【成皇帝】袁術様について語るスレ
何かと失策が目立つ彼ですが、
一時は袁紹と共に最大勢力の一つでした。
陛下について語ってみましょう。 光栄もどうせ思いっきり演義ベースなんだから
関羽と互角に戦い
疲労した状況で張飛とある程度打ち合って倒されたんだから
顔良や文醜よりも武力が上で良いと思うんだが 呉景が広陵に着任した時期がよく分からない。
劉備が広陵取る前なのか後なのか
あ 何か意味不明になってたな
袁紹より年下の従弟なら、ね。
袁紹とあんまり離れているのなら
流石に公路との争いも起こりにくいのではなかろうか。
そういや向こうの板の蜀将スレで
ちょうど袁家同士の抗争の話題にされてるよ >>348
紀霊って、正史だと呂布の口車に乗って和睦結ばされちゃった程度の人物じゃん
下手すると帰ってすぐ袁術に殺されちゃったかもよ 袁術が孫策を重用しなかったのは、孫策が陸康を殺したからじゃないの? >>358
孫策は陸康を殺していないよ。
陸康は病死。 >>359
ゴメン、陸康は病死でした。
陸康の宗族が大勢殺されたからじゃないか、の間違いです。
(100人以上いて半数が死んだんだっけ?)
後の事を考えると、地元名士の一族を大量虐殺した香具師を重用しにくいんじゃないかと。
そんな感じです。 紀霊は一応三万の軍の大将だし、演義で大活躍してるからな。
「袁術95」に比べれば「紀霊95」の方がまだ納得できる。 しかしそれだと紀霊を引き抜いたとき(引き抜かれたとき)のインパクトが強すぎる。
袁術95ってのは引き抜けないから、勢力全体の強さと見ることができるわけだ。 紀霊は武力だったら95あってもいいと思うけど、統率だったら80あたりが妥当
それより橋ズイもうちょっと上げてあげても良いと思うよ
もっと言うなら孫香をそろそろ出してやって
袁術が汝南支配しているときでも張勲あたりが太守やってるけど
正史にも太守って書いてあるし将軍位も持ってるんだから孫香を太守にしてあげて 毎度孫香を登録してる俺が通りますよ
データは高くて70ちょいくらいで適当だが。 劉勲はあれでも一時期数万の兵を持って一大勢力持ってたわけだし
なにより劉曄が頼ってきたくらいだもんな
200年で劉備が徐州にいる状況なら
劉勲が廬江の君主で劉曄が軍師で配下に袁胤、袁耀、張勲、楊弘がいるのが本当だと思う 劉曄はあくまでも賓客待遇で軍師じゃないんじゃないかな。
あと、張勲達は捕虜?部下? 劉曄は軍師でもいいんじゃないかな?
実際に諫言しているし。
張勲と楊弘は捕虜かな?
あと、武将に劉偕と劉威を加えるべき。 演義基準じゃなくて正史基準なら
194年開始シナリオで孫策は袁術の従属勢力で
孫賁も登場させて
周瑜、孫賁、呉景が袁術配下で
袁術が即位を選択すると上の三人が袁術から孫策へ所属が代わる
というのがいいな >>374
豫州出身だけど、汝南の人ではないし、
袁安(袁術らの高祖父)の系統ではないので、いわゆる汝南袁氏ではない。
同姓の誼で袁術に仕えたんじゃないかな。 袁術は陳の大夫の轅濤塗が先祖であると誇ってたわけだから先祖は陳の出で
陳珪との仲も先祖が陳の出身、舜の子孫だというつながりがあったんだと思う
日本でたとえるなら陳の袁氏と汝南袁氏は摂津源氏と河内源氏の関係に近いと思う
摂津源氏の方が本来は直系なのに
親父の所から出て行った弟の家系の河内源氏の方が武家の棟梁とか言われたのと同じ感じで
先祖代々の土地の陳から出て汝南に定着した方が栄えて大勢力になったんじゃないかな
だから袁術が袁渙に敬意を表していたのは先祖の土地に残って墓を守っていた一族だからだと思う 本当に鷹揚なのか、鷹揚なフリをしてるのか分からないけど、
もともと侠気で名を上げた人だからね。
そういえば確かに袁紹には意外とそういうエピソードが少ない。 呉楚七国の乱の袁オウなら楚の出身だから、陳の出と言っている袁術とは関係ないんじゃないの? おお。まさか、こんなスレが・・・・・・
あったとは!
袁術陛下の忠実なる下僕は自分だけだと思っていたのに。
他スレで紀霊はけっこう評価上げてたのに、
陛下は置き去り・・・がんばって名誉回復・・・できるのか? 【2ちゃんねるのPV、1年で25%増 「工作員が貢献」】エキサイトニュース
2ちゃんねる(2ch)にサーバを提供しているBIG-server.comによると、2ch(PC版)の
11月のページビュー(PV)が前年同月より25%増えた。「この増分の陰には数多くの工作
員の活躍がありました」という。
【2008年の2ちゃんねる利用者増加は中国と民主党の工作員の貢献によるもの】 以前厳白虎を検索したら正史にも出てこない娘婿の話が『古今図書集成』に出てるってページがあった
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20080212/p1
ひょっとしたら『古今図書集成』に正史に出てこない袁術の話がごろごろあるかもな >>387
してないね。
「軍門に戟を射る」の実話に出てくるのみのはず。 演義で大活躍だけど
おそらく実際は呂布が裏切ったところでまとめて殺されたんだと思う 呂布って人材に対してそういう無体な扱いをする方だっけ?
董卓の部下を許そうって王允に提案してるし >>391
「陥陣営」高順にどのような扱いをしたかお忘れか。 スマン、久しぶりで記憶がぼけてた
韓暹、楊奉がどたんばで裏切ったとき壊走中に殺されたんだと思う 袁術様ははちみつレモンが大好物です
最期の晩餐にもはちみつレモンを所望されました 血を吐いて死ぬくらいだから
固形物はもうだめだったんだろうな 袁家って途絶えちゃったんだろうか
孫権の夫人も死んでるし >>396
袁術の息子の袁燿が呉に仕えてるよ。
袁燿の娘は孫権の息子の嫁になってるから、
たぶん呉の時代は存続してたと思うよ。 は〜ちみつレモン(*^o^*)
レモンて当時の中国にあったのかな? レモンはどうかしらんが当時の中国に柑橘類はあったので
ちょっと酸っぱい種類を選んでハチミツレモンぽいものは作れたと思われるよ レモンが中国に伝わったのは10世紀頃。
三国時代にはまだない。 柑橘類を子供に与えて親孝行じゃと言った逸話が残ってるのが他ならぬ公路どのなのに かなり頑張ったのが陳蘭。
赤壁の後まで淮南に割拠していた
曹操の東南進出が遅れた一因だろう
臧覇・張遼らの攻撃に逢い、孫権の救援を仰いだが敗れる
袁術残党は淮河と長江の間に結構根を張っていたようだし、
それを取り込むためか、孫権は袁術系の人間をそれなりに扱ったみたいだね。 >>405
孫策はともかく、堅パパは袁術の部下かというと微妙だと思う。
糧秣はともかく、兵も部将も当初の官位も自前だし。
あと陳蘭や雷薄も土豪のようなもので、勢力瓦解後の彼らの頑張りは「袁術の将」としてのものとは別に評価したい。
ところで雷薄は後に劉備についたと思うが、雷同って雷薄の同族じゃなかろうか。 微妙じゃないな
袁術の幕下に入らないと逆賊認定されたところだったのだし 「袁術の幕下に入らないと」「逆賊認定される」が繋がるとは思わないし、
その二つが即「だから孫堅は袁術の部下」ということの証明にはならないだろう。
袁術は孫堅の保証人だった、でもいいんだから。 >>413
袁術の部下に入っていなければ後漢朝廷の配属した正式な太守や刺使をぶち殺しちゃってるものだから
世間的な名声を失う状態だった
そこに袁術が来たので「本当の逆賊董卓を討つ正義の反乱軍」という名目が手に入った
ここで袁術の傘下に入ってないと逆賊扱いなのよ 魏延だって部曲を率いていたけど「劉備の部下」扱いで、格下の同盟者としては扱われない。 >>415
漢の正式な長沙太守と私兵を率いる部将を同列には語れないよ。
>>414
袁術の配下なら正式な刺史や太守殺しても名声失わないのか?
そんなことはないし、失った名声(荊州人士からの)自体は多分戻っていない。
論点となるのは名声よりも正統性の問題だろうけど、孫堅は各地の群雄に連動して反董卓の兵を挙げた。
そしてそれに呼応しない「董卓派」の刺史らを討った。
この全体の流れに正統性(彼らにとっての)があるのであって、
「群雄の中の一人の袁術(高位ではあるが)」に認められて正統性を得たのではない。
また>>414にある「そして袁術が来たので」というのはちょっと意味不明だ。
そもそも袁術こそ南陽に駐屯する正統性はなく、孫堅が太守を討ったことで助かったのだから。
袁術が上表して孫堅に将軍と刺史の位を与えたのは同盟軍としての正当な報酬でもある。
また、当時の董卓側・反董卓側は互いに逆賊と見なしあっているのであって
袁術の傘下でないと逆賊扱いというのはおかしい(そして傘下=部下ではないと思う)。
孫堅が忠烈の名をあげたのは袁術が正統性を担保したからではなく(彼にそんな力はない)
果敢に董卓側と戦った数少ない群雄だからだ。 190年前半くらいの群雄諸侯の上下関係はそんなもんだったみたいだね。
二袁や公孫サンのような有力者は外の州に刺史や太守を多く任命したが、
現地に派遣したらもはや支配力は殆ど効かなくなったようだ。
田楷や曹操のように独立行動をしたり、事態が変われば陳ウ([王禹])のように裏切ったりする。
「袁紹派」や「公孫サン派」のような緩やかな色づけ、対等ではない盟友関係というところだろう。
ただ、孫堅は袁術指揮下の攻撃軍をほとんど一手に指揮していたが、
政治経済的基盤は完全に袁術に依存していたようだ。 >正当な報酬
その正当な報酬を与えられる人物が周囲にいなかったから孫策は袁術の風下に入ったんだよ 孫策は当時二十歳かそこらだったんだから、
父親残した権威と軍勢をいくらかでも維持するには
周辺の情勢と縁故を鑑みれば袁術一択だろう。
報酬とか何とかは関係無い。 >>417
>ただ、孫堅は袁術指揮下の攻撃軍をほとんど一手に指揮していたが、
>政治経済的基盤は完全に袁術に依存していたようだ。
この辺はおもしろいね。
北上中に膨れ上がって、おそらく孫堅軍は袁術より規模が大きかったと思う。
そしてその孫堅軍が先鋒となり、孫堅のおかげで南陽を得た袁術がそこでの資本を糧に後詰を引き受けた。
だからこそ兵站を疎かにした袁術に対して孫堅が怒鳴り込んでくる。
これは少し袁紹と韓馥の関係に似てる。
袁紹も兵站は韓馥に頼らなくてはいけなかったが、軍事的には韓馥より強大だった。 袁術は当時の一大名士で、南陽の情勢を纏めきり、豫州からも兵を供出させるには
他にありえなかっただろう。
一方孫堅は各地の征伐に名を上げた勇将で、実力で董卓を洛陽から駆逐した。
全うできれば天下取れるくらいのコンビだったんだけどな。 天下取れるほどの実力ではないだろ
董卓が洛陽をぶっ壊して退却した後、劉表に南陽の物流止められて一瞬で干上がってる
この時点で南陽を拠点とする袁術陣営の限界が出てる 一瞬ではないよ
劉表が漢水以南を掌握してから袁術が豫州に移るまで、
正確な月日は不明な部分が多いが孫堅の死を挟んで一年くらいは時間がある
袁孫連合は軍事的には襄陽を追い詰めるに十分な質量を有していたし
豫州に派遣された周昂を破ってもいる
ま、現実に袁術はそれ以上の器ではなかっただろうし、その後勝ち続けたとしても
袁術・孫堅の間に亀裂が入らなかったとは殆ど考えられないが ところで袁紹派には劉虞・韓馥・劉表・そして曹操などがいたけど
袁術派には孫堅のほかにどんな勢力があったの? 劉表まで袁紹派に入れていいなら、
「袁術派」はまず公孫サンとその影響下の各人物。勿論その一時期の劉備
孫堅・孫策と呉景・孫賁ら親族
公孫サンと同盟関係にあり袁紹と戦った黒山賊
武帝紀には陶謙の名も挙がるが時期的に怪しいところもある。少なくとも袁術が揚州に移ってからは険悪になった
陸遜の父の従兄弟で呉郡陸氏の宗主だった廬江太守陸康(不和から攻め込まれて敗北)
陳登ら下ヒ陳氏の有力者の揚州刺史陳ウ(王禹)(揚州に逃げ込んできた袁術を拒否して敗死)
廬江周家の者で周瑜の従父の丹陽太守周尚
曹操と戦った豫州西部黄巾族の何儀や劉辟
直接の連携の記録は無いが、董卓政権下で協力者として疑われた太尉張温、
曹操政権下で以下同文の太尉楊彪
他には初め曹操の献帝奉戴を妨害したとされる董承、
東城長魯粛や予章太守諸葛玄(諸葛亮の叔父で亮も任地に身を寄せていた)なんて名もある。
他にもそれっぽい人間は多いが、何しろ皇帝を僭称して悪名高い人物だから、
魏に仕えた人間の経歴からはぼかされていることが多い。
呉側の記録では比較的正直に書いてある感じ。 >>425
陳ウは敗死してないよ。徐州南部で勢力を保ち、
後に朝廷から袁術討伐の勅命を受けている。 >魏に仕えた人間の経歴からはぼかされていることが多い。
袁渙なんかごまかしようが無いから書かれているが
袁術は袁渙を尊敬していてよく意見を聞いていたとかあって
それならお前は袁術が皇帝になったとき意見しなかったのかよ
とかそのあたりはうまくぼやかしてあるな 袁術からその生死について妻子に連絡があったという曹操も、一時期「袁術派」だったんじゃない? 袁術派の張バクの下にいたんだから反董卓連合の時期は袁術派だったんじゃないかな。
連合解散に前後して王匡を斬ったあたりで袁紹側に寝返ってると思われ。 領民が飢えに苦しんでるから内政に集中したいのに、逆賊どもが侵略してくるから徴兵せざるを得ない
そんな暗い顔をした民草に希望を与えんがために、悩み抜いた上で即位なさったわけでしょう?
偽帝リュウ協に対して天がお怒りになり、度重なる天災を与えたのだから、当然帝を変えるべき空気だったはず
少なくとも南陽では。いや、城の中では。いや、頭の中だけかも 何も考えて無かったから即位したって誤謬だけはこの世から拭い去られて欲しいな >>431
袁紹の命令で王匡は自分の妹婿の胡母班を泣く泣く殺害し、
後に曹操は胡母班の遺族と協力して王匡を殺害してる。
この点だけ見れば王匡殺害は袁紹に対する敵対行為にも見える。
袁紹派・袁術派というのはもっと曖昧だったんだろう。 袁紹の記録って、つまんないところがあって、
袁紹伝にほとんど載っていて、他の史料で別の側面が垣間見えるとか、
そういうのがあんまりないから調べ甲斐がないんだよね。
自己完結しすぎっていうか。
袁術は逆にいろんなところに記録が分散していて、
それを拾い集めることで本伝とは違った側面が見えてくるので面白い。 いとこの子とかじゃなくて、妹の子か。
えらい血筋近いんだな。 妹を嫁にするほど袁術と縁があったのに、
李カクが朝廷を乱しても袁術の元に身を寄せず、
中央で皇帝に仕え続ける苦難の道を選んだ楊彪偉い。 楊彪は忠臣ってイメージ。
董承とかは正史だと野心家っぽいけど 袁術って宦官虐殺のとき自ら宦官殺したりしたのかな。
後漢書によると「宮門を斫(う)って之を攻める」
これは門を打ち破って中に突入したって意味じゃなくて、
門を攻めたって意味らしい。
その後あちこちに放火したって記述があるけど、
結局宮中に突入したのかどうか分からない。 「嘉徳殿に火を付けて段珪らをいぶり出そうとした」とあるから
門内に入って宮庭に兵展開してたんだと思う。
宮殿内まで侵入したかどうかは不明。
積極的に宦官殺しまくったのは袁紹 袁紹と袁術は
従兄弟という説と異母兄弟という説があるらしいけど
どっちが有力なんだっけ どっちが有力というわけでもないだろう。
異母兄が伯父の家に養子に出たのだとしても、
従兄が父を失って叔父の家で養育されていたのだとしても、
系譜上は従兄弟になるからあんまり問題ではないと思う。 分裂都是因為史弟內鬥
所以現今中國人總結出了一條道理
絕不內鬥
團結就是力量