早世や横死、自害が惜しまれる人物
このスレは、もしこの人物が早世や横死、自害をしなかったら、
歴史が変わってたかもしれない中国史の人物をあげるスレです。
では、例として。
懿文太子・朱標
明の洪武帝・朱元璋の長男で、建文帝の父。
温厚かつ堅実な性格で、彼が長生きしていれば、洪武帝の粛清が更に酷くならず、
かつ同母弟の朱棣(後の永楽帝)による靖難の変も起きなかったと言われている。 呉越の銭弘佐かな。
弟で後を継いだ銭弘倧は、武断的な兄をさらに剛直であったため
重臣たちの反感を買いまくって1年で退いたからなぁ。
20歳で死なず、順当に生きていたら、南唐との力関係がどうなっていたか。 前涼の謝艾
ミラクル軍師だったが、政変により呆気なく横死
たった一人の頭脳で、華北9州を支配する後趙を幾度となく撃退
多分長生きしていたら、前涼の版図はもっと違ったものになっていただろう。 後秦太祖姚萇の兄、姚襄(?〜357、享年27歳……37歳説もあり)
傭兵集団の頭領として、後趙滅亡後の襄国〜東晋〜前燕と渡り歩いた一級の軍人
また、人望にも恵まれたが、それと同じくらい敵も多かった。
二つの抜群の戦功(冉閔主力を撃破し、冉魏の国力を決定的に失墜させたこと及び
殷浩の北伐を壊滅させたこと)が光るが、負け戦も結構派手であった。
特に最後の戦いとなった前秦戦では、無謀な突撃を敢行して戦死している。
四面楚歌状態での関中侵攻最中の夭逝となったが、もし運良く生きながらえて
いたならば、その人望と軍事手腕から華北争覇のダークホースになったことは間違いない。
逆に言えば、前秦は姚襄を撃ち破ったことにより華北統一への端緒が開かれたわけだ。 >>4の補足として、姚襄は「孫策の儔(類)」と世間で評されていたことを加筆する。
若死にするところまで真似なくても良かったと思う。 >>2
たぶん変わらない。
某小説によって過大評価されてるが、しょせん小説だから信じない方が良いよ。 >>6
いや、そうではないよ。
一応、《十国春秋》に引く、建州の役(平殷)から、福州争奪に関わる一連の戦役と
その後の銭弘佐の動きと、銭弘倧の治世をみての判断。
また同時期くらいの別の人物も紹介しようと思ったので、それもからめて。
顕徳三年に起こった淮南の役で、南唐は呉越、このときの王は銭弘俶。
(銭弘佐の弟で、まだ穏健な印象)
そのとき、南唐を東から攻め、常州を奪ったけど、南唐の柴克宏に奪還される。
柴克宏は、その後、淮南への転戦のための出陣前、突然の疾患で早世する。
南唐には派閥があり、柴克宏の武勲を邪魔に思う高官がいた。
常州戦の前にも、柴克宏には老弱兵しか与えず、しかもことあるごとに
司令官職の交替を命じ、足を引っ張った。
その邪魔を振りのけ、柴克宏は、数と質ではるかに勝る呉越軍を破ったのだけど
早世したため、淮南で武略を奮うことはなかった。
評でいわく。
「相手が呉越だから勝てたのだ。後周軍だったらわからない」
淮南に出征しておれば、どうなったかは想像の中でしかないとはいえ……。
ちなみに、少数で大敵をやぶったのは、銭弘佐治世の呉越もそうで
福州争奪戦では、呉越将余安が、南唐軍を大破している。
銭弘佐は親軍の綱紀を粛正しつつあったので、長生きしていれば
柴栄に先立つ、王権の強化に成功したかもしれない。 享年24の霍去病と享年27の李賀
天才は長生きできないのが世の常とはいえ、惜しい。 >>7
弘佐の件は妄想ですらないよ。
まず、後に起こった政変を見るに、弘佐達の政策に反対する勢力がおり、
それは甚だしく、容易に取り除けるものではなかった。
現に、他勢力でも同様な問題を抱えており、その排除を成し遂げるまでには
かなりの時間を費やし、試行錯誤を重ねている。
弘佐であれば簡単にいく、解決できるとする根拠が薄弱である。
この手の根深い問題は、時間と労力が必要で、一人の天才より、
多数の凡人の地道な努力の積み重ねが、土台となり、幹となって時代を揺り動かす。
たまたま天才的な人物が現れ、まるでその人の力だけで変わったように見えても、
それまでに必ず、土台となる政策が実施されてる。
仮に「急進的であったため、失敗した」と称されるなら、その政策は時期尚早であり、
いかなる人物、いかなる才能を持ってしても、必ず失敗する。
それは歴史が証明してる。証明し続けている。
次に外征面。
軍事的な才能がなかったとは言わない。だが、前述のように、
内政面にある種の問題を抱え込んでいる。
つまり弘佐は、政治的な欠陥を、外征、軍事をもって補うことになる。
かなり厳しいタスクになるだろう。 >>10
はたしてそうかな?
(「弘佐であれば簡単にいく、解決できるとする」簡単にとはいっていないのだけど)
政変は銭弘佐在位のときでは、銭弘佐からの行動でしか起きていない。
死後、政変が起きるのは、まさに王の死後であることと、銭弘倧が
さらに強硬派だったからに、おおきく起因する。
その図式自体は、五代十国特有の、親衛軍の驕兵の風潮でしょう。
代を重ねて変革していくにしても、どこかで武断処置をとらねばならない以上
生きていれば、という可能性を否定することもないと思うけど。
「王英明果断、権変不測」
わずか20歳で薨去した若者には、すぎた評だと思いますけどねぇ。
しかも、問題としている「南唐との力関係がどうなっていたかわからない」
としている、隣国である南唐は、宋斉丘を初めとした「五鬼」の専権で
派閥政治に堕しており、軍事的脅威はずいぶん減っていた。
福州の役で、重要な拠点を手中にした銭弘佐は、その点で王権強化を
はかる足がかりにできたはず。
銭弘佐以来、常州の役を除けば、軍事的には呉越は常に南唐より優位に
推移しているのだから、武断的でない南唐に対しては、おおきなリードだと
思うよ。
国内の諸問題は、格王朝のそれぞれの共有するところでもあり、王権強化に
必要な「厳しいタスク」が要求されているのは、衆知のことなんじゃないですかね。
同じようなことを、郭威〜柴栄がやっているし。
そういえば、柴栄の早世も惜しまれますね。
死後、1年で政変が起きたけど。呉越は半年だったかな。 >>11
弘佐の指導力を評価しすぎ。まず、統治期間が短くて、問題が表面化してなかっただけでは?
それを否定できる材料がない。
強行だったからと失敗したと言うが、じゃその後、その政策は引き継がれ、
呉越では成功しただろうか?失敗は必然であるとしか評価できない。
成功するなら、たとえ障害があっても、時間がかかるだけで成功している。
軍事面は不透明な部分が多すぎる。南唐相手にどこまで勝ち続けてるのか?
南唐は負け続けることで、人事の刷新が起こるかもしれないし、
南唐の力が弱くなる事が、呉越の隆盛に繋がらず、別の勢力に利するかもしれない。
弘佐の内政的な成果、手腕を見るに、かなり足元が不安な状態で戦うことになる。
それで勝ち続けるなら、かなりの力量で、生きていれば天下統一すらできるよ。 >>12
>>強行だったからと失敗したと言うが
胡進思の乱のことじゃないの?
>>南唐相手にどこまで勝ち続けてるのか
>>かもしれないし
その、「かもしれない」の話をしているのですよ。
南唐の、平殷、平楚のお粗末さはご存知でしょ?
福州失陥の責は、あげて南唐側にこそあるけれど
また陳誨を撃破したあとでも刷新などされず
後周による淮南の役まで続いているじゃないですか。
なぜ、南唐の「かもしれない」の根拠が薄弱なのに
同じような呉越の「かもしれない」だけを否定するのかな。
>>かなり足元が不安な状態
具体的にはどいうところが不安定でしょうか。
福州の役は、そのため自身は国内掌握に専心していたと思いますが。
ただ、その直後に死んだだけですよ。
早世が惜しまれると思えませんかね…… 漢明帝
せめて儒教狂いの章帝をもっと教育してから死んでれば… 項羽。
あそこであれ言って、拒否して死ぬから惜しまれるが……楚に帰れば再起できたのに。 再起したところで漢に勝てるとは思えんし、あそこで死んだからこそ英雄扱いされてる側面もあるんじゃないか 爾朱栄
いや、まぁ本人のツメの甘さが直らないと長生きしても?なんだけど・・・・・・
個人的に好きなもんで >>19
董卓に擬される人物だと言うから、調べてみたらかなり若いうちから
権勢を握ってるんだよな。 隋の武将・沈光(享年28)
そのまま生き続けて唐に仕えていたら秦淑宝や蔚遅敬徳と
同等の活躍ができたのでは。 明の弘治帝
せめてあと10年くらい生きられたら息子の正徳帝もちゃんと教育できて
暗君にならなかったろうし。劉謹が権力握って王朝がメチャクチャになる
こともなかった。 項羽。己の美学に忠実であり過ぎた。
昔の六国を復興させ、飽くまで己は美しくあろうとした最後が……悔やまれる。 柴栄って今まで早世だと思ってたけど、39歳って別に普通じゃね?って思うようになった >>35
あの当時でも、平均的に50歳前後かな>寿命
劉知遠、郭威と即位して数年を待たずに崩御ってのがあって
これからってときにまた死なれると「早死」した感が増すってもんだ 始皇帝の長男と曹操の長男と家康の長男と信長の長男と何だかこう・・・
なんだかなぁ・・・ 周武帝に楊堅くらいの寿命があれば・・・
まあたとえ簒奪されず統一出来たとしても、隋と同じ様な運命を辿る気がするが 苻融
ヒ水の敗戦で死ななければ苻堅の死期も変わったのではないか… 大元ウルスのハーン・クビライの皇太子チンキム。
モンゴル貴族や漢人官僚から絶大な支持を集め、中書令として中国北部の政務を預かり、
漢地支配のツボを心得ていた彼が早世してなければ、この後の後継者争いによる大混乱は抑えられたかもしれない。 直さんも忘れてもらっちゃ困るぜ!
・・・いや、何でもない >>39
跡を継ぐのが無能な宣帝じゃあな…
武帝の次男が成長して兄を排除するってオチになりそうだ 洪武帝の皇后である馬皇后。
彼女がもっと長生きだったら洪武帝もあそこまで酷い粛清はしなかったはず 馬皇后の後に皇太子の朱標まで失ってしまって、いよいよ歯止めが利かなくなったって感じだな。
息子の時代の為に、不穏分子を粛清したのに息子に先立たれてしまうとは… 北魏の太武帝やろ
暗殺されなかったら
鮮卑族による中国統一間違いない
南朝弱いし太武帝の卓越した戦術能力、北魏軍の鉄騎の精強ぶりから見て
南伐は容易に達成できたはず
それに太武帝の時代ならまだ遷都もせず、中国化政策もとらないはず 張居正
あと10年くらいは長生きしてほしかった
死後まもなく弾劾されるほど恨みを買いすぎてるから
いずれ失脚する運命だったんだろうが 張作霖
もし日本軍に爆殺されてなかったらって考えると面白い。 ここまで、リョフなし。
リョフが言うように歩兵は曹操、騎馬はリョフが率いれば、
乱世は、早く終わったように思う・・・
リョフが機械のように命令どおりに動いてくれれば終わっただろうな 泰昌帝
明の暗君・万暦帝の次代。皇太子時代から聡明で知られていたという。
在位一ヶ月は惜しい。
しかも次が天啓帝・・・魏忠賢時代なだけに。 万暦帝が死の前年には後金にサルフの戦いで大敗してるし、
もう立て直せるような状態じゃなかっただろう。
万暦帝が20年早く死んで天啓帝が夭折でもすれば、まだ希望はあったかもしれない。 仙台のボクサー・たこ八郎(享年44歳)
そのまま生き続けてたけしに仕えていたらガッツ石松や具志堅用高と
同等の活躍ができたのでは。
呂布
曹操は、劉備と組むより、呂布と組んだ方が良かったかと >>58
40才は短命か?
いや、現代なら短命だが…
太史慈の場合、そこで死んでよかったんでね?
下手に長生きしてたら反乱していかねん男だからな
晩節を汚さずにすんだ
「大丈夫という者がこの世に生まれたからには、
七尺の剣を帯びて天子の階を登るべきを、
その志が実現できぬうちに死ぬ事になろうとは…」 確かに孫権も長生きしすぎて老害になったからね
呉は短命な武将が多いけど呂岱みたいに長生きする奴は
かなり長生きしてるんだよな >>59
だが実際短命と呼べそうな人材はそれほど多くない
孫策、周瑜は早世だが、魯粛・呂蒙は40台
ほかの呉将、程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁の中だと死去時の正確な年齢がわからないものが多いが
おそらく早世といえるのは陳武・凌統くらいと思われる。
孫権以外の宗室の男子は、軒並み早世っぽいけどな 後漢の章帝。33才没。
この人が若死にした所から、後漢の歯車は狂い出した。 >62
凌統…もう少し生きて孫権守って欲しかったな
享年に関しては諸説あるけど、30歳前は早過ぎる。
惜しまれるほど影響力のある人物ではないだろうけど。
呉から離れて曹丕を挙げておく。
「長生きしたらしたでボロが出たに決まってる」
という意見もたまに聞きますが、
ボロが出る・出ないも含め、彼が治める魏の将来も見てみたいので 弘治帝は最も偉大な王だ!
大明朝偉大なるした、は、世界初の資本主義国家のようだった!
後唐の明宗、後晋の高祖、後漢の高祖、後周の太祖
早世では無いが、即位してから崩御までが早過ぎる もし隋の煬帝が大運河完成直後に死んでいたら名君として評価されて
ここにも名前が出たんだろうな。 >>70
後唐の明宗は即位した時もう60歳だったから仕方ない ほう統と法正が諸葛亮と同じくらいまで生きていたら歴史は変わっていた >>77
酔狂先生だっけ?
どちらかを手に入れれば天下を取れるとか言ったの >>79
ホウ統に軍事やらせて、孔明に政治やらせるって事か。 >>83
死に方はひどいけどあれ以上生きてても、って気がする