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前漢vs後漢vs唐vs宋vs明vs清

0037名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/08/11(土) 10:23:06ID:2yKHpLlL0
後漢は初期を除けば、諸羌の侵攻によってその軍事費で民間共に火の車
原因は洛陽奠都による、三輔地域における軍事拠点確保の軽視と思われる
劉秀のこういう点は責められて然るべきだと思うんだが

北宋と同じ国防上の問題を抱えていた時代じゃない、後漢
0038名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/08/11(土) 19:59:01ID:g1I43tXs0
北宋に水滸伝の梁山泊があったら北宋が一番強いだろうな。
0039名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/08/11(土) 22:16:01ID:dK9HFB870
>>35
李世民は結局は貴族のお坊ちゃんだし、
最底辺から這い上がってきた朱元璋の配下には負けそうな気がする。
朱元璋ならどんなえげつない手でも使いそうだし。
0040名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/08/12(日) 00:10:08ID:dh73xYCV0
朱元璋軍は叩き上げのプロ集団にも見えるからな。
劉基のような聡明な軍師もいるため、隙らしい隙も見当たらないな。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/08/13(月) 23:12:32ID:96uhAXK10
朱元璋軍団は雑草みたいに生命力が強そうなんだよな。

これに対抗できるのは何となく運がやたらと強そうな劉邦軍団なんじゃない。
0044名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/08/14(火) 12:42:19ID:baelLwuu0
遊牧民は機動力は圧倒的に強いだろうけど、征服事業においては、
持久力も必要なわけで、その点において劣る。

それと清朝の満州族はそもそも遊牧民と言うよりは狩猟採集民だし。
0045名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/09/02(日) 23:36:37ID:ftn4XoxH0
清朝は明朝の行政機構を吸収するような形で中国を征服したからね。
あまり戦争で正面から叩き潰したという感じではない。
0046名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/09/07(金) 21:58:30ID:mIsQUBVR0
軍事
政治
経済
文化

この4部門でそれぞれ10点満点で評価し、総合点を競えばよい。
0047名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/09/08(土) 08:25:29ID:k8d+mS430
圧倒的に清が高得点になると思うよ
政治は名君多いし経済力は初めて人口1億突破させたし文化なんて時代が進むほどよくなるものだし
0048名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/09/08(土) 09:53:06ID:xRy6bexu0
文化は、客観的な評価が難しいから、
一つ前の時代に比べての進展具合で評価するべきかな。

経済は、農業や商業の繁栄度合いに、
当時の世界全体に占めた存在感を加味した感じ?

0049名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/09/08(土) 12:16:10ID:RTHaSRAE0
それぞれの時代での世界の中での存在ということなら宋が圧倒的だろう。
漢代にはペルシアやローマがあったし、
唐代はちょうどぴったりイスラム世界の勃興期にあたる。
明清の時代にはムガールやオスマン帝国が繁栄していたし、
清代には西欧が物凄い勢いで発展して恐らく乾隆末頃には国力で西欧に抜かれてる。

宋代は世界の他の地域がパッとしない時代であった。
イスラム世界は中だるみ状態で沈滞していたし、
ローマはマケドニア朝の繁栄時代が終わり、
西欧は文明がほとんど途絶えた状態だった。
そんな条件だったから、宋は世界の富の半分を占めていたのだ。
0051名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/09/08(土) 22:57:19ID:wLAgJofu0
庶民への苛斂誅求具合は宋代でも案外変わらないと思うけどね。
雍正年間の清朝なんかの方がまだいいかも。
0052名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/09/08(土) 23:09:12ID:1sa4cS5s0
>>51
固定された階層が形成されるまでの期間なら、
庶民層でも官になれる可能性のあった北宋は
それなりに活力に富んでいた。
しかしどの時代、国でも権力者が富の集積に走ると、
必ず社会の階層化が進み、貧富の差が強くなり
また、さらに収奪も強くなる悪循環がある。

亡国の要因もその辺で、活力なき国は外圧にあっさり潰えてしまう。
だから、そうなる前の北宋は、庶民にとってまぁまぁ住みやすかったといえるんじゃないかな。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/09/10(月) 14:23:39ID:LNVWJkdf0
住みたいと言う場合には、時代よりも地域によるね。
中国の場合、地域によって環境が大違いなわけだし。
0054名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/09/11(火) 13:45:02ID:9eOQDEtmO
>>49
同時代と比べての繁栄度なら前漢だと思う
イスラムは中だるみと言ってるけど、北宋期は強力なセルジューク朝の全盛期
確かに南宋時代のイスラムは不振だけど、南宋自体が弱体だしね
あと漢の時代の強力な国にペルシアを挙げてたけど
ぺルシアはアケメネス朝にしろ、ササン朝にしろ、前漢後漢の時代には存在すらしてないぞw
前漢の時代にはまだローマも共和制だったし、やっぱり同時代の繁栄度なら前漢が一番だと思う
何にせよ、軍事的に弱体な宋が他の中国王朝より圧倒的に、同時代で繁栄してたってのは無いと思うよ
0055名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/09/11(火) 13:51:37ID:0leunWOA0
殷王朝 最強
0057名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/09/29(土) 23:47:30ID:RLhptOrN0
一部の国では、中国を意味する言葉の語源が、契丹(キタイ)となっているほど。
0059名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/01(月) 02:25:20ID:5+810GUk0
唐王朝
0060名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/01(月) 21:27:55ID:YqdqxnTI0
チャイナ、シーナ、シンは秦が由来。
英語のキャセイ、ロシア語のキタイは、契丹が由来。
唐が由来となった呼び名もある。

日本は長い間、唐とか唐土と呼んでいたね。
0061名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/05(金) 21:21:15ID:b6UyTGzO0
秦、唐、契丹・・・・・・みんな西方との交流が盛んだった国。
0062名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/05(金) 21:22:04ID:b6UyTGzO0
ついでにどれも非漢民族系と言うか、
発祥、源流が中原とは言いがたい国。
0063名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/08(月) 16:01:22ID:jZI+Cte+0
周なんかも実体は遊牧民っぽいな・・・・・・
0065名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/16(火) 23:21:34ID:hIQykCx/0
>>54
北宋と南宋では、どちらの経済力が上なんだろう?
南宋は、面積で半減したとは言え、ある意味経済効率の悪い地域を、
切り捨てた格好にも見えるし。
0066名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/03(土) 11:52:51ID:3kECDsMs0
そりゃ圧倒的に南宋だろ。
中原は当時すでに貧しい地域になってたんだし。
そして江南は世界で最も豊かな地域の一つだ。
0067名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/03(土) 21:35:44ID:Kh22Ytl/0
開封は100万人の不夜城。
鄴都も河北一の大都市。
金陵も、杭州も福州も一応、北宋の領土なんで
そんなに悪くはなかったと思うな。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/03(土) 23:47:41ID:CV3L1OJz0
開封が百万人都市というのは実はあまり根拠がなくて、
南宋の杭州臨安が最盛期に百五十万人ぐらいいたのが分かっているので、
じゃあもっと面積の広い開封も最盛期に百万人ぐらいいただろう、というものらしい。
0070名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/04(日) 14:06:40ID:TAL/CYV60
新書サイズでそんなことが書いてある本があった気がするけど、
どんな本か忘れたw
0071名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/04(日) 22:19:20ID:wKW7Cy9i0
>>70
そか、残念。
北宋あたりの本は結構読んでたと思ったけど、そういう記事はスルーしてしまう
可能性が高い(開封は100万都市でデフォルト記憶されているから)という…

唐の長安のように入り組んだ都市構造でなく、夜も賑やかだったというあたり
かなり商業的に繁盛しているといえるから、人口も勢い多い「だろう」と思ってたよ。

0072名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/08(木) 08:47:14ID:Fpc7jsBP0
清が最強だろう。領土も一番大きいし、人口も大爆発したしな。
0074名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/13(火) 13:52:59ID:edJmqGoK0
清の隆盛を見るに、明も名君が2〜3人続けば、
たちまち国力が増大して、繁栄期を迎えていたかもと思う。
0075名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/13(火) 13:55:00ID:O9kHhnxd0
靖難の変がなければ…
0078名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/14(水) 07:09:24ID:eAC6LxXq0
>>77
元朝は財政のかなりの部分を塩税に頼っていたそうだけど、
旧南宋地域できっちり徴税できていたのかな?
0079名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/18(日) 23:17:18ID:+mu+ja6R0
元はそもそも内紛が多すぎだ。
0080名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/22(木) 22:17:11ID:lGMl3Hsw0
元は財政管理がへたくそな印象が 意外と国としては短命だしね
まあヨーロッパの国を、中国にあった王朝のなかでは一番震え
あがらせたと思っているけどね。(このときは南宋をまだ滅ぼして
いないが)

どの王朝が一番だったかは判断しずらいな それぞれの王朝って
何かしら同時代の他国と比較しても一つ頭が抜き出ている感じがする。
18世紀に入るまでは
0081名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/25(日) 11:36:02ID:er3A/Aky0
前漢 59,594,978
後漢 56,486,856
唐  52,919,309
宋  46,734,784
元  59,519,727
明  62,361,424
清  426,447,325
人頭税を廃止した清だけ現実的な数字な気がする
0082名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/11/27(火) 23:57:28ID:c01X5WUZ0
宋代や明代の最盛期は1億人を超えていたと思う。
0083名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/28(水) 01:01:28ID:oHDYUXc10


答え

当時の視点を使用しても漢になるから
0086名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/28(水) 02:08:54ID:oHDYUXc10
現在の世界で人口が多い国はインドと中国になるけど、
総合力で見たらアメリカと答える人は実に多いと思う。
0088名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/11/28(水) 20:48:11ID:ibBhrTMN0
アメリカは毎年、日本が国債買ってあげなければ、即倒産します。
0089名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/11/28(水) 21:15:03ID:KjUvEbuW0
、 l ‖_ >:=‐  ̄ ̄「 l| l    } 、  ヽ   んっ んんっ…
ヽ 、i`─ '´ ___   | ll ⌒; j  、   ヽ
 \ヽ r,ニ、‐‐'‐' u .l ll   '_ノ   、    ヽ 
   ` \"\):、    | l|  `、 ヽ  、   ヽ
      ヽ  ゞ'^     ! ll   `、 ヽ  、    ヽ
     丿   .:::.  | l|     \ ヽ、 、   ヽ
     丶、_        | l|/lヽ   `>=‐- ミヽ   `、
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このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です


0090名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/11/29(木) 23:39:32ID:rf2LIDr00
>>87
実際に、アメリカ vs その他の全ての国々、で戦争を行った場合、
アメリカはアメリカ軍という統一された組織で戦えるが、
その他諸国は、各国軍という指揮系統もばらばらな組織で戦わなければならない。
アメリカは食糧や資源もかなりの部分で自給できるから、
かなり優位に立てるだろうな。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/11/30(金) 14:54:21ID:lS5srTVg0
>>92
それ以前に、アメリカvsその他の全国家で戦争になっていれば、
とうに金融市場が壊滅的な混乱状態に陥って、
国債を売るどころじゃなくなっている予感。
0096名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/12/01(土) 23:34:00ID:jkEowDZK0
まあアメリカ国債の処分は、戦争が始まる前段階の話だな。
一番たくさん持っているのは、今は日本と中国か。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/12/02(日) 11:50:40ID:29b+SPvw0
清の場合、少数民族政権という性格上、皇帝のクオリティが低かったら、
即国の興亡に直結するからな。
0099名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/12/02(日) 19:21:52ID:xenwpQ3B0
一番はおとこ(漢)だろ
0100名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/12/05(水) 10:54:05ID:CxePHUYe0
都城の規模で比べてみるとどうだろうか。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/12/26(水) 15:06:02ID:s3Gr24WY0
じゃあ唐
0102古今神勇志士
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2007/12/26(水) 23:53:15ID:L/MgNYP30
皆さん、こんにちは、私は中国人で、とてもうれしくここに来ます。
私は日本語ができ(ありえ)ないで、これは私がインタープリターの効果を使うので、きまりが悪いです!
私は、多くの現代中国人はすべて清朝を承認しません!とたいです。特に私達の大漢の民族!清朝中華の文化が滅ぼすことを招きました!
本当の話を言って、日本はとても多い中華の文化を保留して、日本の人命もよく学ぶ民族で、大漢の民族と大和の民族の本当の1家の人!
清朝はそうではなくて、蒙元は更にそうではありません!
ありがとうございます。
0105名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/01/01(火) 18:59:49ID:OWhHQy4i0
その現代中国人とやらには悪いが、やっぱ清>>中華人民共和国だよ。
清が人口や経済を豊かにしたから、その後の毛沢東は相当の無茶が出来たわけだし
0106名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/01/10(木) 09:50:21ID:RiU72uz70
中共建国後に、最初から改革解放の資本主義経済をやっていたら、
どこまでいけていただろうね、今の中国は

環境破壊とかが恐ろしいレベルにまで進んでいそうではあるけど
0108名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/02/22(金) 10:24:08ID:06Mk2bvg0
と言うか、順当に中華民国が成立していればな。
途中で経済破綻を起こして、アメリカの傀儡になっていたかも知れんけど。
0109黨國精英西門慶
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2008/02/28(木) 16:24:50ID:mk5i5YEM0
轟殺狄夷
0111名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/06/25(水) 23:19:38ID:E4iR6jtP0
70 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :03/12/06 21:09
>68(中国王朝強い順)
納得できる箇所と、さにあらざる箇所があるな。
軍事力・経済力等を勘案した総合的な国力を
私なりに比較してみよう。

清>明>元>宋>(越えられぬ壁)>>前漢≧後漢>>(超えられぬ壁)>>唐>晋

───であろうな。唐という王朝は意外に弱い。
経済基盤が弱体であり、両税法により財政強化されたものの
その頃には既に皇帝権大きく後退して、総体的国力そのものが
衰えていた。中世の最盛期たる李世民の治世をもってしても、
古代の最盛期たる前漢をさらに下回る筈だ。
また清王朝は紛れもなく東アジア史上最大最強の国家だろう。
その強勢たるやチンギス汗の蒙古帝国を遥かに凌駕する。

>69(秦が入ってないし)
私も短命に終わった王朝は埒外に置いた。
ちなみに魏・呉・蜀が晋よりも遥か下位に位置することは、
言うまでもない。
0113名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/06/26(木) 13:20:53ID:7gdSzXGX0
清>明>唐>前漢>後漢>北宋>隋>南宋>西晋>魏>呉>蜀

こんな所かの。やはり皇帝権が絶対化された明とその完成期である清は
歴代王朝の中でも最高位にある物じゃ。
その反面、わしの司馬家の晋は諸王族や貴族に著しく制約を受け
皇帝の地位など微々たる物じゃった。
後ろの三国は天下統一出来ぬ地方の一王朝(軍閥の延長でもいい)なので
知名度云々に関わらず下にした。秦は僅か十五年なので除いた。
0115名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/06/26(木) 17:31:02ID:7gdSzXGX0
203 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/05/10(火) 08:50:05
>140(宰相は天子になろうとする意識さえなかったようですが、ある意味忠臣なのかね)
「意識さえなかった」というところがポイントだ。
科挙制度の確立は単に統治制度上の進展ではなく、中国社会の実質的な支配者層である
私たち士大夫の意識をも根底から革新せしめた。
私たちの地位はすべて天子の恩賜によるもので、天子の権力の下で位人臣を極めることが
唯一の社会的成功だった。この観念はまさに宋代以降に現れた中国史の大きな特長だ。
私たちは貴族でも諸侯でもなく、試験によって選抜された官僚だ。
天子の地位を脅かすほどの武力も資本も持ち合わせない。簒奪はいわば不可能事なのだ。
天子と人臣の間の観念的な距離が、埋め難いほど隔絶したとも言えるだろう。
すなわち中国史は宋代以前と以降とではっきりと分けて考える必要がある。
なにせ宋代以降の王朝交代はほとんど外的な要因による支配民族の交代であって、
内部的な簒奪に成功したのは永楽帝朱棣と、あとは袁世凱くらいではなかろうか。
0116名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/06/26(木) 17:32:08ID:7gdSzXGX0
201 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/05/10(火) 08:48:47
>105(姚広孝について論じてみて)
道衍という僧名のほうが有名か。一般には燕王朱棣(後の成祖永楽帝)の軍師として知られる。
僧籍のまま歴史の表舞台に出たというのが、やや異色といえるかもしれん。
史書には「常に謀臣として帷幕に参し職守の機事は皆彼の言により決し其功第一と称せらる」
───と、記される。なにか具体的な軍功を立てたとの記事も見当たらぬ以上、
即ち燕王近侍の佞倖だろう。無謀な造反を唆すくらいであるから褒められた人物とは言い難い。
まあ、精神面で燕王を支えていたのかも知れん。
さすが勲功第一と称されるほどだから、燕王の即位後には太子小師に叙されている。
ただし、小師とは政治上の実務を担当する地位ではなく、言ってみれば名誉職だ。
政治的には枢要な地位を襲わず、名誉を得た後も常に寺院に起居して史書の編纂に生涯を
尽くしたというから、この点だけみればかなり淡白な人間だったのだろう。
そのため永楽帝との関係も終生にわたって良好であった。
どこか謀反を焚付けた謀略の徒としての足跡と整合性を欠くような印象も受ける。
あるいは、もともと大した存在感も功績もない、単なる学僧だったのかもしれない。
そういう人物を勲功第一とすることで、むしろ自身の威光を些かなりとも脅かされぬようにした
永楽帝の知恵だったのかもしれない。そのように考えればすっきりする。…あまり根拠はないが。
蛇足だが、永楽帝が帝位を奪取した政変を後世に靖難の変と称する。
たまに北宋末の靖康の変と混同される場合がある。時代も経緯も全く無関係であるけれど、
圧倒的優位にある一方が、到底勝ち得べからざる一方に敗れた───という点では共通する。
0117名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/06/26(木) 17:54:49ID:7gdSzXGX0
199 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/05/10(火) 08:47:50
では本日の回答を行う


>93(李靖と陳慶之ってマジ凄いやんけ!)
李靖にせよ李勣にせよ、唐建国期の功臣の武勲は非常に華々しい印象を放つ。
実際上の唐王朝は安定性に欠ける脆弱な政権であり、
太宗李世民も特に軍事上の失策が少なからず目に付くけれど、
それらを差し引いても太宗とその家臣団が優れた能力を有していたことは間違いない。
いったい6〜7世紀の中国はいまだ中世の停滞期を脱しておらず、
してみれば唐の統一は奇跡にも近い偉業と言えるが、
その要因として単に社会構造的な因果関係を観念しうるのに加え、
統治者の優れた能力と強固な意志に由来する部分も見過ごすことはできない。
とは言え、旧唐書をはじめ史家の筆はこの唐初時代を過剰に粉飾した。
ために太宗の巨視的な功績は間違いないとしても、
細部の事実関係を解り難くしているというきらいはあるな。
ちなみに陳慶之なる人物のことはよくわからない。李靖の部将だろうか?
旧唐書を調べてみようと思ったが、時間の関係上今回は勘弁して欲しい。
0118名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/06/26(木) 18:09:52ID:7gdSzXGX0


74 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/04/27(水) 10:41:37
>69(北宋を自滅させた張本人として何かコメントを)
北宋王朝の特長の一つとして、言論が自由なあまり政策が安定しないという点があった。
それは新旧法の抗争をみれば一目にして瞭然だ。王安石にせよ、蔡確にせよ、章惇にせよ
反対派を徹底的に弾圧して行財政の改革を推し進めるだけのマキャベリズムに欠けていた。
そこを初めて解決して政治権力の安定を実現したのが私だ。その意味では秦檜も韓?冑も
あるいは史弥遠や賈似道でさえ私の亜流に過ぎない。
また、私の理財家としての功績も評価されて然るべきだ。
いったい中国史上最重要の税制は両税法と塩税であり、その一方の柱である塩税の制度を
完全な形で確立したのは他でもないこの私だ。
南宋が国家財政の八割超を軍事費に割いてなお破綻しなかったのはなぜか?
元が世界史上類を見ぬ紙幣制度を確立させ、かつ正常に機能させえたのはなぜか?
これは即ち消費税である塩税が確立され、安定した財源を確保できるようになったからだ。
北宋王朝は滅亡したが、これは財政破綻による必然的な崩壊ではない。
外交的な失敗を重ね、丸裸の首都に敵を招き入れるという二重三重の戦略ミスの結果だ。
言うまでもなくこれは軍政のほぼ一切を統括していた童貫の責任だ。
もしくは童の腰巾着に成り下がり彼の意を迎えた蔡攸、私の後任として宰相位を襲った王黼、
そして誰よりも何よりも最高意思決定者であった徽宗皇帝の責任だろう。
そもそも私は金国との同盟にも、遼と戦端を開くことにも、はっきりと反対を唱えている。
にもかかわらず、愚行を止められなかったのは、既に私の発言力が後退していたためだ。
つまり、老いだな。とうに七十歳を超えていたのだから致し方のないことだろう。
引き際を心得なかったことが責められるとしても、亡国の責任まで押し付けられては堪らない。
むろん南宋が金国を打ち倒して旧領を回復しえなかった原因は、暗君の高宗皇帝と
中国第一の姦臣とされる秦檜に負わすべき責任であって、これも私と無関係なのは明白だ。


───以上
0119名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/06/26(木) 18:10:31ID:7gdSzXGX0
73 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/04/27(水) 10:41:08
では本日の回答を行う

>67 朱元璋
確かにそうなのだが、もう語り尽くされた感もある。
しかし、明代史に詳しい者がわりと多いという事実にまず驚いたものだ。
日本人は殊に明王朝への興味が薄いようで、戦前の研究では朱元璋を中国歴代の
天子の中でも凡庸で特長に薄い人物と考える向きも多かったらしい…
ま、文化史的なものに重点を置けば、明王朝は特筆するべき個性に乏しい面がある。
その創始者たる朱元璋も、自ずと似たような評価を受ける羽目になったのだろう。
0121名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/06/27(金) 18:00:52ID:oGdQvRGi0
それじゃ、自分の意見は、
唐は安史の乱以前と以後に分けた方がいいと思うので
清も阿片戦争前後からすでにやばいので、あくまで初期で

清>元>唐(前)>北宋>明>前漢>隋>後漢>南宋>唐(後)>金>西晋

明は皇帝権が絶対であるが、臣下の忠誠心が薄いため、経済力に頼っており、倭寇にすら
苦しめられた。守勢に回ったら、もろいと思う。
唐も攻勢は強いが、いったん、瓦解したら、すさまじく弱体化してしまう体制
隋は二代限りだが、煬帝のあの事業を支えたのは結構、国力はあると思われる。
一大事業をこれといって起こすことのなく、滅んだ後漢よりは上かと
軍事国家のくせに、南宋に攻め入ることのできず、モンゴルに数度の敗北で滅亡した金の弱さは異常
実態はかなり低いものと思われる。
秦と新は短命なので除外
0123名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/06/30(月) 14:19:23ID:ldcLExQ50
674 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/02/18 19:54
>647(晋の国について、教えて下さい。いい国だったのでしょうか?)
司馬氏の晋は、中華史上最も弱体な統一王朝だ。そもそも三国時代末期は
中華社会が経済的にも政治的にも、どん底まで落ち込んだ時代であり、
一時とはいえ中国全土を統一した王朝が出現したことそのものが、
ひとつの奇跡であったと言える。晋の天子は大土地所有者(=貴族)の中で、
第一人者の地位を保っていたに過ぎず、経済問題に直結する土地制度の
諸問題につき、手を打つ力が全くなかった。民衆にとっては明日をも知れぬ
暗黒社会であり、いい国であったかと問われれば、はっきり否とする他ない。
この王朝の二代目である恵帝は、中国史上最悪の暗君とも言われるけれど、
そもそもどんな明君が君臨したとて、晋朝の構造的問題を是正し、強国に
生まれ変わらせしむのは不可能であった筈だ。中国史の中で重要な位置を
占める王朝ではないため忘れられがちだが、もっとも類似するのはやはり
唐王朝だ。王朝交代の流れから見れば晋の系統は南朝の終焉とともに
絶えるが、政治制度的には晋の延長線上に唐があると言って差し支えない。

>647 (晋の国について、教えて下さい。)
三国分裂の結果と見られがちだが、本来晋は魏の後期には既に司馬家の
独裁政権として半ば完成されていた。禅譲はその結果に過ぎぬ。
仲達殿のクーデターの段階で魏の政治軍事権を握った時点で王朝の基礎が
固まったと言えるが、当時の士大夫や貴族豪族にとっては単に頭が代わる
のみの事だったかも知れぬ。
良い国であるかは問題外だろう。収奪を元とする古代王朝である以上
民間の生活は期待は出来ぬし、何より貴族の力が強大すぎた。
王朝の優劣度でも下位に属するのも致し方ない。

>67(唐と宋ってかなり違うんですか?)
最大の違いは経済力じゃ。農業においては自作農と、荘園で小作に従事する
「佃戸」とがあったのは唐代と相違ないが、佃戸の地位が宋代においては上昇し、
半奴隷的な色彩は完全に払拭された。当然それにより生産性も高まった為、
佃戸の中には、零細な自作農より生活の楽な者も多かったのだ。
さらに商工業も唐代と比して飛躍的に発展し、都市の商工業者が新たな階級として台頭した。
北宋の都が、交通の要衝たる?京(開封府)に置かれたのも、その現れじゃな。
唐王朝に対し華やかな印象を持つ者も多いかもしれぬが、経済大国の宋のほうが
一般庶民の生活水準も高く、軍事的に脆弱であっても文化的活力があった。
さらにもう一つ付け加えよう。>71で来が述べておる事と関連するが、唐末から五代の
動乱を経て門閥貴族が一掃され、皇帝権が著しく伸張した。
このことは皇帝と人臣の間の実力格差が、埋めようもなく拡大したことを意味する。
いささか乱暴な考えなれど、北宋以降の王朝交代が、すべて漢族政権と異民族の
征服王朝との間で行われたことは、それが理由である・・・と申す史家もおる。
0124名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/06/30(月) 14:55:20ID:ldcLExQ50
167 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :03/09/08 18:19
>165(中国史の名君ベスト5を挙げてみてください)
序列を付けるのは非常に難しいが・・・

1.聖祖康煕帝(清)
2.太宗李世民(唐)
3.太祖趙匡胤(北宋)
4.光武帝劉秀(後漢)
5.太祖朱元璋(明)

と、私は考える。康煕帝および李世民は軍事、内政を両立させた点が偉大じゃ。
古来より外征にかまけた天子は、おおむね国家財政を破綻させ、王朝そのものの
衰退を招いておる。前漢武帝、隋煬帝などがその典型だ。しかるに康煕、太宗の
二帝は、版図の拡大に並行して内政も能くし、各々長期政権の礎を築いておる。
趙匡胤は軍人皇帝ながら、五代以来の武断政治を排除し、文治主義による皇帝
独裁体制を確立した。軍事面での弱点を経済力によって補うという、新しい形の
国家を形成した点は評価に値しよう。光武帝はやや時代が上るものの、やはり
有力豪族を牽制した、文治主義的な面を評価したい。最後の朱元璋であるが、
かなりの傑物ではあるものの、暴君的要素が強すぎるゆえにこの位置じゃな。

171 :来俊臣 ◆SiKEI/O88M :03/09/10 19:23
>165
では、我輩はこう並べる
1 明の太祖 洪武帝朱元璋
2 清の聖祖 康熙帝愛新覚羅玄?
3 後漢の世祖 光武帝 劉秀
4 唐の太宗 李世民
5 前漢の高祖 劉邦

洪武帝は他の歴代皇帝と違い、財産・地盤の全く無い流浪の托鉢僧から
立身し自分の政治・軍事・人事各方面に渡る才能と研鑚で一代にて中華
を統一して二百八十年にも渡る明王朝の基礎を築いた。後年の大粛清を
差し引いても余りある大きな功績だろう。
康熙帝は幼少で即位しながら早くから親政し三藩の乱や対外遠征と勝利
を収めながら内政・文教面でも多大なる成果を残した清王朝最高の名君
と言えよう。
光武帝も王莽期の混乱から一代で天下を平定し後漢王朝を築いた功績は
大きいが、洪武帝よりはるかに恵まれた出発点をかんがみ第三位とした。
唐の太宗は我輩の時代では名君の代名詞であったが、隋王朝の国公の家
柄。兄弟を抹殺した玄武門の変。そして晩年の長孫無忌の専横を許した
事で光武帝の下とした。
漢の高祖は人心掌握術と有能な家臣を使いこなし天下を平定したが特に
内政面での功績が見当たらぬため第五位とした。
尚、北宋太祖と武則天陛下については主観が入るため別格としたが優れ
た皇帝であることに代わりない。
しかし、こうして見ると創業の皇帝が多いな。
0125名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/07/01(火) 01:59:47ID:J3benrf30
298 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :03/09/30 20:46
>287(玄武門の変は太宗の汚点と呼ばれてますが、お二人はどう評価しますか)
後世の者の評価はともかく、太宗李世民自身、玄武門の変を自らの汚点と考えて
いた事は間違いない。その汚点を正当化すべく、太宗は歴史の改竄を企図した。
玄武門で殺害した兄、李建成の功績を貶めることは言うに及ばず、父帝高祖李淵の
勲功まで自らの物として史書に記させた疑いもある。長期政権の創始者、例えば
前漢高祖や宋・明の太祖と比して、李淵があまりに地味に映るのは、その為だろう。
そのように考えると玄武門の変は、李世民の残忍で狡猾な本性を象徴する事件で
あったと言える。そうして帝位に上った後も、即位にまつわる後ろ暗さを払拭する為
明君として振る舞い続けた太宗だが、その緊張感を生涯に渡って持続させた点は
驚嘆に値すると言ってよかろう。太宗の治世は粉飾されておる部分も多いが、
それを差し引いても中国史上屈指の明君とみて間違いはない。

>295(エェー 元のフビライについて教えてYO)
殺戮と略奪によって世界中を恐怖に陥れた蒙古帝国だが、フビライ汗はまだしも
開明的な帝王であったとされる。南宋を滅ぼした際もその皇族を優遇しておるし、
当地での蛮行も戒めたというから、蛮族としての蒙古からの脱却を図る意気込みは
あったのだろう。軍事的資質、汗家の熾烈な権力闘争に打ち勝った権謀術数の才も
相当な物であったと認めざるを得まい。だが、中華の支配者としての内政面における
事績は稚拙を通り越して無残と言うより他ない。蒙古人には財政処理能力など皆無
であったから、フビライ汗はそれまでの伝統に従い、色目人(西域人)官僚に経済政策
を委託したが、この連中は場当たり的な搾取を繰り返す事にのみ長じていた。
言ってみれば、絹の道での中継貿易において利益を上げるような限定的財政手法を、
農業国である中華にそのまま敷衍させ、宋代を通じて発達した経済構造を根底から
破壊し尽くしたのだ。元朝の国家としての施政方針を定めたのはフビライ汗であり
その後継者達も同様の手法で統治した為、漢地にどれほどの混乱が生じたかは
筆舌に尽くしがたいものがある。草原の王者として君臨しておる分には偉大な帝王と
呼べたかもしれぬが、中華の支配者としてのフビライ汗は暗君と言って差し支えないと
私は考える。
0126名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/07/01(火) 08:48:02ID:ys76oEii0
あんたね〜w
他人のふんどしばっか持ってこないで、いい話してると思ってるなら
せめて誘導してくれよぉ。
ここじゃレスも返せないじゃないか。
0127名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/07/01(火) 10:40:22ID:N9A0JTt10
実際、元の経済力ってどれぐらいだったんだろうね。
宋の時代に比べて。
0128名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/07/01(火) 11:00:20ID:lK2oqluP0
ここや過大評価スレで昔のコテハンの意見を転載して称揚する動きがあるが
研究者による論文・専著でも批判的に読んでみるべきものなのに
どこの馬の骨とも知れん人がネットに書いた事を無批判に信頼していいもんかね
本人乙とか言われても仕方ないよ
だいいち5年も前のスレなんか大抵過去ログ化してる訳で
当時の参加者以外はログ持ってないのが普通だろう
0129名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/07/01(火) 13:17:35ID:J3benrf30
世界悪徳列伝Vol.8
ttp://www.alfheim.jp/~narikiri/narikiri/test/read.cgi/TheSun/1162999565/

>>126>>128
スマソ。
蔡京 ◆GtkPmKwSp2氏が最後にレスしたのは去年の9月だし
誘導しても意味内かと思ったので。
レスを返すといっても4、5年前の話を覚えてるとも思えない。

別に他人のふんどしで話そうとか称揚するつもりはないけど、
埋もれさせておくには惜しいというか……まあ、そんな訳です。
0130名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/07/01(火) 14:04:32ID:ys76oEii0
日付は見てなかったわw
5年前とか…
5年前つったら、ようやく五代十国時代に目覚めて調べだしたときか。
その頃だったら、なに言ってるかさっぱりだったろうなぁ。

>>129
ま、そういうことなら、あげてもいいけど。
0131名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/07/01(火) 17:01:20ID:J3benrf30
319 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :03/10/02 17:06
>309(王安石もヘタレですか?)
王安石については何度か断片的に語って来たが、この機会に詳しく論じてみよう。
北宋が、遼・西夏に対する莫大な歳幣(安全保障費用)および官僚組織の充実による
費用などがかさみ、11世紀半ば頃から財政難に陥っていたことは前に述べたと思う。
王安石はそのような状況下で宰相となり、新法と呼ばれる改革を断行した。詳しい
内容について言及すると冗長になり過ぎるゆえ省くが、新法の根本的理念は農民や
中小商工業者を支援し、それによって生産増加と景気浮揚を図ることにあった。
だが、これらの政策は富を独占する地主・官僚等に打撃を与えるものであったから
彼奴らの凄まじい抵抗に遭い、さらには法適用にあたっての不手際と、改革に伴う
一時的な景気の後退によって、民衆にも全く歓迎されなかった。新法は長期的視野に
立った経済政策であり、継続されれば効果を上げられたとは思うが、王安石は余りの
不人気から在職五年で宰相を罷免される。翌年には復権したものの、一年間の
左遷生活の中で完全に覇気をなくし、すぐに自ら辞職して二度と政治に関わらなく
なってしまった。やはり、ここで諦念してしまったことが新法を失敗に終わらせた最大の
原因であったろう。王安石は皇帝の信任篤く、かなりの権限を有しておったから、
独裁的に新法を推し進めて成功させることは可能であった筈だ。反対派である
旧法党には、これといって新法に代わり財政難を解決する具体的試案は何も無く、
ただ己の利益と儒家的価値観に縛られて、感情的に新法を謗っていたのみだからな。
その後、新法・旧法の政策対立は単なる派閥抗争へと堕落する。そして最終的に
勝利者となった私は旧法党を全て駆逐し、新法を完成に導いて国庫を黒字にしたが、
その金は徽宗の贅沢三昧に費やされて、王安石の理想とはかけ離れた結果を生じた。
結局のところ、王安石はあまりにも実直過ぎたのだ。実権を有しておる以上、反対派
に対して幾らでも過酷な処置がとれたものを、無駄に説得を試みるなどしておる。
それに政治家として、良い意味での狡猾さが無かった為、付け入られる隙を与えた。
改革に成功した宰相として、しばしば王安石に比せられる者に、明代の張居正がいる。
こちらは王安石と違い、権力維持の為に反対派を弾圧するなどの非道さを持ちあわせて
いたのが成功の鍵と言えよう。私もまたその範疇だな。尤も私は亡国の臣であるが。

>326(蔡京閣下が武則天を論じてみて下さい)
なるほど。来とは異なる視点で武后を考察するのも一興だ。
武后の治世は概ね太宗時代の威光を受け継ぎ、唐の隆盛期ではあった。
しかしその内実は、均田制の崩壊によって確実に税収が落ち込んでいた筈だ。
実際問題として唐王朝は巨大に過ぎ、均田制のような画一的制度を継続するのは
不可能に近かったと思うが、その崩壊に直面して武后は場当たり的な対応しか
講じていない。武后は人材登用に関して積極的だったとされるが、そうして門地に
こだわらず登用した官僚群の中にも、傑出した経済官僚は居なかった。
狄仁傑からして、宰相としての内政面における実績は特に見当たらない。
均田制の崩壊はそのまま府兵制と租庸調制の崩壊でもあるから、中唐以降の
皇帝権の後退、軍事力の低下の直接的原因であり、単なる経済問題には留まらぬ。
結局のところ武后は、国家最大の懸案につき無為無策であったのだ。
ただし、構造的な問題を解決できず先送りにしたとは言え、とりあえずの繁栄を
維持するだけの良政は敷いており、晩年になってもそれほど政治能力に衰えが
見られなかったので、玄宗よりは遥かに真っ当な天子であったとは言える。
なれば唐代において太宗に次ぐ賢帝であったともみなし得るが、やはり能力に
おいても実績においても、太宗とは比較にならぬとしか言いようがない。
0132名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/07/01(火) 17:04:30ID:J3benrf30
442 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :03/10/14 02:42
>438(金王朝最大の暴君、完顔亮について一言)
完顔亮、すなわち金の海陵王だな。これも判断の難しい帝王だが一言で申す
ならば“焦り過ぎた”ということだろう。都を移し、漢族官僚を重用し、諸制度を
整備しつつ、自らも中国文明に陶酔して中華の帝王に相応しい中央集権型の
皇帝独裁国家を築こうとした。これは施政方針として間違いではない。しかし、
それら諸政策と並行して南宋討伐の軍を起こしたことが、結果論から言えば
海陵王最大の失策であった。とは言え戦況はむしろ金軍に有利であったから、
遼陽でのクーデターがなければ、長江を渡って南宋を滅ぼしていたかも知れん。
海陵王は暴君に違いないが、明確な方針を持って国家運営をしており、決して
無能ではなかった。もし南北統一に成功しておれば、かなり強大な統一王朝が
中華全土に出現していたと思う。海陵王の私生活における残忍さや、即位の
際に多くの皇族諸侯を殺した事は、あまり重視する必要はあるまい。廃帝に
関する事績だけに、捏造や誇張の類が多かろうしな。

>560(王安石、司馬光について一言お願いします)
司馬光というのは、ある意味非常に清廉潔白で道徳感情に溢れる人物だった。
だからこそ、新法によって貧民(主に農民だが)を経済的に支援し、その生活水準を
底上げするという理念に、吐き気すら催すほどの嫌悪感を感じたのだな。
富者がいる一方で貧窮した農民が多数存在するという、階層化された社会秩序こそ
理想と信じて疑わなかったのだ。現代人には奇異に映るだろうが、このような
歪んだ思考も儒家的倫理観の一典型として存在し得る。すなわち司馬光は
私利私欲を図る為に新法を非難していた訳ではなかったゆえ、
宰相としてそれらを全面的に廃止するにあたり、迷いも後ろめたさもなかった。
無論、このような現実から遠く離れた理想主義者が宰相として国政を統括するのは、
国家にとり害悪でしかない。その意味で司馬光は私以上に悪質な宰相であった。
一方の王安石だが、現代的な感覚では、貧民を慮る正義の味方に映るやも知れぬ。
だが新法というのは、ある程度貧困層を支援して経済力を備えさせ、しかる後に
搾取すべしというのが本質であった。王安石自身はしばしば“愛民”などと口にし、
新法の社会福祉的な側面も強調していたが、まあ無理のあるこじつけだったな。
どちらかと言えば科挙官僚というのは司馬光のごとく経済にも軍政にも刑法にも
疎い者が多く、王安石や私のような実務家のほうが珍しいのだが、より宰相として
相応しいのがどちらであるかは言うまでもない。
0133名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/07/01(火) 17:06:26ID:J3benrf30
49 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/02/26 18:06
では本日の回答を行う。

>39(今の日本のように、他国に容易く金をやる国は、古今稀では?)
有史以来一貫して東アジアの雄であった中国は、外国との間に自由で
対等な通交関係を結ぶという思想がなかった。そのために中国は常に
外国に対し服従と貢納を要求する立場──すなわち朝貢関係を
築いてきたのだ。朝貢関係の実態は、中国が政治的安寧という利益を
享受する対価として、諸外国が希望する通りの経済的恩恵を与える
ものであったから、正に中国は「他国に容易く金をやる国」として
東アジアに君臨してきたのだ。漢・唐・元・明・清と細かい相違はあれど
みなこうした姿勢で外交威信を保持していたのだが、ひとつだけこの
方針に失敗した王朝がある。それが即ち私の北宋王朝に他ならない。
つまり来が>40で述べている通りの屈辱的な外交を強いられたのだが、
実を言えば我が北宋王朝は、一般的に精強と思われている前漢・唐を
遥かに凌駕する軍事力を持っていた。それなのに北宋の外交威信が
大きく低下したのは、ひとえに中国の爆発的な経済発展が周辺諸国を
中世的社会から脱却する役割すら果たしたゆえであり、外交関係の
優劣を決する要因が複雑化したためと言える。また、北宋王朝は
強大な軍事力を有していても、それを円滑に運用できぬという構造的
欠陥があった。量的に満足されても質的に問題を抱えていたのだ。


59 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2003/11/12(水) 19:02 ID:h1BfEjLY
>705 伯顔
よく来たな。確かに貴公の申すとおり、私が蒙古に対して否定的なのは
中華思想によるものも少なくはなかろう。これは私の経歴上仕方がない。
科挙の有無についても同様だ。ただし私は必ずしも科挙至上主義者では
なかった。胥吏(行政の末端運営に携わる民間人)に試験を課して、
官僚への途を開く制度を作ったのは私(と王安石)だしな。
しかし、元朝の官僚任用制度は実に素朴なもので、殆ど南北朝以前の
門閥主義に逆戻りしたものと言ってよい。蒙古至上主義をとったのは格別、
およそ蒙古人以外で元朝の宰相にまで上った者が片手で数えられるほど
しかおらぬというのも、驚くべき不均衡といえよう。
それと元朝の最も非難されるべきは、その経済運営だ。旧南宋の領土に
おいては両税法を維持したものの、華北における税制は全くの支離滅裂。
これは耶律楚材にも責任の一端がある。さらに元朝一代はすべて通貨を
紙幣をもって流通せしめ、これは高度の兌換性をもつものであったから、
その点驚愕するが、およそ農本主義の中華社会において循環経済を敷衍
せしめんとすれば、まず農民の購買力を育成することに重点を置くべきなのだ。
しかるに元朝においては土地の私有に制限なく、また制限を設けんと企図した
形跡すらない。土地の兼併は大いに貨幣経済を衰退させる方向に作用する
ものであり、この点でまず経済政策に整合性が見られない。
実際、宋代以来築き上げられてきた、現実に即する経済振興策は元代に
おいて殆ど水泡と帰し、さらに後継の明王朝も宋代の社会を範とすること
薄かった為に、中華社会を長く停滞せしめた。やはり蒙古の漢土支配は、
中華社会にとり不幸な出来事だった。異論もあるだろうが、私はそう考える。
0134名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/07/01(火) 17:07:10ID:J3benrf30
まず秦檜は宋代云々の話を超越し、中華第一の姦臣として名高いから、
四悪に数えられるのは当然だ。秦が金と通謀してしたというのは俗説に
過ぎず根拠は薄いけれど、それを差し引いても、南宋が永久に中原を
回復すること能わざるは、是秦檜一人にその責めを負わせても、特に
不公平とは言えぬ。賈似道は歴史上賛否両論のある宰相だ。いわゆる
「賈似道の公田」は、当初の目的であった豪民抑制がまったく行われず
いたずらに中小農民の土地を無法に収用するのみの悪法に終わった。
一時的に国庫収入は好転したものの、国家全体の生産性を著しく
損なったのだから、私としてはどうあっても賈を評価する気にはなれぬ。
賈は進士なれど科挙に応じたことはなく、天子の妃であった姉の恩蔭で
その地位を得た破落戸子弟に過ぎぬ。こうした下衆に朝廷の権を掌握
されたこと自体、もはや南宋は末期症状に陥っていたと言えよう。
韓?冑は寧宗擁立の功臣で、非進士ながら宰相にまで上った者だが、
>153で来が述べたように朱子学を禁じた事及び対金戦に敗北した事が
主な原因で姦臣の名を後世に残す羽目となった。
そして最後に私だが…悪く言われる事が多いのは、旧法党を徹底的に
弾圧したためだろう。南宋では基本的に新法が害悪視されたのでな。
北宋が滅びた直接のきっかけは、やはり対金外交の失敗に端を発する
もので、それは主に童貫と蔡攸(私の長子)の責任だ。


>155(皇帝独裁権の良点と悪点を教えて下さい)
最大の利点は政治の安定が期待できる所にあった。皇帝権の強さは
すなわち人民支配の実力そのものであり、強固な政府の庇護下に
あってこそ民間における文化・経済はめざましい進捗を見せるのだ。
ただし皇帝独裁体制にも幾つかの類型があり、君主の恣意が何者の
掣肘も受けずそのまま実施される古代の専制君主政と、封建領主的
色彩を失った官僚である大臣が政策を立案して、最終的な決断をのみ
君主に委ねるところの近世的独裁制とでは、まったく性質を異とする。
この差異がいずこから生ずるかと言えば、前者の独裁体制は、君主が
封建諸侯の中の第一人者である為に成立した見せかけの独裁権力に
過ぎず、すなわち君主の権力が相対的に下降すれば、たちどころに
体制崩壊して中世的分裂社会へと移行するのに対し、近世的独裁とは
国家機関をすべて君主の下に集中せしめ、君主に事故ある場合にも
大臣や外戚に全権を委ねることがないように官制が整備された体制を
指すのである。近世独裁体制は、分裂割拠状態にあった中世社会を
政治的に再統一したのみならず、国内市場の再統一により爆発的な
経済発展をもたらす役割をも果たした。そしてこれこそがまさに中国に
おける皇帝独裁権の最大の成果であったのだ。
しかし、中国の皇帝独裁制は、あまりに強大かつ整然となり過ぎた。
ために社会は近世の限界とも言える一点にまで上りつめた後、長期の
停滞に陥ったのだ。国内の富は天子と官僚・大土地所有者にすべて
吸収され、市民階級はついに台頭せず、人口の増加は富の偏在に
拍車をかけた。産業革命も政治革命も行われる事なく、中華社会は
西欧列強の進出の前にあえなく膝を折る結果となった。これは中国の
皇帝独裁制が内包していた構造的欠陥に他ならない。

皇帝個人に依存する独裁体制ではその能力器量が大きく関係する。
清朝の康熙・雍正両帝の如き名君なら中央・地方の官僚組織も
潤滑に機能できる。
だが文盲に等しい暗愚な者が一度、帝位に就けば目も当てられまい。
特に皇帝独裁権がほぼ確立した明代ではそれが当然となり官僚も
私利私欲に走り、ついには自滅とも言える滅亡に相成った。
要は皇帝の政務能力云々が良点にも悪点にも成り得るのだ。
蔡京殿の言われる市民階級の台頭も、西欧諸国が実行しつつあった
十七〜十八世紀に清の三代黄金期だった事が結果的に後々の中華に
悪影響を及ぼしたのは皮肉と申すしか無い。
0135名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/07/01(火) 17:08:26ID:J3benrf30
293 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/03/30 18:35
>232(高祖)
高祖の覇業なりし要因はまさに帷幕の将吏に人を得たことを以て第一とし、
帝本人が用兵の才覚や高度の知識教養を備えていたと少なくとも文献上からは
読み取る事ができない。ゆえに高祖が他者より秀でていた点は、士大夫に要求
されるが如きものにあらず、むしろ侠客としての求心力であったに違いない。
秦王朝崩壊後の諸反乱は伝統的士大夫層により組織されたものと不平無頼の
衆徒とに大別されるが、即ち後者を代表するのが高祖劉邦だ。
秦王朝に代わる中国の支配者が必ず高祖でなければならなかった理由はない。
反乱者の勢力は拮抗していて、ある意味誰が最後の勝者となってもおかしくは
なかったのだ。それゆえに高祖の成功はその能力に拠るところが大であると
言える。一般に中国の天子で卑賤から身を起こして長期に存続した統一王朝を
樹てたのは高祖の他には明の太祖くらいとされている。この一点を以てしても、
劉邦が平凡な人間であったとは考えられない。ただし群雄として戦乱を生き抜く
能力はあっても、治世の天子としては平凡な資質しか発揮できず、その死後に
幾許かの混乱を生じせしめたのは事実だ。ゆえに明君とは評価しにくい。


>284(洪武帝と光武帝も一文字違いで大きく違いますね)
そうでもない。洪武帝と光武帝には政策面で似通った部分がある。両者とも
対外政策に消極的で、交通路を閉ざした内向的な鎖国国家を志向した点が
まず挙げられるが、最大の共通点と言うべきは中華史上特筆すべき官制の
改革を行ったことだろう。洪武帝が中書省を廃止して宰相をおかず、行政の
各部局を天子に直属させて極端な独裁体制を築いたのは有名だけれども、
光武帝もまた宰相を信任せず、前漢における丞相(成帝以降は大司徒)を
司徒と改称して実権を剥奪し、これに伴い三公を空名の名誉職に堕した。
明においても後漢においても、かかる官制改革の結果として生じたのは、
天子近侍の官による側近政治だ。すなわち明朝では内閣大学士が、後漢
では中書・尚書が政治上の実権を有して宰相に代わり重用されている。
いったい中国の官制は、天子近侍の微官が側近としての特性から次第に
表面の大官を凌ぐ実権を有するようになり、やがてそれに取って代わると
いう現象を繰り返して発展してきたが、光武帝・洪武帝はその節目となる
時期に出現した天子なのだ。なお粛清うんぬんについては以前にも述べた
ので割愛するが、洪武帝が天子としての資質に欠けたことを証明する事実
であると私は考えている。
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