【三国志】呉総合スレ6
郡があちこちで新設されてるのを見ると国力自体は上がってるのはたしかだけど
豪族連中が懐入れちゃってて皇帝の直属軍や国庫にはあまり入ってなさそう
その状況を改善しようと皇帝が必死に国威発揚して権力強化しようと努力しても
当の豪族連中にやれ民のこと考えろとか戦争止めろとか正論持ち出されて抵抗されるから
とうとうプッツンしちまった結果かもしらん そうですね。孫権もあの豪族達とうまく協力するってのは大変だっただろうなーと思いますね
でも実際に豪族に国防を頼っている現実があるのですから、それを受け入れるしか無かったのではと思っています
力をつけた外戚に乗っ取られるのも歴史のあるあるなんで警戒するのは理解できるのと
当事者同士にしかわからない感情はあると思うので、外野が言うほど簡単な話では無いのでしょうね
ただ、豪族の力を削ぎたかったのかなという見方をしても、二宮での喧嘩両成敗的な裁き方が意味がわからないのと
孫晧はやっぱり癌だったと思いますね >>643
三国志演義のほうではあまり活躍していない、気の毒な存在でもある。 地味な割には2代目とか甘寧とかキ◯ガイが目立つ良く分かんない勢力 満寵さんの布陣が鉄壁すぎて、陸遜が見ただけで撤退したエピソード好き
撤退の判断ができるのが陸遜で、そのまま突っ込むのが孫権という対比も面白い 孫晧はどういうわけか諸葛セイを気に入って重用してるんだよな
ある日、宴会の終わりに諸葛セイに対して「あなたの字は仲思というが、なにを思っているのかね?」と質問をした
諸葛セイから「家にあっては孝行を思い、陛下に対しては忠勤を、朋友に対しては信実を思っております。それだけのことでございます」と返事があった
孫晧は満足そうに笑顔で頷くと、諸葛セイの肩をポンポンと叩いて去っていった
猜疑心の塊の孫晧にしちゃここまで家臣に気を許すのは珍しくね? >>249
丁奉がキラーマシーンかどうかは知らんが
軍歴50年超は呉以外でもなかなかいない 呉には魏でいう賈クや蜀でいう法正みたいな謀略家や策謀家って誰かいたっけ?
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜らは将軍や都督の印象が強くてイメージが合わない。 >>653
ほとんど居ないが強いて挙げるなら
虞翻とか周魴とか
しかしちょっと違うのう 天帝の子皇帝
テングリの子ハーン
天孫の子天皇
東アジア三大天子 というより兵を率いられる文官が多いイメージ。
魯粛、諸葛瑾、呂範、歩シツ、張承、etc… 明確な文官ってほとんど尚書ぐらいで他の人は将軍職と宮内職兼業
魏は一定以上の将軍はみんな太守だし
後漢王朝支配が弱まった理由がポストが多過ぎて縦割りし過ぎて各州でそれぞれの利権を巡っての対立が起きそれが内乱に繋がったことだから余計にそのカウンターの方法を取った
基本的に行政権と治安維持責務を分けたら対立して暴力に優れた側が勝ってしまうしな 分間でも武官でも結局は後ろにいるだけで武芸は必要ないからな ところで呉の全盛期っていつ頃なんだろうな
孫堅、孫策存命時の方が凄かったとよく聞くけど
孫権時代も防衛戦だけなら全盛期の蜀と魏に勝ち続けたりと相当凄いと思うんだが 孫権が皇帝になったあたりじゃない?
孫堅は結局戦死だし、孫策は揚州の外では活躍できなかったし
そこまで凄いとは思えないんだよな 長江以南での勢力の大きさがそのまま中原からの評価にはならんからね
孫堅は荊州への攻撃を始めるには戦力足りんかったように思う
孫策のようにまず江東の支配固めないまま自分の能力を頼りに劉表勢力(当時の劉表もまだ荊州支配固められていないけど)に攻撃はいくらなんでも難しいだろう
孫策はお父ちゃん死去でそこから袁術からの独立まではスピーディーだったけどそこから更に勢力伸ばすのに急いでやったから敵が多過ぎて反乱分子抱え過ぎた
その後を継いだ孫権がその負の遺産を継いで最初の15年のうち赤壁以外はほぼ反乱平定の為に忙殺されそれがひと段落してようやく荊州を狙える戦力が整った
周瑜、魯粛おらんかったら赤壁前に反乱祭りで消滅していてもおかしくなかっただろうなと思う 明まで南は北に勝てなかった
どんなに強くても滅びた 華南が経済的に華北よりも発展したのは南宋からなはず 他人に損害を与えることがさらに多いからである。仮にも人に損害を与えることが多ければ、その不仁はますますひどく、罪はますます重い。 無実の人を殺し、その衣服を奪い、戈ほこや剣を奪う者に至っては、その不義は他人の畜舎に入って、他人の馬や牛を盗むよりもひどい。これはなぜだろうか。 太守は郡政も軍兵もつかさどるので
そもそも文武官でキッパリ分けようとするのが間違い 太守は郡政も軍兵もつかさどるので
そもそも文武官でキッパリ分けようとするのが間違い 呉は防衛線では強い
蜀と魏の連続でも耐えきった
しかし、攻めでは合肥一つ落とせなかった
防衛し続けることも可能だった
南北朝時代もずっともち続けた 元々宰相も軍を率いるのだし、そうなると文官なんていなくなってしまう >>673
正史読め
合肥落としてるぞ
それに江陵も落としてる >>676
倭は呉(その1)の太白の末裔(自称)。 >>677
Y染色体ハプログループを調べると
少なくとも呉の王家の子孫ではない
呉の庶民の子孫の可能性までは否定できないけど 翼侯は優れた策謀家で、世の盛衰を予測し、主上に臣礼をとり、
意見を述べ諮問を受け、少し考えるのみで正しく計を立て、事態を見て変化の兆しを察知した。
法孝直を賛える 日本の南北朝時代は三国志のキャラとかぶる。誰かこれを元にシナリオを作ってほしい
足利尊氏→劉備 将の器あり。戦上手の劉備
足利直義→孔明 几帳面な孔明、直義派が存在するのでカリスマ性はある
高師直→?統 天才軍師ながら女や欲に溺れる面あり
高師泰→?徳
佐々木道誉→関羽 風流を愛するバサラ関羽
土岐頼遠→張飛 大酒飲みの猛将
赤松則祐→趙雲 品行方正な優等生
吉良貞義→黄忠 元寇と南北朝を経験した老将
後醍醐→曹操 軍事的才覚は曹操に劣るが教養人としては互角。カリスマ性もあり
護良親王→曹彰 父に疎まれる野蛮な面あり。
新田義貞→袁紹
楠木正成→孫堅 一方の勢力。
楠木正行→孫策
楠木正儀→孫権
北畠親房→馬騰 策士家の馬騰
北畠顕家→馬超 義に厚い馬超。東北の騎馬と涼州の騎馬 呉の交趾の統治は遠隔地だし
半植民地みたいなもんだったんだろうか 攻撃的にいっても結局は人口が足りなかったと思われる。
移民により初めて南北朝が成立した。 孫策は曹操に対抗できる軍略ある人物だと思う
江南はそこまで人口少なかったんだろうか 三国時代は魏が800万、呉が200万、蜀が100万くらいだと思うから、呉だけではないけど人口は足りないと思う。
数字は知らないが、東晋では江南の人口が増えた(増加+移動)から成立したんじゃない? 魏の人口:4,432,881人(260年)
ソース:鄒紀萬『中國通史·魏晉南北朝史』,1992年 >>676
>>677
太伯は子供いなかったけど、その末裔を主張しているし
遺伝的に王族ではないけど、呉の民が逃亡して日本に来たんじゃないかね
天皇は恐らく逃亡者のリーダーかな 蜀があっさり滅びるのはわかるけど
呉もあっさりしてるんだよな
あこまであっさりしてると驚いてしまう >>693
国民が早く滅びてくれとおもうレベルだし
軍を集めたけど逃亡して戦争すらできなかったとか 諸葛恪って性格といい、顔といい、ひろゆきそっくりだよな。 >>693
絶望した皇帝が狂って身内を処刑しまくっていて
最後は兵士が戦わずに逃げたから
ああ、二宮の変がなく、普通に孫和がついていれば 袁術を人口100万ちょっとで兵力10万弱なのを
支配領域の不足や徴兵の厳しさを批判している人がいたけど
よく考えると蜀はそれより人口が少なくて兵士はそれより多いんだよな >>693
滅ぼすには20万以上の兵と、益州方面からを含め2方向以上からの攻撃が必要みたい
逆にその条件を満たすと簡単に滅びてしまう ただし袁術とのつながりは、また歴史書で隠される。
孫呉が「袁術を継いだ」と明確に宣言しては、
孫策は、主君を攻めた不忠者だ。
だから韋昭『呉書』は、孫策が袁術に絶縁状を突きつけさせ、
袁術からの独立を、歴史書で宣言した。 魏滅蜀漢之戰 季漢防衛線 戸数二十八万 口数九十四万 兵士十万二千 官人四万
漢城 兵力五千
護軍 綏武將軍 蔣斌
樂城 兵力五千
監軍 王含
陽安関 兵力五千?
關中都督 傅僉
(前)武興督 蔣舒
黄金囲 兵力五千?
黄金囲督 柳隠
剣閣 兵力四万~五万?
(左?)大將軍 録尚書事(領益州刺史?)平襄侯 姜維
仮節 右車騎將軍 并州刺史 中郷侯 廖化
左車騎將軍 冀州刺史 都亭侯 張翼
輔國大將軍 平尚書事 南郷侯 董厥
成都召還 兵力三千?
巴東都督 右(大?)將軍 閻宇
巴東 兵力二千
巴東太守 羅憲
南中六郡 兵力五千?
監軍 安南將軍 建寧太守 霍弋
江由関 兵力五千?
守將 馬邈
涪城 綿竹関 兵力一万?
行都護 衛將軍 平尚書事 武郷侯 諸葛瞻
武郷侯世子 諸葛尚
尚書 張遵
尚書郎 黄崇
羽林右部督 李球 >>664
孫策の遺産も大きいが負の遺産のほうも大きかったというのも周知されてないよな
こういう調整力政治力が地味なせいでばかにされてるのが残念 >>703
欠点はあったけど、その負の遺産がないというのは孫策が完璧超人になるから
そもそも相続できない
劉備が呉軍が三万しかいないと赤壁前に不満に思ったらしいけど
三万しかいないから同盟を結べたのであり
十万二十万の兵がいれば劉備なんかいらない
だから、そんな選択肢、可能性はない
派閥争いとかで、協力していればみたいなのは
それを何とかするってのは目的を達成するよりも遥かに難関だから最初から無理
英検1級に上位合格できる英語力があれば英検2級に合格できたかもしれないぐらいのもの >>703‐704
>孫策の遺産
むしろ負の面が圧倒的に大きい
呉亡国のそもそもの元凶である
地元豪族と名士層との決定的な対立や緊張関係を
孫策一代で作りまくったから 賛繼前言曰。爾來跳嘯三百餘載。時運漸不利。伯分爲二。一連於弁、一入于秦。秦自是u豪。燕亦加彊。殷遂以孛涘勃大水爲界。讓曼灌幹之壤而東。 功臣の2代目を冷遇した冷遇したってやたら言われてるがだいたい言いがかりっぽいんだな >>707
周瑜呂蒙程普黄蓋辺りは冷遇というか二代目がほぼ存在薄
それ以降に死んだ世代はそこそこ どうでもいいけど、孫策は小覇王と呼ばれたりしたのに
楚と名乗らなかったんだよな
水滸伝でもそうだけど、春秋時代でも楚は呉より強大だったはずなのに
なぜか後世では楚よりも呉を名乗りたがるのは何でだろう? >>710
初代の王は勝手に名乗っているし
呉とか皇帝を名乗る大義名分ないとか最近あちこちで言われているけど
始皇帝自体が他国を武力で滅ぼしただけで大義名分ないんだよなあ どうでもいいけど項羽の頃でさえ会稽を呉と呼んでいて、本来越なんだよなあ
歴史上、覇王は勾践と項羽の2人だけ
もしかして、姓の読み方同じなのかなと思いながら勾践は名字じゃないか まあまあ呉越同舟ということわざもありますし
河向かいで田舎もんがなんか仲良く騒いでるということです そもそも三国で皇帝の大義名分とかあるやついるか?
劉備からして禅譲受けた皇帝と劉の血筋の皇帝がまだ存命してるのに自分が勝手に名乗ったんやで
呉は禅譲受けた皇帝から王→皇帝と名乗るのを許されたのでちゃんと正規の手順踏んでる >>714
曹丕は漢皇帝から何度も頼まれて辞退を続けて禅譲を受けたのだから
形式的には禅譲の手続きを適切に踏んでいる
劉備は曹丕の存在を認めない、曹操の死で年号が変わったことさえ認めないし
閔帝は自ら皇帝を辞めたのだから、彼の考えではこの世に皇帝がいなくなった
そこを後漢皇帝の兄の家の子孫であり、権力を持った実質唯一の皇族諸侯王、
自分よりも皇帝にふさわしい劉氏は天下に存在していない
孫権は吉兆とかでこじつけてはいるのだけど
蜀側が対等の皇帝として両帝並立を方便ではあっても認めている
呉王は、曹丕が与えた、すぐに別の皇族を任命したみたいではあるけど
その後、形式的には蜀の皇帝を認め、蜀の皇帝の臣下の呉王となった
最後に、孫権の皇帝位は蜀漢が認めたということになり
呉側も蜀の皇帝を認めているのだから、外交上、国際的に承認された皇帝である >>711
始皇帝というか秦は九鼎を周から引き継いでいるから
一応大義名分はある
間違えて九鼎を泗水に沈めたので代わりに玉璽を造った >>715
後漢の諸侯王(後漢滅亡時)
東海王 劉羨
東平王 劉凱
沛王 劉契
任城王 劉佗
彭城王 劉祗
梁王 劉彌
河間王 劉陔
山陽王 劉懿
東海王 劉敦
済陰王 劉熙
済北王 劉邈
公式的に任命されている曹丕の魏王や孫権の呉王と違って
残念ながら劉備の漢中王は僭称なので非公式 >>716
特に悪政もしていない周王を滅ぼして奪ったからあるといえるかどうか、、、
>>717
これらはほぼ名前だけで力に多少の差はあっても王だと言えたのは
漢の魏王と漢中王
魏の呉王と晋王
100年でこれだけかと ふと思ったけど、むしろ有名な話題だけど
呉で諸葛瑾の子孫が蜀にいたの以外根絶やしにされていて
これで蜀人との仲も終わったような >>717
劉備の皇帝も王もどっちもまじでただの自称な上なんで曹丕ブチキレ
大義名分も自分が認めないってだけやしな 三国志演義の訓読を自分でやっています。まだ一話も完成してないですが、漢文をベースに所々白話の影響があるので中国語、漢文両方の知識が要求されます(笑)
http://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/sp/pages/382.html
十八史略 全文(予定)目次なるものもやっております。
http://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/344.html
漢文法基礎(二畳庵主人)・文言文法(楊伯峻)・漢文訓読で解読するまいにち中国語2020年 wiki 中文訓読・中国語訓読
http://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/372.html >>720
人類最初の王もきっと自称だよ
皇帝も始皇帝自体が諸国を滅ぼしただけで大義名分なんかないし >>708
だいたい言われてるのは周瑜の子供のことかな
あれは長男は孫権の愛娘貰って出世しようとした途端に夭逝次男は出世前に素行不良で流されてそろそろ赦して呼び戻そうとしたら夭逝だから普通に運が悪いだけなんだよな
娘も孫登に嫁がせ未来の皇妃にしてるし(それにしても次世代を孫登に賭けてたのがわかる布陣で悲しい) >>722
いや自分よりも上の存在に王や皇帝の位を承認してもらうのは地味に重要
だから始皇帝もわざわざ泰山まで巡遊して封禅の儀式を行い
皇帝として天下を治めることを天地に認めてもらっている
なので自分よりも上の存在に認めてもらわず勝手に王や皇帝を僭称した劉備は
封禅の儀式を行っている孫晧よりも遥かに下 >>724
そうしたから皇帝臣何々とか言って、皇帝は皇皇后帝の臣になってしまっている
そうした王莽のみんなマネしてるし 王憲は北して、頻陽にゆく。通過した場所はくだる。大姓である櫟陽の申碭、下邽の王大らが、王憲にしたがう。三輔の諸県で大姓がくだり、数千になる。「漢将」を仮号する。 >>724
その理屈だと、根本的に最上位の存在になれない
最上位だと「最上位より上」に認めてもらったら、最上位ではないことになってしまう 部下や国民が納得すれば皇帝名乗ってもOKだとしても劉備は駄目なんだよな
名乗るのに反対した部下を左遷してるし ところでぶったぎりだが魯粛や周瑜が安易にケイシュウ取りにいくなよ?って劉備に貸すときに孫権に釘さしたって見たがどこかに記載ある?
むしろ貸与の件は魯粛(孫権)vs周瑜みたいになってたよな?そんでその魯粛も最後らへんは見放してたよな >>731
演技みたいにすきをついて落としたんじゃなくて
認めない人はいるけど、劉備と孫健の関係は主君と部下に限りなく近いから
部下に荊州の守りを任せたら独立したのに元の会社の土地や財産を返さねえみたいな だね
そして蜀視点だと魏攻略を邪魔しやがって関羽を我慢しておけばこの邪魔ものってなるが
呉にしてみれば魏攻略の次の標的は自分たちだってバカでもわかるからあそこで荊州取りにいくのはまさに最良ってわけ >>734
劉備が孫権の部下と主君の関係性に近いっていうのは無理があると思うわ
孫権が劉璋を攻めようとしたら劉備は孫権の行動を軍を使って妨害してきたからな
部下と主君の関係だったらその時点で破綻している
ある程度、対等な関係だったからこそできた事だろう >>736
その時点で破綻したんじゃないの
つまりそれまではってこととも矛盾しない だいたいもはや協力関係でもなんでもないっつー態度仕掛けてくるのだいたい劉備さんからだったか >>736
雇用主(討慮将軍)と雇われ傭兵(左将軍)
の関係が最もしっくりくる
雇われ側が位高いので横柄になるわな
しかし孫権の合肥苦戦を理由に劉璋から兵借りようとしたり
益州獲るまでは時には孫権に雇われている事を利用している 呉が内部のゴタゴタに時間がかかってその間好き勝手利用できたことで
劉備的には更に舐めてもいい相手という認識になってたろうしな もし陸遜が楚王とか名乗って独立したら、呉側は荊州を返せって言いそう