三国志・蜀将討議スレッド17
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中郎将、将軍と昇進した諸葛亮ってあまり蜀将と呼ばれないね
何故? 諸葛亮はあまり武将というイメージがないからじゃないかな?
軍人より政治家の色彩が強い人物だし。 兵権無しに政治なんか出来ない。
魏晋南北朝時代は軍人皇帝の時代だからな。
孔明は妙に奇術師めいた粉飾をされるが、
実際は正統派の出将入相の系譜にいる。 >>3
当初は主に兵站を統轄する後方支援、その後は宰相の人物を将なんて
呼ばない方が普通じゃなかろうか。 148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 16:47:40
23時男君 マルチはよそうぜ
< 例 >
41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 本日のレス 投稿日:2007/05/30(水) 16:09:18 HLa/fWdh0
三国志・蜀将討議スレッド17
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1180445040/
149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 16:51:23
おっと昨晩もやってたのね
< 例 >
89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/29(火) 23:53:37 Mo3M6hjg0
三国志・蜀将討議スレッド17
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1180445040/
150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 17:11:45
三戦に嫌がらせしてるのは23時の男か
156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 22:22:38
以前中英の三国志スレをあちこちに宣伝してたのも23時の男だろうね
最近三戦板の考察系スレを荒らしてんのはほんとに彼かもしれん
157 名前:23時の男 :2007/05/30(水) 22:26:27
さて、それはどうかな?
ふふふ・・・・・・
馬謖は諸葛亮に謀殺されたって説を聞き齧ったんだが
詳しく教えてくれないか。
諸葛亮って意外と謀殺してるよな・・・ そんな事してるから優秀な人材が少なくなっちゃうんだな 確実に謀殺したのは劉封と彭ヨウだけで後は推測だろ? 馬謖って優秀な人になるのかな
多少の知恵はあるが自分の才をひけらかす小人なんじゃないか >登山家
諸葛亮の南征〜北伐まで無くてはならない存在だったようだが。
まあ優秀な戦略家が同次元で優秀な戦術家である必然性は全くない。 諸葛亮が李厳を弾劾した時に出てくる李厳の参軍狐忠って馬忠のことか… >23 狐篤とも言ったからな。何平とかみたいなもんだな。 魏延は南蛮っぽいイメージがついてしまった
KOEI め・・・・ 関羽って曹操のもとからただ逃げ帰っただけなんか
それにしても記述がそっけなさすぎるな そりゃ関張あたりと比べればそうだろうが後期蜀じゃN01だろ
漢中まかせられたあたり、武勇より統率よりかもしれんが 武勇って言葉は一対一で闘ったらとかって意味か?
ま、そりゃ出自も小隊を率いていたらしいから弱くは無かっただろうが。
それより魏延が忠義者だったかどうかのが気になるのは俺だけか?
以下、魏延伝の記述からだが、
陳寿も「王朝への謀反の意思があった訳では無かったのだ」とは述べてるが、それだけ。
それ以上はフォローし切れなかったんだろうな。 王平の「諸葛公が亡くなったばかりの時に 貴様は何をやっている」という発言が重いな。
本当に何やってんだよ 魏延も 楊儀も 楊儀「何って…アホかお前。
これだから文盲は困る。
権力闘争と反逆者へのケジメだよ、ケジメ!
とか言い返しそう。 俺は魏延は忠義だったと思うよ。
ただ、その忠義は劉備という個人に対しての忠義であり
蜀という国家に対しての忠義ではなかったと思う。
>>19
参謀、謀臣としては素晴らしいが、指揮官とか人の上に立つと本来の力を発揮出来ないタイプの人だと思う。 >>37
婁圭ならこう言うだろうな。
「主君の器量に不満を持つなら、何故自ら取って代わろうとしなかったのか」と。 蜀の名将を10人あげるとしたら誰をあげる?
5虎将入れると残りは魏延、王平、張ギョク、馬忠、張翼、李厳、李カイあたりかな >>42
成都武侯祠のメンバーが参考になるのでは。
そういや陳到は武侯祠に祭られてなかったような… あれは何か演義基準っぽいもんなあ
いつごろ作られたんだろ >>42
そのメンツは個人的には好きだが神レベルの五虎将とくらべると普通の優秀な人間に過ぎないからチンケに見えるよな
だからこそ俺は好きなんだが 姜維・廖化・句扶・馬岱・陳式・呉壱・呉班
このあたりは絶対に外せんだろう。
向朗・ケ芝・高翔・羅憲あたりとお好みで入れ替えてもどうぞ
後はショウエンとヒイと諸葛亮な 旗揚げのときからいる簡雍は、うっかり八兵衛のイメージがある。
劉備様〜!待ってくださいよ〜!
とか言って無理やり3人の後をついていったようなw
簡雍といい劉琰といい劉備はお伽衆を連れて歩くタイプの人間みたい。 個人的に魏延は準五虎将なイメージ
というか劉備って蜀獲るまで有能な武将の絶対数が少ないよね…
麋竺・簡雍・孫乾ら古株は仲良く将軍位を得ているな。
まあだからと言って軍才があったとは限らないが
麋竺って金持ちだけど 自警団とか指揮してた可能性はあるのかな?
本人は弓矢とか上手かったそうだから、
撃剣も使った魯粛とちょっと被るな。 張苞や関興だってとりあげられても良いじゃねーかYO! _, ,_
( ‘д‘)
⊂彡☆))д´)>>58 放浪時代の劉備についていけなくて脱落した有能な武将がいたよね。
確か陳グウだったかな、その後に曹操に仕えたけど。
他にも放浪についていけなくなった武将とかいそうだな。 陳羣やろ。彼の子が陳泰なわけだから、そう考えると惜しいわな。
でも荀ケと仲良かったようだから、どちらにせよ曹操の元へ行ったかも知れんが。
劉備が失脚して荀ケに推挙されたのは丁度良い機会だと思ったのかもな 悪いという事は無いだろうが、恨みは必ず晴らすタイプだったようだ。 >>65
劉ショウは法正を冷遇したし、同僚の誹謗中傷で出世の道を閉ざされてる。
お上が軽んじてる人間を、周囲はどう扱うか。
これら2点を踏まえれば、法正が恨み骨髄に達してる相手、これが何人か居てもおかしくは無い。かな? 法正は命がけで売国奴となった。
相方の張松は立伝さえされない、これは死んだからだ。
それは法正のもう一つの末路でもある。
それほど売蜀は危険な行為だった。
その賭けに勝った法正には、張松の分まで彼らを冷遇した仇に鉄槌を下す使命がある。
これは皆仲良くしましょう、とかいう理屈で止められるものではない。
許しが欲しければ乞えば良かったのだ。
復讐心で煮えたぎる法正の門前に、首枷を担いだ廉頗が一人でもいたか?
仕返しをされてしまう程度の人間性で、アウトサイダーを嘲笑してるだけの輩というのは、大抵ろくなのがいない。
端的に言えば法正の積悪は政敵どもの自業自得でもある。 >>67
孔明の人間性から言って、殺されても仕方が無い連中でもなければ基本的に止めるだろうしな。 >>62
魏の法整備等の内政面での功績を考えると
子の陳泰よりも陳羣の方が得がたい人材だろ。
いや、後年の蜀に陳泰がいればどれだけの有益と敵失になるか >67 諸葛亮も法正も法治論者だしね。
怨みだけでなく、恩にも報いていたようだし
おそらく復讐ってのもある程度は法に則ったものだったんだろう >72
叩いて埃の出ないやつはいない。
その埃に拡大解釈された法をもってすれば容易に獄に下すことができる。
現代日本も似たような話は聞くね。 つうか、そもそも、法正って劉ショウの後見人であるホウ義が推挙した人物。
それを軽んじたり、誹謗中傷するって時点で法正の恨みを買った連中は考えなしだよなぁ。 もし張任が生きて劉備蜀に仕えていたらどうなっただろう >77 今みたいに忠義者の石碑が立たず、ホウ統を殺した者として疎まれていた ホウ統が実際そこまでの人物だったのか疑問だけどな
しばきのじいさんが言っただけだろ
逆に張任を説得しきれなかった、劉備・孔明がどうなんだろうな
張任の劉しょうに対する忠義は関羽の劉備に対する
それと同じくらい厚いものだったとは思えんし まあ実績殆ど立ててないからそれだけならホウ統の評価が微妙ってのは分かるけど
張任は地元の益州生まれで、自分で老臣言うぐらいだから
古くから劉焉・劉璋に仕えて世話になっていたんだろう。
家族同然だったと考えても不自然では無さそうだが お前ら、忠義以前にまず家柄や名声が大事なんだぞ
図解雑学三国志くらい読め 諡を賜った関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲
魏延、王平、呉壱、馬忠、張ギョクあたりが現場たたき上げ名将かな。
>>81
それは言えているかもね。
諸葛亮は寥立あたりと並べて評価していたからな。実際は諸葛亮よりもずっと格下
なんだろ。ただ少ない謀臣を失ったのは痛いよな。 どっちかっていうと張任は劉璋に対する忠義より益州に対しての郷土愛が
人1倍強かったんじゃないの
おそらく劉備に対して侵略者みたいなイメージをもってしまい
強い反感を覚えたんだと思うな
まあ妄想にすぎないけど 張任って劉淵についてきた譜代の家来じゃなかったっけ
だから益州に地盤がある名士は劉備についても厚遇されるけど流れ者の張任は厚遇されないだろうから劉章に準じたと 劉備につくか、首を斬られるかの2択を迫られてる人間がそこまで計算するのか 劉ショウに殉じた張任も偉いがそれを讃えた先主も偉いでいいじゃないか そりゃ忠義に殉じた烈士を讃えないわけにはいかないわな。
ってのは冗談だが
ホウ統が名将だったとして、
彼を戦死させてるって事はやはり張任も中々の人物だったんだろうな
そういや卓鷹も同時に戦死してるのって蒼天だけだっけ? 張任がホウ統を射殺したのは演義の話
ホウ統を殺したのを誰の功績かとあえて決めるならラク城を守っていた劉循かな
ホウ統はラク城の城攻めのとき戦死したのだから 参謀が戦死するほどの戦闘とはどんな戦闘だったんだろうな? ほうとうは確か
蒋に危ないから下がってくださいと忠告されても
下がらなかった為に流れ矢にやられたはず 初陣で興奮しすぎちゃったんだよな。
その程度の将器でしかない。 負けたら終わり
そんな状況だったからしかたなかったかもね >94 中国語で流れ矢ってのは雨のように降り注ぐ矢って意味らしいよ >>96
そんなに逼迫した状況だったとも思えないが。
荊州からの軍によって、成都の包囲とラク城の孤立化が進んでおり、
最悪、ラクは監視するに留めて、成都を先に陥落させても良かった。
ホウ統が死んだ状況は、恐らくは、敵の抵抗の激しさを見て、
自ら率先して敵陣に進む事で部下の将兵の奮起を促した、とかだと思う。
ナポレオンがロディ橋を突破した時の話と、似たような感じじゃないかな。 1年も攻囲戦が続いて、おまけに後方のカボウで数百の手勢しかない霍峻が
万を超える敵に包囲されていれば焦りも生まれるのかもしれんね。 蜀って二代目に恵まれてないのと、210年辺りの有能文官の早逝がイタイよな。
馬良ホウトウ法正がもっと長生きしてりゃ諸葛亮があと五年は生きてたはずだ。 >>100
イリョウの敗戦はなかったかもね
ホウトウだけならともかく、法正&ホウトウコンビなら互角以上に陸遜に対抗できると思う
ifはあてにならんけど、もしイリョウで呉撃退してたら荊州支配できて呉はやばかったかもね
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