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【蜀の悲願】 北伐 【軍師諸葛亮】
0001名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/01/12(金) 12:21:16ID:ARwXX2Z70
 223年、劉備が亡くなり劉禅が跡を継ぐと、諸葛亮は蜀の政治の全権を握る。そして、呉との関係を改善した上で、魏に
対する北伐を計画した。
 227年、準備を終えた諸葛亮はいよいよ北伐を決行する。北伐に当たって上奏した『出師表』は名文として有名である。
 1度目の北伐で、諸葛亮はかつて蜀から魏へと降った孟達の調略を企図したが、司馬懿に察知され、孟達は討たれた。
 最初に躓いたものの、諸葛亮の作戦は続行され、翌228年に漢中より北へ進攻した。
 諸葛亮は、趙雲を囮に使って魏の曹真の裏をかくことに成功、南安・天水・安定の3郡を奪った。魏はこれに対して張郃
を派遣、諸葛亮は再度趙雲を囮に使い、要衝街亭に鍾愛していた馬謖を配する。ところが、馬謖は諸葛亮の指示を無視
して山上に布陣したために、張郃率いる魏軍に大敗を喫してしまう。
 街亭での敗戦で、蜀軍は全軍を撤退させ、諸葛亮は馬謖を敗戦の罪で誅殺し、自らも降格として丞相から右将軍となっ
た。これが「泣いて馬謖を斬る」の故事である。もっとも、諸葛亮が右将軍となっても、他に蜀を運営できる人物がおらず、
実質上は丞相であった。
 その年の冬、諸葛亮は2度目の北伐を決行する。しかし、曹真に作戦を先読みされたために、戦局は優位に進まず、食
糧の不足もあって撤退した。
 更に翌229年には3度目の北伐が決行され、陳式に武都・陰平の両郡を平定させた。この功績によって、諸葛亮は再び
丞相の地位に復帰する。
 その次の年230年に4度目の北伐が行われるが、食糧不足で撤退に追い込まれる。この時に、魏の張郃を討ち取った。
 そして234年、諸葛亮は5度目にして最後の北伐を決行する。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えを持って
五丈原で、司馬懿率いる魏軍と長期に渡って対峙する。だが、諸葛亮には健康問題が生じていた上、頼りにしていた呉も、
荊州と合肥の戦いで魏に大敗を喫し、司馬懿は防衛戦に徹した。
 234年8月23日、諸葛亮は陣中で病没し、蜀軍は全軍が撤退した。その際、魏延と楊儀との間に争いが生じ、魏延が殺
される事件が発生している。
0562名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2024/05/01(水) 12:22:05.81ID:ssd8LZze0
>>531
逆に魏が自然災害で苦しんでいた第一次北伐で街亭で敗戦してるのが蜀なんでね
孟達も陽動には使える状況で漢中には既に兵士を集め終わっていたからそこから孟達への援軍を素早く送っておけば司馬懿は史実ほど早くは上庸を取り返せなかっただろうに
0564名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2024/05/01(水) 17:38:21.01ID:cdq4PwaC0
諸葛亮死亡時の蜀の高級幹部

魏延 前軍師・使持節・征西大将軍・涼州刺史
楊儀 丞相長史(漢中丞相府)・綏軍将軍
蔣琬 丞相長史(成都丞相府)・輔国将軍
鄧芝 督左部・中監軍・揚武将軍 
費禕 丞相司馬(漢中丞相府)・中護軍・偏将軍
呉懿 左将軍・荊州刺史・高陽郷侯
姜維 護軍・征南将軍
董允 侍中
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李厳 罷免中(中都護・驃騎将軍・光禄勲)
廖立 流刑中(長水校尉)
黄権 魏に出仕(魏の益州刺史、後に車騎将軍で魏では初の儀同三司)

みんな仲良くできていれば・・・
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