殷〜西周こそ熱い時代!!!!! [転載禁止]©2ch.net
>>100
その頃から、王朝にとって北方の安全保障が喫緊の課題となり、北国の重要性が増す
在地の周族系諸侯晋は北防の要といえる位置にあり、協力援助を通して王と晋の関係強化が進んだ。
恐らく晋侯は、クーデターで宗周を逐われた周脂、を支え、共和政権に対抗した勢力の有力者(妄想) 今更だけど>>101は正確さを欠くから訂正、脂、〜共和〜宣王期だから西周後期 成立と滅亡の経緯はやたら扱いデカいのに早くも最盛期の康王あたりから存在感のなくなる空白時代
ここらに古代中国人の世界観/歴史観の限界がありますな >>105穆王の時が領土的には最盛期って気がする
ただ無茶やったせいで綻びが出るっていう漢の武帝みたいな感じだな そこで漢武を例に挙げるのはちょいと違和感
漢は武帝死後、滅亡の瞬間までアジア大陸に君臨した無敵の帝国だし 内部でゴタゴタしていることと、
対外的に劣勢かどうかは別物だもんな。
まったく関係がないわけではないけど >>86
六師は最古に属する伝世文献である詩経にも謳われ金文に初見する時期も早い
西周の頃から王軍を象徴する存在になっていたのではないかと
>>88
そうですね、幽王以前から度々王軍や内外諸侯と交戦している勢力です 周はなんか唐突に事故死したイメージ。
関中って中原には強くて東に伸びるけど逆に蛮族の侵入には弱い印象。 >>113
脂、の追放、宣王の治世の失速
西周が崩壊するフラグはそれまでに立っていたし唐突って感じはしないな 安史の乱くらい唐突かな
いきなりマッハで首都がアボーンするところが 西周諸侯が次々没落してからの滅亡じゃないもんなー
むしろ周王室だけが唐突に滅亡した後、有力諸侯が跡継ぎ盛り立てて殴り合えてるくらいだし 共和以前の史料が少ないから唐突に死んでるように見えるけど
昭王が溺死したあとからいろいろと不穏だったんだと思うよ
イメージ的には安史の乱以降振るわなかった唐とかぶるね 事前に衰退していたことが史料にもあるわけだから、
突然死みたいな扱いはないでしょ。 史書にある褒姒のエピはほとんどが後からの作り話だと思うけれど、
彼女を偏愛して申后を殺そうとしたのは事実に近いと思ってる。
>>116
元正后の実家が滅亡を主導してるんだから唐突に見えるのかもね。
申侯にしてみたら、幽王はゆるせないけれど、完全に周を滅ぼす気は
なかったのかも。孫が正嗣なんだし。 共和のあとを受けて立ち国人に配慮しつつ円滑に王権の統一を成し遂げた長い宣王中興時代の直後に軍事的に滅亡
一応唐突でしょ
実質的に武王以前の状態まで縮小した国土の修復に成功し勢力圏は再び山東や南陽盆地まで拡大されてた
だからこそ珍妙な笑わない王妃の狼煙エピソードで無理やり説明してるわけで 確かに、陝東地域の経略は,かなり進展していますね…
王師の主力と思われる西六師&殷八師は成周付近に所在していたそうなので,陝西の防衛戦力に問題があったのかもしれません
有名な申伯と幽王の説話についてですが,申と称す勢力は複数存在する模様なので要注意
『竹書紀年』に宣王が申戎を征伐し破った記述があります
>>112《周語上》「穆王将征犬戎」
最初も最初ですね 笑 宣王は墨子明鬼編にある、処刑した杜伯の幽鬼に射られて死んだエピソードを見ると
治世後半が専横化して周囲の恨みを買っていたようだ。墨子の記述の信憑性も検討が必要だが。 堂々たる天下王朝ともなれば各方面に強力な軍を置いて二正面三正面作戦は義務みたいなもんだが(現中国が沿岸部を守るべく第一第二列島線を目指しながら内陸のシルクロードを固めるように)
西周にその力は残念ながらなさそうだな。 少なくとも幽王のころにはそんな力はなかっただろうな。 >>122
主力軍は中原に駐屯してたのか?
じゃあ王都の安保を担ってた軍事力はなんなんだ?
>>126
つか古代の四方辺境に進出して諸侯守っても直接的な国益に繋がらんしな大赤字の王朝中枢が疲弊するだけ
近現代なら地方住民を雇用したりインフラ整えて物流を増やせば内陸地域発展の起爆剤になるし
インフラ建設担当する国営企業や軍需産業からの莫大な税金という形で金も回収できる >>127
122です
・王朝中央直轄の親衛軍、いわゆる虎賁(左右虎臣)
・関中王畿(畿内,陝西省)に点在する王朝直轄軍事拠点に駐屯する兵
・内諸侯(関中王畿の諸侯)の軍事力
正直言ってよくわかりません あーなるほど王都の守備すら諸侯の軍事力を頼らなければいかんシステムなのね
遠隔地なら兎も角近畿もそのザマではちと危ういな >>128-130
宣王がやらかしてるっつーか王の軍事支援と有力諸侯の力を合わせてようやく一進一退ギリギリの攻防になる位強い蛮夷の軍がヤバイ 共王以降は事績がほとんど伝わってなくて次は追放された刺王の時点でお察し 本当は資料がいろいろあったんだろうけど
史記書く時点では失われていたんだろうなあ 時代の下るうえに焚書という言い訳のきかない秦代の記述すら貧困ですし
殷周の資料製作力や史料保存意識を過大評価しないほうがいいと思われ
社会の生産力技術力は青銅器文化(クソデカ銅鐸等)が栄えた日本の弥生時代後半期と大差ないし多くは望めない 六師壊滅と昭王敗死で関中引きこもり化
↓
周王の威信が低下して徐々に諸侯への抑えが効かなくなる
↓
祭祀・礼制を強化して威信アップを狙う
儒教的な諸礼の基礎が表れ始める
↓
周軍弱体化が進み、諸侯の軍事力に頼るようになる
↓
それではいかんと脂、頃から東方南方経略を本格化
山林沼沢にもバシバシ進出して軍事費を補う
↓
周王と国人の諸権益が対立し、ついに国人暴動
脂、が追放されて宣王が擁立される
↓
宣王も脂、路線を踏襲しはじめる
関中内外の諸侯にも見放される
↓
幽王死亡、携王擁立
幽王死後に平王がすぐ即位してたかは怪しい >>139昭王の死後、穆王が外征しまくって領土的には西周の最盛期になったんじゃなかったっけ? たぶん某書のコピペ省略版なんでこまけぇこたぁ気にスンナ 穆王の事績は扱いが難しい
一応史実だけど歴史学的には・・・・・ 活発に軍事を行うことの功罪は、
しばしば論争の的になってきたよね。 殷の最盛期も周に滅ぼされる直前の紂王の時だもんなぁ。
滅ぼした側の周からはひどい言われようだけど。 領土拡大する為には戦争しか無い訳で、攻められる側からしたら、
ひどい王ってことになるわなぁ。
特に太公望は羌族で、羌の人は牧畜を生業にしているから、
あまり大集団にならず捕まえやすかったらしい。
卜文なんかにも、「羌を得るか?」なんてのが多いとか。
祭祀の犠牲や生産奴隷にされてた訳で。
ヤラレる方(太公望)にとっちゃ、たまったもんじゃないわな。
恨み骨髄でもしょうがないじゃね? 太公望の素性は不明だけど、姜姓だから羌族じゃないか、という説はあるね。
羌族は姜の別種とも言われてるから。
羌は二本足の羊の象形とも言われて、羊のようにお供えにされていた。
でもwikipediaによると紂王こと帝辛は羌族をお供えにするのをやめたらしい。
「3. ^ 陳舜臣『中国五千年』(上) 講談社<講談社文庫> 1998年 57頁。 陳舜臣によると、
生産が増えたために、殺害するよりも働かせた方がよいという判断したのか、羌族が昔に比べて
容易に捕獲出来なくなったとの説を述べている。」 >>146
宮城谷さんてより、陳さんの方かな?
>>147
完全に止めちゃいないよ。数減らしたけど。
陳さんの「中国の歴史」なんかだと、農業奴隷とか兵隊奴隷とか、
酷使したみたいなこと書いてる。
後、すごいことも書いてたな。
殷の人に、人間を犠牲にしたらひどいと質問したとして、
「え?!あれ(犠牲にする他の部族)は人間ですか?」
と答えるだろうって。
こんなのりで犠牲にしていたようだし。 陳さんが、奴隷が多かった証拠として上げてるのに、
殷墟の遺跡で、農具が大量に納められた倉庫の後が出土したことを
上げていたな。
そんなものがあるってことは、仕事が終わった後に農具を回収して
いた訳で、完全に奴隷たちは今の刑務所並みに管理されていたんだろうな。
軍隊の兵士もそうで、だから周との戦争も闘う気ゼロだったと。
殷が負けて解放されるのを待っていたと訳だ。 まあ自分たちとは違う民族や種族は
人間扱いしていないのは今でもそうだし そりゃあ周に負けるわなって感じだな
よく殷は何百年も中原を支配できてたなって思う >>143
なにか勘違いをされているような・・・・・?
それは近代的な歴史学ではなく前近代的な論争でしょう
扱いが難しいとは伝説的な穆王の事績を事実と認めてよいのかとい事です 史実論争と
評価論争が
同時進行してにぎわってるな。 >>151
殷は衰退と中興を繰り返してたみたいだよ。
衰えると遷都するを繰り返していたのは明かのようだし。
あと、殷の滅んだのは「酒の飲み過ぎ」も一因ってあった。
陳さんの中国の歴史には。
まぁ、それが正しいかどうかは不明だけれど、酒を主に、
贅沢になり過ぎて、その贅沢を続けるために、他を侵略して、
人や財物を略奪する必要があったと。
周公丹は首都で成王に付いていたから、領国は息子に治めさせて
いたんだけれど、その息子に政に付いて色々と指示しているが、
役人が酒を飲んだら処罰するとしておきながら、殷人は酒を飲むのは
しょうがないから、最初は意見しろってあるってさ。
周公ですら、殷人は酒飲みだから徐々に禁酒に持っていけと
考えていた訳だなw >>154確かに史記を読むだけでも殷王朝は何回か衰えてるし
殷王朝を再興した君主なんてのが何人か出てくるな 1つの王朝が何度も衰退と中興を繰り返すなど、他に例がない
実態は別王朝なんだろう アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世みたいにか?ありうるな。 >>157
確か、殷の王って十干を称した10の王族の持ち回りって説あったよね。
十干を氏族名?にしてるから、紂王は帝辛と称したと。
部族内部の抗争を続けていたのかもね。
遷都したのも、自分の力が一番強い領地に移していたのかも。 十干諡号は殷に限らず、主に陝東系の集団に広く見られてるから
十の氏族による持ち回り云々の仮説は成り立たない >>160
十干諡号が他の例があるとしても、それで殷のシステムを完全否定は出来ないのでは?
少なくとも、甲骨文なんかから明にされていることだと、非世襲で必ずしも、実子相続では
なかったとあるけれど。
史記(必ずしも正しいとは限らないが)の系図でも、兄弟相続とかあるだろ。
実は兄弟ではなく、他の近しい氏族からの襲位だったのかもしれないよ。 でも部族社会では兄弟相続って割とあるし、疑う根拠としては弱い。
十の部族って多すぎて如何なものか。新羅は三つの王統があるけど。 >>161
大馬鹿だな
殷王室だけでなく諸侯や小氏族に至るまで
十干使ってる氏族がみな10に別れていたとでも?
そんなこと言い始めたら姜斉も
初期は10の氏族が持ち回りで諸侯を務めていたと? だから、他に例があるけれど、それが殷のシステムと同じとは言えないでしょ?
殷が特殊だったのかもしれないし。
>甲骨文なんかから明にされていることだと、非世襲で必ずしも、実子相続では
なかったとあるけれど。
ここがポイントでしょ。
殷の封建制度がまだまだ発展途上だっのかもしれないし。
それに10の氏族全部が王位に関係した訳ではなくて、早くに滅んだ族もあるし、
中心なのは、ほんの数部族だったと主張されてるし。
他の意見を否定するばかりじゃ、進歩はないと思うよ。 本当にアホの子やな
十干諡号を使っても殷だけ持ち回りで
諸侯は違うとでも言うのかな? 原因「陳とかいう素人作家の本で古代史を語る時代遅れロートルどもに俺が近年の出土資料に依拠した最新学説を教えてやんよ」
中英板は極めて少数の人間で回してんだからここの住人はスレに出没する人種についてはなんとなく把握済だ
すぐに察して撤収しますよそりゃ >>152穆王の時代の青銅器が遠方にも発見されて
これは穆王が周王朝の領域を積極的に広げていた証拠であるという解説かなんかを見た事があるな 穆王が会った西王母は西王国の書き間違いっていう話も 西周の諸王でも実際は春秋五覇の事績と大して変わらんだろう
周辺の外諸侯には顔がきく程度 そもそも周王が直接支配できない土地を諸侯に委ね(押し付け)たんだから、
全土に強大な権力を及ぼしたということはなんいだろうな。 ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ 商は存在自体は神話
確かに商集落と青銅器文化は存在するが、集落規模が小さいのと、当時の中国の文明力的に商王朝、もっといえば周王朝は存在しなかった
まだ商は十分な農業社会を確立できなかったし、中国が農業+ちくさん開拓が進むのは春秋以降
そして鉄器による大開拓はおよそ戦国時代に始まった
よってそれ以前の王朝や文明史観は嘘
ルーツ神話としても嘘がある。中国は確かに先に商ー周ー沿岸人口が発達したが、規模糞小さくて
戦国前の北京ー周ー沿岸人口は50万にも満たなかった
しょせん開拓と人口拡大は戦国のしかも秦からはじまった文化で、秦以外は文化技術はあっても
殖産化と農業拡大に失敗した
というか秦の領土みればまるわかりなんだけど、中国の秦ってのは当時の農業圏+人口集中帯なんだ
その他の文化地域はまだらな農耕集落が散らばってるだけで、当時の日本やASEANの人口規模、農業規模、ブンド規模と大差がない
そして部族連合はあったけど、連合とすら呼べなくて
実質戦国といっても、秦1国王朝対部族の歴史に過ぎず、国家、連合と呼べない部族に過ぎない。
そして周ー商はどうも雑に作られたルーツ神話で歴史ではない。
中国史が史実として始まったのは、実質秦で始皇帝の7代前くらいからであり、そこからだね。
中原じゃなく、西安から歴史と文化が発達した歴史館がただしい 西周時代の金石文がもっと見つかって、
各諸侯の歴史が明かされるといいんだけどな 最近では邑姜の墓とされるものが発見されたみたいだが
続報がないんだよなぁ
まだ調べているんだろうけど 春秋の起年B.C.722からは、歴史と認めていいだろう
あんな資料を創作するのは難しいと思われる 問題は同時代資料が見つけっても書いてあることが事実かは分からない 金石文って滅多に書かないものだったよね
他の記録はないのかしら あるとしたら木簡とか竹簡だけど甲骨や金石と違って状況によっては腐るから難しい。
今の所出土してるのは戦国時代くらいまでかな。 ああ、石とかに残したのしか後世に残らないのは悲しい
実は当時も紙が流通していたなんてないよね 紙は漢の時代に発明されたからそれ以前には無い。紙が無いから竹簡なんだから。
それに紙だって腐る。紙が残る状況なら竹簡のほうが残りやすい。
後世に残すことを期待するときは石に刻むんだよ。石碑とか。
甲骨は後世の誰かに読んでもらうためじゃなくて占いの記録だからコピーとかしてないのに
ピンポイントで埋めた場所が掘り返せたから大量に発見されたけどそうじゃなかったら
未だに何も見つかってなかったかもしれない。
あと春秋戦国から漢くらいまでは絹布に書いたりもした。帛書と呼ぶ。馬王堆帛書とかが有名。
絹は高価だし傷みやすいから数は少ない。 石は最強ですね、さすがの古代中華もエジプトやローマ遺跡の圧倒的威容を前にすると色褪せてしまう。
しかし金石文や簡牘が残ってるだけでも有難いと思わねば。 風俗や建築物の想像図とか見る限り、ヴィジュアルはかなり地味な時代だね >>174
商王朝の頃って、新石器時代後期と変わらない部族社会だよね
ほぼ同時期の呉城文化からも同規模の遺構が見つかっているし、
後の権力者達が良い様に利用しただけ(特に支那共とかw)
ただ、文字に関しては商=二里崗文化が進んでいたのは事実
商周辺文化の出土記号が絵文字としての手段から抜け出せずにいたからな それでも周辺から見れば文明レベルでは圧倒してるんだよなぁ 殷のごちそうって何だろうね
松屋のカルビ以下なのかな >>192
商王朝だと、
主食は粟の饅頭に肉の煮込みや塩漬け肉
副菜は漬け菜
デザートは氷室で冷やした牛乳や桑・柿の他に桃が珍重された
あと、人肉たる双脚羊も忘れちゃダメ >>138
金文や遺構もそれなりに発見されてると言えるのでは
史記程まとまった文書はたしかにないけど
そういうのがあの当時でも豊富にあるのはエジプト、メソポタミア位じゃない? >>174
ソース一切なしでここまで妄想語るのも凄いね
まああれか、百田さんとかソースなんだろうか 西周の半ばっていうと繆王が西王母に会いに行った頃?