前漢vs後漢vs唐vs宋vs明vs清
劉邦「おい、犬が何で二本足で立ってんだよ。四つんばいになれよ」
劉秀「やれば洛陽を返していただけるんですね?」
劉邦「おう、考えてやるよ」
こんな感じになる。 庶民の暮らしは、後漢の方が豊かで自由なものだったらしいよ 庶民の暮らしと国力は直結しないぞ
そりゃ庶民は餓え死にするほど貧しい国はやばいが
国力という時点なら前漢のほうが高いはず 前漢と後漢を比べたら、後漢はいわゆる勝ち組と負け組がはっきりしだした時代
勝ち組なら豊かだったろうが、多数の負け組が勝ち組の踏み台になっている
負け組は勝ち組=豪族に隸属したり土地を捨てたり
前漢は負け組救済と豪族抑制が基本政策
ただしその分個々の民に要求される負担は大きい
どっちがマシかは各自の判断だと思う 抑商政策みたいなこともやったようだけど、
やりすぎると経済が縮んで自分の首を締めることになっちゃうし、
結局大した効果はなかったんだろう。 独断と偏見で
軍事
清>前漢>唐>後漢>明>宋
経済
宋>清>明>前漢>唐>後漢
文化
宋>前漢>唐>清>明>後漢 日本は隋唐から文明を導入した歴史があるから
日本人はどうしても唐を過大評価しがちだが
字際には唐は意外にショボい。
統一国家としての態をなしてなかった時期も多かったし、
国力では漢や明より劣るだろう。 >>30
鮮卑族王朝という出自ゆえに国際色豊かな帝国という点で唐に対する
評価が高いんだろうけど、唐の全盛期って短いもんな そりゃ、漢代とはユーラシア全域の状況が違いすぎるでしょ。 意外にすごいよ系が北宋だと思うけど、
でも最強とはどうしても思えないね。 後漢は初期を除けば、諸羌の侵攻によってその軍事費で民間共に火の車
原因は洛陽奠都による、三輔地域における軍事拠点確保の軽視と思われる
劉秀のこういう点は責められて然るべきだと思うんだが
北宋と同じ国防上の問題を抱えていた時代じゃない、後漢 北宋に水滸伝の梁山泊があったら北宋が一番強いだろうな。 >>35
李世民は結局は貴族のお坊ちゃんだし、
最底辺から這い上がってきた朱元璋の配下には負けそうな気がする。
朱元璋ならどんなえげつない手でも使いそうだし。 朱元璋軍は叩き上げのプロ集団にも見えるからな。
劉基のような聡明な軍師もいるため、隙らしい隙も見当たらないな。 朱元璋軍団は雑草みたいに生命力が強そうなんだよな。
これに対抗できるのは何となく運がやたらと強そうな劉邦軍団なんじゃない。 朱元璋軍てか、劉基が強すぎると思う。演義孔明じゃん。 遊牧民は機動力は圧倒的に強いだろうけど、征服事業においては、
持久力も必要なわけで、その点において劣る。
それと清朝の満州族はそもそも遊牧民と言うよりは狩猟採集民だし。 清朝は明朝の行政機構を吸収するような形で中国を征服したからね。
あまり戦争で正面から叩き潰したという感じではない。 軍事
政治
経済
文化
この4部門でそれぞれ10点満点で評価し、総合点を競えばよい。 圧倒的に清が高得点になると思うよ
政治は名君多いし経済力は初めて人口1億突破させたし文化なんて時代が進むほどよくなるものだし 文化は、客観的な評価が難しいから、
一つ前の時代に比べての進展具合で評価するべきかな。
経済は、農業や商業の繁栄度合いに、
当時の世界全体に占めた存在感を加味した感じ?
それぞれの時代での世界の中での存在ということなら宋が圧倒的だろう。
漢代にはペルシアやローマがあったし、
唐代はちょうどぴったりイスラム世界の勃興期にあたる。
明清の時代にはムガールやオスマン帝国が繁栄していたし、
清代には西欧が物凄い勢いで発展して恐らく乾隆末頃には国力で西欧に抜かれてる。
宋代は世界の他の地域がパッとしない時代であった。
イスラム世界は中だるみ状態で沈滞していたし、
ローマはマケドニア朝の繁栄時代が終わり、
西欧は文明がほとんど途絶えた状態だった。
そんな条件だったから、宋は世界の富の半分を占めていたのだ。 庶民への苛斂誅求具合は宋代でも案外変わらないと思うけどね。
雍正年間の清朝なんかの方がまだいいかも。 >>51
固定された階層が形成されるまでの期間なら、
庶民層でも官になれる可能性のあった北宋は
それなりに活力に富んでいた。
しかしどの時代、国でも権力者が富の集積に走ると、
必ず社会の階層化が進み、貧富の差が強くなり
また、さらに収奪も強くなる悪循環がある。
亡国の要因もその辺で、活力なき国は外圧にあっさり潰えてしまう。
だから、そうなる前の北宋は、庶民にとってまぁまぁ住みやすかったといえるんじゃないかな。 住みたいと言う場合には、時代よりも地域によるね。
中国の場合、地域によって環境が大違いなわけだし。 >>49
同時代と比べての繁栄度なら前漢だと思う
イスラムは中だるみと言ってるけど、北宋期は強力なセルジューク朝の全盛期
確かに南宋時代のイスラムは不振だけど、南宋自体が弱体だしね
あと漢の時代の強力な国にペルシアを挙げてたけど
ぺルシアはアケメネス朝にしろ、ササン朝にしろ、前漢後漢の時代には存在すらしてないぞw
前漢の時代にはまだローマも共和制だったし、やっぱり同時代の繁栄度なら前漢が一番だと思う
何にせよ、軍事的に弱体な宋が他の中国王朝より圧倒的に、同時代で繁栄してたってのは無いと思うよ >>54
宋の時代は、遼が意外なほど、特に大陸西方に対して、
影響力があったりするしな。 一部の国では、中国を意味する言葉の語源が、契丹(キタイ)となっているほど。 チャイナ、シーナ、シンは秦が由来。
英語のキャセイ、ロシア語のキタイは、契丹が由来。
唐が由来となった呼び名もある。
日本は長い間、唐とか唐土と呼んでいたね。 秦、唐、契丹・・・・・・みんな西方との交流が盛んだった国。 ついでにどれも非漢民族系と言うか、
発祥、源流が中原とは言いがたい国。 >>54
北宋と南宋では、どちらの経済力が上なんだろう?
南宋は、面積で半減したとは言え、ある意味経済効率の悪い地域を、
切り捨てた格好にも見えるし。 そりゃ圧倒的に南宋だろ。
中原は当時すでに貧しい地域になってたんだし。
そして江南は世界で最も豊かな地域の一つだ。 開封は100万人の不夜城。
鄴都も河北一の大都市。
金陵も、杭州も福州も一応、北宋の領土なんで
そんなに悪くはなかったと思うな。 開封が百万人都市というのは実はあまり根拠がなくて、
南宋の杭州臨安が最盛期に百五十万人ぐらいいたのが分かっているので、
じゃあもっと面積の広い開封も最盛期に百万人ぐらいいただろう、というものらしい。 >>68
へぇ〜。初めて知った。
本でそういうこと書いてるのあったら知りたいので、教えてほしい。 新書サイズでそんなことが書いてある本があった気がするけど、
どんな本か忘れたw >>70
そか、残念。
北宋あたりの本は結構読んでたと思ったけど、そういう記事はスルーしてしまう
可能性が高い(開封は100万都市でデフォルト記憶されているから)という…
唐の長安のように入り組んだ都市構造でなく、夜も賑やかだったというあたり
かなり商業的に繁盛しているといえるから、人口も勢い多い「だろう」と思ってたよ。
清が最強だろう。領土も一番大きいし、人口も大爆発したしな。 その人口大爆発でかえって弱体化してしまった気が・・・・・・ 清の隆盛を見るに、明も名君が2〜3人続けば、
たちまち国力が増大して、繁栄期を迎えていたかもと思う。 >>77
元朝は財政のかなりの部分を塩税に頼っていたそうだけど、
旧南宋地域できっちり徴税できていたのかな? 元は財政管理がへたくそな印象が 意外と国としては短命だしね
まあヨーロッパの国を、中国にあった王朝のなかでは一番震え
あがらせたと思っているけどね。(このときは南宋をまだ滅ぼして
いないが)
どの王朝が一番だったかは判断しずらいな それぞれの王朝って
何かしら同時代の他国と比較しても一つ頭が抜き出ている感じがする。
18世紀に入るまでは 前漢 59,594,978
後漢 56,486,856
唐 52,919,309
宋 46,734,784
元 59,519,727
明 62,361,424
清 426,447,325
人頭税を廃止した清だけ現実的な数字な気がする 地球人口:支那人口の比率で一番多いのは清じゃないか。 現在の世界で人口が多い国はインドと中国になるけど、
総合力で見たらアメリカと答える人は実に多いと思う。 というかアメリカ一国で世界を敵に回してもそれなりに戦えるんじゃないか?
アメリカは毎年、日本が国債買ってあげなければ、即倒産します。 、 l ‖_ >:=‐  ̄ ̄「 l| l } 、 ヽ んっ んんっ…
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そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
>>87
実際に、アメリカ vs その他の全ての国々、で戦争を行った場合、
アメリカはアメリカ軍という統一された組織で戦えるが、
その他諸国は、各国軍という指揮系統もばらばらな組織で戦わなければならない。
アメリカは食糧や資源もかなりの部分で自給できるから、
かなり優位に立てるだろうな。 >>90
アメリカ内部で内乱を起こすのと併行出来れば勝てる。
あの国も完璧な一枚岩というわけではないだろ 日本がアメリカ国債を売りに出せば、経済面から切り崩せるぞ。 >>92
それ以前に、アメリカvsその他の全国家で戦争になっていれば、
とうに金融市場が壊滅的な混乱状態に陥って、
国債を売るどころじゃなくなっている予感。 まあアメリカ国債の処分は、戦争が始まる前段階の話だな。
一番たくさん持っているのは、今は日本と中国か。 清の場合、少数民族政権という性格上、皇帝のクオリティが低かったら、
即国の興亡に直結するからな。 皆さん、こんにちは、私は中国人で、とてもうれしくここに来ます。
私は日本語ができ(ありえ)ないで、これは私がインタープリターの効果を使うので、きまりが悪いです!
私は、多くの現代中国人はすべて清朝を承認しません!とたいです。特に私達の大漢の民族!清朝中華の文化が滅ぼすことを招きました!
本当の話を言って、日本はとても多い中華の文化を保留して、日本の人命もよく学ぶ民族で、大漢の民族と大和の民族の本当の1家の人!
清朝はそうではなくて、蒙元は更にそうではありません!
ありがとうございます。 その現代中国人とやらには悪いが、やっぱ清>>中華人民共和国だよ。
清が人口や経済を豊かにしたから、その後の毛沢東は相当の無茶が出来たわけだし
中共建国後に、最初から改革解放の資本主義経済をやっていたら、
どこまでいけていただろうね、今の中国は
環境破壊とかが恐ろしいレベルにまで進んでいそうではあるけど と言うか、順当に中華民国が成立していればな。
途中で経済破綻を起こして、アメリカの傀儡になっていたかも知れんけど。 >>108
経済が破綻したら米の傀儡になる前に分裂して内戦に戻ります 70 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :03/12/06 21:09
>68(中国王朝強い順)
納得できる箇所と、さにあらざる箇所があるな。
軍事力・経済力等を勘案した総合的な国力を
私なりに比較してみよう。
清>明>元>宋>(越えられぬ壁)>>前漢≧後漢>>(超えられぬ壁)>>唐>晋
───であろうな。唐という王朝は意外に弱い。
経済基盤が弱体であり、両税法により財政強化されたものの
その頃には既に皇帝権大きく後退して、総体的国力そのものが
衰えていた。中世の最盛期たる李世民の治世をもってしても、
古代の最盛期たる前漢をさらに下回る筈だ。
また清王朝は紛れもなく東アジア史上最大最強の国家だろう。
その強勢たるやチンギス汗の蒙古帝国を遥かに凌駕する。
>69(秦が入ってないし)
私も短命に終わった王朝は埒外に置いた。
ちなみに魏・呉・蜀が晋よりも遥か下位に位置することは、
言うまでもない。 清>明>唐>前漢>後漢>北宋>隋>南宋>西晋>魏>呉>蜀
こんな所かの。やはり皇帝権が絶対化された明とその完成期である清は
歴代王朝の中でも最高位にある物じゃ。
その反面、わしの司馬家の晋は諸王族や貴族に著しく制約を受け
皇帝の地位など微々たる物じゃった。
後ろの三国は天下統一出来ぬ地方の一王朝(軍閥の延長でもいい)なので
知名度云々に関わらず下にした。秦は僅か十五年なので除いた。 君主独裁国家の北宋が、どういう理由で真ん中にあるのかを聞きたい。 203 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/05/10(火) 08:50:05
>140(宰相は天子になろうとする意識さえなかったようですが、ある意味忠臣なのかね)
「意識さえなかった」というところがポイントだ。
科挙制度の確立は単に統治制度上の進展ではなく、中国社会の実質的な支配者層である
私たち士大夫の意識をも根底から革新せしめた。
私たちの地位はすべて天子の恩賜によるもので、天子の権力の下で位人臣を極めることが
唯一の社会的成功だった。この観念はまさに宋代以降に現れた中国史の大きな特長だ。
私たちは貴族でも諸侯でもなく、試験によって選抜された官僚だ。
天子の地位を脅かすほどの武力も資本も持ち合わせない。簒奪はいわば不可能事なのだ。
天子と人臣の間の観念的な距離が、埋め難いほど隔絶したとも言えるだろう。
すなわち中国史は宋代以前と以降とではっきりと分けて考える必要がある。
なにせ宋代以降の王朝交代はほとんど外的な要因による支配民族の交代であって、
内部的な簒奪に成功したのは永楽帝朱棣と、あとは袁世凱くらいではなかろうか。 201 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/05/10(火) 08:48:47
>105(姚広孝について論じてみて)
道衍という僧名のほうが有名か。一般には燕王朱棣(後の成祖永楽帝)の軍師として知られる。
僧籍のまま歴史の表舞台に出たというのが、やや異色といえるかもしれん。
史書には「常に謀臣として帷幕に参し職守の機事は皆彼の言により決し其功第一と称せらる」
───と、記される。なにか具体的な軍功を立てたとの記事も見当たらぬ以上、
即ち燕王近侍の佞倖だろう。無謀な造反を唆すくらいであるから褒められた人物とは言い難い。
まあ、精神面で燕王を支えていたのかも知れん。
さすが勲功第一と称されるほどだから、燕王の即位後には太子小師に叙されている。
ただし、小師とは政治上の実務を担当する地位ではなく、言ってみれば名誉職だ。
政治的には枢要な地位を襲わず、名誉を得た後も常に寺院に起居して史書の編纂に生涯を
尽くしたというから、この点だけみればかなり淡白な人間だったのだろう。
そのため永楽帝との関係も終生にわたって良好であった。
どこか謀反を焚付けた謀略の徒としての足跡と整合性を欠くような印象も受ける。
あるいは、もともと大した存在感も功績もない、単なる学僧だったのかもしれない。
そういう人物を勲功第一とすることで、むしろ自身の威光を些かなりとも脅かされぬようにした
永楽帝の知恵だったのかもしれない。そのように考えればすっきりする。…あまり根拠はないが。
蛇足だが、永楽帝が帝位を奪取した政変を後世に靖難の変と称する。
たまに北宋末の靖康の変と混同される場合がある。時代も経緯も全く無関係であるけれど、
圧倒的優位にある一方が、到底勝ち得べからざる一方に敗れた───という点では共通する。
199 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/05/10(火) 08:47:50
では本日の回答を行う
>93(李靖と陳慶之ってマジ凄いやんけ!)
李靖にせよ李勣にせよ、唐建国期の功臣の武勲は非常に華々しい印象を放つ。
実際上の唐王朝は安定性に欠ける脆弱な政権であり、
太宗李世民も特に軍事上の失策が少なからず目に付くけれど、
それらを差し引いても太宗とその家臣団が優れた能力を有していたことは間違いない。
いったい6〜7世紀の中国はいまだ中世の停滞期を脱しておらず、
してみれば唐の統一は奇跡にも近い偉業と言えるが、
その要因として単に社会構造的な因果関係を観念しうるのに加え、
統治者の優れた能力と強固な意志に由来する部分も見過ごすことはできない。
とは言え、旧唐書をはじめ史家の筆はこの唐初時代を過剰に粉飾した。
ために太宗の巨視的な功績は間違いないとしても、
細部の事実関係を解り難くしているというきらいはあるな。
ちなみに陳慶之なる人物のことはよくわからない。李靖の部将だろうか?
旧唐書を調べてみようと思ったが、時間の関係上今回は勘弁して欲しい。
74 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/04/27(水) 10:41:37
>69(北宋を自滅させた張本人として何かコメントを)
北宋王朝の特長の一つとして、言論が自由なあまり政策が安定しないという点があった。
それは新旧法の抗争をみれば一目にして瞭然だ。王安石にせよ、蔡確にせよ、章惇にせよ
反対派を徹底的に弾圧して行財政の改革を推し進めるだけのマキャベリズムに欠けていた。
そこを初めて解決して政治権力の安定を実現したのが私だ。その意味では秦檜も韓?冑も
あるいは史弥遠や賈似道でさえ私の亜流に過ぎない。
また、私の理財家としての功績も評価されて然るべきだ。
いったい中国史上最重要の税制は両税法と塩税であり、その一方の柱である塩税の制度を
完全な形で確立したのは他でもないこの私だ。
南宋が国家財政の八割超を軍事費に割いてなお破綻しなかったのはなぜか?
元が世界史上類を見ぬ紙幣制度を確立させ、かつ正常に機能させえたのはなぜか?
これは即ち消費税である塩税が確立され、安定した財源を確保できるようになったからだ。
北宋王朝は滅亡したが、これは財政破綻による必然的な崩壊ではない。
外交的な失敗を重ね、丸裸の首都に敵を招き入れるという二重三重の戦略ミスの結果だ。
言うまでもなくこれは軍政のほぼ一切を統括していた童貫の責任だ。
もしくは童の腰巾着に成り下がり彼の意を迎えた蔡攸、私の後任として宰相位を襲った王黼、
そして誰よりも何よりも最高意思決定者であった徽宗皇帝の責任だろう。
そもそも私は金国との同盟にも、遼と戦端を開くことにも、はっきりと反対を唱えている。
にもかかわらず、愚行を止められなかったのは、既に私の発言力が後退していたためだ。
つまり、老いだな。とうに七十歳を超えていたのだから致し方のないことだろう。
引き際を心得なかったことが責められるとしても、亡国の責任まで押し付けられては堪らない。
むろん南宋が金国を打ち倒して旧領を回復しえなかった原因は、暗君の高宗皇帝と
中国第一の姦臣とされる秦檜に負わすべき責任であって、これも私と無関係なのは明白だ。
───以上 73 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/04/27(水) 10:41:08
では本日の回答を行う
>67 朱元璋
確かにそうなのだが、もう語り尽くされた感もある。
しかし、明代史に詳しい者がわりと多いという事実にまず驚いたものだ。
日本人は殊に明王朝への興味が薄いようで、戦前の研究では朱元璋を中国歴代の
天子の中でも凡庸で特長に薄い人物と考える向きも多かったらしい…
ま、文化史的なものに重点を置けば、明王朝は特筆するべき個性に乏しい面がある。
その創始者たる朱元璋も、自ずと似たような評価を受ける羽目になったのだろう。