殷〜西周こそ熱い時代!!!!! [転載禁止]©2ch.net
西周中期の世の中ってどうなっていたんだろう?
そんなに晋と親しかったのか >>100
その頃から、王朝にとって北方の安全保障が喫緊の課題となり、北国の重要性が増す
在地の周族系諸侯晋は北防の要といえる位置にあり、協力援助を通して王と晋の関係強化が進んだ。
恐らく晋侯は、クーデターで宗周を逐われた周脂、を支え、共和政権に対抗した勢力の有力者(妄想) 今更だけど>>101は正確さを欠くから訂正、脂、〜共和〜宣王期だから西周後期 成立と滅亡の経緯はやたら扱いデカいのに早くも最盛期の康王あたりから存在感のなくなる空白時代
ここらに古代中国人の世界観/歴史観の限界がありますな >>105穆王の時が領土的には最盛期って気がする
ただ無茶やったせいで綻びが出るっていう漢の武帝みたいな感じだな そこで漢武を例に挙げるのはちょいと違和感
漢は武帝死後、滅亡の瞬間までアジア大陸に君臨した無敵の帝国だし 内部でゴタゴタしていることと、
対外的に劣勢かどうかは別物だもんな。
まったく関係がないわけではないけど >>86
六師は最古に属する伝世文献である詩経にも謳われ金文に初見する時期も早い
西周の頃から王軍を象徴する存在になっていたのではないかと
>>88
そうですね、幽王以前から度々王軍や内外諸侯と交戦している勢力です 周はなんか唐突に事故死したイメージ。
関中って中原には強くて東に伸びるけど逆に蛮族の侵入には弱い印象。 >>113
脂、の追放、宣王の治世の失速
西周が崩壊するフラグはそれまでに立っていたし唐突って感じはしないな 安史の乱くらい唐突かな
いきなりマッハで首都がアボーンするところが 西周諸侯が次々没落してからの滅亡じゃないもんなー
むしろ周王室だけが唐突に滅亡した後、有力諸侯が跡継ぎ盛り立てて殴り合えてるくらいだし 共和以前の史料が少ないから唐突に死んでるように見えるけど
昭王が溺死したあとからいろいろと不穏だったんだと思うよ
イメージ的には安史の乱以降振るわなかった唐とかぶるね 事前に衰退していたことが史料にもあるわけだから、
突然死みたいな扱いはないでしょ。 史書にある褒姒のエピはほとんどが後からの作り話だと思うけれど、
彼女を偏愛して申后を殺そうとしたのは事実に近いと思ってる。
>>116
元正后の実家が滅亡を主導してるんだから唐突に見えるのかもね。
申侯にしてみたら、幽王はゆるせないけれど、完全に周を滅ぼす気は
なかったのかも。孫が正嗣なんだし。 共和のあとを受けて立ち国人に配慮しつつ円滑に王権の統一を成し遂げた長い宣王中興時代の直後に軍事的に滅亡
一応唐突でしょ
実質的に武王以前の状態まで縮小した国土の修復に成功し勢力圏は再び山東や南陽盆地まで拡大されてた
だからこそ珍妙な笑わない王妃の狼煙エピソードで無理やり説明してるわけで 確かに、陝東地域の経略は,かなり進展していますね…
王師の主力と思われる西六師&殷八師は成周付近に所在していたそうなので,陝西の防衛戦力に問題があったのかもしれません
有名な申伯と幽王の説話についてですが,申と称す勢力は複数存在する模様なので要注意
『竹書紀年』に宣王が申戎を征伐し破った記述があります
>>112《周語上》「穆王将征犬戎」
最初も最初ですね 笑 宣王は墨子明鬼編にある、処刑した杜伯の幽鬼に射られて死んだエピソードを見ると
治世後半が専横化して周囲の恨みを買っていたようだ。墨子の記述の信憑性も検討が必要だが。 堂々たる天下王朝ともなれば各方面に強力な軍を置いて二正面三正面作戦は義務みたいなもんだが(現中国が沿岸部を守るべく第一第二列島線を目指しながら内陸のシルクロードを固めるように)
西周にその力は残念ながらなさそうだな。 少なくとも幽王のころにはそんな力はなかっただろうな。 >>122
主力軍は中原に駐屯してたのか?
じゃあ王都の安保を担ってた軍事力はなんなんだ?
>>126
つか古代の四方辺境に進出して諸侯守っても直接的な国益に繋がらんしな大赤字の王朝中枢が疲弊するだけ
近現代なら地方住民を雇用したりインフラ整えて物流を増やせば内陸地域発展の起爆剤になるし
インフラ建設担当する国営企業や軍需産業からの莫大な税金という形で金も回収できる >>127
122です
・王朝中央直轄の親衛軍、いわゆる虎賁(左右虎臣)
・関中王畿(畿内,陝西省)に点在する王朝直轄軍事拠点に駐屯する兵
・内諸侯(関中王畿の諸侯)の軍事力
正直言ってよくわかりません あーなるほど王都の守備すら諸侯の軍事力を頼らなければいかんシステムなのね
遠隔地なら兎も角近畿もそのザマではちと危ういな >>128-130
宣王がやらかしてるっつーか王の軍事支援と有力諸侯の力を合わせてようやく一進一退ギリギリの攻防になる位強い蛮夷の軍がヤバイ 共王以降は事績がほとんど伝わってなくて次は追放された刺王の時点でお察し 本当は資料がいろいろあったんだろうけど
史記書く時点では失われていたんだろうなあ 時代の下るうえに焚書という言い訳のきかない秦代の記述すら貧困ですし
殷周の資料製作力や史料保存意識を過大評価しないほうがいいと思われ
社会の生産力技術力は青銅器文化(クソデカ銅鐸等)が栄えた日本の弥生時代後半期と大差ないし多くは望めない 六師壊滅と昭王敗死で関中引きこもり化
↓
周王の威信が低下して徐々に諸侯への抑えが効かなくなる
↓
祭祀・礼制を強化して威信アップを狙う
儒教的な諸礼の基礎が表れ始める
↓
周軍弱体化が進み、諸侯の軍事力に頼るようになる
↓
それではいかんと脂、頃から東方南方経略を本格化
山林沼沢にもバシバシ進出して軍事費を補う
↓
周王と国人の諸権益が対立し、ついに国人暴動
脂、が追放されて宣王が擁立される
↓
宣王も脂、路線を踏襲しはじめる
関中内外の諸侯にも見放される
↓
幽王死亡、携王擁立
幽王死後に平王がすぐ即位してたかは怪しい >>139昭王の死後、穆王が外征しまくって領土的には西周の最盛期になったんじゃなかったっけ? たぶん某書のコピペ省略版なんでこまけぇこたぁ気にスンナ 穆王の事績は扱いが難しい
一応史実だけど歴史学的には・・・・・ 活発に軍事を行うことの功罪は、
しばしば論争の的になってきたよね。 殷の最盛期も周に滅ぼされる直前の紂王の時だもんなぁ。
滅ぼした側の周からはひどい言われようだけど。 領土拡大する為には戦争しか無い訳で、攻められる側からしたら、
ひどい王ってことになるわなぁ。
特に太公望は羌族で、羌の人は牧畜を生業にしているから、
あまり大集団にならず捕まえやすかったらしい。
卜文なんかにも、「羌を得るか?」なんてのが多いとか。
祭祀の犠牲や生産奴隷にされてた訳で。
ヤラレる方(太公望)にとっちゃ、たまったもんじゃないわな。
恨み骨髄でもしょうがないじゃね? 太公望の素性は不明だけど、姜姓だから羌族じゃないか、という説はあるね。
羌族は姜の別種とも言われてるから。
羌は二本足の羊の象形とも言われて、羊のようにお供えにされていた。
でもwikipediaによると紂王こと帝辛は羌族をお供えにするのをやめたらしい。
「3. ^ 陳舜臣『中国五千年』(上) 講談社<講談社文庫> 1998年 57頁。 陳舜臣によると、
生産が増えたために、殺害するよりも働かせた方がよいという判断したのか、羌族が昔に比べて
容易に捕獲出来なくなったとの説を述べている。」 >>146
宮城谷さんてより、陳さんの方かな?
>>147
完全に止めちゃいないよ。数減らしたけど。
陳さんの「中国の歴史」なんかだと、農業奴隷とか兵隊奴隷とか、
酷使したみたいなこと書いてる。
後、すごいことも書いてたな。
殷の人に、人間を犠牲にしたらひどいと質問したとして、
「え?!あれ(犠牲にする他の部族)は人間ですか?」
と答えるだろうって。
こんなのりで犠牲にしていたようだし。 陳さんが、奴隷が多かった証拠として上げてるのに、
殷墟の遺跡で、農具が大量に納められた倉庫の後が出土したことを
上げていたな。
そんなものがあるってことは、仕事が終わった後に農具を回収して
いた訳で、完全に奴隷たちは今の刑務所並みに管理されていたんだろうな。
軍隊の兵士もそうで、だから周との戦争も闘う気ゼロだったと。
殷が負けて解放されるのを待っていたと訳だ。 まあ自分たちとは違う民族や種族は
人間扱いしていないのは今でもそうだし そりゃあ周に負けるわなって感じだな
よく殷は何百年も中原を支配できてたなって思う >>143
なにか勘違いをされているような・・・・・?
それは近代的な歴史学ではなく前近代的な論争でしょう
扱いが難しいとは伝説的な穆王の事績を事実と認めてよいのかとい事です 史実論争と
評価論争が
同時進行してにぎわってるな。 >>151
殷は衰退と中興を繰り返してたみたいだよ。
衰えると遷都するを繰り返していたのは明かのようだし。
あと、殷の滅んだのは「酒の飲み過ぎ」も一因ってあった。
陳さんの中国の歴史には。
まぁ、それが正しいかどうかは不明だけれど、酒を主に、
贅沢になり過ぎて、その贅沢を続けるために、他を侵略して、
人や財物を略奪する必要があったと。
周公丹は首都で成王に付いていたから、領国は息子に治めさせて
いたんだけれど、その息子に政に付いて色々と指示しているが、
役人が酒を飲んだら処罰するとしておきながら、殷人は酒を飲むのは
しょうがないから、最初は意見しろってあるってさ。
周公ですら、殷人は酒飲みだから徐々に禁酒に持っていけと
考えていた訳だなw >>154確かに史記を読むだけでも殷王朝は何回か衰えてるし
殷王朝を再興した君主なんてのが何人か出てくるな 1つの王朝が何度も衰退と中興を繰り返すなど、他に例がない
実態は別王朝なんだろう アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世みたいにか?ありうるな。 >>157
確か、殷の王って十干を称した10の王族の持ち回りって説あったよね。
十干を氏族名?にしてるから、紂王は帝辛と称したと。
部族内部の抗争を続けていたのかもね。
遷都したのも、自分の力が一番強い領地に移していたのかも。 十干諡号は殷に限らず、主に陝東系の集団に広く見られてるから
十の氏族による持ち回り云々の仮説は成り立たない >>160
十干諡号が他の例があるとしても、それで殷のシステムを完全否定は出来ないのでは?
少なくとも、甲骨文なんかから明にされていることだと、非世襲で必ずしも、実子相続では
なかったとあるけれど。
史記(必ずしも正しいとは限らないが)の系図でも、兄弟相続とかあるだろ。
実は兄弟ではなく、他の近しい氏族からの襲位だったのかもしれないよ。 でも部族社会では兄弟相続って割とあるし、疑う根拠としては弱い。
十の部族って多すぎて如何なものか。新羅は三つの王統があるけど。 >>161
大馬鹿だな
殷王室だけでなく諸侯や小氏族に至るまで
十干使ってる氏族がみな10に別れていたとでも?
そんなこと言い始めたら姜斉も
初期は10の氏族が持ち回りで諸侯を務めていたと? だから、他に例があるけれど、それが殷のシステムと同じとは言えないでしょ?
殷が特殊だったのかもしれないし。
>甲骨文なんかから明にされていることだと、非世襲で必ずしも、実子相続では
なかったとあるけれど。
ここがポイントでしょ。
殷の封建制度がまだまだ発展途上だっのかもしれないし。
それに10の氏族全部が王位に関係した訳ではなくて、早くに滅んだ族もあるし、
中心なのは、ほんの数部族だったと主張されてるし。
他の意見を否定するばかりじゃ、進歩はないと思うよ。 本当にアホの子やな
十干諡号を使っても殷だけ持ち回りで
諸侯は違うとでも言うのかな? 原因「陳とかいう素人作家の本で古代史を語る時代遅れロートルどもに俺が近年の出土資料に依拠した最新学説を教えてやんよ」
中英板は極めて少数の人間で回してんだからここの住人はスレに出没する人種についてはなんとなく把握済だ
すぐに察して撤収しますよそりゃ >>152穆王の時代の青銅器が遠方にも発見されて
これは穆王が周王朝の領域を積極的に広げていた証拠であるという解説かなんかを見た事があるな 穆王が会った西王母は西王国の書き間違いっていう話も 西周の諸王でも実際は春秋五覇の事績と大して変わらんだろう
周辺の外諸侯には顔がきく程度 そもそも周王が直接支配できない土地を諸侯に委ね(押し付け)たんだから、
全土に強大な権力を及ぼしたということはなんいだろうな。 ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ 商は存在自体は神話
確かに商集落と青銅器文化は存在するが、集落規模が小さいのと、当時の中国の文明力的に商王朝、もっといえば周王朝は存在しなかった
まだ商は十分な農業社会を確立できなかったし、中国が農業+ちくさん開拓が進むのは春秋以降
そして鉄器による大開拓はおよそ戦国時代に始まった
よってそれ以前の王朝や文明史観は嘘
ルーツ神話としても嘘がある。中国は確かに先に商ー周ー沿岸人口が発達したが、規模糞小さくて
戦国前の北京ー周ー沿岸人口は50万にも満たなかった
しょせん開拓と人口拡大は戦国のしかも秦からはじまった文化で、秦以外は文化技術はあっても
殖産化と農業拡大に失敗した
というか秦の領土みればまるわかりなんだけど、中国の秦ってのは当時の農業圏+人口集中帯なんだ
その他の文化地域はまだらな農耕集落が散らばってるだけで、当時の日本やASEANの人口規模、農業規模、ブンド規模と大差がない
そして部族連合はあったけど、連合とすら呼べなくて
実質戦国といっても、秦1国王朝対部族の歴史に過ぎず、国家、連合と呼べない部族に過ぎない。
そして周ー商はどうも雑に作られたルーツ神話で歴史ではない。
中国史が史実として始まったのは、実質秦で始皇帝の7代前くらいからであり、そこからだね。
中原じゃなく、西安から歴史と文化が発達した歴史館がただしい 西周時代の金石文がもっと見つかって、
各諸侯の歴史が明かされるといいんだけどな 最近では邑姜の墓とされるものが発見されたみたいだが
続報がないんだよなぁ
まだ調べているんだろうけど 春秋の起年B.C.722からは、歴史と認めていいだろう
あんな資料を創作するのは難しいと思われる 問題は同時代資料が見つけっても書いてあることが事実かは分からない 金石文って滅多に書かないものだったよね
他の記録はないのかしら あるとしたら木簡とか竹簡だけど甲骨や金石と違って状況によっては腐るから難しい。
今の所出土してるのは戦国時代くらいまでかな。 ああ、石とかに残したのしか後世に残らないのは悲しい
実は当時も紙が流通していたなんてないよね 紙は漢の時代に発明されたからそれ以前には無い。紙が無いから竹簡なんだから。
それに紙だって腐る。紙が残る状況なら竹簡のほうが残りやすい。
後世に残すことを期待するときは石に刻むんだよ。石碑とか。
甲骨は後世の誰かに読んでもらうためじゃなくて占いの記録だからコピーとかしてないのに
ピンポイントで埋めた場所が掘り返せたから大量に発見されたけどそうじゃなかったら
未だに何も見つかってなかったかもしれない。
あと春秋戦国から漢くらいまでは絹布に書いたりもした。帛書と呼ぶ。馬王堆帛書とかが有名。
絹は高価だし傷みやすいから数は少ない。 石は最強ですね、さすがの古代中華もエジプトやローマ遺跡の圧倒的威容を前にすると色褪せてしまう。
しかし金石文や簡牘が残ってるだけでも有難いと思わねば。 風俗や建築物の想像図とか見る限り、ヴィジュアルはかなり地味な時代だね >>174
商王朝の頃って、新石器時代後期と変わらない部族社会だよね
ほぼ同時期の呉城文化からも同規模の遺構が見つかっているし、
後の権力者達が良い様に利用しただけ(特に支那共とかw)
ただ、文字に関しては商=二里崗文化が進んでいたのは事実
商周辺文化の出土記号が絵文字としての手段から抜け出せずにいたからな それでも周辺から見れば文明レベルでは圧倒してるんだよなぁ 殷のごちそうって何だろうね
松屋のカルビ以下なのかな >>192
商王朝だと、
主食は粟の饅頭に肉の煮込みや塩漬け肉
副菜は漬け菜
デザートは氷室で冷やした牛乳や桑・柿の他に桃が珍重された
あと、人肉たる双脚羊も忘れちゃダメ >>138
金文や遺構もそれなりに発見されてると言えるのでは
史記程まとまった文書はたしかにないけど
そういうのがあの当時でも豊富にあるのはエジプト、メソポタミア位じゃない? >>174
ソース一切なしでここまで妄想語るのも凄いね
まああれか、百田さんとかソースなんだろうか 西周の半ばっていうと繆王が西王母に会いに行った頃? 10 名前:学籍番号:774 氏名:_____ 2019/05/23(木) 21:23:34.59 ID:eyS//C2P11学籍番号:774 氏名:_____2019/01/20(日) 00:01:29.67ID:qZcjrSce
パイパンオメコ小宇根孝代の心臓が血ノ海 火の海 >>201
判らないから面白いんでないかい。伝説の駿馬が引く馬車で駆けて行ったってロマンがある。
ちなみにその時の御者が趙氏の始祖造父。巧みに御したんで趙城に封じられて趙姓の始まりとなった。 >>201
西王母=メソポタミアのバベルの塔があったあたり という説もあるが。 夏はシュメール
殷はインダス
有り得ないが絶対に違うとは言えない 恐らく夏は周のでっち上げ
何しろ王の名前からして殷のパクリになっている
似た名前の王が何連続もするのは偶然では有り得ない
どっかの国の王がジンム・スイゼイだったらおかしいだろ >>218
王の名は創作であっても、夏王朝そのものは実在したのではないかな?
王朝というほどの規模ではないだろうが。 そりゃ漢字を発明だか普及だかさせたのは商朝だから仕方なかんべえ。発音を商人に合わせてりゃ自然とそうなるわな。
むしろ歴代を悪行三昧ででっち上げなかっただけマシなレベル。 問題なのは、夏王朝の証明はできていない、文字がないからってのを適用すると
絶対に証明できないことになる
殷の文字はかなり進歩した状態だから前のがあったはずだ説もあるけど
武丁が三年でさっと作った可能性もあるし(優秀なら一気に作ることは可能かと)
もしかしたらインダスかどっかから持ってきた可能性もあるし
武丁より前の王で一つも発見されていないからないんだろうなあ、、、
巴蜀文字は文字じゃない説もあるけどヵなんとかって文字も
文字だったとしても殷とは無関係か関係薄そうだしなあ ウィキペディアとかで国の名前は発見されていない云々言っているけど
大邑商とかは言っているしギリシャでもアテネだテーベだスパルタだって都市名だけだしな
都市の名前だけしかないんだろう
帝乙が架空説もあるけど文武丁とかいて周で文武帝乙とか書いているんなら
それなんだろうなあ
何でも周の甲骨では殷王を衣王と呼んで、自分達の君主は王または周方伯らしいけど
この衣は国名?都市名?なのかな???
それとも周王を天王と呼ぶように何らかの衣を着る王ってことなのかな もし仮に夏がフィクションだとすると絶対的におかしなことが多数生じる。まず紀国などや穎川(司馬遷が記述)沿いの人たちが夏の裔と自称してたのは何だったんだという話。
そして姫周の一員とも謂うべき、鄭の子産が禹王を絶賛してたのは何だったのか。そこまで理想的だったかは疑うべきだろうが、逆にここまで被支配階層の始祖を持ち上げる必要もあるまい。 禹や啓、后羿などはエピソードが残ってて彼らを祖先と信じる人たちがいたんだろうけど、夏王朝の途中の王たちには名前もエピソードも残ってなかったから、殷の王様の名前かりて、時間的空白うめたんでしょう
そういう意味では連続性ってのは途中で途切れていたんだろうな、って思う 口伝でも系図は残るらしい
だけどエピソードは残らないとか
夏も殷もあったとしても全国政権ではないみたいだし
普通にあちこちに敵対勢力がいた
おまけに周を滅ぼしたけんじゅうとかも野蛮人扱いしていたけど普通に戦車を使っていたらしいし >>194
既に、キョウって字、一文字で、羊の下に二本足だよな
やっぱり、キョウは人間じゃなくて家畜だったんだろうな 高度な使い方でカシャクとか
そんなの文字がなけりゃ同じ音の使うぐらい普通にありそうなんだけど >>226
それって白川静説だっけ?
できすぎな感じするんだよね >>223
神の子孫を名乗るのもどっかのにほんにいるし
美化されたり、架空の人物を素晴らしいと言うのもよくある 二本足の羊が食用のヒトになったのはいつごろだろう? 殷の時代の甲骨文字の時点で杞国は存在しているのでこれが夏の末裔の国なんだろう
周の時代に再建された杞国は後杞とでもいうべき存在で殷の時代の杞は前杞だと思う
杞と啓は発音同じだし関係あるだろう
ただ杞を夏と呼んだのは周人かと 甲骨文字、卜辞で周の最古は周原甲骨らしい
しかし、東の部族と殷の討伐を共闘しようとしていたとか
要するに殷滅亡少し前ぐらいの記録しかない
季歴は王季とあっていたようだが王をつけたり本当に殷末期である
孤高担保は書かれてはいるが、同時代資料はないらしい
すると周が文字を知ったのは本当に最近でしかなかったようだ
殷も文字を隠し続けたのだろう
そうなると杞も夏の子孫だとしても記録できなかった
口頭の伝承もないのが気になるが、、、王名ぐらい残りそうではあるが
殷の王と似通っているということは、やはり伝わっていなかったのだろう 発音が同じというのは本当に正しいのだろうか
上古音の再現は結局は推定でしかないし有力な説でも3つぐらいあったりする
契丹古伝では殷は倭だと書いてあるらしい
またY染色体ハプロ遺伝子では殷は西、周と秦は東の出身らしい
バクトリアとかを夏と呼んで、ローマを大秦と呼んでいるのは
秦は夏より遠い地域という感覚なのではないだろうか
また、インダス文字が甲骨文字に似ている
殷も古代ではインダスのように短い文しか書いていなかったようだ
モヘンジョ・ダロの民族が殷人かは分からないが
甲骨文字がかなり高度に発展していると言うのならそれは元はインダス文字ではないだろうか >>230
最初からだよ
日本でも桓武天皇は死刑を廃止した
しかし、坂上田村麻呂が連れてきた蝦夷の王阿弖流為を処刑している
これは、要するに日本人は東北人を人間だと考えていなかったことになる
つまり、人種差別は許せないと言いながら平然と日本人差別をする欧米人のようなものだ
残念ながら、奴隷は人間ではなかった
基本的に性欲処理に使って飽きたらころしたり食肉にしたりする
犯した女が産んだ子も家畜としか考えていない
家畜だから平気で、男は去勢する
平気で足を切ったり、目を潰したりする
何の躊躇もなく、足を切れば逃げにくいだろう程度で簡単にやる
相手をかわいそうだとは少しも考えない
だって、奴隷は言葉が通じて性欲処理にも使えて食肉にもなる単なる家畜でしかないのだから 羌は祖先の霊に供える大事なお供えで一度に20とか30とか必要になる。
数が足りなければ狩ってこなければならない。単なる家畜とは違います。 孔子が生まれるより遥か以前の西周時代に既に杞は夏人を自称してた
だが三皇五帝は戦国時代初頭にまとめられた伝説だろう。
特に三皇は戦国時代以前にはさかのぼれない。
禹に関しても西周初期の金文から名が存在しているものの洪水神扱いで夏の始祖とはされていない。
神であって人ではない。夏人が信じていた神様の事でしょう。時代が下って夏人の末裔たる
杞人が禹こそが夏の始祖と言い始めたと。
天照大御神とかと同レベルの存在。実在の人物とは言えない。 >>235
それは牧場の牛もいるけどバッファローを狩りに行くようなもの
祖先の霊の多くのいけにえなんてたまにしかない 文字で分かるのは武丁から
殷の始祖の上甲とかは架空だろうし
武丁の数代前以前は分からないだろう 夏商殷周秦漢新漢魏晋宋斉梁陳隋唐梁唐晋漢周宋呉
意外に数が少ないな
玉璽を失った後晋の出帝が最後の皇帝である >>236
そこで私は三皇を三王朝の祖神説を唱えたい。順番が真逆になるが女渦は夏朝の、伏犧は商朝の、神農はずばり后禝だろう。
農耕と牧畜のどちらが先か知らんけど、安定性が高まったのはどちらが先かは充分に考察するべきと思われ。 >>238
逆にそこで「上甲微こそ契の原型ではあるまいか」と思えない己の貧弱な想像力を自嘲してなされ。 シュンが帝コクのことではないかとか
系図が矛盾だらけとか
無懐氏が黄色の前の最後だったり、フクギの前だったりする
よく考えたら公金等って黄帝と関係あるのかも カコウトンは14再でひとをころした
シンブヨウは13再でひとをころした 荘子は言った、「帰りなさい。私は泥の中で尾を引きずって生きるつもりだ。」と。 南海の帝王を儵といい、北海の帝王を忽といい、中央の帝王を渾沌という。 儵と忽とが、ある時一緒に渾沌の(治めている)地で偶然出会った。 儵と忽とは、渾沌の恩に対してお礼をしようと相談して言うことには、 「人には皆七つの穴(=目・耳・口・鼻)があって、それを使って見たり聞いたり食べたり呼吸したりしている。 (ところが)この渾沌だけには(七つの穴が)ない。試しにこの穴を開けてあげよう。」と。 一日に一つの穴を開け、七日目に(七つの穴を開け終えると)渾沌は死んでしまった。 現代中国のここ数十年の急激な発掘・研究により、後期新石器時代末期において中国各地で文化が発達し、その中の幾つかの大集落は都市文明の段階にまで到達していた。 新石器時代で最大の集落と言われる陶寺遺跡は中国では「最古の帝都」「堯の都」と言われている。 >>252
唐じゃなくて陶(姫曹の首都)なのかい? こりゃ根深いねえ。 >>254
ウィキでも普通に二か所にいてそれを並べた氏で呼ばれたとかあるよ
まあ、おそらくトウと発音していたのに別の字を当てただけだろうけど
※トウは仮の発音だから当時はタウと呼んだとか言わないでね 解説ありがとうございます。華々しいぎょうせきなんてどうでもいいから、当時の労働時間とか解明されるといいなあ。 >>256
官人は基本職場で寝泊まりでたまに休みをもらって帰宅みたいだよ
だからずっと勤務ではある >>257
もしかしてスパルタ邑の先駆? かなり厳しそうだなあ…… >>241
貴殿ゾ板にいたな?
考察スレで見た文体 もしかしてゾイド板? おれそこに書き込んだこと一度も無いよ。
まあ、世の中には思考が似た人もいるんだろうな。 >>262
犬ジュウも戦車を使ってたみたいだし
野蛮人扱いしていながら実質中原の人間とあまり変わらない
周の力も衰えていたしたかが申と犬ジュウに滅ぼされる程度だから いやー、犬戎はともかく申姜族が「たかが」はどうかと思う。なにせ屈巫に「息(姫族)と並んで楚の重要な防衛線」と言わしめたほどの連中だよ。 >>233
ソースは消されているけど最古の甲骨文は紀元前1620年頃のもの
天気予報でも儀式の記録でも祭祀の記録でもなく練習用の習字だから今後の発見が期待される
甲骨文の前段階と言うのは陶器記号が有力だが、
商王朝前期にモヘンジョダロ側から何らかの文字表記システムが齎されたのかもよ?
インダス文字の起源も最近では定説の原エラム文字とは別に先ハラッパー期(紀元前3200〜2900)の遺跡で
モヘンジョダロのインダス文字同じ記号が刻まれた土器が出土してる
恐らく文字システムだけをエラムから導入していたと思う
フェニキアアルファベット勢力が強くなる以前はシュメールとエラムの文字システムが地中海・北アフリカ・インドに加えて
東アジアにまで及んでいたならロマンがあるね それなら商より周や巴蜀の方が先に作成してないとおかしくない? 恐らくシュメール文字がインダス文字になってそれが蜀から殷に行った 蜀文字は甲骨文の祖である新石器時代後期・晩期の黄河中原の記号体系とは別系統だと思う
最古のものでも2900年前だからそれより古い前段階の文字が見つからないと無理かも 文字という概念がない時に最初に発明したのは凄いが
かなり古代でも牛や羊のマークぐらいなら書く気がする 巴蜀文字の初期はインダス文字に似ていると言われている。古来から蜀(成都)
巴(重慶)を古蜀と言い蜀と巴は時に争い時にまとまりを繰り返してきた。
最終的には両者は統一を果たす。
その古蜀王朝の南に昆明族と言われる部族が存在しており古蜀王朝からは独立した勢力だが交流は盛んであった。その昆明族の地からインドへの道が険しいながらも先秦時代より存在しておりインドと行き来できた。
中原からは遠いので殷や周はインドとは関われなかったけど、古蜀王朝は昆明族を通して間接的にインドとつながっている。 >>271
アメリカで黒人奴隷に産ませた自分の子を平気で売り払っていたよ
アメリカ白人の考えでは黒人やアジア人に魂はないから人間じゃない 人間の性欲って本当すごいからな
昔の娯楽のない、より野生に近い時代の人間なんて美醜関係なく若い女は襲われてたんだろうな >>273
石器時代で子孫を残せた男は15分とか17分の1らしいし
学者は綺麗事を言うけど
南米とかを見れば男はみなごろしにされて女は子供を産まされたってことだろうね 劉邦が五十六万の兵で彭城を落とした時は老婆から幼女までみんなおかされたとか
アフリカとかでも女も男もみんなれいぷされたとか >>272
黒人奴隷は奴隷であって家畜じゃないし
黒人奴隷に白人がいちいち欲情してたとしたら
アメリカは黒人ハーフの比率がもっと高くなってるはずだけどな そもそも古代中国で奴隷を持てる身分の男は平民以上の女に不自由しないだろう。
奴隷=性奴隷って発想は現代的な少なからず人は平等って価値観の上で尚且つモテない男の妄想に見える
奴隷を持てる身分の男が女なら誰でも良いってなるわけない 確かに奴隷持てる金持ちなら、良い女も寄ってくるだろうしな 大航海時代、船に羊や山羊を積んで性欲処理してた白人の性欲を舐めるな 忠武侯は英明高邁であり、長江のほとりで策を捧げ、
呉を引き寄せて蜀と連盟させ、我が朝を正統の地位につける算段をした。
遺命を受けて宰相となり、武備・文治共に整備し、
徳による教化を徹底させ、人々を導き風俗を美化し、
賢者も愚者も競い合って、皆その一身を忘れて奉公する事となった。
領内を落ち着かせて四方を安定させると、
幾度も敵地に臨み、その威光を輝かせて大国を消耗させたが、討ち滅ぼす事なく終わったのは残念である。
諸葛丞相を賛える どうしても偽善者を生んでしまう後漢の郷挙里選。
後漢の皇帝が、親政ができなくなると、途端に偽善者で、
実際の実力のない者が力を握る。
第二、第三の王莽が力を握るわけである。 なぜ光武は、東方で勝利したか。理由は、4つ。
1つ。光武の個人的な指揮能力。桃郷で、張歩をやぶり、臨菑にいった。
2つ。劉永、董憲、張歩の連盟が、ゆるかった。光武が睢陽を数ヶ月かこんだとき、救わなかった。蓋延は、劉永の部将を斬ることができた。さいごには分散して、平定された。佼彊、蘇茂、周建など。
3つ。東方の勢力のもと、地方の守令がそむく。劉永が淮陽でやぶれ、虞県にゆくと、妻子を殺された。サン県の慶吾は、劉永を斬った。周建が死ぬと、子らは入城をこばまれた。張歩と蘇茂が、斬りあった。
4つ。東方の勢力は、兵糧や輜重をかろんじた。寇恂のように、つねに供給するルートがない。2回目に光武が劉永を淮陽でかこみ、城中は食い尽くした。029年7月、光武が昌慮で戦い、五校をまねく。五校は食い尽くして、撤退した。董憲は朐県で、食い尽くした(張歩伝)。光武紀は、029年に斉地をたいらげてから「田畝をふや」した。光武が生産を回復しないと、東部は飢えた。陳俊伝で、百姓はよろこんだ。耿弇は、張歩12郡をとり、10余万をえてから、郷里に返した。農民は流亡して、生産ができなかった。 >>282
まあ要するに光武とそのブレーンが優秀だったということだな。 >>276
ほぼ100%白人の血が混ざっているらしいよ >>277
何かで族滅になった場合に、奴隷は入らないから
奴隷に子供を産ませていれば、族滅されても自分の血を残せる >>271
3日抜かないとおかしくなるよ
>>273
見た目とかより味が大事 現在のアメリカにいる黒人のほとんどが白人の血が混ざっているらしい 九年たっても洪水は治まらず、何の成果も挙がらなかった 有蘇氏は『封神演義ほうしんえんぎ』でもよく知られる妲己だっきの出身氏族です。後年は「有」の字がなくなり「蘇氏そし」となり、戦国時代には秦に対抗するために6ヶ国の合従を説いた蘇秦そしんを輩出しました。 魏滅蜀漢之戰 季漢防衛線 戸数二十八万 口数九十四万 兵士十万二千 官人四万
漢城 兵力五千
護軍 綏武將軍 蔣斌
樂城 兵力五千
監軍 王含
陽安関 兵力五千?
關中都督 傅僉
(前)武興督 蔣舒
漢中黄金囲 兵力五千?
黄金囲督 柳隠
剣閣 兵力四万~五万?
(左?)大將軍 録尚書事(領益州刺史?)平襄侯 姜維
仮節 右車騎將軍 并州刺史 中郷侯 廖化
左車騎將軍 冀州刺史 都亭侯 張翼
輔國大將軍 平尚書事 南郷侯 董厥
成都召還 兵力三千〜八千?
巴東都督 右(大?)將軍 閻宇
巴東 兵力二千
巴東太守 羅憲
南中六郡 兵力五千〜一万?
監軍 安南將軍 建寧太守 霍弋
江由関 兵力五千?
守將 馬邈
涪城 綿竹関 兵力一万?
行都護 衛將軍 平尚書事 武郷侯 諸葛瞻
武郷侯世子 諸葛尚
尚書 張遵
尚書郎 黄崇
羽林右部督 李球
成都城 兵力二千?
漢皇帝 劉禅 封神演義は中国4大奇書から外れるけど
5か6番目に数えられる知名度だよね? ヘ耆麟馭叡阿解治巫軻牟。曰芝辣漫耶。~祖初降于此故稱曰秦率母理之京。 一例として、杜甫の「春望」の前半部を挙げてみよう。
国破山河在 国破れて山河在り
城春草木深 城春にして草木探し
感時花濺涙 ときに感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨みては鳥にも心を驚かす
さて、この詩は日本人から見れば、こまことに情緒たっぷりに描かれているように思えるが、それは漢詩を「日本語化」しているからに他ならない。つまり、日本語の中にある情緒が、漢詩の読み下し文をも情緒的にしているだけのことである。 日本人は、故国を失った杜甫の心境を「想像」し、彼に同情するが、杜甫自身は、この詩の中で、彼自身の内面を長々と書いているわけではない。いや、漢文という表現形式上、それは書けない。
たしかに、この詩には「感」「恨」あるいは「驚」という、感情に関係した文字が使われている。しかし、これらはまことに平凡な文字であって、なにも詩人ならではの創意があるわけではない。
日本人が日本語で、これと同じように平凡な表現をすれば、「月並み」と評されるはずだ。だが、漢詩の場合には、それ以上のレベルの情緒を表現することは技術的に不可能なのである。 四大奇書とか令和になっても未だに安納努にだまされてる奴がいるのか 匈奴はトルコ系
匈奴はトルコ人
匈奴はテュルク
匈奴はツルク
匈奴は北方民族 ほかに、
上党、斉、隴、洛陽盆地、郢(のちの江陵。楚の都)といった
エリアもある。
しかし、他エリアとの関係性が深く、
独立しきれるかというと歴史上微妙なので除外する。
それぞれ秦の始皇帝が天下統一するまでは割拠独立できたが、
それ以後はできなかった。 ほかに、
上党、斉、隴、洛陽盆地、郢(のちの江陵。楚の都)といった
エリアもある。
しかし、他エリアとの関係性が深く、
独立しきれるかというと歴史上微妙なので除外する。
それぞれ秦の始皇帝が天下統一するまでは割拠独立できたが、
それ以後はできなかった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
三監の乱
これは周王朝にとって実は最も重要な戦い。牧野の戦い以上に重要だと思うね。
この戦いを制して周王朝の覇権は確立されたようなもの。
複雑に入り乱れてて何かと興味がひかれる。 かん、さい、かくだっけ?
実際は殷の自発的な反乱だったとも言われてるけどどうなんかね 殷代甲骨文によると、殷代の領主層には「侯・伯・子・婦・田・老・師・亜・小臣・䑳・邑」等
の複数の君主称謂があり >>304
そういうのもっと知りたい
どこで調べればいいの? <反周の三監軍>
殷の武庚(紂王の息子)
管叔鮮(三監:周公旦の兄)
蔡叔度(三監:周公旦の弟)
霍叔処(三監:周公旦の弟)
應(殷とつながり深い諸侯)
薄姑(殷とつながり深い諸侯)
奄(殷とつながり深い諸侯)
唐(殷とつながり深い諸侯)
菅(殷とつながり深い諸侯)
蔡(殷とつながり深い諸侯)
+
徐(殷とも周ともつながりはないが周に反抗した諸侯)
淮夷族(殷とも周ともつながりはないが周に反抗した東方の夷人) <周王朝>
成王(周王)
周公旦(周摂政)
召公奭(周とつながり深い諸侯)
斉太公望(周とつながり深い諸侯)
衛康叔(周とつながり深い諸侯)
魯伯禽(周とつながり深い諸侯)
召(周とつながり深い諸侯)
北燕(周とつながり深い諸侯)
薛(周とつながり深い諸侯)
宋(周に味方した紂王の息子) >>306
熊、逄も(殷とつながり深い諸侯)追加
>>303
春秋系統や竹書紀年やそれに先立つとされる逸周書では史記と同じ記述だが
楚の歴史書とされる清華簡『繋年』に異説も載っているね。 重複削除と追加をしたので三監軍を訂正します
<反周の三監軍>
殷の武庚(紂王の息子)
管叔鮮(三監:周公旦の兄)
蔡叔度(三監:周公旦の弟)
霍叔処(三監:周公旦の弟)
應(殷とつながり深い諸侯)
薄姑(殷とつながり深い諸侯)
奄(殷とつながり深い諸侯)
唐(殷とつながり深い諸侯)
熊(殷とつながり深い諸侯)
逄(殷とつながり深い諸侯)
+
徐(殷とも周ともつながりはないが周に反抗した諸侯)
淮夷族(殷とも周ともつながりはないが周に反抗した東方の夷人) 鯖移転してスレッド順ぐちゃぐちゃになってるなage >>305
立命館の何とか秀樹さんがそういうの色々やってるみたい >>310
牧野の戦いは一瞬で決着ついたみたいだからね。殷が東方の反乱鎮圧で疲弊した所を
突然周が寝返って奇襲かけて一気に倒した感じだし。大掛かりな本能寺の変みたいなもんだったかも?
まだまだ殷派の勢力が大勢の残ってたから周の天下を認めない奴らが沢山いたのだろう。
周はルーペで見ないと読めないような小さな甲骨文字で反殷諸侯に共闘呼び掛けている。
なぜあんな小さな文字かと言うと密書だからデカイ文字だと押収された時にバレてしまうからだろう。
小さい文字だったら殷の役人なんて「なんだたの骨か」で済まされる確率が高いしね。 役人ぐらいだと字が読めなそうだしね
ただ、主力が東方に出たすきをだったし
その後の三監の乱とかも
敵の中枢を討ち果たしても軍の主力が健在という結構やばい状態 考えてみると、周の武王は言ってみれば成功した明智光秀だったのかもね
そうだとしたら殷に豊臣秀吉が居なかったのは幸いした。
周原で見つかった甲骨文字が待針で書いたような小さい字でこんなの読みにくいのに
なぜと思ったけど、内容が他の諸侯に打倒殷を呼び掛けているような奴だったから
殷に悟られないようにわざとあんな小さな文字にしたのか。 紂王は信長系統の能力と性格してたんだと思う。だから史記とか封神演義の無能な暗君
と言うのは周が紂王を打倒したことを正当化するために矮小化したものだと思う。
甲骨文字だと積極的に東方遠征繰り返しているしかなりやる気満々。
堕落して遊び惚けてたという事は無いだろう。ただ苛烈な性格は周囲から恐れられる。
やられる前にやってしまえと思う奴も出てくる。 紂王は信長系統の能力と性格してたんだと思う。だから史記とか封神演義の無能な暗君
と言うのは周が紂王を打倒したことを正当化するために矮小化したものだと思う。
甲骨文字だと積極的に東方遠征繰り返しているしかなりやる気満々。
堕落して遊び惚けてたという事は無いだろう。ただ苛烈な性格は周囲から恐れられる。
やられる前にやってしまえと思う奴も出てくる。 発達障害説もあるね、曹操も
言葉で言っても一般人に伝わらなかったりする
学歴の話はやめてくれと言っても
大学のサークルでとか高校の部活でとか >>318
いまの信長って周旋能力の化け物と認識されてるけどな…… 美化もあるけど意外に保守的って話もある
有名人は美化される傾向にあるから >>314
軍の主力が東方にいたらしいのと
三監の乱が実は遥かに激しかったらしいから
殷の中枢部は落とせても、強大な軍事力は残存、東邦諸侯もそのままなんだよね 克殷よりも三監の乱の方が大戦争だったそうだから
殷の国力がかなり温存されていたと思う
後の世で言えば首都を落とされただけで各地は健在
主力は東方に行っていたから周連合軍と戦ってもいない 三監の乱の経緯
序盤戦:周公旦の兄と弟である三監が周公旦に反乱
↓
中盤戦:武庚が周の混乱に乗じて殷の住民とともに挙兵
↓
終盤戦:異民族である淮夷族を討伐
と3段階に分けられると思う。序盤戦の頃は周王室の内紛みたいな感じでどっちも本気で相手を
殲滅しようとしてたわけじゃないから小競り合いの連続に終始してたみたい。
だがこれに殷の復興を唱える勢力が挙兵したので途中から大戦争に変わった。
最初の頃それほどまでに戦争の規模が大きくなく、周軍も適当に戦って一度撤退しているし
これは最初は相手が身内だったからだと思うね。でもそれどころじゃなくなったと。 周は短期間に三回に分けて侵攻している。一回目は本当にただの小競り合いで終わっている。
二回目からが本当に殷の残党との戦いだろう。三回目は遠くまで進攻してて現地の淮夷族
との戦いが主目的。 残党と言っても、殷の主力軍と戦わずにだったから
劉邦が彭城を落としたけど強大な楚兵はそのままってのに近い状況かと そう言えば、王子聖を旗頭にだから、殷の残党は分裂しないで1人の下になんだよな なるほどねえ
孔子が周公旦が尊崇することこの上なかったのは孔子時代の魯国が三桓による本家凋落を周公旦に習って納めようという意思表示でもあったのかも知れんね 封神演義では紂王の息子二人が登場しており武庚と微子啓の兄弟がモデルで
子供として描かれるケースが多いが実は二人とも成人らしいね。
武庚は三監の時に反乱起こして、微子啓の方は周に付いて後に宋に封じられる。 封神演義で殷侯とか言われてた息子達
王子聖をろくし聖とかろくしコウともいうから
その音が伝わったのかな >>330
武庚は紂王の息子だが
微子啓は紂王の兄だべ 封神演義だと微子啓と微子●(忘れた)の2人が兄として登場してなかった?
読んだのがずいぶん昔だからあんまり覚えてないけど何か2人いた気がする 封神演義においては微子啓と微仲ではなく仲衍でもない微子衍と
さらに紂王の伯父の微子に比干の息子の微子徳なんて四人もいる
あと殷郊と殷洪兄弟とは別に武庚はちゃんと存在してるし
殷郊は太歳が北宋あたりに擬人化して神格化された殷元帥が
元代あたりから殷てついてるから殷の紂王の息子設定ができたとかそんなんだぞ >>332
紂王が先王を文武丁としていて
殷侯王子聖も丁の子らしいから紂王の弟かもしれない 封神演義とかの物語系も含めていろいろごっちゃになっているよな〜
中国人でもだいぶ紛らわしいみたいだし
三国志演義以上に神話とか物語性が強いしね。はっきりいってファンタジーだし。
でも歴史的事実もちゃんと描かれているから完全架空でもない。 >>319
信長もずっと暴君扱いだったからね
改革的あるいは保守的な面がクローズアップされたのはつい最近 >>337
明治時代の書物では暴君扱いは既にされてないけどね 帝乙は恐らく文武丁の音だけ聞いて文武帝、ぶんぶてい、ぶんぶていい
ていいつか>?ってかんじのまちがいかもしおれn 文武丁なんて文と武を両方使うわけないだろってのが卜辞に刻まれていたわけだし まあ文が先代のって意味かもしれんけど
太丁って方が合ってそうだし
文武丁みたいな文と武を両方使うなんて間違いだろと思われたのかも まあ文が先代のって意味かもしれんけど
太丁って方が合ってそうだし
文武丁みたいな文と武を両方使うなんて間違いだろと思われたのかも
もしくは文丁と武丁よとかって意味だったりして
でも殷の紂王は先王を文武丁って一貫して読んでるんならやっぱり
文武丁が正しいんだろうな 古舘伊知郎 ズバリ! 4630万円より「コロナ予備費の使途不明金11兆を追及すべき」
://twitter.com/tospo_prores/status/1529357726299860993?s=20&t=fOnwm7XIjSUBYBS0bWKWIw
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 炎帝の子孫が武王に封建されてるってのは後世の創作かね どの時代からあれ創作されたんかねぇ
三皇五帝の子孫が封じられたのは 漢初に封じられた殷の子孫とかも冷静に考えて見つかる訳ないよな 殷の子孫を名乗る子孫だからセーフ
孔子も殷の子孫じゃなかったっけ? >>352
あれは孔子の妄想というか推察だったはず >>350
おそらく春秋後期から戦国時代だろうね
漢以後は基本的に古代を鵜呑みにするようになる 漢(蜀漢)については、記述が少なく実態はわかりにくい。
しかし、諸葛亮が漢中において兵を屯田させていること、
丞相府として開府していることから、
丞相府統括としての隋唐におけるような府兵制となっていたのではないかと思われる。
諸葛亮の蜀漢における絶対権力、
軍事上の機動性を考えると、その可能性が高い。
劉備の死後、全ての軍隊が諸葛亮の統括にしか見えないのはそのためである。 卜辞に、王 作る 三師 右 中 左とある
二十等爵の更の序列も右、中、左の順である なんかありらこちらに書いてるっぽいからただの連投荒らしだと思う 加上説じゃないけど後世に創作されすぎて実像が掴めない 科挙の勉強法から
理解して暗記するのは無理だと分かった
覚えた後でないと理解できない 夏の末裔とされる杞は甲骨文字にも登場する(多分夏の本当の名前は二代王の啓と同音の杞)
が三皇五帝の内、三皇は戦国末期で五帝が春秋中期を遡る事はないようだ。
おそらく後から何らかの伝承をまとめて三皇五帝としたのだろう。 >>363
二千年前に生きてた光武帝から見てさらに一千年前の出来事だもの
武王やら周公やら名前が残ってるだけでも凄いよ 禹=神武天皇
黄帝=天照大神
神であって人間ではない 王子聖を天子聖と書いているものがあり
天子は大子であり、大子は太子を意味する
つまり、殷では、天子は王より格下であった
正確には次の王になる人のことであった 伯夷叔斉って儒教の聖人ってことになってるけど
父の遺言に逆らって国を捨てた叔斉は不孝ではないの? むしろ主君の悪逆を止めようともしていないし
忠義に凝り固まった老人だから
嘘かもしれないけど君主が人を斬りたくなったら黙って首を差し出すのが何進の務め
紂王が悪逆でも反抗してはいけないだからね ×何進
〇家臣
主君が悪逆でも家臣は反逆してはいけないって価値観
親が毒親でもやっちゃいけないように Q 親の罪をとがめない舜をどう思いますか
A 背負って尭の治世が届かないところまで逃げろ 孝は忠より明らかに上らしいから
親と主君なら迷わず主君をやれが儒教の価値観だから
この宗教?は物凄く山賊・盗賊・極悪人であっても
日本と違って親〇しは許されない 文王の子で伯邑考だけ異質な感じが凄い
名前の意味すら謎だし 武王の弟達は皆、国名叔だから
叔は弟で、武王が仲、次男で
長男は伯だから、伯の邑である考さんか
考という領地を治めている伯、兄さんって意味じゃ? 他の兄弟を見るに伯は長男の意だろうが、邑と考に関しては正直よくわからん
両方とも諱なのか
片方は何かの称号なのか >>381
伯の字も排行(兄弟順)、名前、字(あざな)以外に色々使われて
爵位、国名、氏族名、姓(名字・家名)や覇者とかあり過ぎてね >>380
姓をつけて呼ぶか呼ばないかも色々だしね
周公旦もブオウノオトウトデナクべつしぞくせつあるしね >>385
名前の後に姓とかってのも古代にあったし
王〇とか、后〇とか、侯〇とか、君〇みたいな言い方もあるし
殷も大邑商とか天邑商とか王邑とかで
普通〇邑なのに邑〇って言うこともあるからねえ、、、 さっき書けなかったけど
英語でアルファベット3文字か4文字の略称を
ヴイ・アイ・ピーみたいに言ったりオペックみたいに言ったりで
アルファベットで読むのと続けて単語みたいに読むの両方あって
非ネイティブにはどっちにするか区別が分かりにくい
語学の勉強でそっちの人には言いやすいからそうなっているのが
非ネイティブにはこの場合はこうでと覚えないといけないのとか ついでに叔も弟の意味で言っているのと叔父の意味で言っているのがあって紛らわしい
酷いのになると大敗と書いて負けたのと
敵を大いにやぶった、つまり勝ったのと両方あるんだよなあ・・・
殷では父は父世代の全員に使われる、つまり伯父・父・叔父の区別がない・・・ >>386
上古の帝は◯帝じゃなく帝◯っていうしね 帝〇、例えば、帝雲とかもいるけど、雲の帝なのか、帝の雲なのかも分からん
帝または上帝っていうけど、全てを束ねる者だから、帝だけで最高神っぽい
帝臣とか帝五玉臣ってのもいるけど >>386
ちょっと違うけど
下って春秋中期、(百里)孟明視、西乞術、白乙丙という風変わりな三人組が登場するしな 春秋時代は(後世からみると)変な名前の人が多い
四文字もざら >>392
一文字だとシューとかジュンとかみたいなのばかりになるからじゃね もともとは長めの名前を持つ文化がわりとあったけど徐々に滅んだんだろうな 孔子に関するエピソード読んでると
お前本当に中原の人かと突っ込みたくなるような複姓複名のオンパレード 中原自体が、河を下ったり河南平原を抜けてきた征服者の植民地ですからねぇ 春秋期くらいの中原は被征服民的な存在もまだまだいただろうし
衛が蛮族に敗走して中原を逃走するような時代だし
後世よりも言語が多様そうだな >>398
公山ひかくとか叔孫なんとかとか季孫、仲孫、司家なんとかとか 孔子で気になるのは魯公が出産祝いに鯉を贈ったって逸話
嘘っぽいけど長男の名前を孔鯉にしてるんだよなあ
その時、孔子は18か9で小役人だったはずなのに
平社員の子供が生まれるから贈りものする社長ってのも珍しいのに何でだろ?
孔子の家は名門?とんでもっぽいけど実は季孫氏の子説が正しい? >>401
名門とはいえないと思うけど
系譜を信じるならそれなりの血筋で下級貴族以上の家ってことになるかな 孔子の子供が生まれた時に鯉を贈ったのはドラマとかでも出る逸話だけど
魯の君主がわざわざ下役人の出産祝いを贈るってのが何かおかしい
全員に贈っていたとしたら、かなりの負担になるだろうし
やはり、身分は低いけど何か特別な存在だったのかなあ なにかきっかけがあればあり得ない話じゃないが
まずは後世の潤色を想定すべきかと
孔子にまつわる話を創作したい人は山ほどいたろうし 孔子が魯公の愛人だったという説もありえるのではないですかな?
塚本青史なら、これに麻薬もからめて濃厚なホモのキメセクを書きそうだワァ! 壺ウヨが出す話はみんな古すぎるんだよなあ
そろそろ頭アップデートしろよ 夏の末裔とされる杞は甲骨文字にも登場する(多分夏の本当の名前は二代王の啓と同音の杞)
が三皇五帝の内、三皇は戦国末期で五帝が春秋中期を遡る事はないようだ。
おそらく後から何らかの伝承をまとめて三皇五帝としたのだろう。 王子聖を殷侯として商侯としなかったのは商の名を使わせたくなかったのだろう 周原甲骨で周方伯や王と呼んでいるのに周侯と呼ばないのは
侯は良くない意味なのだろう 公子嬰とあり、秦王子嬰なら
公子子嬰の子子と子が続くのを間違いと誤認したのではないのだろうか 公山不擾が費という町でクーデターを起こした時、孔子様を招聘した。 歴史書は「ひとつの時代が終わった」と考えたとき、作られる。 『マレー年代記』は、ポルトガルにマラッカを陥落させられたときに作られた。『日本書紀』は、7世紀の白村江の戦いを動機にして書かれた。
『マレー年代記』がそうであるように、歴史書が作られた時代の状況は、よく伝える。歴史書が描いた、対象の時代の状況は、分らない。
陳寿『三国志』に当てはめる。三国後期や西晋は分るが、後漢末は分らない、ということになる。 『魏志倭人伝』は孤立した記録だ。3世紀の中国を知らねば、どういう偏向がある記録なのか分らない。 ____
,. -'"´ `¨ー 、
/ ,,.-'" ヽ ヽ、
,,.-'"_ r‐'" ,,.-'"` ヽ、
/ ヾ ( _,,.-='==-、ヽ ヽ、
i へ___ ヽゝ=-'"/ ● _,,> ヽ
./ / ● > ='''"  ̄ ̄ ̄ ヽ
/ .ヽ-‐´''" ヽ i
/ i 人 ノ l 明教大要!
,' ' ,_,,ノ `─-‐' ヽ l
i `、 _y──‐ l /
', i_/ / _ ' /
ヽ、  ̄ ̄ /
ヽ、_ /
`¨i ヽ
/ ヽ
/ ヽ , -yー 、 ////
ハハノハxィハ ////
从{ト,ljr_7}}} ////
乂ハ r┐从ト- 、 // n/ 持 み
r< レ}ー }ド’ 〃ヽ// r「l !
′ l ト-イ {{/ //`¨′ っ ん
/ ! j l / //
行 / / / |/ // た な
/ / / ////
. く 〈 { / // /! な 丸
. \///// │
ぞ 〉 , -‐ | ///| }l !! 太
く ∨ r-L_ / 人 ハ
ォ >ー-{ r’7ーく \/\ は
// >┘/ \ \
. !! // // / \ \ _____
/ \
/ \
/ ‐-、 ,.-‐ \
/ ., ーヽ ,'. ー-、 \
/ ( (℃) l l i℃) ) \
| `ー ノ ヽ.ー ' | マニさんは、
| "⌒(____人____)⌒゙ | フレーシュタグ・ローシュン(光の使者)なんだお!
. \ |,/⌒'⌒ヽ| /
\ l j /
/ `ー--‐''´ 〈 _____
/ \
/ \
/ \, ,/ \
/ /´ `ヽ /´ `ヽ \
/ ( ● l l ● ) \
| ヽ_ _ノ ヽ_ _ノ |
| ''"⌒'( i )'⌒"' | 仏夷瑟徳烏慮?。本国梵音也!
\ `┌,─'^ー,,-┤ /
\ `ー -- -一' /
/ \
/ ̄ ̄ヽ; ヽ
(「 `rノ |
ヽ ノ i |
i´ ̄ ̄`i l | _____
,..-‐-、__ / ヽ / \
/ ヽ // ,.-、ヽ ' /,..-、 ヽ
/ '´`ー―−イ / ヽゞ-' ノ ヽゞ-' ノ ヽ
. / ./ ̄ \ } ./:::::::⌒ i´ 人 `i ⌒::::::::::ヽ 摩尼光仏!
/ ', -、 \.ノ―、| `‐‐' `--' |
. / / \ ヽ l| |-‐┬‐-| | マニさんは光の仏陀なんだお!
/ ヽ \ / l \ ヽ___/ /
./ 入 .}‐〈 } __\ /
/ < _,イ__,-`ー ':.:.:.:.:.:.:.ヽ`ー―‐.、 .,..-‐‐ト、
\  ̄ /|:.:.:.:.|:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:|:.:.:.:.:.:.:.:.:.:\ /:.:.:.:.:.:l:.:.\
`ー――‐ ' |:.:.:.:.|:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ト、:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ヽ ':.:.:.:.:.:.:.l:.:.:.:.:.ヽ 通り魔を頭のおかしい異常者扱いして安心しようとする世間
通り魔は普通の人間である 勇者とは勇気ある者・・・!そして真の勇気とは打算なきもの!相手の強さによって出したり引っ込めたりするのは、本当の勇気じゃない!! 三監の乱って調べてみると思ってた以上に大きな反乱だったんだな
下手したら周王朝も殷滅ぼした後にすぐに滅んでたかも そもそも本当に三監が反乱を起こした側なのか疑問視されてるね
史記よりも古い記録では三監は旧殷に滅ぼされている側だったり 反乱だとまずいから内部の争いということにしたってのがね 漢も隋も統一直後に乱で滅びるかもで上手くいったか失敗したかの差だね
秦も持ちこたえれば秦が続いたし
漢も呉楚の乱とか普通に滅びる可能性あった >>451
極少数ならいるんじゃないかな
日本でも豊臣さんいるし
直径ではないだろうけど
孔子の妻のケンカン氏は歴史上この人1人しかいないらしいけど 見落としがちだが、董卓への叛乱は、王匡がはじめた。 外戚の争いを演じ、皇帝を取り替えたのは、梁冀も董卓も同じ。 世民 は 『公羊伝』隠公六年 にある 「天子 は三公 を公 と称 し,王 者之後 は公 と称 し,其 の余大 国は侯 と称 し,小 国は伯 ・子 ・男を称す」(代) の 「公 ・侯 ・伯子男」 の三 等制が金文資料 の内容 と類似 す るこ とを指摘す る。 三監の乱の三監は史記より大分古い竹書紀年でも反乱起こした側と書かれているし当初は
単なる周王朝内の小規模な内紛程度だったのが、三監を討伐した直後に殷の遺臣の反乱に
変化したって所かと。三監が被害者説もあるけどね。でも別の資料でも三監が乱後に処罰された
とも言われているし何もしてなかったとは思えない。 歴代王朝の統一前後はよく王族の身内で内紛が起きるケースが多い。また反乱起きる前に
さっさと身内を討伐して反乱を未然に防ぐケースもあるしね。 広義の意味での「三監の乱」はおそらく最初の1年目の小競り合い程度で終わっている。
2年目から戦争が本格化しているし、周王室の内紛→殷勢力の反乱→異民族討伐と段々
拡大している感じ。三監が反乱したのが呼び水になって大規模な戦争になったと思うね。 >>456
西晋も王族同士の内紛で自滅したしね〜
統一直後は有力な親族をどう抑えるかが重要だね。前漢はどうにかうまくやったけどさ
統一直後に親族が反乱起こしたり処罰したりのオンパレードです、王朝を長続きさせるには
親族との対立を抑えることがまず重要になってくる。 本当は別姓でも文王の子供として擬制血族になってるやつ多そうだよな >>466
どちらにもメリットデメリットがあってどちらを選択する方が良いのか見極める初代の感性は長く続くかどうかに対して大きな影響を与えるね