なぜ趙括さんは英雄になれなかったのか?
名将の子で、幼い頃から兵法を学び、議論すれば父をも論破する。
そんな天才児がどうしてこうなった…… 趙の方が本国に近いけど山越えルートだからな
秦に兵站確保を許したのは痛手 趙括の相手が王齕だったならどういう結果になっていただろうか 相手が誰だろうと国力がダンチ過ぎるからどうあがいても秦の勝ちだろ。
長平はペナントでぶっちぎりの優勝が決まった後の消化試合みたいなもん。 後知恵で考えると、秦より強い超大国だった晋が3つに分裂したのがダメだったような気がしる
一国じゃ秦に対抗できず対立して足引っ張り合って、最後は全部滅ぼされた 「鶏口となるも牛後となるなかれ」だから、みんな君主の立場になってみたいんだよ。 まあ紙一重って奴だ
秦の脅威を魏だけで抑えれていれば
北方に雄飛した趙なんかは中原を気にせず
漠北を席巻する超大国になったかもしれないし
もう100年戦国が続けば朝鮮半島をジワジワ南下してた
燕なんかも面白い存在になったろうな >>204
晋が最大強国だったのは春秋中期まで
末期は楚や秦の方が強国 昭襄王(宣太后)、魏ゼン、白起
この人たちの六国戦力削りが異常すぎた
それまで10万前後の損害なんか無かったのに 春秋時代は勿論
戦国中期と比べても桁違いだよね
さりげなく義渠王を殺して義渠を征服する宣太后こわいぉ 韓の上党太守だった馮亭さん(趙:華陽君)
趙括さんと共に秦軍を防いで戦死してるのね 漢書:馮奉世伝より 趙括の初の実戦でいきなり無敵の白起が相手なのはいくら何でも相手が悪すぎる
まずは並の将を相手に戦って少しずつ実績を積んでいけばまだいくらかマシな結果だったかもね 韓信は指揮官としては初の実戦で章邯フルボッコだからな 例え初陣で大勝を挙げても諸葛恪みたいな例もあるからな >>215
章邯は名将だけど人材粛清されまくった末期の秦基準だからなあ
白起達とは比べられない気がする 韓信は項羽の下で結構経験積んでたと思うよ
諸葛恪は山越や対魏戦で経験豊富、東興では大勝と愚将ではないな
呉の歴史上最多の大軍を率いて北上し、東興の傷が癒えぬ魏軍と戦い大惨敗したのはアレだが
対応した毌丘倹さん手強いし 合肥って呉にとっては鬼門だよね?
過去にも張遼にフルボッコにされてたはず 趙括さんって今で言えば
宮沢喜一
鳩山由紀夫
菅直人
的な評判倒れの無能政治家みたいなもんですね
口だけ達者なのも能力かもしれませんが 抜群に無能な政治家とそれに比べればマシな政治家なら 日本は優秀な兵隊がいるだけで
昔から指揮官は無能と相場は決まってる
その兵隊さえもゆとり教育と労働市場の解放で蹂躙されて崩壊した ある意味初陣でマリアナ沖海戦に出た艦攻パイロット並みの悲惨さだな ・敵は白起
・相手を上回る超大軍だが前任指揮官の連戦連敗後なので状態は悪い
・遠征かつ篭城中なので兵站線は厳しく本国でも兵糧が逼迫
・秦王が新たに徴兵した秦の大軍が長平に向かいつつある
趙括の目標:秦軍を破り、秦が進めつつある上党郡の領土化を阻止する 前から思ってたけど
趙側は兵力を抑えるべきだったよね守りに入るなら
長平の守りは10万ほどでいいじゃん
えっ廉頗が守り切れない?そんなの知らん 前任者をディスって超括を擁護しようというんだろうがどうやったって無理ですから
あきらめなさいって 白起レベルでも城や砦ににこもられたらどうにも出来ない見本が長平 白起さんは城落としの名人だぞ
廉頗の砦は王コツが普通に攻略していってるから兵力が少なければ危ないと思うな 昭王47年
4月 趙軍の副将茄が戦死
6月 秦軍が趙の2つの砦を落とす。趙軍は部将4人を失う。
7月 秦軍が土城を落とし部将2人を捕虜にする。 廉頗更迭
無理ゲー
李信軍並みに指揮官が死んどる、王さんすごいなwww
>>237
白起は重要そう城でも(城攻めとしては)一瞬で落とすからな…… 信「俺らも結構やられたが、飛信隊の副将は死んでねーぞ!」 趙括さんて、もしかしたら廉頗軍の将のひとりとして現地にいたんじゃないかねぇ…東の塁壁の守将とかで
廉頗軍、戦死者逃亡者続出、陣地陥落で窮地! になってから趙括さんと交代まで早すぎるような気が >>225>>227
これ真理だろ・・・クソジャップ死にやがれ!!!!! >>243
たかが有象無象の分際で無駄に自意識過剰すぎんだよサルwwww >>219
韓信は項羽の元にいたときはせいぜい足軽のリーダー程度の身分だったんだよね?
そうなると、戦場に出るときは目の前の敵を倒すことに躍起になりながらも、全体の戦況や陣営を把握してたのかもね。
で、雑兵に混ざって戦っていたわけだから、雑兵の側にいるときの心理もわかる。
だからこそ劉邦に大抜擢されたあとに繰り出した戦法も、机上の空論にならなかったのかもしれない。
さしずめ今で言えばバイトリーダーでありながら、店や会社のいろいろなことを把握しているような感じかw 趙括ってまぁオヤジの七光なんだけどさ
机上論でチョウシャを黙らせたって話がデカイんだろうね 親父の対秦勝利って日本でいう桶狭間的な奇跡の勝利だったんだよな
レンパもリン少女もちょwwwww絶対無理ゲーwwwって参戦に反対した戦
だからそのDNAを持ってる息子に期待するのはわかる気がする 細かいことだが救援軍派遣に反対したのは廉頗と楽乗
それまで対秦戦は一方的に趙がボコられてるから両将が懼れるのも無理ない
邯鄲から険阻な山を越え秦と対峙する困難な状況は
長平の戦いと似た点が多いので当時も意識されたでしょうね 趙括「自分が論破した父でも秦に勝てたんだからこの天才の俺様なら楽勝じゃん」 まぁ趙括と馬謖って似た立ち位置だよね
たぶん生き残ってれば経験積んでそれなりの将軍になれたんだろうけど
初戦で大敗してそのまま消えたっていう共通性
でもそれがなければ歴史に名を残さなかったかもしれない 馬謖は擁護できん
孔明の指示無視しての大失敗だから 魏も秦も最強国だったのだから劉備と趙奢が「あいつは使えない」と言ってなければ国力の差で負けた一将軍と言うだけで済んだのにね いちお馬謖は南蛮攻めの時に、諸葛亮に建策するという功績があるけど(それでもたいした建策じゃないが)
趙括は何も功績が無い >>261馬謖は命令違反で敗北だし、第一次北伐は北伐の中で一番成功率が高かった戦いだから
やっぱ国力の差で負けた一将軍では済まなかったと思う >>264蜀書の諸葛亮伝に馬謖が諸葛亮の指示に背いたと書かれている 恥晒すためだけに名前残した将軍や文官
・ 趙括
・ ロウアイ(チンコで車輪回した人)これはある意味憧れる人もいるかも
・ シンプヨウ(ビビってガクぷるの人)
シンプヨウは結局処刑されたんだよね?
丞相参軍の馬謖は諸葛亮の指示を張休李盛黄襲らに徹底させることができずに
独断での行動を許してしまったため監督責任を問われ処断された 今に例えれば
大臣の小渕優子は安倍の指示を秘書や後援会長に徹底させることができず
独断での行動を許してしまったため監督責任を問われ辞任させられた
みたいな感じか >>268そういった記述ってどこに書かれてるの?
蜀書の諸葛亮伝には馬謖が諸葛亮の指示に背いたとしか書かれてないが 防衛戦は略奪できないから自分の領地から持ち出しで経費ばかりかかって、国内諸侯からの突き上げがひどかった説。 >>270
異様に連座者が多いのはどう説明するの? >>271
尋常ならざる大軍で長期遠征となると当然だな 一年で罷免されてなければ田単だな
孝威太后→田単の流れで斉と友好関係を築いていたからこそ趙国史上未曽有の戦力を対秦決戦に投入できたのかも 華々しく大敗デビューを飾ることで歴史に名を遺した趙括だけど、デビュー前は何してたんだろうね
まさかずっと宮廷で論戦無双してた訳じゃないだろうし
一応、武官待遇で出仕してたり、案外指揮官としてとして従軍したり拠点管理、兵站業務くらいはしてたんかね チョウシャが死んだ後は武官として出仕してたと思うけどね
その割になんか初戦で大敗みたいな書き方が気になるね
チョウシャが死んですぐにBC260年の上党への秦による侵攻が始まったのならちょっと不運だね
チョウシャが評価してなかったから一緒に従軍させてなかったのかもしれんね 司馬遷にとってもかなり昔話だし、史記に不自然なとこが散見されるのは仕方ない
趙に限っても…
刎頸の交わりで有名な上卿の力で秦は趙に手を出せなかった
→嘘つけ!広大な趙の西方領土はズタズタ、斉王建なみの対秦戦消極姿勢じゃねーか! 最初から趙括に指揮を執らせ積極果敢に動いた方がよかったんじゃね?
まぁ長いこと魏冉の近交(攻めないとは言ってない)遠攻策、
恫喝外交にガッツリはまって斉ばかり攻めていた趙に秦とガチンコ勝負する決断は出来ないかもだが。 趙括が廉頗から引き継いだ時の状況が気になる
・(たぶん前衛の?)砦が陥落する
・西の塁壁と陣地を守る趙軍敗績
・趙中軍の布陣する塁壁に秦軍肉薄
趙括軍の正面と西側に秦軍が布陣していたのか? なんにせよ秦の援軍が河内方面から到着したら絶対負けるだろう
機動力のある軍を編成して王コツ軍を迂回→太行道を奇襲して塞ぐとかしないと… 今の晋城市付近の城を抑えないと、どうせ圧力に耐え切れない気がする。
西の河東郡からの攻撃もあるし。。 鎧を解いて(軽装になって?)敵の不意を撃ってはどうか?
とか孝成王言ってたような >>276-277
さすがに戦時で兵法の名家なのに、従軍していなかったというのは不自然だね
@趙奢の元で親衛隊の将校あたりを努めていたが、父の死後、一族に誇大に宣伝された
A斉や燕あたりに、千人ぐらい率いて、果敢な戦法で勝利をあげていた
B兵站、城防御、邯鄲での兵法の相談あたりで功績をあげていた
どれかだろうと思うね
趙のジリ貧をよしとし、大軍なのに打って出ようとしない
廉頗・藺相如に、田単・平原君あたりが不満を持ち、趙括登用に持ちかけたと思う
武霊王・田単・趙奢どれも積極策で勝っているからそこまでおかしい判断じゃないな
趙括は名声高い田単・平原君のために戦犯にされた節があるね
この二人が斉・魏・楚から援軍を得ることができなかったことと、
微妙な立場になっていた白起を秦からのぞけなかった外向的敗北だろ 外交に関しては無難に過ごした恵文期が仇になった感があるな
秦に押された分を苦境にある隣国、斉や魏を攻めて補うのが基本姿勢だったから
田単就任後は斉と休戦したけど代わりに燕を攻めた、実は味方がいない趙
穣侯時代から恫喝と僅かなアメを駆使して諸国を制御した秦の方がある意味信用できる 秦の中原進出を阻止できた可能性のある国って分裂しないままの晋だろうね
魏趙が単独でも結構粘ったくらいだし 韓も忘れないであげて、
真正面から散々痛めつけられ続けるも隙あらば他国と結んで秦に挑戦する根性は割とすごい
>>287
そりゃそうだが異次元の強国が誕生する 敗色濃厚となった段階で、消極的で臆病風に吹かれた老将をやっと罷免して、
国運を背負った秀才青年将校が、乾坤一擲の投機的な戦いを挑んだってこともありえるんだな
で、百年に一度の名将を相手にしてしまったばかりに大敗し、兵をほとんどが殺されて、
後世に汚名ばかりが伝わったって感じかもしれない
結果から判断されてしまったが、過程が見えると同情の余地はあるよな 古代になるほど一次資料(判断材料)が少なく、
代わりにストーリーが残ってしまう事が多いから考えても無駄なんだよね残念ながら
比較的時代が新しいと俗説では愚かとされていた人物が詳しく調べると実は違うとかザラだけど 廉頗その後が気になる副将として本陣に残った可能性もあり?
個人的にこの敗戦は上党を取るという積極策、大軍、消極的な廉頗
趙国首脳が噛み合わせの悪い布陣を敷いた時すでに決まっていた感
>>292
こんだけ有名で重要な戦役なのに
趙括や廉頗の発言が一つも史書にないんだよな(父母コメより本人優先しろよw) 趙の残存していた塁壁(砦)はどうなっていたのだろうね
実際は全兵力で攻勢に転じたわけではないでしょうし
あと王コツに奪われて逆利用された(推定)場所の抑えに兵を割く必要も 李牧の匈奴との戦いでも消極策で王の不信を買い交代させられて負けるという似たようなエピソードがある
つまり!すべての謎は解けた!
趙括と言う人物ははじめから存在していない架空の人物!
趙は単純に白起に力負けしただけなんだけど李牧のエピソードを借りてきて面白いストーリー仕立てにしてみた! 秦の記録に「白起が馬服(君)を穴埋めにする」とあるんじゃなかったっけ。
馬服君は趙奢の事だけど既に死んでるから息子の事だろうって。 逆に廉頗はどの程度有能だったんだろうか
国運を掛けた大軍率いて寡兵相手にじり貧状態とか
趙の首脳部では確実に廉頗に任していたら近いうちに国が亡ぶって認識持ってたんじゃね もし本当に趙括が実績も何もない若造という史記の逸話がマジなら
廉頗の戦いぶりは底辺レベルの評価だった可能性があるね
当然、現地から情報集めて戦況分析してただろうし 廉頗はある意味政敵の趙括と趙軍が壊滅したあと逆に再評価されたワケじゃない
かなり長い間名声は失墜し権勢を失っていたから当時は戦犯の一人扱いかも試練 戦国時代の合戦は具体的情報ないからなぁ
まあ落とされた拠点の数や戦死or捕虜になった将官の数がわかる長平の戦いは比較的マシなんだけど