう、荘王と威王とか >>21
>諸子百家の議論はなぜ万学の祖の域に至れなかったのだろうか?
春秋戦国の頃は学問の自由があったけど漢の国学となったことで儒家が強くなりすぎて
他の学問ができなくなったからだろう。 そら単純に春秋戦国が後進文明だからでしょ
諸子百家の言論はとてもアリストテレスを出せるレベルに達してない
そもそも体系的&専門的に科学を追求する性質を持った諸子/学派皆無 >>8
初代スレが立ったのが2006/10でそこから5年以上かかって使い切ったのと、
3代目が2年半たたないうちに使い切ったのを考えると、これは特筆すべき奮闘だな! 戦国諸子百家は「争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない」
を絵に描いたような連中だし戦国続いてても大して変わらんと思われ 同時代文明比べるとこれ位の差がある。
オリエント(鉄器時代入って千年以上)>>戦国中華(鉄器クルー?)>弥生時代後期(青銅器文化)
自由に政治思想や人間観を主張させてたら官民が儒教と道教に染まった。
国学化したから儒教が強くなりすぎて他の学問ができなくなった、というのは的外れ。 >>22-27
反応サンキュー
文明発祥からの時間が短く科学的知見の蓄積が不十分だったのが原因ってところかね
もしくは方向性の違いか
>>24
後世君主の憧憬の対象で在り続けた大英雄アレクサンドロス大王の師がアリストテレスだった影響はデカそう
>>27
国家権力や君主はむしろ道教推してみたり仏教推してみたり民間の儒教勢力に抗ってる節があるな 祖沖之とか張衡の存在を知っていればとても儒学の影響で自然科学が抑圧されたなんて感想は出てこないと思うのだが 諸子百家に関しては基本的にウヨサヨリベラルの争いみたいなものでベクトルが違う。
29の言う通りむしろ統一王朝以降になってから自然科学分野で注目すべき人物が出るようになる。
東アジアは東アジアでマイペースに進んでいた。トップでなかっただけ。
>>29
司馬史観(確信) >>26
切磋琢磨する中でレベルが向上するということはなかったのだろうか? たんにルネッサンスがあったかなかったかだけのちがい >>31
切磋琢磨、レベルアップした結果が儒教(道教)じゃないかね?
自由競争を勝ち抜くために論敵を攻撃同化するスキルを磨き圧倒的成長を遂げたからこそ儒教の覇権がある
>>32
なんだかんだビザンt東ローマ帝国が1000年間踏ん張ったおかげですよ! 図書館で詩経パラっと目にしてみたがあれ読むのしんどいな イスラーム帝国における自然科学の発展を忘れてはならぬ
多数派工作に長じ利権争いに最適化された儒教が戦国の時点ですでに社会各界に浸透し大勢を占めてた
オープンな環境で殴り合ったら墨家みたく特徴的な集団は死ぬ >>33
儒学者「漢以降の儒教アンチは日本の中国史ビギナーにしばしば見られる現象だけれど」
(類似症状:中国のピークは春秋戦国、稀に戦国が続いていれば西欧列強みたくなったとかいう西洋コンプ丸出し史観も)
儒学者「先進世界宗教仏教の精緻な思想に歯が立たず次第にローカル迷信宗教の様相を呈した道家改め道教よりはイケてると思うの」 >>36
儒家が強いというか他が弱いというか・・・
・創始者の偶像化→神格化
・古典の占有(儒教化)
・司馬遷による歴史的お墨付き(孔子世家)
いや、やっぱつえーわ >>37
まあ本職の学者が孔子おちょくった本出したりするし嫌儒教ムードは根強いね。
春秋戦国ピーク論(後世の中華帝国sage)は保守NTUY界隈にもリベラル左翼にも都合が良いロジック故に需要がある。
ところでおまいら唐突だが屈原ってどうよ?(先月末は旧暦端午の節句) 忠誠心だけでは大業をなしとげられなかったんだなぁって....
相手が悪かったというべきか。 旧暦か、新暦で生きてるせいかピンとこない
政治家屈原は小物やね 春秋戦国の政治は只今政治史の専門家が絶無に近いぐらいアレな暗黒分野なんだぜ?
屈原が政治的に小物か大物かなんて判定不能。 屈原非実在を聞いたことがあるけど、どうなんだろーねー >>43
せやろな、屈原の時代は列伝はもちろん秦本紀&六国年表さえも信頼できないし >>39
>春秋戦国ピーク論(後世の中華帝国sage)は保守NTUY界隈にもリベラル左翼にも都合が良いロジック
現代中国叩くためのダシに使われてるなんてな・・少々悲しい使われ方だな。 そら一言二言の内容のない書き込みをしてはageまくるレスばかりじゃ
「あーまたあの人か〜」ってなるでそ スレの勢いダウンを気にする人がこの板の彼方此方で無内容に近いレス返し(sageない)を繰り返す傾向がある
もうちょっと工夫した方がいい希ガス
またいつもの人だってなるもの
>>47
あの時代だけガバガバってこたぁねえけど、紀元前三・四世紀の境界はなぜか大混乱してんなー
孟嘗君相秦と懐王関係の真偽不明の作文多数に混乱した編纂者がテキトーに記事を並べてしまった感 >>48 や >>50
がほかのスレでしたレスをコピペして来れば簡単に証明できるな! 盛り上げようとするのは良いんだが
勢いがなくなった〜とか短文レス多投しても
「必死だな」になってしまうからねぇ…
ただ相当に知識がないと発展性のある話題を提供できない時代だから致し方無い面もある(かくいう俺も) >>21
月並みだけど妾を献上して王の後継者を生ませる呂不韋と春申君のエピソード、商鞅変法と胡服騎射の論戦
>>51
孟嘗君といえば、宮城谷小説で屈原と会話してたっけな、戦国名臣列伝でも、屈原は、名臣の一人に数えられている
ただ、伝統的に不動の佞臣小人キャラであるはずの、屈原を迫害した側に同情的な記述が見受けられ、少々意外だった 戦国名臣列伝の屈原は悲劇的な最後を遂げた経緯に紙面が割かれていて
屈原がどんな功績を残したのか、どういう名臣だったのかについてはあまり書かれてなかった気がする 中英板の春秋戦国成分の半分ぐらいは宮城谷昌光、困った時は先生の著作を頼るべし。
屈原は屈原の列伝と楚辞関連以外で名を見かけないのが致命的だね。
親斉反秦派という触れ込みなのに同世代と考えられる逸話製造機孟嘗君&ビン王と全く絡まないステルス外交官っぷりはまずい。 屈氏自体は名家なんだからもう少し記録があってもいいのにな。
よほど不都合な事実があったのか、それとも司馬遷が変なことしたのか・・
>>56
今ちょうどその宮城谷先生の「孟嘗君」読んでるところなんだけど、
楚の宣王が「虎の威を借りる狐」の故事で登場してワロタw 宮城谷孟嘗君はすっごい良い人すぎるよね
史記読んでギャップにびびったわ 宮城谷孟嘗君は持ち上げすぎて、自分が死んだ後どうなるかくらいは
簡単に予想できただろうに対処方法を全く考えていなかったのか、
なぜ何も手を打っていなかったのかが説明できないんだよなぁ
子供達がまとまらず滅ぼされたのは史実だから仕方ないけど 金のなる木である自分が描くキャラ(題材)を持ち上げない大物作家など存在しないのよ
キングダムなんてモブ史実キャラだろうが死にかけの六国だろうがハイパーインフレさせまくった結果意味わからんことになってるぜww
まぁリベラルチックな方向の思想をまとったキャラは民主的インフレ、反対者は低評価する宮城谷戦国時代小説の世界観は無理あるけど まあ良し悪しどちらのベクトルでもいいから誇張しないと商売にならんのは確か。孟嘗君はわりと史記戦国策通りの描き方だと思うよ。謙虚さや能力の高さをアピールする逸話に大半が費やされ晩年の下降線はスルーでしょ?
>>57
伝統ある名家を破壊しまくりその残骸の上に新時代を建てたのが春秋戦国秦楚漢という時代やねん。 斉の高氏が後の渤海高氏になったりして支配者層に返り咲いているのはかなり珍しいケースなんだろうな ちょっと前に高氏と渤海高氏を調べたことあるけど
正直、隋唐で流行った、昔の漢人名族に無理やり系図を接続した典型的パターンで
斉の高氏と渤海高氏に連続性はないと思うよ そういうものかね
清河崔氏とか渤海高氏とか春秋斉の流れを汲む名族だと思っていたが
王莽が田斉王家の子孫なのは確実だよね? 少なくとも漢書ではそうなってるね
王莽が自身の系図を制定した、という体になってるから、どこまで信憑性があるかは俺には分からんけど
楚漢戦争期の済北王田安の後裔を名乗るメリットがあるように思えないから、確実と見てもいいんじゃないかな 確実と言うほどの信憑性は当然ないが
とんでもない雑さの子供騙しにもならん世系表を大真面目に載せてる中国王朝正史や現在流布する出鱈目民間家譜よりは遥かにマシだろうな 三国時代の魏の国淵って青州出身だけど、これは春秋時代の斉の国氏の流れなんかな 七雄「封建秩序の担い手(抵抗勢力)である伝統的な卿大夫知識層を殲滅したからこそ、皆さんお馴染みのメインランドチャイナが出来たんすよ。」 ★★★チベットの★独立は、日本の核心的利益である★★★
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劉邦「マナーは足りないけど悪知恵にはちょっと自信あるゾ」 エテ公!エテ公の楚人じゃないか!! by史記の「楚人は沐猴にして冠するのみ」 ←地味にヒドス(´・ω・`)
項羽も劉邦も、とりあえず殺し焼き奪い犯し宮殿破壊とまあ色々やったけれど、、、だがそれがいいのよ
これも秦が春秋戦国の秩序を破壊し尽し、哀しみを抱いて入水自殺する様なお上品旧貴族連中を取り除いたおかげ 全盛を極めた昭景と伝統的世族の屈氏が郢陥落を境に衰微しなければ項氏の台頭はなかったでせう 屈氏は春秋から見かけるけど、
昭景両氏はいつごろからいるんだろう。
昭氏は昭王の子が臣籍になったのかな 昭景両氏の来源は確言できませんね
屈:旧世族,初見は楚武王の公子瑕です
昭:昭王(邵王)→坪夜君(平夜君)を昭氏(邵氏)の祖とする説に従うと,昭氏の出現は戦国初年頃?
景:不明,平王(景平王)の後裔?
>>57
確たる根拠のない推察になりますが
屈原の功績が不明瞭な原因は,頃襄王政権と魏冉政権の急接近し秦楚関係が好転する時代背景にありそう なんだかんだ懐王の寵臣で青年〜中年は発言力が強く見せ場が多かったけれども
本来脂の乗る壮年期に王が代替わりして次世代に主導権が移り――
・・・国内外ともに都合が悪い環境になったら政治家やってられんわな
まあ大国ゆえに国境を接する敵が多く秦よりむしろ斉や魏を宿敵としてきた
楚にとって本当に屈原の在り方はプラスだったかどうかも定かでないけれど >>77
なるほど。やはり確実なことは言いにくい感じか 起源が古いのは別に凄くないけれども、五百年ほど臣下の立場で、高位高官を世襲した氏族は貴重だね。
我が国や他の文明圏には、ごく普通に存在するが、中国史では滅多にみない。 晋が翼とガチャガチャやってたり鄭荘公が中心だった頃からすでにいたわけか 楚武王の公子瑕って軍事でドジって自殺したんだっけ? >>78
屈原の時代(懐王の晩年)にズタズタになったことを考えれば外部環境を安定させた頃襄王初期の外交は合格点あげれますね… 懐王の晩年って張儀に騙されたアホという印象しかないんだけど・・
それを言っちゃおしめーよって奴か 斉の桓公と管中という春秋最強タッグがお隣さんとか、正直難易度インフェルノ過ぎて震える >>88
それもそうだし宋とゴチャゴチャやったり泰山の信仰やめたり >>89
桓公&管仲が特別能力高かった訳やないで
中原の覇者やった鄭がこけたおかげで覇権が回ってきた 斉はご先祖様の段階で既に小覇を唱える実力を備えていた強国 >>94
それの出典が見当たらないんだがどこなんだい? >>95
岩波文庫『春秋左氏伝』の列国大事索引の
斉の項目に@僖公小覇とある
何を根拠に小覇としてるかは不明 710 : 名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/09(日) 22:53:59.07 ID:JAkI4Tz30
鄭の荘公はわかるんだが斉の釐公が小覇とされてるのがよくわからん
711 : 名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/10(月) 07:14:05.89 ID:BDGDr8nQ0
>>710
斉の釐公が小覇とされてるなんて初めて聞いたけど、
誰がそんなことを言ってたの?
712 : 邯鄲人2016/10/10(月) 20:59:26.94 ID:gL5biNep0
>>711
(出典は国語です)左丘明さんかな?
既視感を感じたゆえ前スレを引用してみる 釐公よりむしろ襄公が小覇だと思うがね
>>99
許とかいう不倶戴天の敵を生み出したからか >>100
150年かかっても従わせられないなんて、
当時は思わなかっただろうな。 鄭も魯も大変よな、でも鄭の貴族の家には生まれたくないなぁ
終始、晋楚に挟まれて穆系じゃないと這い上がれないし >>102
逆に生まれるならどこの貴族がいいんだろうな。斉かな このスレsageたらいかんルールでもあるのかってくらいsageないね
>>103
最終的にデン々されるうえに他と同じくしょっちゅう首都で内戦粛清やってる斉もなかなかの地獄ゾ こんな過疎板でsageる意味なくない?
(と言いつつsageる俺氏) 過疎だからとにかくスレ上げるいつもの人のやりとりが際立つだけよ
斉は著名な覇者・斉桓公期でさえ国内の不穏さが目立つし生まれたくないなw ageるのは3日に一回とか決めれば、
こんなくだらんことで揉めなくていいんじゃない? 春秋期の燕や秦内紛少なくて平和かな?
>>107
じゃあ今日はsageとく? >>108燕に関しては記述が少なすぎて判断つかないな
春秋時代は北燕と南燕があったが、どちらか一方は滅んだみたいな話を聞いた事がある 強大な権力の靴を舐めれるのは幸せなことだよ
衰退する衛にそんなものはないが 身も蓋も無いが、わりかし暗黒時代やからねぇ…
各国の黄金時代に在位した代表的な名君連中でさえ盛大に内戦・粛清・後継体制火達磨やらかすしぃ まるで、暗黒時代じゃなければ
内戦・粛清・後継体制火達磨が無かったかのような言説やね(遠い目) >>113
>>115
(綱紀)粛清は国家社会にとってマイナスとは限らんので除外する
東周王朝期の各国って
・後継体制への安定的政権移譲の確率が大変低い
・小型版応仁の乱みたいな都が戦場と化す動乱頻発
という時代なんで
大陸を軍事的政治的に統一した政権の安定期とは雲泥の差があるよ >>116主君である兄を死なせるという不忠行為を行ってるのに名君ってのが武公は凄いわ
しかも史書の記述を見る限り兄の共伯に落ち度は無いのに
ただ周王朝が正常に運営されてる時期、あるいは覇者がいた時代なら武公はすぐに誅伐を受けていたかもしれん >>121
そうか?
未成熟で荒っぽい時代だから、家族の殺害は特別珍しくないし、武公の数少ない事績である尊王攘夷にしても
晋とかいう悪逆無道、傲慢不遜を絵に描いたような覇権の得意技が勤王である事を思えば、そこに不思議はない希ガス >>118
>主君である兄を死なせるという不忠行為を行ってるのに名君ってのが武公は凄いわ
>しかも史書の記述を見る限り兄の共伯に落ち度は無いのに
李世民もそうだろう。 その手の身内殺しリーダーの成功例は世界中にあるな
本邦の中世だけでも相当数に上ろう
もう一ついえば武公の実像を知る手掛かりはゼロに限りなく近く
本当に名君らしい名君なのかさえわからん
暴君でも不都合がなければ直系の後継者たちは称える >>122
周王朝的倫理と秩序に叛きまくり、非道卑劣は日常茶飯事
そんな晋が幹事長やってる東周連邦
大義名分がどこにもねェ……春秋に義戦なしとはよく言ったもの 兄殺しスタートでも名君になれるなんて、
夢のある話だなって オスマン「弟は幽閉するもの」
千年帝国「名君なんぞ虚構よ」 オットー1世「反乱と暗殺かましてきた弟を幽閉するもママンのとりなしで二度も赦した俺を讃えろ」 >>125たまに周王朝が斉に密命を下すのは晋の覇者体制に不満があったからなんだろうな
周王朝的倫理と秩序を守っているのって文公とか悼公のような名君ぐらいか?
まあ文公は結構ルール違反な事やってるが 悼公のころに周の霊王と斉の霊公が接近したりしてるし、
元々周と晋は相性が悪かったのかな。 晋悼公には、自らの権威を高め、諸侯の宗主たる天子を蔑ろにしたのではないか?
と推測できる記述が散見する。斉に接近したくなるかもしれませんね。 悼公はあと十年長生きしていたら先代と同じく有力者の排除粛清に動いた気がする
隣接する晋と周は東周王権が分権的で足元の畿内でさえ諸侯が常時割拠する状態でなかったら
優れた周王と強大な晋公が激突する歴史が展開されたやろな衰えたりとはいえ中堅国クラスの領域を保持する周は侮りがたい >>129
同姓とはいえ元々近しい関係ではないし色々限界がありそう
おまけに同姓不婚とかいう中国伝統倫理の壁で関係は疎遠になる一方・・・
文公はアレなところは多いが父祖のアレさ加減を思わばカワイイもんやし勤王でチャラ
曲沃政権って現存資料から窺える僅かな歴史からでさえ代々武田信玄並の外道オーラ放ってるダークサイド国やし(笑) なんだかんだ前の暗君が楚のヘゲモニー&お上に僭越を働く有力臣下を潰してから逝ったので
ある意味やり易い環境で即位することになった悼公 弟にあんな名前を付けた親父がわるいわ
てか時代的には成師と公叔段って同時期だっけか 桓叔成師の晩年と被ってるけど世代的には二、三世代前の人という感じ 俺が20日からほぼ毎日連投して人呼んだおかげやぞ褒めて >>136
文侯「曲沃プロパガンダ乙。正当化しようたってそうはいかん。つか成師のくせに敗戦してるじゃねーか!!」
>>138
生まれは約半世紀差と大分違うが封建されたのは大体同時期という 粘り強さって大事なんだなって。
>>133
確かに長生きが欲しいところだったな。
人事が上手かったみたいだから先代のような半端な粛清もしないだろうし、
跡継ぎももっとうまく教育できたかも・・ >>135晋のレイ公はエン陵の勝利の後すぐに死んでたら名君と呼ばれてたかもな
本格的に暴君となったのもエン陵の後だし
エン陵の勝利も苗賁皇や郤至の献言をレイ公が聴きいれた事によるものだし 悼公の覇権とバランス(妥協)人事は、楚を破り国際環境を好転させたものの世族弾圧を果たせず死んだ急進的先君の発展的継続と修正、先送りした臣下との対決はいずれ再燃する。 >>143
即位から戦いまでのエピソードがあまり知られてないよね。 粛清をせぬまま30前後で死んだ悼公は、
臣下にとっては都合がよかったので後世名君扱いされた・・というのは
さすがに空想が過ぎるな ↑×2
要素の一つではあるかと
後に内乱を度々起こし最終的に公室を抑え覇権国家晋を解体に導く諸氏は悼公治世下で勢力を蓄えましたし
この頃矛盾が表面化せず彼が覇者&最後の名君とされるのは丁度実力者の交代期にあたり君権が安定したからでしょう 唐突だが、ラン書(とその子孫)って地味に晋滅亡A級戦犯クラスの畜生だと思う
暗君乱臣に満ちた資料上の逸話の中ではそこそこ格好良くそれなりに徳のある名臣みたいな顔してるけど 三郤「」
胥童「」
胥臣「・・・・・」
郤缺「・・・・・」 >>152
一族のDQNが勝手にやったのと、総領が他家も巻き込んでやったのとでは大差だしな。
史官がどう書くかは別として。 欒書「腹黒士氏の讒言でうちが族滅するとは参ったね」 欒書は君主を弑逆したけど、子の欒黶は父の傲慢な部分ばかりをより肥大させて
受け継いだ様な格好だな
的外れな恨み方で士氏と軋轢を深めるし、こいつが欒氏滅亡の引き金を引いてる感じ
せめて欒盈が欒書の孫でなくて子だったらまだ違ったのかもしれん 実物は知らんから勝手なイメージになるけど傲慢さはいい勝負じゃまいか?ベクトルが異なるだけで
せっかくのリスクヘッジ婚姻を感情的行為で台無しにするあたり欒家が肥大化ぶんお気楽になった感じ >>157
士鞅、そんな事を言ってたっけ?
しばらく左伝も読んでないせいかど忘れしてるな >>156の解説には既視感を覚えるのでたぶん宮城谷作品っぽい。 石虎の遼東遠征って海路も使って侵攻しているし
規模は小さいけど隋唐の高句麗遠征の雛形と言える戦役かもしれない
遼東・朝鮮半島は中華王朝にとって正しく鬼門だな 唐の太宗李世民も遼東・朝鮮で少なくない犠牲者を出して敗北やからな〜 殷代から燕のあたりが開けているのは結構不思議
孤竹とかどうやって建国されたんだろ(軌道修正) フェニキア人「古代人の植民力舐めんなよ!」
ギリシャ人「同上」
孤竹の伝承はおそらく虚構だと思われ 地中海世界やオリエントと比較すると東アジアは全体的に後進だが
東周時代ぐらいになるとユーラシア大陸から海を隔てた日本列島も青銅器時代に入るし
中原から遠く離れた周辺地域とてなかなか侮れない 楚国って横死、反乱多すぎない?名君でも余裕で晩年悲惨だし 「日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったと言われており、青銅器は祭器として
のみ利用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行したと考えられている。」 日本は地域によるね、かなり早い時期に青銅器の使用が始まった場所もあるし
ま、なんにせよ新発見が相次ぐ流動的な分野だから確定的なことは言えないけど
>>171
周〜春秋を勝ち抜け戦国列強に名を連ねた強国楚は最もマシな部類だぞ 当たり前のことだが
国家政権が担当する面積や人口が大きければ大きいほど乱は数多く発生する
楚国にその手の事件が多いのは事実でしょう
だからと言って楚が他国に比べて不穏という訳ではないけど 史書の関心が一部の国に偏向し情報の偏在が極めて激しい時代だからなんとも言えんわ 晋が分裂しなかったら・・・
若しくは再統一していたら・・・ 平凡社の春秋左氏伝買おうと思って図書館で試し読みして見た
黄色本は絶版だからあのデカイ奴だけど字が小さすぎてキツすぎる
kindleか黄色本の再販しないかなあ 西周を滅ぼした申はいつの間に楚に滅ぼされたんだろうか 各国による自国こそ中国中原でお前ら夷敵だの証明面白かった 中国の周ー春秋における週の王の実態はなかった。
これは徴税、上下の意味で
そもそも考古学的証拠上商は人口3-5万の集落、周は10-15万が限界の集落群に過ぎなかった。
そして他国の歴史がそうであるように、ただの古い集落、首長国でしかなかったのが実態
ここで王政、中間の支配、上下礼儀は存在してなかった。つまり王でも中間帝でもない
ただ最古の集落、大首長的崇敬、ルーツ的崇敬は持たれてたようだが、中原全国は周の支流民族、部落ですらない。
諸王も血縁者というのは無理のある創作
これは幼稚かつ安易な起源論の曲解で、戦国各国は別のバラバラの民族、部族であり、各首長と諸王の混血性、外交性は歴史上存在しない。
その部分は単に構成の三項ごていのような神話的ルーツとして作られただけで、完全に別別で部族が存在する。
もっとも秦などの内陸部は塩の入手のために周より後発的に集落が発達した。
塩商人であろう周人の立場が少々強かったくらいだが、周自体に上下支配を作れる力はなかった。 そして戦国といいつつ、これ事実上秦VS蘇の二大国VS北部連合の二国史ないし三国志だった
そしてこれ西安平原穀倉帯の秦は人口大国で古き王国
蘇は沿岸野蛮人で文化的に同時期のたいわん、フィリピン、大和のマレー系原住文化と告示しすぎてて、その類型と分かる
そして北部は周というのが最初から最後まで王らしいイニシアチブを発揮せず、バラバラの部落連合であり
「最初から周王の実態はなく周首長国だけがあった」ことを裏付けてる。
そして実質的に民族的には北部5雄と蘇の秦以外はすべて沿岸マレー系部族文化集団であり
西部の秦だけ唯一王国として違う歴史と文化を持ってる
そして秦はあの時代の技術水準でもっとも農地に適した穀倉帯で、たいして他の6国は農地以外の狩猟採集の比率が大きいから人口少なく、ただの集落的社会しか作れなかった。
だから基礎人口+農業科で秦が優位で農耕の延長で真っ先に王国システムを作り上げた。
そして全土を支配できた。
たいして他の国はまともな対策や連携とれなくて、所詮少数部族、首長国だったことを裏付ける。
そして後の中国は西安長安穀倉帯をベースに、長江沿岸→黄河沿岸に穀倉帯を発達させていく
これが今日の中華のルーツ
この古代史は憶測と創造加筆でかかれたしきなどを固着化して、考古学的検証全然できてないの。
そして考古学より共産党が優先して「ただただ古く作る」だけで、古いだけのつまらない作為で歪みまくってんのが古代史 ようは中華は
BC1000年中華は北部商周連合が華北にいてこれは25万の典型的な周大首長連合を作った
そして全土を探検して内陸塩交易を行って、内陸農業開発ができる産業地盤を作った。
周系は黄河流域、蘇のルーツ文化はおそらく周華北文化よりも古い文化として長江流域に塩交易を行った
しかしこの2つの文化は塩と漁業文化が中心の日本、台湾、フィリピンにもともとあるスタンダードなマレー系文化、集団の延長で農業大人口を要しなかった。
ところが塩交易が発達した時代、内陸西安でも農業拡大が(塩を買えるから)可能になり、ここに少数系としてBC2000年頃からルーツのあるインド系?インドシナ(ベトナムタイ系,?)らしき部族が
おそらく夏とされる雲南系?などの集団の延長としていついた。
そして塩が手に入ればせいあんは当時の鉄や銅じゃなく素手と木具中心の農耕開発で用意に農地拡大できたため大穀倉+大人工化を達して、農業社会型王政、王国を先に作れた。
その時系列は秦史どうりである
たいして他の戦国7国は塩交易と秦交易による農業収入(但し輸送しゅだんが限られるので輸入量は少ない)
沿岸漁業などの収入と、交易+狩猟採集があったことと、沿岸部、北部は当時の技術では農耕開発に適さない
ないし小規模の領域しか開発できないから、農業科+農業大人口化+農業大人口化に遅れた
それこそ銅器があろうと、中国の人口はBC1000年まで全土50-100万と周辺日本、インドシナ半島の総人口と大差ないくらい開拓されてなかった。
しかし秦は一国で大農業科+人工拡大をおこなって単独で100-200万の大人口集中圏を作った。
はたは単独で他6雄=日本=インドシナ半島級の人口を要した
これで真っ先に先進大国となってアジア古代王国としてのルーツを作る。いわば秦は始帝国にして、アジア初王国でもあった。
そして大農業+穀倉+人口+王国化を一方的に成し遂げたからこそ、ごく短期間で中原を征服した。
この局地的な農業集約社会、ないし王国が一方的に集落を征服するのは、東アジアに限らず世界史のスタンダードである
むしろ世界史のスタンダードからすれば、1王の征服が正しい歴史で複数王の相克パターンがマイナーな事例である。
よって秦のみ1強国、1大人口穀倉帯で自然的に覇者として勝利したというのが正しい歴史解釈
そもそも漢意向ですら人口と農業は秦にあたるせいあん、長安が中心、中間で、その沿線的に長江沿岸、黄河沿岸が発達する。
たいして北部や沿岸は少人工しか要さず発達が遅い
これはもともとその地域は農耕が不適切で穀倉帯、農業集約に適さないことの裏付け
すなわち「他6国は滅んだんじゃなく、最初から、半狩猟採集文化で農業発達せず人工は少なかっただけで、秦→漢以後も人口少なかった」ということである。 >>182
河東の岩塩にすら触れられん、駄文だなw
食貨志読んで出直せw ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ >>82
覇者はそうなんじゃね
征夷大将軍みたいだ 楚は南方の異民族で野蛮人だから周王の権威とか知らんと言って王号を称した。 項羽と劉邦の国「楚」の驚くべきルーツ!ついに歴史文献が出土し、楚は長江の国では無かったことが明らかに!?
清華大学所蔵戦国竹簡「楚居」の研究を元に、「楚」はもともと南方一帯を指した蔑称であり、西周時代以前は一つの国家のことでは無かった。北方から南下した「商」(殷)集団(殷そのものでは無い)が、楚王の祖先だと考えられる。 西周から見て、イバラが生えてる未開の地が「楚」。
しかし、その楚は、長江流域に対しては「商」(殷)として接した。 楚」と、「殷」(商)「周」の関係
中間にある「上洛・商県」は、殷末の周から「楚」と呼ばれた(周で出土した周原甲骨文より)
しかし、西周時代の周は、漢水の南側を「楚」(イバラだらけの未開の地)と呼んでいる(西周の青銅器の銘文より)
だが、その頃、楚王の祖先は商県にいた! 殷末の周原甲骨に出てくる「楚」は、商県にいた「楚王室の祖先」を指している可能性がありますが、次の西周時代に討伐対象になった南方の「楚」は、たぶん別の国です。 従って「楚」は蔑称ですが、戦国時代の遺跡から出土した竹簡の歴史記録「楚居」には、楚王室の祖先が帝王切開で生まれ、殷の名医がイバラで母体を縫合したので、「楚」と呼ばれたという楚人の理解が記されていました。
この話も、これまで全く知られておらず、世紀の大発見でした。 そこで気になるのが、春秋戦国の「楚」の祖先集団が、殷周時代には「商」(弘農郡商県、上洛県)の地にいたと主張している『楚居』の記述なのです。
殷王盤庚(ばんこう)の孫娘と結婚し、「京宗」という理想的な土地で暮らしたという故事からすると、「楚」だと思っているものの正体は「殷」(商)だと 春秋時代の楚は、南方の蛮夷の勢力に対しては「中原の国家」(殷系勢力)として臨んでいたが、
中原の国家に対しては「蛮夷の勢力」(だが、周との深いつながりがあると主張)だとして、介入を受けないことを第一としていたように思います。 「楚」は、西周側がある方面の集団に対して用いた蔑称だとすると、途中で蔑称だった「楚」を自称に変える動きがあったと考えられ、
そうすると、西周時代の対外戦争に登場する「楚」と、春秋戦国の楚国の祖先は別の集団だった可能性も出てきそうですね。『楚居』の記述を肯定して、西周金文を尊重すると 片山晋呉ってすごい名前だよな
この時代を意識して付けられたんだろうか? 晋と呉ならそこもか
五代十国の後晋と呉はほとんど交わりないか 資治通鑑読んでるんだが戦国四君はけっこう辛辣な評価されてんだな。
とくに孟嘗君は斉ビン王と同じ評価って 【天竜人だな、皇族″】 日本軍が敵国のアメリカから燃料を買っていた事実、なぜ教科書に載せない?
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1529288795/l50
天皇は、国民ではなく、国賊の象徴だろwww >>204
わかる、エロ本の場所暴かれた中2の気分だわ 中国古代史を学びたかったが
良いのが東大とか早稲田と言われると何だかなあ 西周と東周に分裂した頃について知りたい
(質問しても違うって言っても東周時代のこと言われる)
(幽王の時代じゃなくて戦国末期の頃が知りたいのに) 紀元前441年 31代 考王が弟の姫掲を河南に封じ西周の桓公とした。(西周公)
紀元前368年趙の成侯は韓とともに周を攻めて周を分割した。
この時西周公の末弟 公子班を東周公として封じて周の領土を削ったらしい。
この時の西周公が恵公で東周公も恵公なんでややこしい。
3分された周はますます弱体化した。最後の周王 赧王は自立を諦めて西周の
武公を頼って西周に遷都した。王都だった成周は東周のものになった。 >>203
司馬光の戦国期人物評は司馬は司馬でも司馬遷とかなりノリが違ってて面白いね、俺は結構好き。
一番好きなのは春秋戦国の著名人を軒並み無能&ゴミカス認定する韓非史観だがw 元々周本来の領土は大きくないってことなのかねえ
周の領土を削って作ったのは鄭ぐらいかね 東周は春秋時代の初期に
放棄した首都を取り返そうとかしなかったんだろうか 楚を滅亡寸前まで追い詰めた、伍子胥と孫武ってやっぱりすごいな >>210
韓国朝鮮人て本当に世界一劣ってるよな 無知無能無礼無学 いつもの連投さん、ほとんど荒らしと化してるな〜
(好意的に見て)無理矢理中英版を盛り上げようとしていると考えても稚拙すぎる >>216
宗周近辺が遊牧民の手に落ちていて、放棄せざるをえなかった
秦への切り取り次第委任という形にしたのは現実的な判断
周六師を支えた内諸侯も徐々に姿を消し、殷八師はそれよりも前に実体を無くしていただろう
晋/鄭の助力なくしては最早成り立たず、鄭の勢力削減にも失敗したから
もうお手上げ状態で、むしろ戦国末期までよく生き延びたものだ 内諸侯や○○師は多少齧ってる人じゃないと意味わからんよ
まあそもそも圧倒的資料不足故にまともな解説は不可能な質問だけどね 東周初期は平王派と携王派に別れて20年近く争い、
諸侯の加勢でやっと平王が王朝を再統一できたという有様
王朝内部の混乱による人材の喪失と組織の崩壊、
諸侯への褒賞や、敵味方による収奪が多数あったことは想像に難くない
それらの負債を払い終えた頃には、鄭のような大諸侯とはいえない国にすら敗北を喫している
東周初期の王朝の実力は既に並の諸侯程度、
宣王期ですら敗北続きの異民族に勝っての関中回復など夢物語だったろう 216氏は携王平定後の東周王朝が宗周王畿(関中)を取り返そうとしたか否かを聞いているのでは?
想像上の現実的判断云々ではなく 20年もやっていたのか
伯服に長男という意味の名前をつけているから他の子に愛情ないんだろうな もちろんその通りだけど、想像の方向も見当違い気味ですし
また想像を支える資料が極めて貧弱なのでちょっとでも新発見があればすぐに覆ってしまう
夢物語に終わったとはいえ東周王朝には各方面の経略を試みた形跡がある
さっさと故地回復を諦めて放棄したと断定するのは危険だと思うよ 諸侯の力を借りたとはいえ東周王朝を建ててある程度まで勢力は維持できた平王はなかなか凄いのではと思えてきた 父祖が励んでいたであろう王朝の中原支配が思わぬ形で功を奏したと言えるかも
なんとか王権が安定し得る空間が存在した?のはデカい
君主に気概があっても応仁の乱後の足利将軍みたく王城の地にヤバい奴しかいない状況ではどうにもならん 確かに凄いですよね
でもそのおかげで楚に呉とその呉を滅ぼした越を認識させ、後に越を攻め滅ぼして楚の領土が広がる事に…
その領土が広がり国力を増した楚の首都を陥落し二度も遷都させ、領土国力を半減させた白起もとんでもない
秦の統一って陶侯白起の頃に他国を削りまくったおかげなんですよね
始皇帝・王翦が美味しいとこをいただいただけな感じが…楚はすでに国力半減、韓魏は度々連合ごと白起に滅殺され韓は三晋時の領土を失い旧鄭のみ、魏も領土を削られ続け国力低下
趙は長平の大敗で兵力激減、斉は合従軍に滅亡寸前まで追い込まれた後遺症で弱体化、燕は楽毅を追い出し趙に負け続け
合従は陶侯時代の事で、実質燕以外の五国は陶侯白起に弱体化されていた
強国秦の基は商鞅の改革だけど、陶侯白起が五国を弱体化させてなければ後の王翦の活躍も始皇帝の統一もあり得なかったように思う 派手に勘違いしてんぞ
楚の平王ではなく周の平王の話ですよ 周の平王はいまいちどういう人格か見えてこないから語りづらいんだよな
鄭の荘公とのエピソードを見てると諸侯に気をつかってる苦労人なイメージがあるけど 晋が分裂せずにそのまま大国として残ってたらどうなっていたんだろうか ソ連が崩壊せずそのまま超大国として残ってたらどうなっていたんだろうか 結果的に晋は楚と休戦した事は失敗だったように思う
そのせいで覇者としてのアイデンティティを失ってしまった よくある話で、外敵がいなくなったことで国内の権力闘争に専念してしまう
ただ楚としても呉の台頭でもはや晋と戦争している余裕がなくなったから
休戦は時代の流れだと思う そこだけ見れば、和平を必要とするのは楚なので
名高い晋の卿大夫連中よりも、評判のよろしくない康王霊王平王期あたりの楚外交の方が仕事したことになるな そこまで悪くないけど
最も有名なエピソードが評判最悪の二王と大差ない人物扱いのアレですので… 共王の方が仁徳者だけど
晋に敗れて覇権を失った共王よりも
晋と和平して南北覇者体制を作った康王の方が君主としては上かなと思う いくつかの逸話から思い浮かぶ共王のイメージは弱い君主像だなぁ
君主らしい指導力を発揮しないまま退場した印象
情報欠乏ゆえ実際の優劣は皆目見当がつかないけれど 戦績いいから戦上手、とは限らないし
タイムマシンで軍事活動全般をじっくり観察、比較検討してみないとわからんゾ
観察してもわからんかもしれんが >>237弭兵の会盟により諸侯が和平を結んで対外戦争の回数は減少していくけど
代わりに各国で内乱が勃発するようになるからなぁ その頃になると叔向と晏嬰が憂いてた様に、どの国も大臣が力持っちゃて内輪もめに
忙しくなってくんだもの
その叔向の羊舌氏だって後に祁氏共々臣下共に潰されて領地も勝手に山分けなんて結末 七穆が似たような名前ばっかで分けわからんようになったりする
宮城谷先生の「子産」もそこんとこ苦労した 似てるのは名前だけじゃないからな
世代は変わっても鄭の国内外の情勢はそこまで大きく変わらないから活動も似る 鄭は春秋時代後期から戦国時代初期にかけてどのように衰退して滅んで行ったのか良く分からんのだよな
韓に滅ぼされたのは分かるが (よく分からん、、、加害者名のみ分かるって)それ他の国も一緒や!!!
ただ末期になっても韓に反攻する力はあったっぽいのでそこまで衰退していなかった可能性も考えられる
鄭地に居座ろうと押しかけてくる強敵がいたら春秋中頃の鄭でも防ぐのは難しいだろうし >>252
20年くらい前に、駟子陽の圧政とそれに続く駟氏の鄭君弑殺が起きたけど、それも一因なのかな 時期的に因果関係ゼロはないだろうけど
みんな大好き駟氏(子陽)と鄭君の実力や立ち位置が分からんのでなんとも言えないね 延びたかもしれん縮んだかもしれん大差なしかもしれん
鄭と改革の実態がわからない、検証不能ですわ 孟子て読んだことなかったけども読みやすくていいね面白いし
韓非子や荘子など3ページで挫折した身には心地よい サイチョがなあ
妻をねどった君主なんか殺してもいいじゃんと
それにサイ氏は元々君主の兄の家柄なのに、、、 考王が弟の姫掲を河南に封じ西周の桓公とした。
なぜ?
孟子は綺麗事いう奴だからなあ
親は子を愛しているものだと思っていそう >>264
秦以外「気にするな、初期も中期も後期も晩期も壊滅的だ」 戦国時代の史料を見てると春秋時代は左伝があって本当に良かったなって思う 魏とか趙とかはまだマシじゃないか。田斉や燕はひどいな。 そりゃ燕よりはマシだが五十歩百歩
魏も趙も偏りが激しく、盛られてる一時期以外はスカスカ 戦国時代はほぼ楚に占領されてるんじゃない?
越は楚に滅ぼされたし 越は勾践の死後どう衰退していったのかイマイチ分からんのだよな 勾践生前すらよく分からんので・・・
つかホントに衰退したのか? これさえ定かではない 春秋の覇者に数えられる国だが
史料的には邪馬台国レベルやな この時代 記録残す文化持ってたの魯とか一部の国だけで
それに関わってこない限り何も記録されないんやろな
邪馬台国もそんな感じだし 説話はそこそこあってもリアルタイムの実録っぽいのはごく僅か
まあ中華の宗家たる周王朝史がこのザマなんで仕方ないけれど
記録少なくとも中南米の文明や古墳時代の大和くらい重厚な遺跡が残存してたらまだマシなんだが
越王墓クラスの遺跡ですらそこまで資料出ないし厳しいな 軽く見積もって2200年以上前なんだから残存状況はまあなあ
それでも燕召王の槍が出てきて、召王の即位事情がようやく判明したりしてるしね あれでかの戦国屈指の知名度を誇る故事は大きく崩壊してしまったが
即位事情判明ってのはちと気が早いような ポンペイのように保存状態完璧な春秋戦国中原諸侯の都市遺構が丸ごと出てきたらどんなもんだろうな?
越じゃあまり期待できないかもしれないけど 秦始皇帝って、エイ政だけど、趙で生まれたから趙政とも言われてる…みたいな説明をみかけるんだけど
秦の君主って初代からエイ姓趙氏じゃなかったっけ? 初代って襄公のことか?
秦襄公個人の氏を明示する資料は現状ないと思われ 普通に考えて最初に秦に封ぜられた非子が初代じゃないの?
非子は趙氏だって史記秦本紀に書いてたような 現代だと氏姓の区別が曖昧な上に、
当時は氏を割とカジュアルに変えちゃうせいで混乱しやすい奴だ…… 初代襄公ってのもなかなか普通やで?
確かに西周時代の秦人も、趙城を与えられた造父と同じ姓趙氏になったと史記は主張していますね 史記秦本紀ざっと見たけど途中で氏を変えましたみたいな話は無い気がするけど
つまり全員趙氏でおkに思えるが
エイ政の代から趙氏になりました話には史料的ソースあるんかな 伝説によれば帝舜に仕えた伯翳または大費という者が鳥獣をよく馴らして褒められて舜から
エイ姓を賜ったのがエイ氏の始まりである。殷に代々仕えて紂王の時には蜚廉(飛廉)と悪来の
親子で仕えていた。蜚廉の下の子季勝の子孫から造父が出て趙氏の祖となった。造父は馬を
操るのが巧みで周の穆王の御者を務め寵愛されて趙城に封じられて趙氏となった。
それにあやかって同族は皆趙氏を名乗った。その少し後の孝王の時に季勝の子孫から非子が
出て孝王のために馬を飼い増やしたので孝王は非子を秦の地に封じてご先祖様の伯翳を
祀るように言った。そこで非子の子孫はエイ姓に戻して秦の地を治めた。 >>287
もちろん変えた話はないけど趙氏を称している例もないのでちと弱い
趙城封建と活動期間がかなり接近している非子は西犬丘に居住していたとあり
そもそも趙城の趙氏と秦の一族にどれだけの関係があるのか… 越は勾践の後8代位は続いたんだよね
最後の君主が斉に攻めこんだら斉の謀臣に「うちを攻めるより楚に攻めこんだ方が美味しいですよ」と言われ矛先を楚に変えたら返り討ちにあって滅亡したんだっけ
それで東は呉越の地から西は蜀までと楚史上最大の領土になった…が張儀におちょくられた懐王が秦に攻めこみ返り討ちにあい漢中を失い、司馬錯に蜀を奪われ、白起に首都の郢を陥落させられてあっという間に領土が半分以下に 楚の最盛期って領土だけ見たら戦国時代初期あたりなんだよな
他国への影響力考えたら春秋時代の荘王の時代なんだろうけど 清華簡とか見ると、戦国初期でも三晋はそれなりに結束して楚に対抗してる感あるな。 戦国時代初期が最大領土とな?
信頼できる世界地図とかある時代じゃないから確たることは言えないけれど、
ふつう懐王の頃、すなわち戦国中期が最大版図かと 楚って戦国時代はパッとしない。
改革出来ずに貴族が実権握ってたからかな? 家陳須無、陳無宇の次代から田乞、田恒呼びで良いのでょうか? >>295
陳須無の前の家は誤りです。すみません。 特に拘りがなければ全員「田氏」で良いのでは?
田敬仲完世家は田氏で通していますよ。 元の陳があっさり春秋時代で滅んで
亡命公族が乗っ取った斉が大国になるのは皮肉なもんだな フェニキア本国より植民都市カルタゴがブイブイ言わせてたようなもんか 清華簡「繋年」23章に出てくる陳疾目って、田斉の人なの? 李牧が粛清されなかったら趙はもう少し長生きできたのだろうか そこから火葬戦記が始まれば長生きできるかもしれん
敗将になるか秦に降伏するルートに入って評価が下がる可能性のが高そうだが 紀元前403年から戦国時代というのは、晋の分裂云々よりも、韓・魏・趙の登場が理由なのかな
戦国七雄がみんな揃ったところで戦国時代っていうノリで 斉が臣下である田氏に乗っ取られたのと晋が臣下である韓・魏・趙のよって分割された事が
戦国時代の特徴である下克上の代表事例として時代の画期と位置付けられるから、この二つの
事件が出揃って戦国時代となる。その境目を何時にするかは諸説ある。もともとは「戦国策」という
書物で扱ってる時代という意味だった。「戦国策」は紀元前455年の晋陽の戦いから書き起こされているので
紀元前455年から戦国時代という説も当然ある。 なるほど 自分でも調べたけど
韓魏趙が封侯された=下剋上が公的に認められちゃたってのが
やっぱ歴史的には大事件なのかな 今言われている戦国時代ってのは紀元前大陸人の認識じゃないし
そもそも戦国元年とされることの多い403年、次点の455年は特に下剋上要素が強い事件とは言えないだろう
あえて言えば司馬光が理由 とりあえず本命403年、次点453年、大穴455年だろう。453年は晋から韓魏趙が独立した年。
俺は勘違いしてこの時に晋が滅んだと思ってたけど、そうじゃなかったようだ。
そして455年の晋陽の戦いは晋を牛耳る六卿の中から台頭して2卿を滅ぼし、田氏のように
君主の座を奪うかと思われた智伯が韓魏趙に逆に滅ぼされるという画期的な事件で確かに
下克上的な要素は無いんだけど実に戦国時代らしい一件である。 もちろん大きな事件であり画期的かもしれんけど
イケイケの尊大な世族が徒党を組んだ世族に逆襲され滅ぶって構図だけ見れば春秋みが強いと思わない?
晋の滅亡は戦国中期に入る頃、そこまでは行かんが田氏斉の冊封も結構時代が下るね >>312
>構図だけ見れば春秋みが強いと思わない?
戦国後期に秦が強大化して1強6弱となった後に、弱国が合縦して秦に対抗したり
それに対して秦が連衡を働きかけて切り崩す様に似てると思いません?
つまり智伯が魏と韓を従えて連衡して腸を滅ぼそうとするところを、趙が「明日は我が身だぞ」と
合縦を働きかけて逆転したわけで。 あ、でも晋陽の戦いを戦国時代に含めたいわけではないです。 俺的にはどちらでも構わないのだが、智氏は強勢だったとはいえ戦国秦のような圧倒的存在ではないからな…
戦国とは言っても秦の限りない肥大化〜統一局面に入った戦国後期は統一帝国のプロトタイプ、似てるかと言うと? あー、確かに1強6弱の時代まで下るとそうだわな。俺がイメージしてたのは恵文王の元で
張儀が活躍してた頃。ちょうどドラマで見たからでもあるんだけど。まだ義渠も巴蜀も秦に
威圧されつつも健在で、犀首が楚魏韓趙斉の5カ国を合縦させて秦を攻めると義渠王も
呼応して秦に攻め込む。そんな時代。 戦国の後半なんて力の差があり過ぎでしょ。
秦と他の6国組んだところで勝てたか疑問だし。
李牧や項燕が協力してどこも素直に従ったらもしかしたらでしょ。 >>316
なるほど
しかしその設定にしても一応晋というまとまりの中で内戦してた四氏の接近戦とは趣が異なるかと
基本的に国境付近の争奪に終始していてヤルかヤラれるかの緊迫感がない
あえて俺から挙げさせていただくと、戦国前期の魏氏継承戦争(今名付けた)が方がまだ似ていると思う三晋の争いだけに 晋武帝「やはり王族にしっかり力を与えて置くべきだな」 山本伸一の一行は、中州賓館に一泊することになり、宿舎に移った。
突然の訪問にもかかわらず、中国人民対外友好協会の河南省分会の関係者が、熱烈歓迎
してくれた。
夜には、食事を共にしながら、歓談のひとときがもたれた。
伸一は、河南省分会の責任者に言った。
「雷雲のために、憧れの鄭州に泊まることができ、こうして新しい中国の友人と出会えま
した。雷雲に心からお礼を言わなければなりません」
笑いが広がった。
鄭州の人びととの、せっかくの出会いである。伸一は、この機会に、未来にわたる強い
友誼の絆を結ぼうと思った。
それには胸襟を開き、どこまでも誠実と情熱を尽くし、魂と魂の触れ合う対話をするこ
とだ。
語らいは弾み、河南省の文化や歴史について話に花が咲いた。そして、三国時代には、
中原は魏の国の曹操が制していたことから、話題は「三国志」に移っていった。
伸一は語った。
「私の恩師である、創価学会の二代会長・戸田城聖先生は、『三国志』などを青年に読ま
せ、指導者論や人間学などを講義してくださった。
その先生がお好きであったのが、蜀漢の名宰相・諸葛亮孔明の晩年をうたった、『星落
秋風五丈原』の歌でした。
これは、日本を代表する詩人である土井晩翠の詩です。
今日は訪中団の青年たちが、皆さんにこの歌を披露いたします」
拍手が起こった。
同行の青年たちが、立ち上がって歌い始めた。 昔のほうが、三國志とか水滸伝は今よりもっとメジャーだったんだよな >>309
一応名目的には臣下のままで
少し前に知ったんだけど周王から諸侯に封じられてもまだ晋の官職に就いていたらしい 水滸伝の最後の方を読みたいのにどこもさらっと流してしまっている >>298
秦末では国民が田氏以外の王を認めないレベル 中国の山西省(Shanxi)考古研究所はこのほど、周王朝の諸侯国、晋国(紀元前11世紀〜紀元前4世紀)末期の高位者が埋葬された大型墓の発掘成果を発表した。
考古学者は、同墓がこれまで同省で発掘された最大規模の東周時代の墓だと説明した上で、晋国末期の君主の夫人の墓との見方を示した。
https://www.afpbb.com/articles/-/3273338 晋は滅びかける時に晋の公室を守ろうとする忠臣はいなかったんだろうか いなかでたしいなくてよかった
これで漢民族は滅びた 晋は分裂しなかったら
秦じゃなくて晋が統一してたんじゃないだろうか >>287
晋の六卿でも士から范に変えたり
陳から田中にとか
変えるというより正確には増えるというべきかもしれないけど 陳氏と田氏の両方を名乗って秦末には田氏だけになってる 最大の庇護者である晋が分割滅亡したことで周の滅亡も決定的になったな 晋と斉を建国間もなくとりあえず成敗
魯ぐらいの国を増やして辺境の秦、楚、呉には早い段階で周から植民政策で中央集権体制を強くする
周礼を踏み外した国は全て潰して中央から代官送って直轄領化
基本的に徳川家康が幕府を開いたのちの政策と同じことをしないと五覇七雄みたいなものは必ず生まれ下克上で王朝が持たない 周の桓王がイキってた鄭の荘公を懲らしめようとしたら逆にボコかれて周の権威が落ちる結果になってしまったな
桓王が勝ってたらもう少し東周はマシな事になってたかも 楚と呉には植民不可能だったと思うぞ、主に粟と米の関係で。
そもそも周って典型的な農業系侵略国歌なんだよな、商周革命前後の記述見ると。 従った半分は遊牧民の氏族だけどね
これがトルコ系なんかどうなんか分からんけど北方を根拠地にする国はのちのシルクロード界隈の遊牧民やらを味方につけて中原に殴り込み多いよね >>339
晋と斉を建国間もなくとりあえず成敗なんてできるわけないだろ
大義名分も無いし、そもそも味方の有力な諸侯なのにする必要が無い
特に斉なんて功臣太公望の国だぞ しかしその斉に覇権を握られた
大義名分がなくても斉は覇権を握った
これが全て 斉は弱体化した周王朝に代わって異民族から周と諸侯を守るという大義名分があった
周王朝や諸侯の支持を得るために色々やってるからな桓公は
桓公と管仲の努力の結果、斉は正式に周王朝から覇者に認定されている
実質的には覇者だったけど名分は無かった鄭の荘公と斉の桓公では差がある >>339
晋の初代君主は成王の弟
それを建国すぐに潰すとか意味不明だわ 晋や斉なんて取り潰したくても
辺境の安定化には必須だから取り潰せない
潰しても別の国がいずれ強大化するだけだし、
分割すると辺境を荒らされることになるし 広大な多文化多地域を中央集権化するのは、まだムリポだったろう
二千年以上後に立った強大な統一国家である唐でさえ、節度使に過ぎなかった安禄山に滅ぼされる寸前の憂き目にあったし 晋の分家が主家を滅ぼして乗っ取った事を認めたのは悪手だったと思う
あれでは周王朝は諸侯の秩序を守るという役目を放棄したと認めたようなもんだ >>349
安禄山や吐蕃に長安を落とされる唐王朝はどことなく西周王朝みがあるわね
その後もなんとか続くとこも似てる >>350
秩序を守る実力がないから春秋戦国時代なんだよ
認めない実力がないなら、現状を追認して諸侯のトップ顔するしかない 春秋左氏伝って最初読んだらつまんなかったけど拾い読みしていくとマジで面白いな
今晋の記述だけ拾い読みしてる >>354
ある程度の流れ知ってから読んだから俺は面白かった
通して2回以上は読んだし >>355
やっぱ史記世家全部読んでから通読すべきだよね
俺は衛とかやたら攻められる鄭とかに詳しくなかったし、儀礼関係の話が多くて通読は挫折したわ
福澤諭吉は襄公10年〜15年の15巻を一年で11回読んだらしい 左伝は宮城谷作品を読んでからだと流れが分かりやすかったな >儀礼関係の話が多くて通読は挫折したわ
事象や事績を追うのも大事だけど、その時代を掴む分には一番重要なとこかなともね
儀礼もそうだし、慣習とか、例えば名を付ける際のタブーとか、一度目はキツいかもだけど
馴染んでくると色々面白くなるっていうか ここなら詳しい人いそうで教えて欲しい
姫姓呂氏とかの姫と呂はどんな関係?
源朝臣徳川家康の源朝臣と徳川みたいに捉えてよろしいの? 呂氏は姜姓じゃない?
wikiによると『民族学の言葉にあてはめると、姓が部族、氏が氏族にほぼ相当すると考えてよい』らしい
所詮wikiだから信憑性のほどは分からないが ごめん部族の定義と氏族の定義がまずわからん
まあ、想像するに、
民族 大グループ(東京人)
部族 中グループ(巣鴨村人)
氏族 小グループ(巣鴨村西巣鴨一帯の鈴木さん本家と分家の一団)
ぐらいかな? >>360
>呂氏は姜姓じゃない?
場所でいえば楚の北端に近い申の南西でかなり近いね
漢でいえば荊州の宛の北西で申〜呂と殆ど同じ距離 姜姓の有名人は太公望の呂尚
ただこの人の名前以外の記述はほぼ伝承でしかないからな
あと周王朝を築いた姫姓の一族とは縁戚だったと考える学者もいるらしいがよく分からん
実際のところ血縁と地縁の区別を周以前に遡って確実に整理することはできんだろう
同じ神話、伝承を信じる者たちが一族っていうぐらいのくくりが精一杯なんじゃ?
まあそれすら口伝だから明確に線引きできんしそれこそ葬儀の仕方など儀礼で共通の要素があったかどうかぐらいの考古学的な研究以外には成すすべないかと 姓:所属先の族名。
氏:家名。官級や職業柄からくる苗字もこっち。 左伝は読んだ事があるけど国語は読んだ事が無いんだよなぁ 戦国策も左氏伝みたいに完訳の文庫本ってないのかな? >>366
平凡社東洋文庫にあるらしいね
講談社学術文庫は全訳じゃない 江戸時代から明治時代で読まれてた漢籍のうちかろうじて今でも一般的に読まれるのはせいぜい論語、孟子、史記列伝、韓非子くらいだな
左伝、戦国策、漢書、国語、十八史略なんかは現代で読んでる日本人なんてほとんどいないせいで江戸明治と比べて入手しづらい存在となってしまった 戦国策は手っ取り早く明治書院版を買った
重いけどこれに優るもんはそうそうでないだろってことで 史記世家は岩波文庫で絶版、ブックオフにも岩波では列伝のみで世家の流通なし 史記は筑摩書房からも本紀・書・世家・列伝が出てるし、俺も揃えた
明治書院版を買えば年表や表も含めて完結してたはず
俺は岩波版の列伝と世家も買ったけど、こちらの方が読みやすいね 天帝の子皇帝
テングリの子ハーン
天孫の子天皇
東アジア三大天子 農業系侵略主義民族そのものだんべえ。ちなみに奴隷制度を東アジアで最初に確立したのもかれらだから。 奴隷制を始めたのは殷(商)かな
埋葬の時に奴隷を一緒に埋めた印象が強い 殉葬された奴隷とお供えとして埋葬される羌を区別できるのかなぁ。
羌はお供え用の異民族で奴隷としては使ってないんだけど。 奴隷を意味しゅる衆に農業をやらせたのはだいぶ後みたいだけど
キョウも家内奴隷扱いで基本虐待して性欲の処理に犯して
生まれた子供も奴隷にして家畜や食肉扱いしていたんだろうなあ 史記の越世家には勾践は覇王と称したと書かれてある
項羽より先に覇王を名乗ったのに何故その事が話題に上がる事がないのだろうか 全盛期築くまでが人生の華だったからな
孫権の大帝と似たようなもん 勾践が覇王名乗ってた事はほとんど知られてない気がする
覇王=項羽みたいになってるし 基本的に五覇は史記の五人だからなんじゃないの?
孟子、荀子含め全部で覇王として挙がっているのは斉の桓公だけでしょ
自称しようが他人がそれを認めなければ袁術皇帝と同じなわけで
まあ袁術ほど他からの評価は低くないけど誰もが認める覇王ではなかったということで 五覇の覇は覇王じゃなくて覇者だから、そこは混同しないで。
五覇に数えられなくても覇者だった人も居るわけだし。袁術と違って。
春秋五覇という言葉は覇者の中でも群を抜いた者が5人いたという実態を
示すものじゃなくて、言葉が先にあって後付けでメンバーを当てはめてるわけだから。 史記を読むと勾践は『号して覇王と称した(ちくま文庫)』とマジで書かれてるんだよな 袁術は負けたから偽皇帝呼ばわりだけど、勝ってりゃ太祖とか高祖とか呼ばれるポジションだぞあれは 荀子は闔閭と勾践を五覇にいれているんだっけ
覇者は会盟の主の印象が強いし句践が号したくらいだから別物の印象を受ける
とはいっても五覇の概念ができたほうが遅いか >>387
楚の荘王は覇王と名乗ってないし呼ばれてもいないけど… 文献では、歴史上、覇王と呼ばれたのは越王勾践のみであり
正式に覇王を名乗ったのは項羽のみ
その他、皇帝、国主、天王、王、単于、大単于、様々な称号を名乗っているが
覇王を名乗った人物はいなかったと思う
強いて言えば孫策が江東の小覇王
ついでに水滸伝の周通が小覇王 孫策が小覇王って呼ばれたのは演義で声がでかくて怪力なところが項羽に似てたからなんだよな
覇王ってそういうイメージだったんだ…… >>383
五侯九伯も分かっていない、中国は昔から数字がいい加減
ただ、三皇五帝、三代、三王、五覇、五侯九伯、九州
3と5と9を何か重んじている
三千をたくさんの意味だとか
まあ、実際に覇者と言えるのは、小白と重い耳の二人だけだよ 信陵君が趙の救援に行くとき最終的に晋鄙を殺すんだったら虎符をわざわざ盗まなくてもよくね? >>399
それだと軍に命令する権限がない
王子が来て、いきなり司令官だと言われても本当かどうか分からない
通常、将軍の印を持つものがめいれいするけんりがあるから >>399
制度的に指揮感光体の割符がなければ群権を引き渡せない
それでも一応王に確認させてもらいますと言ったからころされた
日本で言えば、一応正式な入館証を持ってきているけど
入館するなんて連絡はなかったから一応本部に確認させてくださいと言った警備員がころされたようなもの 晋鄙を殺して晋鄙が持っている割符を奪えばいいじゃない >>402
宰相を暗殺した情勢とかもやられたけど
恐ろしいのはリュウホウが韓信のハンコを奪った瞬間に韓信には軍に命令する権利がなくなった 虞舜は名を重華という。父は瞽叟(こそう)といい、瞽叟の父は橋牛(きょうぎゅう)といい、橋牛の父は句望(こうぼう)といい、句望の父は敬康(けいこう)といい、敬康の父は窮蝉(きゅうせん)といい、窮蝉の父は帝顓頊(せんぎょく)といい、顓頊の父は昌意(しょうい)という。 (仮に)今一人の人がいて、他人の果樹園や畑に入って、その桃や李すももを盗んだとする。 「私の聞くところでは、『楚の国には神聖な亀の甲があり、死んですでに三千年経過している。王はこれを布で包み箱に納めて、祖先を祭る建物(御霊屋:みたまや)にしまっている。』と。 (ところでお聞きするが、)この亀は、殺されて骨だけとどめて大切にされるのがよいか、あるいは生きながらえて尾を泥の中で引きずる方がよいか。」と。 二人の大夫は言った、「生きて泥の中で尾を引きずる方がよいでしょう。」と。 焚書坑儒を逃れた書物が発見されればいいのに
日本でもそうだが通説とは全然違うことが書いてあるんだろうな >>417
殷の石板は砕けていたのでそれを漢方薬として更に粉末にして薬といて飲んでたけど竹簡だと焚火に使われてしまったかも知れんなあ >>417
いろいろと通説と違う新発見が見つかってる清華簡のことは知らないのかな。 王子余臣が幽王の弟だったとかね
でもそれだと末弟の友が卿士ってことは、、、
使えないって思われていたってことか、、、 清華簡は面白いね
だけどゴッドハンド藤村を思うと考古学に疑いを持ってしまう 21年、王を失って9年というのは
周の幽王が即位して21年経った、王がいなくなって9年という意味だと昨日思った 日本の天皇、皇族どれもろくなもんじゃない
上皇は人柄は良さそうに見えるが 傾きかけたところでちょっと血の薄い親族が跡を継いだというのはほぼ乗っ取りがありましたということやとお察し申し上げます 楚はそうだけど、呉も越も周から封建された国じゃあないんでしたっけ? >>431
呉は周の王族が流れてきて興した国で後から公認されたんじゃないかと思う。
越は公認されてないと思う。禹の末裔と称しているけど。 >>432
周と関係ない祖先を名乗っているから周が認めなくても関係ないとも 他から見ると呉と越も楚という国の一部と錯覚していたとか 呉越はたぶん匈奴とかのお仲間じゃないかと
後世なんとかの末裔という設定がついた仲間 呉と越は勝手に王を名乗ってるのに
よく中原の諸侯の仲間入りできたなって思う
楚と諸侯が和平してから周王朝以外に王がいても別に良いやっていう空気にでもなっていたんだろうか どうも過去の遺物で周の周辺でも王を自称していたのが結構いる
さすがに周との文書では侯にしてるけど
良くないけど結構あってそこまで厳しく見ていないのでは 周王や周系の勢力がまだ小さかった周初とかはそこら中に不届き者がいただろうね
>>436
越さんは竹書紀年に定期的に登場するんだけど、だいたい越子扱いなので
時代が戦国まで下っても、「別に良いや」とは必ずしもなってない気がする 越は覇王と呼ばれたらしいし、実際に爵位は自国では名乗らないし
他国も尊重して全部公と呼ぶし(王は王だけど)
やたらうるさいのが鄭伯だ秦伯だ楚子だ呉子だ言うけど そりゃ中華の外で周と特に関係なく成長してきたような国はわざわざ国内で周爵は名乗らないだろう、特殊な事情がない限り 越って良く分からん国だよな
いつの間にか急に出てきて
知らんまに衰退して滅亡した国って感じだわ >>441
夏王の子孫は怪しいとされているけど
実際にそこら辺で夏王が死んだのは事実らしい
もっとも文字がない時代だから証明できていないと言い張る奴も多いけど 言い張るも何も、ここ日本では夏の扱い自体慎重なので
証明できてないってのはまあまあ普通の見解なのよね。
より中原に近い呉の系譜はツッコミ入って信憑性ヤバくなってるし。 孔子廟に土地を無償提供、政教分離違反?最高裁が判断へ
ttps://www.asahi.com/articles/ASP2N5RSRP25UTIL033.html
儒教が宗教か宗教でないかは難しい問題だな 儒教が宗教かどうかじゃなくて、宗教法人が立てたんだからアウトなのよ 宗教でないと言い張るのは宗教
派遣でないと言い張るのは派遣 春秋戦国時代も三国志みたいにゲームとか出ないかなぁ >>438
発掘資料では、よく分からないような小国ですら自国内では王を名乗っていたりする
それも周近くの近畿でしかも複数
周との文書では流石に侯や伯を名乗っているけど
周自身も殷があった頃から国内では王とか周方伯と名乗っていた、殷に対しては周侯
逆に殷王のことは衣王と呼んで区別していたみたい >>448
作ってくれないんだよね
上が駄目だって言ってそう 最近で春秋戦国時代のゲームというとキングダム関係しかないよなぁ キングダムも長平の戦いで45万の兵を失ってもう衰えた趙を強国扱いしてるしな キングダムは秦を少年漫画的にピンチ作らせるために色々無理が出てるんだよな キングダムで趙が強いのはわかるけど楚が強過ぎるし領土デカすぎる >>454
楚は元々周の宗主権下にあった中原諸国の敵対勢力であるし
秦とまともに戦える(勝てるとは言わない)国力のある唯一の国
趙は研究者によると人口は推定200万人〜250万人
長平の戦いの兵力は40万〜45万と言われ、誇張があるにしても
実際に趙は男子不足に苦しんでいるし、国軍の大半が消えたことは事実
他国との国境を守備する兵を回そうにももうまともに秦と戦える状態じゃない
李牧が防衛線とはいえ防げたのは非常に異常なこと >>454
楚の領土は事実だと思う
本来の中原全部ぐらい広いし 楚は本編の40年前に白起に首都の郢を落とされて、
国土も三分の二以下には縮小してんだけどな >>457
弱体化はしてるだろうね
何かの創作では楚軍は10万しかいないとあったけど
当時、趙は滅亡して王の兄が代王を名乗ったが敗残兵でしかない
燕もまともな軍はなく、李信の千の兵でやられるレベル
斉は全く非協力的 結局、戦国末期でまともな戦力があるのは楚と趙だけ
それに少し落ちて魏
燕はまともに秦と戦えるレベルじゃなく
衛は魏が滅びた時に一緒にレベルだし
斉は全く秦と戦おうとしない
韓は秦に貢納して労役を提供していたというから韓非子が言うようにもう実質滅びてる 燕が弱すぎなんだよな
長平の後の趙に攻めて大敗するし
昭王の時だけだな強かったの >>458
キングダムはまだ李牧が死んでないし普通に趙は残ってるぞ 燕はまじで一発屋だよな
系譜も事績も基本的に謎の国 召公「初代君主と昭王の二発屋だろ」
召公「俺が初代君主かどうか怪しいっていう話は無しで」 燕は君主で数人が名前すらおくり名すら不明なレベルだから >>460
五倍の戦力差を覆して圧勝する廉頗と楽乗の頼もしさよ 周に始まる、文武成の意味。
それは、
天下を掌握する三段階を意味する。
文=輿論を得る。
武=前王朝を倒す。
成=そうして天下を掌握する。 この伝説。
成。
これは戦国魏の文武成が最も有名である。
恵王と呼ばれる、本当は恵成王。
彼の周王朝に取って代わるという野望は、
斉の威宣王によって阻まれた。
斉は、中興の伝説、周の宣王に則る。
全員が宣王である。 楚もそうだ。
楚は春秋時代の初期、楚の成王の時に、
王を称した。
そして先祖を、
文王、武王と称した。
これは周王朝の始祖と同じだが、
偶然ではない。 楚の成王は周王朝の意識してこのようにした。
つまり楚の成王は、
王を称し、周に取って代わることを宣言していたのだ。
さらに楚は生号と呼ばれるが、
生前から自分の王号を決める。
だから楚の成王は、後から諡として贈られたのではなく、
ただ成王自身の意思として成王と名乗ったのである。
楚は楚の成王に至り、
既に周王朝を認めない世界を構築していたのだ。
だからこの楚を押さえ込んだ晋の文公を讃えるのである。
周王朝の権威を損なった楚を跳ね除けた晋の文公は讃えられる。 ここから、
周王朝を支援する晋が楚としのぎを削る時代が100年続く。
周も楚も、文武成という天下掌握の伝説を持った王朝で、
全く別の支配権を持つ者同士の争いである。
何か周王朝の絶対的支配の下、
晋と楚が争ったように描かれるが、そうではない。
これは周と楚の争いである。
周は晋が支え、そして実権を持っているので、
実際には晋と楚の争いになる。 そうして、なぜ周王朝が絶対的支配権を持っているように扱われるか。
それは、
のちの中華統一王朝が周を理想の王朝とするからである。
また、周王朝という統一王朝があったとすることが、
のちの中華統一王朝にとって都合が良いからである。
周王朝があるのに、
実際には晋が実権を持つ。
そしてその周王朝の権威は、
湖北、湖南地方の楚には及ばなかった、
という事実は非常に都合が悪い。 周王朝の後継国家として成り立つ、
後世の中華統一王朝は、
楚も支配していたとしないと、
中華統一王朝は旧楚エリアを現に支配しているのだからである。
その支配の正統性を主張する材料となるのである。 このあたりが中国が政治の国であると言われる所以である。
広大で多大な人口を統治するには、
このように様々な政治的ロジックがとにかく必要だった。
しかし、それは実態ではない。
このギャップを探るのが、
中国史の魅力の一つだと私は考えている。 趙は鄴を秦に奪われて領土が半分になった
全盛期の四分の一の領土になっている >>465
楽乗はなかなかの良将だよな
最後、廉頗と揉めなかったらもっと評価の高い名将として歴史に名を残していたかも >>476
揉めないのが無理だと思う
現実に揉めないようにすればれんぱの思うがままになるだけだし >>460
>>465
その燕vs趙、少し…いやかなり謎な気がするんだよな。
燕軍を迎撃した趙軍が13万(廉頗軍8万)、燕軍が60万(栗腹軍40万)
上記の数字は趙世家と燕召公世家には記述なし、六国年表にもない。
「5:1でも負けるよ」「きっちり5:1で負ける栗腹」←これも出来すぎ感
という設定だけど、趙は疲弊してるわりに戦国戦史でも有数の兵力だし
燕軍に至っては前代未聞、統一帝国でも自滅しそうな規模の遠征軍でなんやこのチートってレベル
なにが言いたいかというと、この逸話(戦力差)、当てにならない気がする。 燕に60万はいないと思う
いたら秦ももっと気にするし
最終的には李信ひきいるわずか1000の兵に敗れている
もしかしたらこの戦いで主力を失ったのかもしれないけど
燕って趙を救うべきなのに敵に回して何なんだろうなあ その李信の1000人って数字は、マジっぽさがあるよな
秦漢の兵制って大体一県あたり数百人、一郡で数千〜数万人と推測されることが多く
尉、司馬などが率いる兵力もそれくらいと言われてるし この時期の燕と秦は国境が全く接してないから、仮に異民族との戦争が落ち着いてりゃ
それなりの戦力は捻り出せるのかもしれんね
田単に敗れてから四半世紀ほど燕は中原の戦争に殆ど関与してないし
その間に長平の戦争で趙も弱体化して脅威も薄れてたろうから兵を養えたのかなとも
まあそれでも燕にしては多いっちゃあ多いね
戦力に関して記述があるのは戦国策だったかな
燕将は栗腹と卿秦で各々40万と20万 >>480
多めに宣伝してないし、王を追った兵がわずか1000ってことは
本当に多くても数万ぐらいしかいなかったのかも 多いっちゃ多いというか
戦国期の人口が漢代の半分くらいだとすると
60万という数字は燕地域の人口が集中する燕西南部の総人口に匹敵する多さなんだよね… >>481
趙の領土が欲しいのかもしれないけど
仮に趙を破っても弱体化したら本当に唇滅びて歯寒しなのにね おそらく四割じゃ達成できない
末期蜀漢も裸足で逃げ出す一戸から男子三人動員する蘇秦レトリックじゃないと 秦末楚漢戦争時代で徴兵限界を超えて徴兵して子供も老人も徴兵したとあるから
もう男全員兵隊にしてそう >>478
実際はその10分の1
趙軍が1万3千、燕軍が6万ってのが実態じゃないだろうか まあ明らかに戦国諸侯より強大であろう魏晋が総力を挙げて各軍を集結させても20万程度
なら燕軍は10万も怪しい、侵攻した野戦軍は正味5万あればいい方、という推測は十分成り立つね
史書の数字や表現はどこか疑いたくない気持ちもあるけれど
真に受けて男子は根こそぎ戦地送り的な解釈に走ると古代中国が人の棲める社会ではなくなるしな…… >>486
蜀は28万戸だから84万の兵を出すことに
人口94万なのに >>491
春秋末期に呉が唐と蔡を誘って楚を攻めた時が合計3万5千で呉軍3万が根こそぎらしい
対する楚は10万と号する大軍、敗れた後の秦の援軍が5万
越が呉に敗れた時は残軍5千、呉を騙し討ちした時が根こそぎ出して5万
三国志で呉が出せるだけ出した時で10万
蜀は第5次北伐で10万、魏が推定していた蜀の総兵力は9万 秦末は徴兵限界を超えて徴兵していたらしい
本来徴兵対象外の子供や老人も徴兵したとあるから
もうかなりやばいんじゃ
関係なさそうだけど未婚の女性に税を課したのも男が全然いなくなったとか? 秦末楚漢とかならそもそも統治体制がぶっ壊れてるから
徴兵期間や徴兵範囲の意味がなくなるのはわかるけど
一応正常に動いてる戦国七雄で根こそぎ出兵やったら
国内の移動だけで国滅びそう
統一秦の規模でも数十万(逐次投入)の移動が限界という感じだし
>>493
春秋末期の秦の援軍5万は戦車500乗イコール兵卒5万、という計算だと思うけど
それでいくと燕軍は史記(世家)曰く戦車2000乗だから兵卒20万ということになるね 三国時代の呉の最大動員数は
諸葛恪のときの二十万だろう >>498
諸葛誕の乱の時の15万が最大動員可能兵力だと思う
水滸伝とかでさえ官軍数十万は動かせませんだったのに
魏は対蜀防衛線からも兵を引き抜いているから
諸葛誕の乱の時の26万は本当の魏の最大動員数だと思う 宮城谷昌光は小説の中で晋連合軍と楚連合軍が戦ったエンリョウの戦いの規模は両軍共にだいたい10万って考察してたな
その話が本当なら戦国時代で兵士の数がだいぶ跳ね上がった事になる 基本的に春秋期の一軍は12500、晋楚は三軍を備えるから37500
そこに参戦した同盟国や属国の推定兵力を足す
更に春秋も後期になると歩兵が増えるという推測を加えて上方修正
宮城谷先生の考察はざっくり言えばこんな感じやな 晋はエンリョウの時は四軍まで引き連れてなかったっけ? ああスマン三軍ってのはエンリョウ時の晋軍について書いたワケじゃなくて
一般論的な大国イコール三軍について書いた、仰る通り晋には三軍以外に新軍や三行が存在した時期がある 周のような天子、天王の率いる軍が六軍七万五千と言われているけど
これは諸侯を含めた数で実際には七万もいなかったらしい
一説には諸侯の軍も合計して総兵力五万五千未満だったとか
黄帝とかの逸話でも三千とかかなり少ないとか
晋は周近くの諸国のほとんどを滅ぼして支配下にいれたし
周王を気にして六軍を五軍に減らしたり三軍三行とかにしたりしているけど
怪しいネットで晋は異民族扱いされていたから姫姓の国で扱いが悪くて
斉の桓公が喜んだのは中原ではないイテキが自分を頼ってきたからだとか
呉や越の祖先は誰も信じていないけど晋は昔だったからごまかせただけだとか 啓が生まれた。辛壬癸甲〔の四日の間、禹は家に留まっていた。〕啓がおぎゃあおぎゃあと泣いた。禹は治水のために出かけた。さて〔禹は水路を開いて〕土木の功績を積んだが、〔その仕事をしている間〕わが家の門前を三度も通りかかったのに中へ入らなかった。塗山氏は〔夫が不在であったので〕独りで教訓を明らかにし、教化を成し遂げた 伝説的な人物には伝説的な出生譚がつきものですが、啟にも石から誕生したという話が残っています。母が石となってしまい、その石から生まれたというものです。「啟」という字が、「割れる」という意味を持つため、名前の由来説明のために生み出された伝説のようです4)。上述のとおり、啟は母に養育されたとされていますが、実際に漢の武帝ぶていが石を見物に行っていることからこの伝説も広く知られていたようです。 禹の子啓王は、賢臣伯益に代わって君となった時、にわかに禍難にかかったが、どうして啓は災難に遭って、拘禁されても自由になることができたのであろう。 「天下の英雄は、曹操と劉備」という台詞は、
「天下の英雄は、袁紹と袁術」の焼き直しです。
代理戦争でなく、ほんとうに代理になった。
袁紹に代わることを考えていた曹操だから、
劉備が袁術に代わることを恐れ、警戒したんだろう。
ここに到って、
曹操が、徐州で自立した劉備を、最優先に潰した理由が判明した。
曹操は、背後を袁紹に襲われるリスクを犯してでも、
徐州に「第2の袁術」が誕生するのを防いだ。かもね。
袁術討伐のため、曹操は劉備をそとに出した。
先見のある文官たちは、口をそろえて、劉備を警戒した。
劉備の人柄だけを懼れたにしては、騒ぎすぎである。劉備が袁術と合流するか、劉備が袁術になり代わることを懼れたのでは?
「いま徐州は、袁術が食指を動かすほど、美味しい土地です。劉備が、それを狙いに行きましたよ」と。 黄権は義や忠に優れていたわけじゃない。人より少し、心の仕組みが器用だっただけだ。恩人を裏切っても、ケロッとしてるところがある。
孟達の不義不忠の中身は、ただの不器用だ。人より筋を通しすぎるんだ。「裏切り」ないしは「転職」に悪意を孕ませるほど、有能ではない。
孟達が弾劾されるとしたら、ただ適応力のなさを以ってのみだ。これが根深くて、なかなか治らないんだけどね。我が身を見ているようです笑
かくして「黄権=忠義」「孟達=裏切」というレッテルは、それぞれアベコベに貼り替えられた。と思うのは、筆者の自己満足だとしても笑、彼らの素顔には迫れたと思います。おしまい。 まあ宮城谷作品で春秋戦国時代のイメージ固まった人は結構多いからね
後は横山光輝の史記とか ネットで管夷吾や伍員とか言われるとイケすかない奴感が出てイイよね >>513
項羽を項籍と言うみたいな感じか
春秋戦国〜前漢あたりは氏+諱より氏+字で知られてる人物が結構多いな >>516
過去に使ってた奴がいるから説とか
帝を入れたかったとか 至是燕築塞繞曼灌幹。城曰襄平。將又越孛涘渤强行阻斷。二国伐燕克之、踰渝及孤竹、盡復殷故地。及秦滅燕、乃與之約。郤地千里、以孛水爲界如故。 >>518
諱(忌み名)、つまり本名で呼ぶのは親と主君以外は許されないとされているけど
実際には三国志でも劉備は家臣を字(あざな)で呼んでいて、曹操もそうだし
主君が家臣を本名で呼ぶことさえ失礼だった感じである
馬超が玄徳と、劉備を字で呼んで、関羽・張飛が芭蕉を処刑しようとしたとか
実は、字で呼ぶのでさえ、親しくないと駄目、今の日本の下の名前みたいな >>516
泰皇は人皇、炎帝だし
帝の字を入れたかったのと小説では他人が昔、使った称号を嫌がったとか
もっとも皇帝すら黄帝をそう書いたこともあったらしいけど 秦がなぜ強かったのかというと、賄賂攻撃に出て、敵軍の作戦や敵国の政策をコントロールしたから。
賄賂といっても、金額を試算した論文をみたおぼえがあるが、国家予算にも匹敵するとてつもなく莫大な資産を投じていたようだ。
その金はどこからでたかというと、西方との貿易から。
義渠戎を滅ぼすと、西方の「絹と玉」で有名な月氏などと直接交易するルートが開け、巴蜀を併合してからは、巴蜀の物産を西方に転売して莫大な利益を産んだのであろうと。 春秋時代と戦国時代を一色淡に語るのは鎌倉時代と江戸時代を纏めて語るようなもの 歴史の教科書でも割と春秋時代と戦国時代って一緒くたな扱いになってるからなぁ 春秋時代は他の中国史の戦乱と比べると
だいぶモラルやルールを持った時代のように思える
戦場でも礼儀を求められるぐらいだし
対して戦国時代は他の戦乱の時代と同じようにモラルが低下してる 左伝読むと分かるけど春秋末期はひどいからね
国同士での同盟なんて破って当たり前だし
まあ自分の国が一番大事だから当然とはいえ 第二次世界大戦でも日本がソ連を非難していたけど
むしろ条約を守られると思っている方がお花畑でしかない
むしろ約束を守る国の方が歴史上5つもないよ 春秋後期・末期は国際関係もひどいけど自国内も大概ひどい
春秋戦国史上で一ニを争う乱世やと思う 春秋後期は世が乱れていたからこそ
孔子が儒教を創出したんだろうね >>534
孔子自身も下克上の世になっていたからこそ出世したという矛盾も孕んでいるんだけどね
士分だっただろうと推定されているお父さんから三公に出世してしかもそれは季孫ら三桓の支援を得てこそだったという
そういう背景のある孔子だからこそ陽虎からの誘いを受けたしこれに乗る可能性もあったという 春秋時代末期に孔子、孫子という
文武の始祖的存在が生まれたのが興味深い
やはり乱世は人を進化させるのか 孔子の儒教が魯を中心に広まったのは下克上が始まっていたからこれに掣肘を入れるためだろう
孫氏による戦争思想が広まったのも戦火が広まりそれまでは何年に1度という軍事衝突が毎年のようにそれも大規模に起き始めて戦争への準備が必須になったからだろう
人が進化したというよりは時代に沿った分野が注目されその分野の大家の名が広まりやすくなったということだと思う 孔子の子供が生まれた時に魯公から鯉が贈られて感激したというのが謎
息子に孔鯉と名前を付けたのだから事実っぽいんだけど
当時18〜20歳の小役人に過ぎない孔子の出産祝いをなぜ贈るのか?
というか普通は存在も知らないものじゃないのだろうか? 存在を知られ尚且つ祝いの品まで贈られる、という扱いが疑わしいなら鯉エピの方も疑うべきかと でも息子に鯉なんて名前を付けるのはなにかあったからっぽいんだよなあ
それともどこかのブログで見た季孫氏または他の三桓の庶子だったとか それならちょうど孔家の人が立派な鯉を釣ったor知人から贈られた日に生まれたってことにしておこう、それなら無理がない
もちろん普通に君主から祝福されるような立場にいたという説もアリ 孔子の子孫を自称していた系統の一つの遺伝子が弟子の子孫だったらしい 匈奴はトルコ系、匈奴はトルコ人、匈奴はテュルク、匈奴はツルク
匈奴は北方民族、匈奴は北方遊牧民
犬戎は周と同族に近い
越は呉と同族に近い、呉は異民族、呉の姫姓は偽り
秦は異民族
楚は異民族
晋は異民族、晋の姫姓は偽り
北魏は異民族、隋は異民族、唐は異民族、宋も異民族
今の中国人は北方民族の子孫
タイは夏人
倭人は庶殷
漢は秦なり
この世の文字は全てウルクの文字が起源、甲骨文字はインダス文字なり
人間は存在価値がない動物
日本人はいじめが大好き、日本人は自称優しい
アメリカ人はいじめが大好き、アメリカ人も自称優しい
スウェーデン人はいじめが大好き、スウェーデン人はアジア人差別が大好き
イギリス人はいじめが大好き、英語は欠陥言語
日本人もアメリカ人も弱者が一般人を憎みテロをする
日本とアメリカの一般人は自分達が底辺や被差別者から憎悪されていることを認めない
西洋も東洋も移民がそこの国民を憎むことはあるが
日本やアメリカはその地で生まれた自国民の弱者が自称善良な市民を憎んでいる
通り魔被害者が就職できない者を努力してないからだと言う日本
通り魔被害者の友人が負け組の派遣なんかにと言う日本
そして非難されると公務員共のお得意のそういう意図ではなかったで済ませる日本
悪意がないとか後付けでそういう意味ではなかったとか誤解させたで済ませる日本
悪意がなかろうが平気でそういう表現を使うことが人間のクズの証拠
嘘の自白という表現を使う奴は例外なく人間のクズ
自白を強要されてやってもいないのにという意味だというような意味の問題じゃない
日本人は生きている価値のない人間のクズが50人中45人以上
裁判で自白を採用した人間は拷問の共犯、拷問命令を出しているに等しい
自白を任意か強要か判断した奴も拷問・脅迫・人権侵害の共犯
日本人は人間のクズばかり
自白を採用している、これだけで日本は1秒でも早く滅びた方が良い国
日本、中国、サウジアラビア
自白を採用している国は人権侵害国家
拷問や脅迫で自白させて、自白は任意だと言う
自白は任意だから、信頼できる、自白は直接証拠だらしい
ほぼ全ての人間が取調べに耐えられず、毎年何千何万の無関係な者が自白しているのに
ああ梁山泊のように日本に敵対する集団が現れないものだろうか
貴族の承認がなければ皇帝も官職の任命ができない
日本の裁判官は証拠がなくても平気で有罪判決を下す人権侵害集団かと思っていたが
実際はそれよりも酷く警察の証拠のでっち上げが判明しても駄目
警察の脅迫が判明しても自由な意思を制圧していないから任意だと言う
最低最悪の人権侵害集団で、拷問命令を出しているよりも酷い連中だった
日本の司法や警察関係者は全匹人道に対する罪で終身刑にすべきだが
それでも軽すぎる
神がいるならこいつらみたいな人間のクズは何兆年無間地獄にいても軽い罰だ
だが裁判員裁判でも平気で自白を採用する人間のクズばかりなのが判明した
日本人はいじめ・差別・迫害・拷問・脅迫・人権侵害が大好きな人間のクズ集団 楚の令尹は殷からと言われるが
殷の令尹の名前が1人も残っていない
殷の子孫の国である宋において最高位は右師であって令尹ではない >>545
子路みたい
@彼の死後に子供を自分の子として養育していた
A養育したが養子のはずが子孫が実子を名乗った
B子供としていないが孔子の子孫を名乗った
C孔子の妻かその子孫の妻と不倫していた 「王」と言うのは中央アジアで遊牧民の中に発生した。
「王」呼び名は「Kwang」とされた。
遊牧民は各地に王国を築いた。
東に来てモンゴルでは「w」が「h」に変わって「Khaan」となり、
中国では「k」が消えて「Wan」になった。
朝鮮では「kan」から「kim」になり、日本に来ると「kimi」になる。
一方、遊牧民が西に行くと「Kwang」から「King」に変わるのである。 >>541
今はその地域では鯉を食べないらしいけど
本来は産後に食べるといいらしいから贈っただろうに
孔子が結構良い血筋ではってのも魯侯またはその代理が出産祝いを贈るレベルなところから事実っぽい どうでもいいかもしれないけど
孔子の妻の姓も、歴史上ここにしかない姓らしくて 古代中国の魚食文化は興味深いな
鯇とか古代から食われて来たんだろうけど 生でうすく切って刺身にしてしょうゆをつけて食べていたらしい 孔子も好物だったとか言う肉の刺身の膾は代用の魚肉だと鱠とかで食べられていたとか
三国徐州の陳登の最期は酷かったらしいから食うのも命掛けだけど ただ、ナマスってどうも肉が主体らしいし
陽虎が孔子に賄賂を贈るのに留守中に豚肉を渡して
気づいたころには悪くなっているから返品不可能なのを利用したとかから
豚肉なら多少悪くなっても焼けばいいと思うのにこう書かれているのは
生で食べるのが前提だからでは?
またハンカイが豚の生肉を食べたのも今の中国人は生肉食べないから酷そうだけど
日本でマグロを生で食べさせたみたいなのを想定すると大量に食べさせただけかと >>553
性病があるけど風俗に行く人がいるように
寄生虫がいるかもしれないけど川魚を生で食べちゃうんだろうね
またはそのことを知らなかったとか
細菌すら近代まで知られていないし 徳川家康の謎で娼婦を近づけなかったとかがあって
性病のことを殿様が分かっているのはおかしいみたいなのがあったから
陳等も分かっていなかったのかもしれん ググったら今でも草魚の刺身は食われているのね
流石中国畏れ入りました汗 渋沢栄一の大河ドラマ効果で孔子や論語関係の本を書店でよく見かけるようになったな ナマスは細ければ細いほどいいとか
米は製箔したのしか食べないとか
市場で売っている肉や酒は食べないとか
じゃあ自給自足なのかと 市場ではろくなものが売ってなくてまともな人間は買い物しないんじゃね アニサキスが胃に入ったらアレルギー反応で痛むんであって噛まれて痛いというわけではないそうだ。
つまり中国人でもアレルギー反応が無ければ魚を刺身で食っても大概は大丈夫なんだろう。
しかし大量にアニサキスを食った場合はアナフィラキシーショックも起こるのだろう 淡水魚の寄生虫は有棘顎口虫とか身体中へ入り込んで組織を食い荒らす凶悪なヤツとか多いからね
刺身とか生は食わない方が身の為ではある 呉子偦の本国評価はどんな感じなの?
復讐に苛烈すぎるのか、義を通したか分かれるところか。
個人的には嫌いなタイプ、評価出来ないんだよなー。 古典に出てくる偉人なので評価するのが一般的だろうけど
好まれてる感じそこまでない気がするわね 後将軍は「ゴショウグン」と読むのか「コウショウグン」と読むのか? 伍子胥は宮城谷昌光、伴野朗といった小説家が主役に作品を書いてたり
横山光輝の漫画史記でも伍子胥主役の話を何話かやったりと
割と日本人の作家に好かれてるイメージがある
かくいう自分も春秋戦国時代の人物では好きだな伍子胥 日本人は敵討ちとか無念な死とかの物語性が好きだから
対照的な伍子胥と范蠡だったら
俺は伍子胥のほうが胸打たれる 中国人も割と敵討ちとか無念の死とか好きだと思うが
現代の中国人だとどうなんだろうな >>570
よじょう、じょうせい、けいか、ようり、せんしょ
とか刺客すら数少ないからなあ 横山光輝の『史記』でも宮城谷昌光の『孟嘗君』でも孟嘗君を総大将とした斉・魏・韓の連合軍が秦に侵攻し秦軍を撃破したことが書かれているが
司馬遷の史記・孟嘗君列伝では蘇代に説得されて秦を攻めるのを止めたと書かれている
これは横山・宮城谷の両氏が嘘を書いたということなんだろうか? 史記の田敬仲完世家では斉が韓と魏と共に秦を攻め函谷関に至ったと書かれているので
孟嘗君列伝の方が間違いである可能性もある
史記はこのような矛盾がちろほろ見かけるんだよな 史記の記述で酷い食い違いだなと思ったのは晋と呉の覇者争いだな
晋世家だと諸侯が会盟を行って呉が盟主になったと書かれているのに
呉世家だと逆に晋が盟主になったと書かれている
どっちやねん! 都督といえば、軍団が駐屯する軍鎮と、その機構をさす用語。 >>574
戦争で両方が勝ったと書くのはよくある
その場合、引き分けか、一応片方の勝ちだが相手がしぶとくて何とかしのいだか 西周王朝の中枢は姫・姜・姒・䑑・妊の五姓を主として構成されていた >>570
復讐劇が好きだけど対処に自分が入ったら納得しない連中ばかりだよ >>570
復讐劇が好きだけど対処に自分が入ったら納得しない連中ばかりだよ >>570
復讐劇が好きだけど対処に自分が入ったら納得しない連中ばかりだよ 伍子胥はその首都を落とした時に楚人を生き埋めにしていないんだよなあ
というか憎い相手の孫を養育しているし 楚国そのものよりも、ただひたすら平王のみが憎かったから。 伍子胥といい、日本人は他のも憎悪して何かやると非難するからな
砂糖に恨みがあるから砂糖姓をみたいなのとか 平王に対して伍子胥が憎しみを抱き、そのせいで楚が滅亡寸前に陥ったが
平王の息子の昭王と子西が名君と名宰相だったおかげで
楚が復興するんだから皮肉なもんだな 隣国の呉王が暗愚な夫差だったのも楚には利だった。
呉越の争いも楚は漁夫の利を得ている。 伍子胥がやった事って今思うとかなり凄いことだよな
当時、晋と並ぶ中華の二大強国の一雄の楚を新興国家の呉が滅亡寸前にまで追いやったんだから
史記だけだと当時の楚の強大さはイマイチピンと来なかったが
左伝を順に読んでったら楚の国力も伍子胥のやってのけた事の凄さもよく理解できたわ 滅亡寸前だしね
日本も滅びて欲しい
こんないじめ人権侵害国家いらない 伍子胥の失敗は曹操は間違えた主君に仕えたとあったが
要するにどんなに教育しても駄目な奴は駄目ってこと
適性がなければどんなに頑張っても無駄だし
才能があったとしても環境が悪いと駄目になってしまうってのが
悲しい現実で真実
元は駄目だったがみたいなのも大抵は元々素質があったとしか思えない
なぜなら平凡な者はいくらやっても環境が良くても駄目なのだから 夫差は途中までは名君だったからね
自分の力を過信して驕って暴君になるタイプは制御しにくいだろうな お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳独身、元自衛隊)をご存知か、この方は将来素晴しい人物になるから覚えておいて損はないぞ 申侯「実は、ついさっきとんでもない手紙が届きましてな…」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宜臼おにいちゃんへ
拝啓
おにいちゃん、お元気ですか。
ぼくは今、西虢公に保護されて携という場所にいます。
ぼくはパパを殺したおにいちゃんを絶対に許しません。
王位はぼくが継ぎますので悪しからず。
敬具
周王余臣より
追伸:西戎はもうぼくの味方だよ☆
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 申って犬戎の協力があったとはいえ西周を滅ぼすことができるほどの力を持っていたのに
いつの間にか楚に早々と滅ぼされてるよな >>572
そこは俺も疑問に思ったが、函谷関を破って秦と講和したとかいう記述もどこかにあったよ
矛盾してるんだ それよりwikiの日本語と中文の函谷関の戦いの秦側主将が華陽君になってんのが前から気になる
まさか宮城谷先生が『孟嘗君』で、華陽君であろう?みたいに軽く書いてるヤツが元ネタじゃないよね… 春秋戦国時代については宮城谷氏の小説のネタが史実と勘違いしてる人結構見かけるからなぁ…
楽毅が中山を守るために武霊王と戦った名将とか言ってる人見たことあるしw 戦国時代の小説はほぼ創作よね
資料がないのだもの
春秋時代なら左子伝なりあるからなあ
楽毅のことなら知っていると見かけてことがある
その人は漫画だった・・・ 宮城谷さんの春秋戦国モノ全盛期だった90年代後半から00年代までは影響力半端なかった印象
現在でもその影響はある程度残ってる
今でも春秋戦国を広くカバーする娯楽作品という点で宮城谷小説の右に出る者はないので当然といえば当然だが >>601 90年代から00年代は宮城谷氏だけでなく塚本靑史、伴野朗、酒見賢一、安能務などの作家も春秋戦国時代を舞台に作品書いてて春秋戦国時代ブームが起きてた気がする >>605
ありましたね、酒見賢一さんの小説は宮城谷作品と一緒に買ってました
小説では直木賞受賞した宮城谷さんが春秋戦国作品、それも大作を大量投入したのが大きいけど
古代中国という括りでは安能務からのフジリュー封神演義の存在感がすごかった
まさかキングダムとかいう前代未聞の超大物が出現して春秋戦国モノの常識を打ち破るとは 90年代は横山光輝先生が史記を連載してたのも大きい気がする
あの漫画で春秋戦国時代のことに興味を持った人は結構居るのではなかろうか 意外と五帝とか古代をやってくれなかったのがなあ
三国志松も水滸伝松もちゃんとやって欲しかったな
歴史を知ると結構面白いし
まあどちらも後半人気ないんだけど >>606
キングダムは有名になるのと引き換えにファンタジーに魂を売ったみたいな印象っすね >>608
水滸伝は70回以降は無駄であるとして70回本が作られたくらいだからな。 >>593
屍に鞭打つまで復讐心を燃やし続けた伍子胥に中途半端に屈服させただけで許しちゃう程度の復讐心しか持ってなかった夫差の本質を見抜けってのは中々厳しいと思う 越も呉を倒した後は何故か落ちぶれて知らない間に滅んでる 『史記』も越王勾践世家という勾践が主人公という取り上げ方だからな。
勾践は覇王として越の最盛期をもたらしたが猜疑心から優れた臣下を多く失い衰退した。
最終的には楚の威王に滅ぼされた。 越の盛衰というか勾践の盛衰やね
越を滅ぼしたのは楚の威王または懐王とするのが一般的だけど
残存勢力がよくわからないので最終的に滅んだ時期の確定は難しそうだな 器があるんだろうな
范蠡も勾践をドンピシャで見限ってるし つか史記にある勾践のキャラクターが項羽じゃなくて劉邦に似すぎているから
劉邦と勾践、どっちの話が先に在ったの気になるところ 他国があると何かあれば功臣が他国にいってしまう
やはり勢いに乗って天下を統一し功臣を粛正してしまうのが一番いいのか >>617
帝号も始皇帝の前に斉と秦が名乗ってるし(皇帝でないとはいえ)
この頃の君主号はよくわからん まあ帝号は伝説上の話とはいえ五帝がいたからな
それに斉と秦もあやかっているんだろう 史料少なすぎてほとんど謎だけど
勾践の覇王は越の王であると同時に覇者でもあるってことかなと、勝手にイメージしてる
畏れ多くも天子たる周王の超越を意味してそうな秦斉の称帝よりはまだ謙虚な感 東周も後半になると権威皆無だがそれでも呂不韋の時代までは生きながらえてんだよね
最後の王はどんな気持ちだったのか 北魏を滅ぼす六鎮の乱は兵戸の乱のことである。
鎮とは兵戸のことである。
兵戸、北魏においては鎮という。
鎮の人間は、
孝文帝以前は非常に地位が高かったのに、漢化政策で没落した。
武が蔑視されたことが最も大きい。 生年不詳だが、多分40代の後半であったと思われる。 >>623
何気に周王朝で一番長生きしてるんだよね赧王
権威もなくかつての臣下に蹂躙されるだけの60年
気の毒すぎる 東周最後の王とか鎌倉最後の将軍並に存在感無いよなって思う >>632
鎌倉莫部9代将軍とか言った教師が?生徒にいるの?って言われたとか
周の滅亡も始皇帝の時だって、いや、呂不韋だから先代かもの時で
しぶとく残っていたんだよなあ
れーしちゃんねるで周王が借金取りから逃げまくった話しあって悲しい 西周の滅亡はある意味で幽王が主役だったが
東周のそれは赧王殆んど関係なく秦の一方的な都合で起こったしな
武王も自分の王朝が何処ぞの商人風情に滅ぼされるとは夢にも思わなかったろう >>634
秦を攻撃する連合軍に協力したからじゃなかったっけ? >>635
それは西周だったはず
周王は既に西周君の庇護下に置かれていて特に何かした記録もない
したくても出来なかったと思う
秦に降伏したのも西周で本家は連座で滅亡 >>634
商人の語源が商(殷)国の人だという説が正しいのなら
ある意味、周王朝は復讐されたようなもんだな 普通、王朝の滅亡というとドラマがあるものなのに東周はそういうの全然無いな ドラマな展開もなく強国に押し潰されて滅亡する儚さが強いて言えばドラマ 周が末期には西周君と東周君に分裂で
周王は西周君に庇護されていたとか
実は秦の天下統一ちょっと前まで残っていたとか
周王が秦に献上した人民の数は3万人だったとか
周王が借金取りから逃げ回っていたとか悲しい つうか周王朝自体が春秋戦国時代に入ってからあまり語られなくなるもんなぁ
東遷した後も王朝を維持するのに苦労があったはずなのにそういう事が史書にはあまり残って無いし 一郡にも及ばない周王朝の領域で
どうやってまともに食っていけてたのか
春秋時代なら戦国時代の皇室みたいに爵位売ったり出来るだろうけど
皆王になってしまったらそれもできないし 晋公自体が滅びる時代だし。
記録が混乱してるのは、3晋がお家再興して旗印にしてたんだろうなと
でその上の周とか皆虫なんでないかな 魏の恵王が、一時晋の正卿名乗ってたりの時代。
晋の官職が無意味と思われてるのに、周王室の官職とか意味無いだろ 三晋は周王から諸侯と認められた後も形式的には晋の臣下を続け
魏侯が晋の正卿の官職に就き続けた
例えて言えば、東京都が独立国と承認された後も
東京都知事?が日本国内閣総理大臣に就任し続けているようなもの 晋も最後は臣下に拝謁を願う立場だったんね
周王といい晋公といいどれほどの屈辱だろうか 周王は自領内では一応王として振る舞える
晋は世継ぎ以外の公子は全員国外追放
卿の嫡子を公族として扱っているから
オスマン帝国が皇子を全員鳥かごに幽閉して舌を切り取り鼓膜を破られた宦官
が世話をして皇族男子は皇帝になれなければ生涯幽閉よりはマシだけど
晋はかなり初期からもう君主は飾り物で実質貴族連合だったから >>650
記録読んでて良く分からんのは、趙氏の内訌で六卿が淘汰される所なんだよね。
普通に読むと、范氏中行氏の二氏対、韓魏趙智の四氏の対立が始まり。
そして普通に晋公は范氏中行氏に担がれてる様に読めるんだが?
そして韓魏趙智の四氏連合が勝利したんだが、何故かいつの間にか晋公がそちらに
ついた事になってる、何なんだろうなこれ?
もしかして、足利将軍みたいにこの時点で自前の兵力何もないんだろうか? >>651
名目的には君主に反抗していないということにしていたから
勝った側に付いていたことにしただけかと
また、魯では、季孫氏が人民の3分の1を取り
孟孫氏が残りの半分を取り、叔孫氏が残りの全部を取って
三桓氏に税を納める者は公税を免除し
公税を支払う者は課税を倍にしたとあるので
文字通り読めば魯公の人民・兵はゼロになっている(少数いたかもしれんが)
晋は公子は全て対法だし、羊舌氏も族滅になって公族(本物)がいなくなり
公族(偽物)が領地を支配していたのだから晋公は魯公以上に飾り物かもしれん >>649
屈辱もあるけどいつ何をされるか怖かったのでは
三晋が諸侯と認められて数十年後は完全に滅ぼされたし
斉も似たような感じで小島に追放されて田氏が斉公に即位してしまったし
記録に錯綜があるけど韓の女性に晋の静公がころころされたとか >>612
項羽も呉(会稽だから越なんだよなあ)が本拠地みたいなもので
北の斉にこだわっていて、西楚といっているけど地図を見ると
支配領域は春秋時代の呉越と斉の南部なんだよねえ
名門でイメージが良い斉を欲しかったのかなあ >>643
秦に献上した人民の数が3万人らしいから
領民が3万人もいるのなら君主は食べていけるでしょう
周末期は西周と東周に分裂して権力争いしていたし
他の国が一応王様だから躊躇したのか攻められることも少ないし >>652
つまり、智韓魏趙の四氏連合に晋君が事実上敗れたで良いんだろうか?
普通に記録読むと、范氏中行氏側が正統晋軍名乗ってたようにしか思えないしさ。
これまでの内訌と違うのが、滅んだ二氏の領地を晋君無視して四氏が分割したらしい事
羊舌氏滅亡後の記録少なすぎて、この時点で如何だったのか良く分からんよね。 >>657
後の世でも皇族の力がなくなると皇帝の力もなくなる
晋公はもうまともな軍もないでしょう
兵士1人も動かせないかもしれん
六卿で潰しあいと言うか戦争になっていて
形式的には君主の下の領主だけど実質独立国で 一旦アメリカを抜くんだけど、高齢化ですぐにアメリカに巻き返されるっつー予想があって
アメリカの強さは常に人材が供給される点にある
中国がそれなんとかしたいなら、自分も移民をじゃぶじゃぶ入れ続けるしかない アメリカと手下のカルトに食い物にされてる現実が見えてないのすげえな 諸侯が王を名乗ってからの加速度的に歯止めが効かなくなっていく雰囲気が好き 名乗ったのは魏王じゃなくて夏王ね
大陸全土を支配する王という意味でほぼ皇帝に等しい 元々王自体が地上に一人しかいない至高の存在
魏は夏王を名乗り、我が晋国と言い、梁と呼ばれていた
ついでにその直前まで晋の正卿の官職に就き続けた >>657
晋公はもう力が全然ない
恐らくというか官職の任命権すらない
また、三晋が諸侯になった後も形式的には晋公を君主として扱っていて
周王から侯とされた後も晋の官職に就いていた
曹操の魏王と漢皇帝の関係に近いかと \人_从人__从_从人__从人_人从ノ/
> <
> 無上至真、摩尼光仏! <
> <
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, -‐ (_).ヽ`ー'´ ィヽ , -‐ (_).ヽ`ー'´ ィヽ , -‐ (_).ヽ`ー'´ ィヽ
l_j_j_j と) i l_j_j_j と) i l_j_j_j と) i
 ̄`ヽ | l  ̄`ヽ | l  ̄`ヽ | l 妖幻邪人が良民をたぶらかし、朝廷の憂となること、福建の明教が最も甚だしい。
秀才や官僚、軍人の中にもその教えを信奉する者がいるほどである。
その神は明使と呼ばれ、肉仏、骨仏、血仏などの称号もある。
その信者は白衣に黒い被りものをし、街の中に社を設けている。この邪教の神像は、印刷物として流布するものもある。 |\ /|
|\\ //|
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. V V 元朝の支配も永久には続かなかった。
. i{ ● ● }i
八 、_,_, 八 1351年に白蓮教を紐帯とする農民反乱、紅巾の乱が起きる。
. / 个 . _ _ . 个 ',
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// >┘/ \ \
. !! // // / \ \ |\ /|
|\\ //|
: ,> `´ ̄`´ < ′
. V V
. i{ ● ● }i 東方マニ教会はアンモーの頃から仏教徒と積極的に交流して、
八 、_,_, 八 教義に仏教用語を取り込んでいた。
. / 个 . _ _ . 个 ',
_/ il ,' '. li ',__ 通り魔を頭のおかしい異常者扱いして安心しようとする世間
通り魔は普通の人間である 基本的には本人の特性に応じて勝手に名乗っているようである。 断言はできないが、呉王を贈られる直前(関羽を破る前)ではまだ陸遜の発言力が低く、よって孫登は復権できていなかったが、関羽を破り荊州を手にすることで陸遜の地位が一気に向上すると、一緒に孫登の地位も向上し、復権を果たせたのではないだろうか。 孫権が呉王になったころの孫登(まだ少年)は、長子という点では後継者候補と言うべき存在だったはずだが、その割に孫権からも魏からもそういう扱いをされていないように見える。 何故かと考えると、まず彼が既に失寵していた徐夫人を母と慕い、同時に孫権が寵愛し正妻にと考えていた歩氏には敢えて礼に差を付けるという、若くして少々可愛げの無いことをするような子だったことがあるのではないだろうか。 そして、孫権の次子孫慮は既に生まれている。
つまり、どんなに可愛げが無かろうが家に波乱を起こしそうだろうが「ただ一人の子だから」と確実に後継者になれる状態ではないのである。 呉の孫権が魏帝曹丕によって呉王に封建されたとき、孫権の長子孫登は列侯に封じられようとし、同時に孫権は孫登を魏へ入朝させようと思っていたらしい。
よくよく考えると、普通は皇帝でも王でも列侯でも、後継ぎ扱いされている子は父と別個に封建されることはないのが通例であるようなので(曹丕が好例)、この孫登への扱いは実は「彼を後継ぎと思っていない」という措置だということになる。 また魏王朝に向かうというのも、まあ普通に考えて危険が伴うし、簡単に戻ってこれない人質のようなものと思われるわけだから、これもまた「彼を後継ぎと思っていない」からこそ出てくる計画ではないだろうか。
つまり魏からしても孫権からしても、この段階では孫登は絶対的な後継ぎという風には見られておらず、むしろ「後継ぎ扱いではなく、分家して人質にしてもいいという存在」だったのではないか? 出身地の州牧や州刺史になれないから地元以外で勢力を持つというおかしさ
東京都出身者は東京都知事になれない
千葉県出身者は千葉県知事になれない 少なくとも建安初期からの曹操の本拠はどう考えても予州だったと思う(兗州は袁紹が攻めてきたときにすぐ大規模に離反する程度の定着度)んだが、曹操自身が予州の支配・監督権(州牧など)を直接に手に入れた様子が無い。
必要なのが郡県から独立していたらしい屯田組織だったから、みたいな理由もあったかもしれないが、やはり「予州が本貫なので予州牧にはなれない」という原則を一応は適用している(もしかすると、「適用させられている」かもしれない)、という理由もあったんじゃないだろうか。 出身地の長官になれないのさえ打ち破れないなら皇帝になるのなんてなおさら無理だったよね 王になれないから公になって諸侯王より位を上としたのに
結局実だけじゃなく名も欲しかったのか魏王になっちゃった 周と南蛮除くと魏が初めて王号名乗ったんだよね
それだけ強かったってことだろうけど >>694
何でも周王が魏侯でなく秦伯を覇者に任命したことに反発して
夏王を名乗ったらしい 第一は、法令を無視して私的権力の拡大を狙う重臣を摘発・排除し、君主権の強化を実現することである。第二は、法や賞罰によって、民衆の価値基準を農耕と戦闘にのみ統一し、富国と強兵を実現することである。第三は、法治により犯罪を防ぎ、社会秩序を維持して、民衆すべてに安全な社会生活を保障することである。 『韓非子』の刑罰の特性について3つ。
刑罰はその法律の明文を認識させることで予防を期待するのではなく、厳刑の執行を人々に知らしめて、同様のことをしないようにさせることを期待する。
罪を犯した人間には、確実に刑罰を実行しなければならない。そうしないと予防効果が発揮できない。
「萌芽の措置」。大事件につながる小さな犯罪・違反に対して重刑を科す。大事件を萌芽の段階で未然に防ぐことを目的とする。 韓非の思想への荀子の影響については諸家において見解がやや分かれる。
貝塚茂樹は韓非と荀子の間に思想的なつながりは認められなくはないが、商鞅や申不害らからの継承面の方が大きく、荀子の影響が軸となっているとの見解ではない。
金谷治も荀子の弟子という通説を否定はしないが、あまり重視せず、やはり先行する法術思想からの継承面を重視する。
それに対し、内山俊彦は荀子の性悪説や天人の分、「後王」思想を韓非が受け継いでおり、韓非思想で決定的役割をもっているといい、その思想上の繋がりは明らかだとしている。したがって内山は荀子の弟子であるという説を積極的に支持している。なお「後王」とは「先王」に対応する言葉で、ここでは内山俊彦の解釈に従って「後世の王」という意味であるとする。一般に儒教は周の政治を理想とするから、「先王」の道を重んじ自然と復古主義的な思想傾向になる。これに対し、荀子は「後王」すなわち後世の王も「先王」の政治を継承し尊重すべきであるが、時代の変化とともに政治の形態も変わるということを論じて、ただ「先王」の道を実践するのではなく、「後王」には後世にふさわしい政治行動があるという考え方である。 進む男性の婚活離れ
婚活する女性なんて見た目も中身も醜くて気持ち悪いだけ
おまけに子供を欲しいにチェックした男性を叩く
結婚相談所の職員は子供が欲しいと言わないようにと指導
子供も望めないで気持ち悪い性格の悪いおばさんと結婚する意味なんかない 見た目が悪くても、性格が悪くても、若くなくても、普通は結婚できている
まともな女性は結婚相談所に登録なんかしない 肉と乳製品の食べ合わせはNG
ユダヤ教では他にも、食べ合わせに関して禁止事項があります。それが、肉と乳製品の組み合わせです。
この禁止事項は、聖書の「仔山羊の肉をその母の乳で煮てはならない」という記述から、同じ料理に使われていなければいいというわけではなく、胃の中で一緒になってはいけないという規定があります。
チーズバーガーや肉入りシチューなどはもちろんのこと、1回の食事で肉料理と乳製品が一緒に出されたり、同じ調理器具で肉と乳製品を調理したりといったことも忌避されます。
もし肉を食べた場合は6時間以内に乳製品を食べてはいけないとされていて、逆に乳製品を口にした場合も最低30分は肉を食べてはいけないとされています。 ※日本の料理で扱う食材としては一般的ではないが、ユダヤ教の聖典 では「ラクダ」「ウサギ」「ほとんどの昆虫類」「肉食動物」「一部の鳥 類(猛禽類、ダチョウ、カラスなど)など、様々なものを食べること が禁じられている。 ・イカ・タコ・エビ・カニ・牡蠣・貝類全般
海の生き物では「ヒレとウロコのあるもの」のみがコーシェルとして認められています。イカ・タコ・エビ・カニ・牡蠣、その他貝類全般はタブーであり、口に入れないのが一般的です。
日本食では刺身や寿司、酢の物、イタリアンでもパスタやピザなどにはコーシェルではない食材がしばしば使われるため、メニューを決める際には十分に考慮しましょう。「カニカマ」のように禁忌とされる食材を想起させる食材やメニューもNGです。 インドを中心に、ネパール、スリランカ、バングラデシュなどで信仰されているヒンドゥー教。信者のなかには、禁忌とされる牛肉や穢れとされる豚をはじめ、魚など動物性の食べ物全般を口に入れない人もいます。 牛肉・豚肉をはじめ肉食全般を避ける傾向があり、とりわけカーストや社会的地位の高い人ほどその傾向は強くなります。魚介類や卵、動物性の脂や出汁にも注意が必要です。日本食では野菜の天ぷらや豆腐、日本食以外では野菜のみを具としたピザやパスタが好まれます。 「日本人は礼儀正しい真面目な民族」とかいう風潮、消える 今日、本屋で春秋戦国時代に関するムックがあったから読んでみたら
章邯が総合点数60点代で李信が80点代で、ありえねー!ってなったわ
他にもツッコミどころ満載でキングダムの映画の歴史監修の人が監修してるせいかキングダム補正が強すぎだったなぁ 史実の李信って色々中途半端な人物だよなぁ
始皇帝の統一戦争に功績があるけど、楚軍に大敗した人物として有名
この手の人物はその敗戦で戦死したり死刑になったりするのが定番だけど普通に生き延びてる 【ロシア軍】 1945年以来、見たことのない攻撃準備
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/europa/1669515505/l50
>>713
中途半端は生き延びられるんだろう。
王翦くらい有能になると心配になる。 秦には白起っていう超有能すぎて疎まれて死ぬことになった前例があるしな
そりゃ王翦からしたら始皇帝が疑い深いとか関係無しに対策とる必要あるわ 史記などから窺える人事を見る限り、始皇帝は体制の上層部に対しては寛容な君主だった気がしなくもない
著名な臣下が大体パージされた昭王時代と異なり始皇帝時代は大臣の一族が肥え太ってる感がある
さすがに若い頃の長信侯の反乱絡みに関しては大規模な粛清を行っていますが 昌平君みたく消えた臣下たちの情報が残ってないだけかもしれんが
暴君暗君カテゴリーの常としてアレな人格に描かれてるけど
史書に記される始皇帝の具体的な暴政の対象は概ね民で臣に厳しい印象はあまりないね 学校で中華王朝の年表を
夏、殷、周、春秋、戦国、秦、漢、、、
て習うけど、春秋も戦国も周のうちだとは思うんだがな 春秋時代はともかく戦国時代は周は権威さえほとんど有名無実になって
諸侯のトップでは無くなってたからなぁ いま学校の日本史では安土桃山時代のことを織豊時代てならうし、歴史の読み方は変わっていくんよ >>720本当にただの無能なら燕や斉を滅ぼせないでしょ >>724
国力と制度と勢いの必然で李信の才ではないよ
というかそこまで圧倒的な状況で慢心してあの醜態晒したのが李信なんで無能論が出るのは仕方ない
将軍になってる、処刑されてないということから見て完全な能無しってことはないだろうけど
周囲の将軍やこの後現れる英雄達を考えたら凡夫もいいとこ >>721
滅びた王の元太子を王に即位させただけで
実質、日本が本拠地を滅ぼされて辺境で名目的に新天皇を即位させても
東京や首都圏は某国の領土になっていた感じだから >>722
それでも滅亡時の人口3万でほかからせめられることも少なく
三晋も圧力はかけてくるけど晋公みたいに滅ぼされなくて
有名無実だから残っていたからね
誰かが言っていた、周の権威が地に落ちたのが春秋時代で
地面にめり込んで忘れられたのが戦国時代ってのがあっていると思う
もっとも歴史を知る知識人なんかは周王の存在を知っていて
諸侯も王を僭称しても形式的には公だからその子も王子じゃなくて公子だし >>724
旧日本軍もアメリカとかは兵士や下士官は優秀だけど将校は無能扱いだったし
強さの秘訣も、言ってみれば命令通りに動くだけだったしね
兵士が優秀で物量があれば無能な指揮官でも勝てる
日本は企業もそんな感じで上に行くと無能になるんだけど
受験勉強もマーチぐらいが良いのはそれより上にいくと
漢の宣帝が儒者は勉強をし過ぎて馬鹿になっているというようなものだろうな
軍や大企業も幹部は少なくとも大半は試験で点を取れたえりーとだしね 学力と知性は別物よね
学歴に固執する人って知恵が貧しかったりで >>729
むしろそういう人だから頑張って学力を手に入れたような
だから下手な大学に行って高卒公務員以下の仕事とか
たまに薬学部や看護を勧める宣伝信じる人いるけど
そんなのより公務員受けるのがいい
それも不人気な所
古くて嫌な部分はあるけど年功序列だし 鄭の荘公と友好的な関係を築けていれば
周王朝を完全に失墜させた繻葛の戦いもなくて
東周はもう少し力を保てたのではなかろうか ある男が、ここ数日扉を開ける夢ばかり見るんだと知人に漏らした。知人は機転を利かせ、
新しい進展がある暗示じゃないかと言ったが、どうも扉を開けた先にまだ扉があるらしい。
翌日、男は知人にもう夢は見ないかも言った。開けた先の扉が無い夢を見たというのだ。
さらに翌日、男は深夜に心臓発作で死亡した。彼が開けていた扉は何だったのだろうか? プッチ神父の異常すぎる行動が多すぎて鳥肌を隠しきれない >>721
夏は人口くっそ少ないし王朝というのか疑問
夏は農業経済だったが文度も人口も小さい
相対的に殷になってやたら巨大な王朝性が史跡上から確認できる
周は短命的に王権だったがぐだるから春秋が始まる
でも春秋戦国は実は秦王国だけまともだけど、その他の国がそれに及ばず戦国6雄は辺境伯ではあるが王権ですらない
日本の戦国時代の辺境の豪族伯より総兵力、工業力、人口力、農業経済力が虚弱だったのが戦国6雄の現実で連合+遊牧まぜて挑んで秦王国倒せないからな
事実上の秦王国時代
とすると中国朝
殷→周→分裂東西周から西周敗北→秦王国と見たほうがいいのかも 周は全然短命じゃないぞ
西周だけでも200年以上続いてる
他にもツッコミどころ満載だな >>736
秦が飛び抜けて強かったのは戦国末期でしょ?
まともの意味がわからないし春秋~戦国期で秦以外に健闘してた国は沢山あるじゃん まあ戦国中期から秦が圧倒的に強いと考える人はそれなりにいるかと
百戦百勝とまではいかずともほとんど常勝軍団みたく語られるてるし どこまでを中期とするかによるけど、少なくとも戦国の中頃ではまだ独走状態ではないかな >>736
西周が滅んだ後、春秋時代の秦は王国じゃないし
強国であっても晋や楚の方が上だった >>741
戦国の開始を紀元前5世紀半ばにするか末にするかで変わってきますね
前者なら大体秦の恵王が立った辺りが戦国の中頃、その前後数十年を中期とすると強いけど独走ではない
後者になると斉の大敗北、続いて楚都の陥落が中期の範疇に入ってくるだろうから独走かそれに近い状態に 中期は東西二帝の終わりというか斉の滅亡寸前で終わりかなって気が 斉秦互帝は歴史的にかなり重要ポイントなのに何故か注目されないよね 秦斉の台頭(魏の衰退)から並立、そして終焉を画期とするなら、戦国中期とは張儀と孟嘗君であると言えなくもない
西洋史の中世盛期に倣って戦国盛期とでも言おうか、もっとも戦国華やかなりし頃の象徴足りうる人物
過渡的な人物としては張儀の前の商鞅、東西ニ帝の出現と均衡の崩壊を見届けた魏冉が挙げられる 戦国時代内の区分になり得る劃期的な大事件としては長平の戦いがある
キングダムの影響もあり有名になったそれ以降はそこそこ話題になるけどそれ以前は比較的マイナー
時代そのものに注目度が足りない感あるわね まあ、もっと知名度が低かったら
我々も「ここもうちょっと注目された方がいいよね」、みたいな書き込みしに来てないからマイナーすぎるのも困りものだが 有名ではまったくないが春秋戦国の名前そのものはほんのり知られていて完全に無名というわけでもない
好きな人がハマれる丁度いい塩梅 まあね
春秋戦国といっても紀元前3世紀とそれ以外で状況が違いすぎるから一括りにはできないけど
ま、よくあることだし キングダムが連載される前から春秋戦国時代はよく小説や漫画の題材にされる時代だから
三国志の次ぐらいに中国史の中で人気だと思う 三国志がずば抜けて有名でそのぶん荒れやすい
それ以外は殆ど横ばい キングダムの影響なのか「春秋戦国」時代とひと括りにされてるのを目にする
漫画が描いてるの後者のみだし、勘違いしちゃう人を生んでる気がするなー
この表記って厳密には違う様にも思うのだけど 三国志も実質は東漢末期の内乱がメインだがまとめて三国という
そういうもの 大は小を兼ねると言うからな
始皇帝の戦国末統一戦争なら20年
戦国七雄の戦いなら200年
春秋戦国の大乱世なら500年
売り文句は派手な方が効果的
東周時代と言い換えれば伝統ある括りになるしね >>756
霊帝から司馬炎まで全部三国志なので時代区分ではなく通称だな
春秋戦国も同じように通称だろう 金曜ロードショーで放送していたキングダムの映画を見たが
やっぱ秦王政の時代で秦軍が魏軍単独に苦戦してしまうのは違和感あるな >>761
キングダム2の録画を5chの実況読みながら見てたんだけど
秦を 三国志で言うと蜀と長安取ったのが秦 と例えてた人がいた
ぜんぜん違うよーと言いたかった もっと圧倒してるのに >>762王政の時代、秦は中原にかなり侵略してるし
楚の領土をだいぶ奪ってるもんな
あの時代の中華の西半分はほとんど秦と言っても良いぐらいじゃない? REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 自分の得意分野の話題になっても一切口を開かないこと でもアメリカは刑罰厳しくて何も楽しくなくて国籍取りたくない
中国人とかはアメリカ好きだけど >>769
そんな他国を圧倒してる時代の秦でも李牧には勝てなかったんだから李牧はどんだけ強かったんだよって思ってしまう
…キングダムのリーボックは知らん 新釈漢文大系の補遺編で「呂氏春秋」が出版されたけど読んだ人いる?
帯にキングダムの作者がコメント書いてたな。
新編漢文選で出されたものと内容は同一なのか、大幅な加筆修正がされているのか知りたい。 呂氏春秋は講談社文庫のショートバージョンしか読んだことないんだよなぁ
今度、全部収録されてるの読んでみるかな >>773
防衛の無敗は、モンゴルに無敗だった宋の将軍すら評価されなくて
手柄なしに近い扱いをされる でも他国を攻略して領土を得ても楽毅や韓信のように主君に疑われる >>776
そりゃ被害ゼロの完璧な防衛を行ったとしても成果はプラマイゼロでしかないからな
得られるものが無いから評価もされない 会社でも実績はこんな契約を取ったとかばかりで
未然に防いだはまず評価されない 被害を出さない功績は恐ろしいぐらい評価されない
いなくなったら国が崩壊するレベルでも そういう事考えると被害を最小に食い止めようとした廉頗が評価されずに更迭されたのも止む無しかなと思えてくる 廉頗の後任が趙括じゃなくても割と同じような結果になりそうな状況だと思えてくる >>783
防御に徹したら自分も更迭されるし
積極的に砦を出れば負ける絶望 廉頗は防衛だけでなく斉や燕などに侵攻して領土も得てるのに
あんま評価されなくて更迭されるんだから切ない >>785
それでも秦軍を打ち破れない無能扱いなんだよなあ
今でも日本人は有能な人材を無能扱いして
これができない扱い
英語が駄目で韓国語が話せても英語ができない奴扱い >>785
長平に関しては圧倒的な兵力を長期間任されてたことになってる訳だし実績は高評価だったかもよ?
連敗した王コツ戦のパフォーマンスが評価されなかっただけで ありし日の前燕を継いだのが、前燕に居場所を失った慕容垂だったというのは、歴史の皮肉です。いや、前体制と距離があったから、立て直すことが可能になったのか? 東晋が強かったのではなく、前秦が弱かったんだと思う。 苻堅の理想は、その内容に道理がなかったから、実現しなかったんじゃないと思う。ただ急すぎたという理由だけで、受け入れられなかった。 廉頗は長平の後の秦による邯鄲包囲網戦で何してたか記述が無いんだよな
やっぱり干されていたんだろうか 六国のなかではまだ情報ある方といわれることもある趙かつ列伝キャラの廉頗だけど
やはり史料不足は否めないのでただ抜け落ちてるの可能性も大いにあるけれど
長平後は輿望を失ってたっぽい逸話があるので邯鄲包囲&反攻にはあまり関与しなかった(できなかった)のかもね 見方をかえると馬服や廉頗と競合する人々が伸長した時代と言えるかもしれない
ちょうど見せ場が重なる平原君とか後に廉頗と並び立つ楽乗とかね 事を述べる際に冷や汗を流して恥ずかしく思わないことはないのです。 廉頗は更迭する方にもちろん問題あるけど廉頗自身の性格もやっぱ敵を多く作るタイプだよなって思う
流石に2回も更迭されたからといって味方を攻撃したのはヤバい いま私たちの社会構造や意識は、目に見えないところで大きな変化を生じはじめている。 そういうことがありえない、と考える人は、いまだに手応えのある現実がひとつだと思っているからにすぎない。そのような現実に対する素朴な存在論そのものが、21世紀になると崩壊するだろう。 またある人びとは、永久に脱出が不可能な、ネガティブなヴァーチャル空間に閉じ込められることになるのかもしれない。脳とコンピュータがインタラクティブ(双方向)になるということは、基本的には進化の契機になるが、また別の観点からいうと、一定数以上の悪思念に凝り固まった脳が存在すれば、悪思念によって支配される袋小路のような負のヴァーチャル空間が実際に出現するということにもなる。 「預言」とは、すなわち「言を預かる」という意味である。神は警告を発するが、いったんその言を預かる。そして再三の警告にもかかわらず人民や指導者がいうことをきかぬときに、いよいよ「いうてきかしてわからねばきかしてみせる」のである。 ことさらに神は地獄をつくらねど己がつくりて己がいくなり 死というものは、人間にとってはもっとも大切なる大峠である、階段である。 極楽浄土から便りのあったものは今に一人もない。ただ信ぜよ弥陀(みだ=阿弥陀仏)をキリストをといっても、それはあまりに安すぎて受けとりにくい者が多い。 こう思い考えてみると、真個に信心のできたものが幾人あるだろうか。それを思って自分は阿弥陀を弥勒仏として実現化せんとするために努力しているのである。 >>801
ほぼほぼ情報のない楽乗との関係がどうだったのか気になるところ
歴史に登場して間もない恵文王前半期から他の臣を威圧する逸話のある廉頗だけど武力発動はちょっとレベルが違う ガクキの息子だから出世しているだけで有名な実績は聞かないね どうでもいいけど、レンパは王様へのアピールで米と肉をたくさん食べたみたいなのあって
趙は米を食べる国だったのだろうか? 森永卓郎氏「新NISAは絶対にやってはダメ!特に中高年以降の人がやるのは危険。若い人でもけっこう危ない」 がんで闘病中の経済アナリスト・森永卓郎氏(66)が14日までに更新されたYouTube「NewsPicks/ニューズピックス」にゲスト出演し、新NISAは「絶対にやってはダメ!」と、強く主張する場面があった。
息子で経済アナリスト・森永康平氏と新NISAについて意見をぶつけ合う企画。そこで卓郎氏は「絶対にやってはダメ! 特に中高年以降の人がやるのは危険。若い人でもけっこう危ない」と持論を展開した。
「今はオルカン(全世界株)かS&P500に投資するのが大部分なんです。このアメリカの株価っていうのは、人類史上最大のバブルになっていて。これがもうすぐはじけると思います」とし「ドットコムバブルで、アマゾンとかアップルとかマイクロソフトだとか、本来の実力を超えて異常な高値を付けている」と指摘した…
続きはソース元で 一応スポニチの記事では3月4日で言ってたな
森永卓郎氏 株価初の4万円超えに「世界規模のババ抜き。今から乗るとババを引く」と警鐘
3/4(月) 17:20配信 50代とかもうあと20年無い人はそもそも駄目だろ
なんかどこかの銀行が20年以上続けられるなら最低限損はしないみたいな指標出してたぞ アホやん
NISAなんて無税枠でしかないんだからNISAじゃなくて今sp500買うなだろ 501:名無しさん@涙目です。(埼玉県) [GB] 2024/03/14(木) 20:42:39.51 ID:Iz0I1s890
>>11
アメリカの富豪は先週くらいに一斉売りかけてるんだが >>812
確かに廉頗と違ってこれといったエピソードが皆無なので無名に近い
ところがどっこいある時期から廉頗と楽乗は事あるごとに共演するから事績は廉頗と似てる
そこだけ見ると廉頗に迫る大物(実際に地位は拮抗してる)…史書が語らない何かがありそうじゃね? >>812
楽乗は楽毅と同じ一族の人間ではあるが
息子では無いぞ
楽毅の息子は楽間 拾われた生き残った故事は限られる上に(説客説話に)偏ってる時代だから
戦国晩期に血族から2人の貴臣が出た意味は大きかったかもしれんね
楽毅と彼に係わる話の風化、消滅を防ぐ意味で 大谷がキレない聖人だと思ってたやついるの?
エンゼルスで10勝目行かなかったときバットでベンチ殴って暴れてたやん
あれ見て冷めたわ 黒人カネ持ちでそのまま上級層に安泰で生き残れてるのって
マイケル・ジョーダンしかおらんっぽいな
それ以外で一番マシそうなのがカール・ルイスとか転落はしてないけど
年収500万程度のコーチしてるだけでほんま庶民やし
他の黒人トップアスリートどの分野でも全部凋落してる どのジャンルでもそうだけど大成功者の聖人なんてものは基本的にはおらん
どれもこれも後付けやヨイショや そもそも勝者になるってことは敗者を踏み潰すってことだからな
負け犬を踏みにじることに罪悪感を覚えるタイプな上に行けないので聖人なんているはずもなく でも去年副収入だけで100億やで
税金引いた後の額かは知らんけどどっちにしろ7億くらいう余裕やん
それに一平も返す気はあったみたいやし給料から引いていけば7億返ってくるって算段やろ 仮に誰かに7億渡すならまだ小さい姪っ子に渡したいやろ
なんで10歳も年上のおっさんの借金返すために渡さなあかんねん 最近、王欣太の「達人伝」を読んでるが
戦国四君の中だとやっぱ信陵君が一番好きだなってなるな
春秋戦国ものの作品だと大抵、四君の中で信陵君が一番カッコ良く描かれてる気がする 平原君とかいう「四天王の中では一番小物」とか言われそうな奴 末路、即ち古代中国が高く評価する生命と権勢を保持する才能なら平原君は四君最強の可能性があるな
春申君は権臣ぶりでは史記戦国パートの中でも一二を争う人物だと思うんだが転落劇の微妙さも一二を争う(対抗馬は呂不韋)のが少し悲しい 宰相にまで登り詰め食客を集めてその食客から有能な人材を活用したという点で
呂不韋も戦国四君と一緒のような存在だよな
なのに何故、彼も加えて戦国五君とならなかったんだろうか 確かに呂不韋にはその手の印象があまりないし(そもそも伝を立てた司馬遷の評が辛い)
食客が大活躍するようなエピソードも比較的少ないですね
他の三君と比較するとこれは春申君にもいえるので「なぜ三君じゃないのか?」とも言えそう 呂不韋の食客で有名なのは李斯と甘羅か
甘羅は食客として活躍してから出世したけど
李斯は食客時代は特に事績が無いんだよな 呂不韋時代の文献上の肩書と進退から推測するに
数少ない名のある人物の中では司空馬が呂不韋の信用を得てそうだけど
彼も呂不韋の危機を救ったみたいな心躍る話がないからすごく地味なんだよね…