明の永楽帝は、後宮に多くの女を囲う事に並々ならぬ熱意を持っていた。
特に朝鮮に対してはたびたび美女の献上を求めており、李王朝はそのたびに屈辱に打ちひしがれていた。
永楽六年などは、婚姻の禁止令まで出して美女を集めたものの、明の宦官の意に副わず
再選考する始末。そうしてようやく決まり、明に向かう日には二度と会えぬ別れを悲しみ、
街道はアイゴの声で満ちたという。
しかしそこまでして集めた美女も、目に停まるのは一握りのみ。大半はむなしく老いて行く。
癲癇持ちだった永楽帝の常備薬には精力減退の副作用があったらしく、この傾向は強まるばかりだった。

さてその永楽帝が崩じた際、30名の女官が殉死を命じられた。その中には朝鮮出身の韓氏もいた。
韓氏は傍らの乳母に向かって「母さん、私は参ります」と叫び、縄に首をかけた。
宦官が踏み台を蹴倒し、他の女官ともども理不尽に逝った。

のちに帰国した乳母の口から、この悲劇は伝わったのである。