【三国志】姜維 伯約 [転載禁止]©2ch.net
姜維について語りましょう
姜維(202-264) 天水郡出身。字は伯約。最終官位は大将軍。
三国志演義での登場シーンでは諸葛亮の計略を見抜き、趙雲と互角の一騎打ち。
果たして彼は蜀漢を滅ぼした戦犯だったのか?
姜維wiki
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/姜維 諸葛亮の様に概ね万機を掌ってたならともかく、そうでない姜維一人に
責任があるかの様な意見ってどうなのよっていうか
むしろ朝廷で碌すっぽ働いてもいない連中にも問題大ありだと思うんだけど
樊建、諸葛瞻、董蕨、おめーらだよ 北伐により民衆と国は疲弊し、成都の諸葛瞻たちは姜維の軍権を奪おうと画策、?周のような学者も北伐に反対、張翼・廖化ら将軍たちも姜維の北伐を批判
このような状況でもかたくなに北伐を止めない姜維は批判されてしかるべきだろ
もちろん姜維一人が悪いと言うつもりは無いが 天水出身の姜維にとって、北伐だけが居場所だったのでは。 >>82
それ以外に存在意義がないからな
呉と強いパイプはない、国内に支持基盤もない、外戚でも建国の元勲でもない、際立った行政能力もない
にも関わらず費イが殺されて軍事No.1の座が転がってきたら、そりゃあ正当性のために働かざるを得ないわけよ
地盤がないからこそ北伐をする(あわよくば故郷の天水を得て支持基盤にする)ことになる
行政官僚や外戚とは住む世界が違うから相容れることはなかった 姜維はもっと単純な人間だと思うなあ
単に自分の軍事能力と異民族の知識に自信があって
魏に反抗的な異民族の力を借りることができれば勝てると思ってただけなんじゃない 人間が生きるのは複雑じゃないか?
まして姜維は実績はともかく、若い頃涼州で最高の人材と呼ばれたくらいの才能はあった。
蜀漢で仕えるのが初め本意だったかは分からないが、魏では人材が多くて出世は容易でない。
蜀漢ならその点は有利だった。
だが狭い国で派閥がないというのは、それなりに難しい面もあったと思う。 そんな中、派閥なしに出世したのはなかなかと思う。
ただし、出世するためにどんな手を使ったかは分からんが。 大将軍録尚書事で人臣を極めているんだよな
後は魏を滅ぼすまではいかなくても涼州を取れれば功績も申し分なかった >>87
いるか?
益州閥なんて御大層な言葉聞く度に蜀の名の通った人物の益州出身者の少なさが頭をよぎる こんなスレがあったのか
姜維が大好きでいろいろ見てて宇文泰 姜維で検索してたらここを見つけた
姜維 伯約、愛してるぞ!! >>98
大変遅くなりましてすいません!
姜維で検索していろいろ見てたら宇文泰が姜維を祀ったと言う記事を見つけまして
それで何か関係があるのかと宇文泰 姜維で検索したらこのスレがあったのです
スレの上の方に宇文泰が姜維を〜と言う書き込みがあったのでヒットしたのでしょう 三國志のゲームやってて姜維を取れるとテンション上がる >>99
宇文泰は立ち位置的に曹操に近いと思うが、何故姜維を祀ったのだろうか? >>101
>>99ですが検索してみましたがそれらしい記述は見当たりませんでした
私の推測になりますが何かで姜維の事を読んだか聞いたかして
何かを感じたのかなと思いました
自分が認めた三人の豪傑に名前を与えた事もあるみたいですし
自分が気に入った人には昔の人でも今の人でも関係なく認めた人なのでは? 宇文泰は手が膝の下まで届くという劉備の生まれかわりみたいな人だから蜀にシンパシー感じたのかも知れない いろいろ蜀の地図やら写真やら見てるけど
地図は正直わからないけど写真で見ると蜀って物凄い地形なのね
こういう所にいて北伐してた孔明や姜維は凄いなぁ
そしてまさかと言う所を越えてきたトウ艾も凄いなぁ
泰嶺山脈って言うんでしょ?凄いよなぁ
すぐ降伏したのはどうかと思うけど馬バクが驚くのも無理もないな
もっと勉強しよう 馬バクが頑強に抵抗して援軍を待っていたら・・・
諸葛瞻が黄崇の進言を聞いていたら・・・
いろいろな可能性を何度も考えてしまうな >>105
その時点でケ艾と鍾会を破ったところで漢中奪われてるから、蜀はどの道終わってる気がする。
戦国時代の燕の合従軍に攻められた斉みたいに、残り二城から全部の城を取り返した例はあるけど、
斉は往時の力を盛り返せなかったし、地形的にも漢中奪還は可能だったかどうか。 >>106
確かに漢中を取られたのは痛すぎる
実際漢中を取られた時はどういう戦いだったのかな?
検索のやり方が悪いのか、鍾会が漢中に攻めて来た、姜維は撤退したってのばかり見る >>107
自己解決
フセンが戦死したのが漢中防衛戦か
ショウジョが胡烈に降伏した戦いか
勘違いしていた・・・ 北伐の考察ブログやらいろいろ見てるけど面白いね
本当にいろいろな考えが見られていい 最近本当によく姜維の事ばかり考える・・・
これってもう恋なんじゃないだろうか?
まあ正確にはあの頃の傅僉や張翼や廖化、トウ艾に鍾会達の事も考える
その中で姜維の事を一番よく考える 姜維の好敵手ってやっぱりケ艾になるのかな?
カクワイや陳泰は違う?
姜維はケ艾の事をどう思ってたのかな? ロマンのない考え方をすると全員ただの邪魔者w
でも姜維は実用的な人間だから実際敵に対しては早く死んでくれねーかな以上の感情は持っていなかったんじゃないかと >>113
なるほどなぁ
捕まえて味方にってのはゲームのやりすぎだね 羊コと陸抗みたいな関係は例外中の例外なんだろうね。
というか、元は魏の人間の姜維が相手と交友してたら疑いをかけられても仕方ないかも。 >>115
羊コと陸抗の話は大好きだ
大昔の国語の授業の野ばらを思い出す
何かで見たけどケ艾は姜維に手紙を書いたらしい
姜維は無視したそうだけど本当にあった事なら何が書いてあったのか気になるね 自分より無能な奴が
自分らより少ない兵力と乏しい兵糧で
何度も何度も懲りずにわざわざ攻めてきて功績を稼がせてくれるんだから
とうがいさんも笑いが止まらなかっただろうなとは思う。 劉備と曹操、諸葛亮と司馬懿はいかにも好敵手同士と思わせるようなエピソードや台詞とか残ってるんだけど
姜維は敵将とのそういうのは無いよなぁ お!人が増えてきた
嬉しい
ヒイの兵1万って制約がなければもうちょっとどうにかなったような気はする
トウ艾に対しても無理だけど同じ兵力で同じ条件なら勝てたかも知れない
まあ同じ条件なんて無理だけどね
うーん・・・トウ艾か・・・強いよなぁ 費�ェケチなのか陳祗が気前よすぎるのか…
陳祗って国政を動かし劉禅から死後すぐに侯を贈られるほどの存在なのに三国志では不当に存在を軽んじられてる気がする
蜀の恥部だから陳寿は大きく書きたくなかったのかそれとも… >>119
もし費イが暗殺ではなく病死とかだったら、後継者に姜維を指名しただろうか?
北伐に対する方針が真逆だし、諸葛亮→蒋エンのようにその時点でのナンバー2が選ばれるとは限らないし。
順当に考えるなら、費イ本人も高く評価していた陳祗を指名しそう。
ただ、陳祗は北伐容認派だから、費イが断固として北伐反対するなら、
同じ将軍でも北伐慎重派で実績もある張翼辺りを指名、もしくは要職に昇進させたかも。 >>120
陳寿は蜀滅亡の戦犯が黄皓だと思ってるから
黄皓を重用した陳祗も戦犯とまではいかなくても評価低い気がするな >>123
>>119ですが大変遅くなりましてすいません
張翼いいね、好きな武将だ
政治はよくわからないけどやっぱり文官中心だったんだろうか?
姜維や費イや武官、文官が話し合いしながらの政治は難しいのかな?
コミュニケーション取りながらなら姜維も孤立しなかったんじゃないかな
張翼、廖化は北伐否定派だったんだよね・・・諸葛瞻や董厥も・・・
傅僉や夏侯覇は居たけど姜維一人だったんだな・・・ 段谷までは北伐支持の人間多かったけど
段谷の大敗後は姜維は支持を失っていった
しかも姜維は軍権を手放そうとせず北伐を繰り返し国を疲弊させたからな
そりゃ味方はいなくなる
コミュニケーションの問題では無く国が傾くほどの敗北したのが悪い >>126
ダウト
段谷以降姜維は2回しか北伐していない
しかもそのうち1回は諸葛誕の反乱に乗じたもので同盟国の呉も出ているし、ここで討って出ない手はないだろう
恐らくターニングポイントは段谷よりもむしろ259年頃の陳祀の死だと思う
劉禅に敬愛されていた彼の死により思うように朝廷をまとめられなくなったのだろう >>127
確かに北伐を繰り返していたっていうのは言いすぎだった
でも、ターニングポイントは段谷よりもむしろ259年頃の陳祀の死だとする根拠ってある? >>125だけど陳シを検索してみた
姜維との関係は良好そうだね
段谷の戦いも痛いが陳シの死も痛い
全てが姜維の裏目に出ているなぁ >>128
段谷で大敗したのに翌年にまた出兵できた
陳シが死んだあと姜維が出兵出きるようになるまで4年かかり、しかもこれが最後の北伐となった
またショウ周の仇国論では彼が北伐の是非について論戦を挑むのは姜維ではなく陳シ
姜維よりも陳シをどうにかしないと北伐が止められないということだったわけだ 雍・涼二州が取れてればなぁ
そこを拠点に長安を取れれば・・・ >>130
陳祗はどうして北伐容認派だったんだろう?
生まれが豫洲だから、荊州閥でも益州閥でもない姜維とは馬が合ったんだろうか?
あと益州に入ったのは叔祖父の許靖と同時期?
劉備時代から仕えてたなら、劉備の遺志を継いで北伐賛成でも不思議じゃないと思う。
ちなみに費イ死後〜蜀漢滅亡までの荊州・益州以外の出身の人物。
姜維(涼州)
夏侯覇(豫洲)
陳祗(豫洲)
郤正(司隸) スゴいのかスゴくないのかよくわからん人物
人材乏しい時期だから諸葛亮に珍重されただけかと
秦末期の章邯だって蒙一族や王一族に比べたら絶対六大将軍なんかじゃないし 別に諸葛亮に珍重されてないでしょ
出世は諸葛亮死後だし
外様で文武のトップまで上り詰めたし、褒めにくい立場の陳寿からも能力面は評価されてるんだから凄いは凄いよ
外様な自分が文武のトップまで上り詰められちゃう層の薄さのせいで能力を発揮しきれなかった感はある 孔明みたいに政治も軍事もって人はそうそういないだろうからね
政治を一手に引き受けて尚且つ北伐にも理解あり宮中を厳粛に統治する
そういう人が何人かいればなぁ・・・ 蜀漢の宰相は君主代行みたいなもんだから
普通の国の宰相よりやる事多いからなぁ 諸葛亮の場合は劉備の遺言で忠心を保証されたからこそ全権を任されたもの。
劉備の死後も劉備の代理としての役割が与えられていた。
能力があれば真似できるというものではない。 劉備時代に出仕しなかった杜微が、諸葛亮政権時代の225年に政権に加入するのだが、その際に諸葛亮が使った説得の言葉が「私はあなたのことを王謀・李伯仁・楊洪・丁立・李邵・李朝・文恭らが褒め称えるのを聞いておりました」というものだった。
こういうの見ると諸葛亮の足場がための努力も馬鹿にできませんぜ?
そりゃこんだけ大勢の周りの人間を取り込まれてたらトビさんとやらも観念して仕えざるを得んものな 諸葛亮はもう一人、後を託された李厳を味方に付けたのが大きかったなと思う
諸葛亮と李厳は派閥争いがあったと言う人もいるが
益州で人望が無かった事を考えると李厳は諸葛亮達と協力して権力を増していった人間だと思うわ
最終的には何の理由があったかは不明だが李厳は諸葛亮に叛逆する事となるが 俺、いつか姜維ゆかりの地を回ろうと思ってるんだ・・・ >>139
李厳はそもそも荊州出身で劉表支配下
劉表死後劉jが曹操に降った時に荊州を逃れて益州に行きそこで出仕
既に太守経験もあり実際有能だったために劉焉時代以来の古参も多い劉璋配下の中で浮いた
立場的に人望や能力云々の話じゃなく所属歴の短さと比較して与えられたポストの高さが気に入らないってのはよくある話だけどな >>141
元劉表臣下で劉表死後に益州に行ったのは知ってるよ
劉備臣下になってからのエピソードを見ても益州の人間からあまり好かれてないような気がする 呉にも女囚の人間がいたりで基本よそ者が支配階級なんだな >>140
いいな
姜維ゆかりの地と言うと天水と剣閣が思い付く
コロナが落ち着いたら行くといい
いろいろ調べて中国語も覚えないとな
そういうツアーもいいかも知れない 学気が10人いても
寒中が10人いても
韓信が10人いても無理 >>145
コーエーの何かで読んだ事はあるけど検索で出てこないな
>>146
甘露寺の十字紋石しか知らないな >>145
>>151
聞いたことない話だけど、姜維を待っている兵士ってのを これを不思議に思うのはよいが、これを恐れるのは間違っている。 王莽は、
当時の名族の中でトップ。
王莽の血統は、戦国田斉最後の王・斉王建に遡る。
斉王建は秦の始皇帝に最後まで抵抗した戦国時代の王である。
また楚漢戦争時には、斉を復興し、最後には王になった田横がいる。
斉において、項羽にも配慮されるほどの勢力を持っていた。 現在では王莽を良く言う人はいない。
だが、漢書を著した班固を始め、王莽を支持していた人物は当時
多々いた。 後漢光武帝すら、
前漢宣帝をベンチマークすると言いながら、
郷挙里選の際の重要科目を孝廉(孝行と清廉さ)とし、
王莽の路線を引き継いでいる。
孝廉などは、推薦する地方豪族たちが結託すればどうとでも、
脚色できるので、後に梁冀などの佞臣を輩出することになってしまった。
構図は全く王莽と一緒で、王莽と同じく偽善をして世の評判を得るのである。
それを郷挙里選の推薦者地方豪族が結託して、
孝廉の評価の裏付けをした。 偽善の唯一の功績は建前でも良いことをしたり、肉体系を廃止したことか 姜維が太公望の子孫だと思えば小説一個書けそうだな。 色々不明な方が小説には向いてるんじゃない?
宮城谷さんの小説では姜望という名前になってるから、ついつい子孫は?と考えてしまう。 秀吉が出した惣無事令・喧嘩停止令以下の諸命令文書は皆、この天皇命令を秀吉が奉じる形で出されており、武家の長が、天皇の秘書官に成り果てて、その命令を忠実に実行するという、義満以来の200年間の尺度で見ると、極めて異常な事態である。 また人がいなくなってしまったな・・・
姜維大好きな俺にとっては良スレなので盛り上がって欲しい >>176
盛り上がる話題・・・
気になってるのは姜維の子孫の姜恪と言う人の事
本当に姜維の子孫だったのだろうか・・・? 現在では系図と墓の状況から本物の子孫ということで異論はない
孔明に授けられた八務七戒六恐五懼の写が家宝として伝わっている 江陽太守は激しい気性の人で、明君に忠節を捧げた。
合戦となって敵と遭遇し、屈服する事なく、ただ一人で戦い抜き、陣中で一命を落とした。
程季然を賛え