周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6
個人的には、カン沢はもっと評価されて良いのではと思うけどね。
赤壁の戦いでは、苦肉の策を見抜いて協力し、曹操を騙しきるという重大な活躍を見せている。
また、夷陵の戦いでは、群臣が猛反対する中、自分の首をかけて陸遜を推薦し、結果として大勝利に導いている。
赤壁・夷陵という呉存亡の大ピンチを二度も救ったキーマンなのに、なぜ、ただの文官程度の評価しか得られていないのか? その一方で、毎回高い評価を得ている張昭は過大評価だったのではないかと思うところ。
理由は以下のとおり。
・甘寧の天下二分の計の第一歩でもあり、孫堅の仇でもある黄祖を討つことに反対した。
・赤壁の戦いでは、降伏派の中心人物であった。
・魯粛を重用しないよう、孫権に讒言した。
・孫権からあまり信用されていないのか、丞相に就任できず、孫登の教育役にもされなかった。
・孫権が帝位に就いた際に、周瑜は賞賛されたが、張昭のことは「お前の言うことを聞いて降伏していたら、今ごろコジキになっていた」と言われた。
残念ながら、これを読む限りでは、郭図と同レベル程度にしか思えない。 蜀の人が孫権に蜀のすばらしさを語って誰も反論できなくて
こんな時に張昭がいれば・・・と孫権が嘆いた逸話もある
やはり重臣として必要な人材だった >>419
具体的な出典をお願い
そんな話を聞いたことない 張昭といえば、張紘も有名ではあるけど、具体的なエピソードに欠けるんだよな。
死の直前に、建業に遷都するように進言したという話が有名ではあるけど、ではそれ以外は?というと、ほとんど思い浮かばない。
これだと逢紀の方がまだマシに思えてくる。 >>421
張紘伝を読んでそんな感想しか出ないなら読解力がないのかな?
それとも本人の伝も読まずに呉叩きがしたいお子ちゃまかな? >>422
お前こそ読解力のないアホじゃないの?
呉叩きをしたいだ?
じゃあ聞くが、張紘の呉における功績はどのようなものがあるんだ?
結局、曹操とのパイプ役になって呉の危機を防いだというわけではなく、むしろ孫権が曹操に臣従するべきだという感じの立ち回りが目立つのだがね。
二張と言われていたとおり、本質的には張昭と同じだよ。
呉の名士だから自分たちの身分は保障される。だから強い者に従って、無用な争いを起こしたくないという感じでしかないのだが。
呉の臣、孫権の配下というよりは、独立した立場をもった後漢の臣でしかないんだよ。
あえていえば、張紘を叩くというのは、呉を叩くというよりは、後漢を叩くという表現の方が合っていると思うんだけどね。 >>423
全くもって意味不明だな
どこの記述をもって「曹操に臣従するべきだという感じの立ち回り」をしたのかな
張紘伝を読むと曹操の侵攻を抑えたように書いてあるけど
君は蜀中毒の呉アンチだろ >>416
カン沢は演義では大活躍でおいしい人だけど
ただの文官程度の功績しか残してない人だからなあ
カン沢が最も貢献した事績は乾象歴注なので 軍師ってのは基本政治家。
野戦働きなんざ、将軍やその参謀の仕事。 張昭
●孫策は文事武事の一切を張昭に委ねている
●孫策は張昭を管仲に比す
●臨終の際に後事を託す
※孫権に能力なければ、政務をとってよしという諸葛亮なみの後事。
※ちなみに内のみというのはガセ。後事においては周瑜ですら群臣扱い
●ママも同じ考え
●公孫淵さんの詐欺に気づく >>425
史実で活躍したのに、演義では活躍していない人もいるらしいが。
演義に登場しない人までいるらしい。 >>427孫権「兄貴に後を託された癖に、曹操に降服する事を勧めやがって糞ジジイめ」 孫権が孫策に遥かに及ばない豚児のボンクラに見えたんじゃないの 劉表が病死した瞬間に荊州が
降伏したんだからある程度はしょうがない
劉備が劉奇と一緒に上庸で戦ってくれれば
孫権も南郡が取れてたのに 何が孫家の為になるか、の、問題とも思う
天下が統一され、高官として生きるのが悪いとは思わない
張昭は孫家に忠誠心をもっての進言とも思う。
正直、この赤壁の時点で、地方領主のママ、
皇帝名乗る詐欺師みたいな行動をとっていくなんざ
魯粛以外に考えてなさそうな気がする 孫呉って言うかその後の六朝自体地方領主の連合体って感じやしね。 関羽がへぼい呼ばわりされるけれど
呂蒙が陸遜まで使って、おべっかして、病気で油断させて
魏に攻めさせて、からの、完全奇襲して完勝だぞ
どんだけ、関羽に時間かけてんねんだぞ
三国志でトップクラスの軍師級の人材が何年もかかっての詐欺働きだぞ
曹操でも騙されるわ 何年も掛けずに完勝出来るんだから
ヘボに決まってるだろ
と言うか、他の戦いが全て突発的に起きてるように聞こえるな 関羽にブレーンをつけていれば最悪の事態は避けられたのではないか?
馬良とか法正とかいたと思うが。 >>437
スレ違い
それと関羽じゃ誰が就いても無駄だろ
諸葛亮すら反目するのに 魏側の思惑としては関羽と呉軍が潰し合う事を想定してたと思うんだけど
あそこまで呉が完勝するのは予想外だったんじゃないかな
呉側も関羽側の将軍があっさり降服して荊州を奪取できるとは思ってなかっただろうし
関羽の人望の無さがどの陣営にとっても予想外の事だったと思うわ >>436
魯粛が死去(217)してから呂蒙が司令官になってから
すぐに計画を始めたんだぞ
呂蒙の綿密な関羽北上(219)までのおぜん立て、計画力なめんな
関羽の舐めた傲慢な性格に拍車をかけているのは明らかに
呂蒙の計画的な低姿勢。 ちょっと腰の低い手紙でコロッと騙されるからな陸遜辺りは「ちょっwww髭チョロすぎwww」 >>440
呂蒙が低姿勢なのはヘボ将軍な関羽が攻めてくるから
これは魯粛時代から度々あって呉は魏に専念出来てないから >>439
髭は劉備から諡号貰えなかった時点でお察し >>442
正史にモロに「荊州ぶんどる為に関羽油断させまっせ。」と計略を述べている
>>441
一応手紙だけだと効果が薄いので病気利用して陸遜と交代する計略をたててる
呂蒙は緻密型 >>444
ぶんどるも何も荊州は貸してるだけだから返して貰うだけ
これは魯粛時代から変わらない よくよく考えてみたら
215年の荊州戦で劉備の援軍が無かったら
圧勝してたな >>445
呂蒙が密かに計策を陳述して言った
「今、征虜将軍(孫賁)に南郡を守らせます。潘璋を白帝に住まわせます。
蒋欽に遊撃部隊一万を率いさせ長江の上下を巡回させ敵の所在に応じさせます。
呂蒙は国家のために前線の襄陽に拠ります。こうすれば、どうして曹操を憂いて、どうして関羽を頼るのでしょう。
かつ、関羽の君臣は詐術と武力を矜持とし、所々で裏切るので腹心の待遇をすべきではありません。
今、関羽が東に向かう所とならないのは至尊(孫権)が聡明で、呂蒙らが存在するからです。
今(自軍が)強壮な時にこれを計らず、一旦倒れれば、再び力を陳述しようにも、それを得られるでしょうか」
孫権は深くその策に納得した。
呂蒙が魯粛の代わりになるのに及び、初めて陸口に到ると恩を厚く納めることを倍とし、
関羽と友好を結んだ。後に関羽が樊城を討ち、将兵を留めて公安、南郡を守備させた。
以上が正史 魯粛が関羽と仲良くしてたのは困難な時、二国で魏と対峙するためですわ、
でも、情勢が変わりました。俺らで上手いことできます。もう関羽いらんでしょ。 >>447
攻める国を警戒させるだけでなく
反撃を喰らってるんだから
正にヘボ将軍だと言う証拠じゃないか ID:AJx09leU0の理屈だと関羽よりも劉璋のほうが名将だな
諸葛亮が劉備に会う前から計略を立てて
ホウ統や法正が何年掛かりで罠にかけて
五虎将のほとんどが攻め立て一年あたり戦争が続いているんだから >>435
逆に名将ならそれぐらい綿密に計画を立てられても方面軍壊滅されるぐらいの完敗しない
孫呉の関羽に対しての完勝は日本海海戦レベル
なので関羽の完敗能力はロジェストヴェンスキー級 つーか、へりくだれば関羽は国を傾ける証拠を自分で持ってくるなんて
むしろAJx09leU0はアンチ関羽厨だろ >>451劉璋とは条件が違いすぎるだろ
劉璋は成都に留まっていたし益州は要害
荊州南部とは難易度が違う >>454
>三国志でトップクラスの軍師級の人材が何年もかかっての詐欺働きだぞ
要件はこれ
関羽以上の詐欺働きだから劉璋も名将になるね >>449
どんな時系列なんだよ
>>450
ごめん、主語が無いので意味がわからない。
誰が誰を攻めるの?
呂蒙が関羽を攻めるって話なら、
警戒をとくために仲良ししたって話やで
>>455
当たり前だろ、関羽は方面軍司令官に過ぎないが
劉章は自分の勢力より何倍もでかい、国やぞ? >>456
意味が分からん
自分で決めた基準をあれこれ後付けしても理解できるわけないだろ
だいたい南茨州もただ取るだけなら曹操に横やりを入れられるから
難易度は関羽レベルじゃないと無理なんだよ 劉璋の軍事的才能は、司馬懿や陸遜を上回るということは誰の目にも明らかだな。 >>457
何が意味がわからんのか教えてくれんか?
主語が無いので、君の日本語がわからん
呂蒙が関羽を攻めるなら警戒を解くというのが
私、オリジナルの解釈だと
思ったの?
>>458
軍事的才能に兵力の保有数を加えるならそうだろうよ。 >>459
君の理屈は劉璋と関羽は同レベルの名将
ただ自分の都合で無理やり条件を歪にしてるだけ >>456
>当たり前だろ、関羽は方面軍司令官に過ぎないが
>劉章は自分の勢力より何倍もでかい、国やぞ?
南茨州と益州だと国民の規模はそんなに変わらなかったはずだが? >>460
劉備と劉章は戦力比がでかすぎて、丁寧な詐術使うのは当然
翻って呂蒙と関羽は同じ方面軍司令官。拮抗戦力を保有している。
にも関わらず、呂蒙がここまで丁寧な詐術を行うのは関羽が名将だから
という理屈やぞ?
関羽軍と劉章軍と戦ったら、戦力比が10倍近くあるのだから
劉章軍が勝つだろうさ。それで劉章が勝ったから名将というのなら
君の定義では名将なのだろう
>>461
どのソース参照?
後漢の人口
荊州 6,265,952
益州 7,242,328
ここから荊州は三分割されて、一番大きい都市は曹操ゲットやぞ?
しかも、荊州は至近に戦乱食らった場所であり、益州は戦乱の無い穏やかな土地なんよ?
ひいき目に見ても戦力比4倍以上じゃね? >>462
関羽は南荊州を守護する身分にも関わらず方面軍司令官の活躍も出来てないから
ヘボ将軍なんだろう 髭は蜀人からも「自業自得やろ」とかdisられてるからな >>462
>にも関わらず、呂蒙がここまで丁寧な詐術を行うのは関羽が名将だから
>という理屈やぞ?
その前提が明らかにおかしい
呂蒙がここまで丁寧な詐術を行うのは本気で荊州取りに行ったから
とか考えないの?
関羽存命中に関羽の配下やその家族の多くを慰撫し心服させ
孫権まで繰り出して荊州の租税免除したりしてたからな
おかげで関羽の率いる方面軍は壊滅で荊州の土地や于禁らの捕虜含めて呉が手中に収め
呂蒙死後2〜3年後の夷陵の戦いの時には既に荊州は根っからの呉の土地になって
劉備に呼応する勢力ほぼ無し
ほぼ唯一といってもいい武陵蛮は関羽の元配下の潘濬に馬良含めて撃破されるという >>462
茨州戦が長引けば、夷陵の戦いや西陵の戦いのように
魏晋に攻められるのが分かり切っているのに
なんで関羽だけ呉蜀だけの戦いで完結するんですかねえ?
まともに考えれば無駄に関羽を攻めれば劉璋よりも巨大な曹操も同時に相手を
しなきゃいけないんだけどな
なんで関羽だけ方面軍司令官で議論しなきゃいけないの? >>462
あと三国時代の人口は
蜀が94万人 263年
呉が240万人 242年
後漢の人口なんてそのまま使えないよ >>466
もちろん本気で関羽から領土を取りに行っていると考えます。まことに計画的に。
魯粛から引き継いですぐに孫権に献策していることからも、そうです。
あと目的と手段の難易度を混同させない方がよいかと。
>>467
呂蒙も同じ立場なのでは?
>>468
それ呉だけ晋書なんですよね。
何故後漢の人口を使うかといえば三国志時代の人口がわからないからですよ
晋書280年で言えば、
梁州・益州・寧州 約200万人
交州・廣州・揚州・荊州(魏領除く) 約380万人
大幅な把握人口減ではあるけれど比率を見る限り
後漢の人口と比べれば、揚州が大いに発展
襄陽群が南群(江陵)にダブルスコアで人口負けてるので
長江付近は呉を経ることで大いに栄えたのが伺えますね。
280年でいけば荊南時代の劉備勢力は劉璋の半分程度に収まりますね。 >あと目的と手段の難易度を混同させない方がよいかと
呂蒙にとっては関羽はイージーな相手だよ
215年に荊南3郡回収した時は関羽は
文弱の魯粛や寡兵の甘寧に阻まれているからな
舌戦でも魯粛に完敗
そんな相手が呉に非礼無礼を働いた挙句
組織グダグダなまま全力で背中向けてるからな
もうアホかと
呉は孫堅の時代から荊州とは戦い続けているので
荊州奪取は呉の長年の悲願
1つ間違えてはいけないのは
呂蒙の真の敵は関羽ではなく自身の寿命と荊州
関羽しか見えていない奴にはわからないだろうけど まあ関羽って言うか劉備が孫権陣営舐めてたからな。華北や中原の人士の江南軽視は五胡十六国時代でも凄いし。 呉にとっては雑魚、蜀にとっては戦犯扱いされてる関羽なのに
魏側だと大敵扱いされてるのが面白いな >>473
そうか?
于禁の後の将軍が最初に曹植を選ばれている時点で
魏もナメプだと思うが >>474曹操もビビって遷都しようかなと言っちゃってるし
蜀の名将は関羽のみ的な事言ってる奴もいるし
呉、蜀と比べると魏の方が関羽の事評価してる気がする >>475
遷都の件は関羽だけでなく、大規模な内乱があったし
司馬懿が絡んでるから信憑性が薄いだよなあ
名将の件も漢中での敗北で関羽なんて絡んでない
あんだけ大敗北しているのに
名将は関羽だけなんてこれも信憑性が無いって そもそも劉備陣営で中央で名が知られてる将なんて関羽・張飛を除いて
それこそどれだけいるのかっていう疑問の方が大きい気がする
趙雲や魏延、黄忠だって中原じゃ殆ど無名に近いんじゃないのかなあ
それ以下ならもう十羽一絡げだったとか >>477
劉備だぞ
関羽張飛も劉備がいての評価だ 劉備は最後が物凄い負け方したけど一年近い対陣を何回もやってることからして統率力は相当ありそう。 >>479
劉備は最後の大ポカしなけりゃ
魏の三方侵攻も防げずに大敗北して、
三国時代は魏の統一で終わってたな >>476
大規模な内乱といっても曹丕が片付けた未遂のやつと県兵が鎮圧したレベルの群盗騒ぎ
まぁ曹操が嫌気さすには充分だが屋台骨揺らぐまでに至っておらず
逆に不穏材料や膿が出尽くして後の禅譲時に目立った混乱無い程の雨降って地が固まった感が
あと魏の漢中大敗北とかいっても主将の1人死亡で僻地放棄して軍容崩壊せずに撤退だから
方面軍壊滅で人材主要地域の多くを喪失の蜀の荊州失陥よりはあまりダメージ無い
劉備も夏侯淵よりも張コウ取り逃がして不完全燃焼感表してるから
蜀ヲタの見解よりも劉備自身の方が漢中戦勝利感無さそうだが >>480
いや劉備が夷陵で勝ってたら魏は呉を攻めない
当時は魏と呉は同盟国だからな
逆に三方侵攻の軍が全て呉の援軍として劉備に襲い掛かってた可能性も
逆に劉備が夷陵でもっと惨敗して永安で呉に襲われて死ぬぐらいの壊滅状態ならば
呉は完全ガラ空きで魏の三方侵攻は成功した可能性もあるな >>469
>呂蒙も同じ立場なのでは?
意味が分からん
立場が同じだから何?
>梁州・益州・寧州 約200万人
漢中付近及びそれより北は劉璋は支配していない
さらに南方の郡も下手をすると支配していないかも
どうも劉備からぽいんだが劉璋が支配してる記述はあるかな? >>482
劉備は夷陵で二回負けて惨敗しているのは正史通りなんだが
陸遜が深追いをさせず劉備の命乞いを許して魏の侵攻を許さなかっただけで
呉の食料庫を襲って両面に喧嘩を売るヘボ将軍じゃないだけだし >>484
まぁ確かに陸遜なら万が一劉備の首あげれても必ず魏の備えは怠らないだろうな
それはともあれ関羽の頭の悪さは後世で神格化された人物と思えないぐらいの酷さ
荊州を呉に取られて襄陽から撤退するならとっとと蜀に逃げれば良かったのにな
もしくはそんなに関羽が魏を倒せるぐらい強いならとっとと引き返して呂蒙と一大決戦して荊州取り返せばいいのにw
まぁ実際は異常気象込みのラッキーパンチでに于禁の七軍を撃破できて奇跡的完勝しただけで
例えば楽進相手だとほぼ勝てなったり寡兵の徐晃にやられたりされる程度の将
あと追い込まれて初めて文通攻撃で取られた領土取り返そうとか正気とは思えん
取られた城を手紙送れば簡単に返して貰えるなんて斎藤龍興と竹中半兵衛の間ぐらいでない限りあり得んのにな
日頃の行いが悪過ぎる関羽が取られた城返してくれる訳無いだろ
あと配下のほとんどが脱走して寡兵になって囲まれても項羽なら最後の1人まで戦って全滅なのに
関羽は偽りの降伏で油断させておいて脱走しようとして捕まっていきり立った兵士にフルボッコの挙句処刑だからな
お前はカダフィ大佐か 季漢では劉備や関羽の軍事的失敗を批判すると
諸葛亮から誹謗罪で死罪に当たると上奏される
廖立みたいに
怖い国だな >>488
馬超さん一応漢中王に即位する時の署名筆頭やしな。
やってる事だけみてると冉閔や赫連勃勃と区別つかんけど 馬超は外様の印象だよね
袁術に従った孫堅に近いのかな
馬超が死去してその部下は完全に蜀軍に吸収された感じだと思ってるけど 馬超は外様とはいえ貴族だからなあ。
やはり一目置かれたのだろう。 馬超さん典略だと馬援の後裔とか書いてるけど祖父の名前すらわからんから怪しい。
劉備から厚遇されたのは関西(羌族)の人心を得るためなんやろな >>492
馬援ー(略)ー馬平ー馬騰ー馬超
だったような
馬援と馬平の間の2〜3世代分が不明なので怪しいのは確か
直系ではないが馬融や馬日磾の方が馬援の後継みたいに見えるのは確か ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
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https://www.youtube.com/edit?o=U&video_id=wxeEgAk_WPY >>497
カプコンの「天地を喰らう」をパソコンに移植してほしいぞ。 >>499
そうかなあ?
この人は事績がたいして伝わっていないので、軍事的才能があったのかどうかわからないよ。 >>506
郭嘉は軍事祭酒だから
軍師でおkだが酒飲んでないとダメなポジのイメージw >>505
校尉て武官で
軍内の部曲を率いる高級武官
軍師とは少し意味合いが違う
まあ魯粛は校尉でも赤壁の戦いではほとんど武官らしい仕事していないし
軍師もほぼ軍師将軍という職がデフォなので >>507
祭酒は元々戦国斉の稷下の学士の筆頭のこと
「祭酒」の意味は祭りごとの席で乾杯をする年長者。それが転じて長って意味になった >>510
祭酒て役職
飲み会の多い会社や大学サークルに必要だと思うが
日本で普及していないのは残念 そもそも死体鞭打ちエピソード自体司馬遷の創作臭いし
(左伝にはないエピソード) よく平王みたいな悪人から
昭王みたいな名君が生まれたもんだ 平王の息子は基本みんな良い子で優秀だからなぁw
昭王の兄達もみな優秀 平王「俺ってそこまで悪人か?春秋の貴人としてはわりと普通じゃね? 王朝を潰しかけたのは息子だし」 俺が不思議に思うのは、
どうして曹丕は劉備死後の蜀を攻めずに、呉ばかり攻めたのかということ。
曹丕は劉備死後直後の蜀に書状を送り、降伏を勧めたが、孔明に一蹴されて終わっている。
普通に考えれば魏は、関羽張飛黄忠馬超といった名将を立て続けに失い、
荊州をすべて失い、
夷陵の戦いで大敗し、国力が大きく疲弊していた
軍事的にみれば、弱った蜀に対して大軍で漢中奪還へ着手し、
蜀を攻めるべきではなかったか?
イデオロギーからみても、
漢から帝位を簒奪して誕生したのが曹魏なので、漢朝再興を国是とする蜀に対して
一番に討伐すべき対象だ。
三国志演義では曹丕は司馬懿提案の五路の計で、五方面から蜀を攻めようとしたと
物語られているんだから、曹丕が蜀を攻めてもおかしくはなかったと演義の作者にも思われたんだろう >>523
4行目書き間違えた
正しくは「普通に考えれば蜀は」だった そりゃ史実じゃ関中や関西ちほーは実効支配ちゃんとできてるか怪しい状態だったし。 魏の長所はやっぱ「国力」だが、蜀の山は大軍で攻めるのが難しい
呉は代わりに船と水軍が要るけどそれはしっかり準備すればなんとかなる
だから恐らく曹丕は呉から倒すつもりで計画を練っていた
…とここまでは戦略的に正しいのだが
だがいざ攻めるあたりで呉は夷陵で大勝利しおった
よって色んな軍師が「勝ったばかりの軍を攻めるは下策ですよ!」って呉攻めを反対したが
曹丕はやっぱ臨機応変の才がなかったんだろな
計画力と行動力はあるんだけど情勢の変化に対応できなかった でも魏は張魯を降して漢中を領していた経験があったんだから、
その経験を活かして漢中奪還に本気になるべきだった
漢中さえ奪還できれば、蜀は漢室再興と称して中央へ躍り出る糸口を失ったも同じ 曹操の漢中征伐は張魯=漢中が孤立無援だったから成功したんでしょ
後ろ盾を得て抵抗する気満々の漢中を同じ勝手で落とせるとは思えない 魏が内政を充実させて朝廷を固めて守成に専念してたら勝てたかな? >>528
コスパ考えると漢中奪還するなら一気に蜀まで取らないとキツイ
中途半端に漢中だけ落としても曹操が根こそぎ五斗米道信者中原に移動させて
鶏肋の地と化した漢中を中途半端に維持するのも当時なら大きな負担
蜀も漢中の兵站維持するのにかなり消耗しているからな
あと蜀が漢室再興を掲げて漢中取って漢中王だの僭称しても
漢の終焉を願っていた当時の中原では全く響いていないのでな 曹丕の帝位即位後・・・
蜀の文武百官「天下万民は、漢を滅ぼした逆賊曹丕を憎み、
慈雨を乞うがごとく、漢の復興を願ってやみません。
わが大王が帝位に即位され、漢の社稷を再興されれば、
、曹丕に表向き従っているだけの中原の者たちは、続々と曹丕への反乱の狼煙をあげましょうぞ!!」
劉備「よくわかった!!これより即位するぞ!!!」
即位後・・・
劉備「おかしいな・・魏で曹丕への反乱の兆しがない・・・」
孔明「曹丕におどされているのです。北伐軍を送れば、
漢室を慕う者たちが我も我もと続々帰順し、魏はわが軍と戦う前から自壊しましょうぞ!!」
北伐後・・
孔明「おかしい。誰も帰順してくれない・・・。益州一州の兵力だけで中原を支配する大国を滅ぼせるわけがない。
出師の表まで書いて成都の宮廷で大見得を切って出陣したのに、今更北伐を撤回できないし、どうしたものか・・・むむむ」 >>53
蜀臣「皇帝になった今こそ魏へ討伐のための軍を起こすべきです!」
劉備「は?関羽の仇打ちのために呉を攻めるぞ」
諸葛亮「荊州必要だからしゃーない」 >>531
何年待つかによるけど、数百年後には江南の生産力が北を上回るようになるが ずっと気になってたんだが陸遜も周瑜も魯粛も割と名家だったんだろ?
陸遜が呉の四姓なのは知ってるんだが魯粛と周瑜はどの程度の家柄なんだ?
他にも名家っていうと袁家とかあるけど名家のランクというかスケールが知りたい 周瑜のご先祖と袁紹のご先祖は和帝の頃は同僚で和帝の側近として外戚竇憲の専横を防いでた仲。
より正確に言うと袁紹のご先祖の袁安の故吏だったのが周瑜のご先祖の周栄で、司徒時代の袁安が県令をやってた周栄を自分の幕府に招いてスピーチライターを任せて竇憲陣営からは「周栄は袁安の腹心。奴を除かねば」と警戒されてた。 袁紹の先祖は袁術の先祖でもある、というところがミソかな ということは袁家>周家>呉の四姓って認識であってる?
周瑜相当な名門なんだな
よく周家が孫堅ならまだしも孫策についていくことを了承したよなぁ 確か外祖父の周景も跋扈将軍粱冀のスタッフで大尉や司空になってて清流派をどんどん推薦してたりする。
袁家ほどではないにしてもバリバリの名門 跋扈将軍系:清流
宦官系:濁流
そう考えると宮仕え自体穢れな世の中だな
後漢が終わるのも無理もない話 そんな名家に生まれたおぼっちゃん周瑜なのになぜ誰からも孝廉や茂才に推挙されてないんだぜ? >>543
孝廉や茂才に推挙される前に官職に就いたら推挙されないんでは? 周瑜が建威中郎将の官位を得たのは24歳の時。それまで推挙の記述なし。
孫権は15歳で孝廉、茂才に推挙されてる。周瑜はなぜ放っとかれたのか。 >>545
孝廉は前漢時代に毎年国郡ごとに孝者、廉者各1名とか決められたけど
後漢時代に資格満40歳以上(ほぼ例外多々)、試験ありとか面倒臭くなってるので
あまり官職への欲望の感じられない周瑜が孝廉時代してもおかしくないが
だから周瑜は偏将軍止まり >>538
>>541
周栄=反外戚
周景=親外戚
どうしてこうなった 呂蒙って三国志の創作の中では一周回って横山が一番扱いいいよな 蒼天航路なんか荊州争奪編は関羽が完全に主役だし
北方三国志でも関羽が一番目立ってたな
史実重視の宮城谷三国志でも関羽がかなりヨイショされてた気がする
日本の作家が関羽好きすぎるんじゃね? それでも人形劇は悪意が有り過ぎ
スリキンも関羽をクソ野郎扱いした上でKY扱いで毒殺て… 元蜀の文官ですら劉備は何とか庇っても張飛共々関羽は自業自得と明記してるのに何で呂蒙とかにとばっちりが来るのかね
少なくとも俺達が関羽か呂蒙どちらの部下になりたいかという話なら呂蒙じゃないか?
関羽みたいなパワハラの話は無くて和解の約束破ったら相手が甘寧であっても追い込みかけるくらいの面倒見の良さなのに >>555
それが三国演義クオリティ
職贔屓にする為に他の善良な人の性格や寿命まで変えてしまう
通俗小説売る為に先人に対する敬意が全くないのが羅貫中の悪い処 羅貫中「お前らの陸抗が羅憲相手にやらかした話はカットしてるんだから勘弁してくれや」 羅憲って歩協相手に長江戦で負けてんじゃん
やっぱり都合の悪い事はカットするんだねえ そりゃ羊コvs陸抗が演義終盤じゃ数少ない見せ場やし…… >>558歩協が長江で羅憲を破り
次に羅憲が永安で歩協を破って
それで陸抗が援軍に来たっていう流れだっけ? なのになぜか一貫して羅憲vs陸抗だと思い込んでる人間が少なからずいる
で呉軍が退いたから「羅憲に陸抗が負けた」って単純な結論が往々に 羅憲の事は朱然に比べたら取るに足りない事
魏史上一番とも言える陣容で攻められてかつその中でも一番な激戦区を守りきった功績を挙げたはずが
まさかのその前に戦死とはね >>556
先人を魔改造(雑)するのは古代中国以来の伝統文化だから…
作者の都合>>>越えられない壁>>>事実・敬意 山本伸一の一行は、中州賓館に一泊することになり、宿舎に移った。
突然の訪問にもかかわらず、中国人民対外友好協会の河南省分会の関係者が、熱烈歓迎
してくれた。
夜には、食事を共にしながら、歓談のひとときがもたれた。
伸一は、河南省分会の責任者に言った。
「雷雲のために、憧れの鄭州に泊まることができ、こうして新しい中国の友人と出会えま
した。雷雲に心からお礼を言わなければなりません」
笑いが広がった。
鄭州の人びととの、せっかくの出会いである。伸一は、この機会に、未来にわたる強い
友誼の絆を結ぼうと思った。
それには胸襟を開き、どこまでも誠実と情熱を尽くし、魂と魂の触れ合う対話をするこ
とだ。
語らいは弾み、河南省の文化や歴史について話に花が咲いた。そして、三国時代には、
中原は魏の国の曹操が制していたことから、話題は「三国志」に移っていった。
伸一は語った。
「私の恩師である、創価学会の二代会長・戸田城聖先生は、『三国志』などを青年に読ま
せ、指導者論や人間学などを講義してくださった。
その先生がお好きであったのが、蜀漢の名宰相・諸葛亮孔明の晩年をうたった、『星落
秋風五丈原』の歌でした。
これは、日本を代表する詩人である土井晩翠の詩です。
今日は訪中団の青年たちが、皆さんにこの歌を披露いたします」
拍手が起こった。
同行の青年たちが、立ち上がって歌い始めた。 >>561
で何故か「火事場泥棒」とかいう謎のキーワードが出てくるんだよな
既に蜀の地は魏に降伏して自身も魏の人間になったんだから
羅憲が呉に攻められても当然だったろうに
263年10月に蜀が呉に救援要請して
263年11月に蜀が魏に降伏してるんだから
呉にどうする事もできなかっただろう >>562
朱然「羅貫中、貴様俺の27年間の人生を返せ!」
劉j「俺もそれぐらいもしくはそれ以上の人生を羅貫中に奪われた可能性ある!」
黄忠「その分おいらは羅貫中に人生伸ばされてるし」
馬超「んだんだ」 羅貫中「当時の庶民がそれを求めたのだ。私は悪くない」 >>566
朱然「死に場所得た黄忠はともかく、馬超は5年程寿命延ばされてやったことって鮮卑追い返しただけだろ。しかもいつの間にか死んでる扱いだしw」 >>567
羅貫中被害者の会「訴えてやる!(ダチョウ倶楽部上島竜兵風)」 >>571
羅貫中「くるりんぱ!(ダチョウ倶楽部上島竜兵風)」 >>568
劉封「俺と一緒に法正黄忠も一緒に処刑扱いにしてくれれば」 >>567
羅貫中「いいか、押すなよ絶対に押すなよ」 孫権は陸家は有力な家だから
それなりに警戒してたんだよね? 孫策以降孫晧までは呉郡孫氏の方が呉郡陸氏よりも上の立場なので
関係が微妙な時がところどころみられたが
孫呉滅亡以降は呉郡陸氏の方が上なので結構仲良しな関係
陸機陸雲ら一族の族滅に孫拯が殉じたり リレーでなくこの4人全員で孫権支える時代があれば呉はどこまでいったのだろうかという夢 >>583
陸遜が孫権に仕えた建安8年(203年)から
周瑜が亡くなった建安15年(210年)まで
この4人全員で孫権支える時代が有った >>584
そういやそうだ
まあその時代は引き継ぎのゴタゴタと事後処理や山越に追われて孫権自体が動けないって時期でもあったし期間の短さがな
みなが60くらいまで長生きしてたらってifだよ >>581
あったし、上大将軍とか大司馬よりも軍師がついてる必要があるっぽい
というか官職インフレし過ぎてる
魏も漢も王だった頃は前将軍が武官筆頭だったのに
呉は皇帝を名乗る前から普通に丞相とか大将軍とかいるんだよなあ
上大将軍というなんかダサい名前のも >>565
わずか1ヶ月では準備して援軍出すのも容易ではない
蜀が関羽ピンチの時は関羽ピンチに陥ってから関羽死亡まで
ほぼ同距離未満で時間2ヶ月以上あるのに蜀は援軍出す気配すらなかった 呉に対して漢の記紀に救援も出さずとか言うけど
3ヶ月で滅びてるんだから間に合わなかったんだろってね
というかテイホウだっけかがその3ヶ月でラケンのところに到着してるんだから
実は結構頑張って援軍出してるような? 結構急いで準備したと思うよ
滅びたら自分らも危険だしね
その後の仕方なく蜀を切り取る行為も晋にまるまる与えたらこっちがやばいんだから誰だって同じ作戦でいくと思う
>>587
あれはなんでだろうね 三国志演技でも目上の人(劉備)に自分の妻を料理として差し出すって美談(!)があったな
晩年の奸臣ぶりがなけりゃ儒家の教えの体現者としても(少なくとも中国では)もてはやされていただろうに、まあ料理の神様にはなっているが
あくまで明代に成立した作品での描写だから、そのまま鵜呑みにするのは危険だ。武具や服飾の描写は明代そのままの作品だし。
漢代では食人はタブーだった(王忠のエピソードを参照)が、明代では人肉はありふれた食材だった。こうした影響は、水滸伝などの明代に成立した作品全般に見られる。 >>588
蜀が滅亡してから間もなく到着したのが盛憲
ケ艾や鍾会や姜維らが死ぬ前に到着していると思われるので
蜀が滅亡してから1〜2ヶ月ぐらいでの到着
その後蜀が滅亡してから3ヶ月しないうちに到着したのが歩協
更にその後到着したのが陸抗(留平の到着時期は不明)
今考えると当時としては驚異的なスピードで到着している模様 263年05月 魏の蜀征伐決定
263年05月 呉の交州で呂興が反乱(-271年まで続く)
263年08月 三路より魏軍進入
263年09月 漢中陥落
263年10月 ケ艾が剣閣迂回して江油制圧
263年10月 蜀から呉へ救援要請 呉は寿春・沔中を攻撃 更に蜀へ援軍準備
263年11月 蜀降伏
263年12月?呉の盛憲が永安到着 羅憲と交戦状態に
264年01月 鍾会の乱 鍾会・姜維・ケ艾ら死亡
264年02月 呉の歩協・留平が永安到着 羅憲と交戦して敗北
264年02月 呉の陸抗の援軍到着して永安包囲 羅憲は陳騫に援軍要請
264年03月 劉禅を洛陽に移送 霍弋が魏に降伏
264年07月 胡烈の援軍により呉軍撤退
蜀が呉に救援要請して呉の援軍が到着したのが約2〜4ヶ月
羅憲が魏に救援要請して魏の援軍が到着したのが約5ヶ月
どうみても呉は結構頑張って援軍出してる方だなとしか
ちなみに『晋書』の羅憲伝読むと習鑿歯の『漢晋春秋』丸写しで
羅憲伝には本文に明らかな誤り有るのに訂正せずそのまま丸写しで
それらの事例もあって『晋書』は現代では
イエロージャーナリズムと揶揄され低評価となっているという・・・ もうちょっと蜀がもってればなんとか間に合ったのかもね
にしても火事場泥棒のイメージになってるのは悔しい っていうか漢中落とされた時点で援軍要請してくれば間に合ったのになあ
黄皓… >>594
遅くても魏軍進入した時点で援軍要請しないと厳しいと思う
漢中落とされた時点ではケ艾が別路から侵攻してて
援軍来ても蜀滅亡待ったなしの感が >>589
>あれはなんでだろうね
唯一関羽に援軍気配あるとすると上庸の孟達劉封辺りか
上庸制圧したばかりで余裕がなく無理だったが
それよりも兵力多くて意外と荊州近くて
上庸と同じく灌水下れば関羽支援できる漢中が全く援軍出す気配無かったのが不思議 三国志14 (巻52張顧諸葛歩伝、巻54周瑜魯粛呂蒙伝、巻58陸遜伝)
統率 武力 知力 政治 魅力
周瑜 97 71 96 86 94
魯粛 81 56 92 92 89
呂蒙 92 81 89 78 84
陸遜 96 69 95 88 91
張昭 33 3 84 97 81
顧雍 43 18 80 90 78
諸葛瑾75 34 81 89 90
歩? 75 51 84 86 71 >>596
> 上庸と同じく灌水下れば関羽支援できる漢中が全く援軍出す気配無かったのが不思議
① 当時の漢中には誰が駐屯していた?
② 船が少なすぎて軍勢が移動できなかった可能性は? >>598
@魏延は確定だろうが他は調べてみないとわからない
関羽危機の時は劉備漢中王僭称ごっこで
主だった人物全員成都に引き上げてる可能性あるが
A孟達・劉封は益州・漢中方面から上庸攻略してると思うが
その時に船を使い果たしていたら船不足の可能性あるが
そもそも漢中方面から必ず船使わないと移動できないのかは不明
確かに船使った方が楽に援軍派遣できるが 上庸と樊城の距離は地図で見る限りでは直線距離で350キロ前後
苑城と樊城の距離は直線距離で250キロ
魏から荊州への援軍派遣する際に巨大な後方支援基地としての役割を担ったのが苑城
歩兵と一部荷駄隊を含める編成での1日の行軍距離40キロとして苑城から樊城へは最短で7日前後
騎兵のみでの強行軍で最大90キロで3日
一方で上庸から援軍を送るにしても樊城へ騎兵のみで急いで4日では厳しく5日
魏が苑城から継続的に増援や物資の輸送をしてくるので歩兵荷駄も確実に送らなければ騎兵は樊城で一撃離脱した後現地で崩壊
歩兵を送るとなると9日
しかも送れるのは占領して間もない上庸から割ける2,3000人だろう
関羽から要請されようが「送ったところで…」という判断にしかならんだろうな 蜀はウクライナ侵攻のロシアぐらい兵站酷いからな
関羽も呉との国境の守備兵剥がさないと兵站維持できないぐらい酷い
その点魏は肩で息するぐらい疲弊しても12陣営5万の
夷陵戦の蜀主力と決戦できる規模の予備兵掻き集められるぐらい余力ある
戦線押し込まれても裏でNATO軍の援助有り増援できるウクライナ軍ぐらいの後詰
ゼレンスキーも曹操も首都から政府逃げ出さなかったのは後詰の状況が大きい
スレタイに戻るが蜀の兵站の致命的な欠陥を突いて
荊州完全制圧まで持っていったのは呉の軍師呂蒙のおかげ
呂蒙はゲームでの数値は若干低いが戦略戦術面においては呉最高レベル 関羽は身一つで安全地帯まで逃げることは不可能だったの?
織田信長が浅井朝倉に挟撃されたときは身一つで京都まで逃げ帰ったが。 >>602
襄陽から撤退時に一目散に蜀に逃げ帰っていれば何とか
下手に荊州目指して途中軍崩壊して麦城に籠った時点で詰んでる
関羽の決断力というか判断力というか行動遅すぎて
呉の軍師程の知性なくても簡単に関羽倒せる鴨葱状態だからな・・・ 諸葛瑾って正史ならどういう業績を残したの?
孔明の兄と内政官ってイメージしかない。
でも子供はかなり偉くなったけどその割に有能なイメージがない。
父の功績が評価されたの? 諸葛瑾は最終的に大将軍・左都護・豫州牧・宛陵侯なので
どちらかというと武官
地味に戦績重ねているが極めて特筆すべき破格な功績は無い
孫権との関係は「神交」と呼ばれて
孫策と周瑜の「断金の交わり」にも劣らない 軍事系の士大夫ですね
経歴を見ても軍事関係が多い
孫権が呂壱問題で群臣に謝罪して意見を求めた時も、諸葛瑾は
「ワシは武官なので国政のことはわからん」と言って、孫権に怒られている
(呉志 呉主伝)
ただ、諸葛亮と同じく柔軟で臨機応変な用兵は苦手だったようだ 【対テロ】 NATO 対 BRICs 【防エネ】
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/europa/1665799363/l50
統率 武力 知力 政治 魅力 主義
周瑜 97 71 96 86 94 覇道
陸遜 96 69 95 88 91 王道
諸葛恪 72 47 90 80 64 我道
呂蒙 92 81 89 78 84 覇道
諸葛瑾 75 34 81 89 90 割拠
陸抗 91 63 87 85 87 王道
呂範 73 60 74 74 68 名利
孫峻 64 69 68 26 10 我道
孫? 28 46 65 17 6 我道 魯粛漏れ
統率 武力 知力 政治 魅力 主義
周瑜 97 71 96 86 94 覇道
陸遜 96 69 95 88 91 王道
魯粛 81 56 92 92 89 王道
諸葛恪 72 47 90 80 64 我道
呂蒙 92 81 89 78 84 覇道
諸葛瑾 75 34 81 89 90 割拠
陸抗 91 63 87 85 87 王道
呂範 73 60 74 74 68 名利
孫峻 64 69 68 26 10 我道
孫チン 28 46 65 17 6 我道 >>600
とても良い分析ありがとう
どうみても上庸から襄陽へ援軍出しても無駄足なので孟達劉封は正しい
援軍出さないから関羽死んだという事で孟達劉封罰するのは理不尽 >>601
まだ兵站酷くてもバフムト攻勢してるロシア軍の方がマシだな
兵站酷くて滅んだという意味では関羽は項羽2世を名乗れる 三国時代は曹操も呂布も他も兵糧が悩みの種でそれに苦労している
理由が分かりにくい同盟その他も幻 原因は部下を食べさせるため 【日銀デフォルト】 世堺教師マ仆レーヤ、UFO出現!
://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/2chse/1670024543/l50
あの公園でピクニックしたら最高の一日になるやろうな