【劉封】劉備の息子達【劉禅・劉永】
>>85
だからこそ面白い。
狡猾だけど、謀の点に関しては曹操などに劣るわけで。 >>75
待てやコラ
袁術皇帝陛下は人心掌握に長けておられたし実力も多大なものであったのだ
問題は曹操がそれを圧倒的に上回って優れていたというだけの事よ… 劉備は息子の誰でも良いからケイシュウに残すべきだった。
最も信頼してる関羽にケイシュウ防備を任せたわけだが、関羽を諌められる武将がケイシュウに
一人も居なかったのが悔やまれる(馬良やビホウでは関羽を諌められない)
北伐をする際にも公子が居るとなれば、より慎重にケイシュウの防備を高めて
呉に対する警戒もMAXに達しただろうし、場合によっては魏侵攻よりも
公子とケイシュウを守る事が第一義だと考えて無謀な北伐に参加せず
見事にケイシュウを守りきったかもしれない。 劉備の息子って言っても劉邦と劉禅ぐらいしかおらんだろ
劉邦と関羽は仲悪いし劉禅はまだ幼いし 劉封は息子じゃなくて養子だからな
養子を公子にしても中々難しいだろう 公子じゃなかったら親族でもいいよ。嫁でもいい。
関羽を自重させる者、もしくは関羽が一目置かざる得ないものを一つは
ケイシュウに置いとくべきだったと思う。
それは価値が高ければ高いものほど良い。
または政略結婚を蜀主導で進めてケイシュウ防衛軍と南三群及び呉、上庸の間で
お互いが裏切れないように縁戚関係を結び出来得れば嫁とか養子の名義で
呉の重要人物をケイシュウか蜀に引き取れれば良かった。
呉から関羽へ政略結婚の申し出があったのが事実かどうか知らないが
呉から、そういう話がなくとも蜀主導で進めても良いくらいの話だった。 ID:WNbuwy590は大変な妄想家の上歴史も知らない。
自分の世界だけで物事を語っているように思える。
>>96
劉禅も劉封も荊州に置いていってるよ。
でも劉禅は即位時に17歳で劉備が益州を入った時で7,8歳。
意味がないな。
>>97
劉封が関羽の樊城攻めの時に救援の兵を送らなかったのは事実のようであるが、それを以って荊州時代から仲が悪かったとは言えないと思うが? >呉から関羽へ政略結婚の申し出
これが事実だとするとさ、その目的のひとつに、「劉備と関羽の離間」は
なかったのかなー、と思ったり。
もし関羽が独断で受けちゃったら、蜀の首脳陣は面白くないだろうし。 蜀と呉の同盟強化の為の婚姻なられっきとした外交政策なんだからまず劉備を通すだろ。
>>104
長男だよ
昔は居たみたいだけど殺されたんじゃないか?
捨てて逃げてるし 結構年を取ってから産まれた子は特に可愛いものだと思うけどなあ。 劉禅と劉永は蜀滅亡まで生きてたが劉理だけは早めに(と言っても244年だけど)死んでるね。 http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1173198755/l50
夢蜀【むしょく】
三国時代の蜀の後主、劉禅は後世に於いて無能な君主として描写されることが多い。
しかし、そうではないことを示す逸話をここに紹介する
魏に降伏した後、劉禅は蜀を懐かしむ素振りも示さず、酒宴に明け暮れる日々をすごしていた
かつて蜀の臣だった人々はこれを観て甚く悲しんだ
幼少の頃より劉禅の身の回りの世話をしていた宦官のという者が居た
邇杜は宦官にしては気性が激しく、正邪を弁えた人間だいう評判だったが
ある日、いつものように楽しそうに宮女の舞を見ていた劉禅を見かねた邇杜
「殿は蜀が恋しくないのですか」と言った
劉禅は聞こえない振りをした
すると邇杜は宮女を押しのけ、劉禅の目の前まで進み出て大声で怒鳴った
「あなたにとって蜀はなんなのですか!」
劉禅は目を逸らし、やはり何も答えなかった
ついに邇杜は劉禅の胸倉を掴み、涙をながして言うに
「あなたは毎日何もせず、踊りを見て酒を飲むばかり。一体何を考えてらっしゃるのか」
邇杜に向き直った劉禅の目には涙が浮かんでいた
そして彼は一言だけ、こう言ったという
「夢蜀。」と
「私は蜀の夢を見ない夜は一度たりとも無かった。」
劉禅の気持ちを察した邇杜は大いに恥じたという
この逸話はしかし劉禅が蜀を再興しようという野心があると思われる危険があったため、公には伝わっていない。
これ以降、日ごろ何もしていないが心の中に大志を抱くものを「夢蜀」と呼ぶようになった
最近では後半の意味が忘れられ、ただ単に何もしない人間をさすようになり、いまの「無職」になったという
『消された歴史・隠された真実』 李安庸
>>123
劉禅の異母弟。
> 劉永字公壽、先主子、後主庶弟也。
> 章武元年六月、使司徒靖立永為魯王。
> 策曰
> 「小子永、受茲青土。朕承天序、繼統大業。遵脩稽古、建爾國家。封于東土、奄有龜蒙 、世為藩輔。
> 嗚呼、恭朕之詔 。惟彼魯邦、一變適道、風化存焉。人之好コ、世茲懿美。
> 王其秉心率禮、綏爾士民、是饗是宜、其戒之哉」
> 建興八年、改封為甘陵王。初、永憎宦人黄皓、皓既信任用事、譖構永于後主、後主稍外永、至不得朝見者十餘年。
> 咸熙元年、永東遷洛陽、拜奉車都尉、封為郷侯。
以上、蜀志劉永伝。 >>125
劉禅は46の時の子。
他は不明としか言いようがない。 劉備ってお盛んだったの?
皇帝となった時は、もうかなり年寄りだし、
今さらそんなに遊べなかったか。 徐州時代に子供がおったのでは?
張飛がうっかり酔っ払って呂布に乗っ取られたときに、
呂布が劉備の妻子と老母を保護させたって書いてあったと思ったが >>129
劉禅は新野時代に生まれてるから、それ以前のは相次ぐ敗走、生々流転の渦中で死んでったんだろうね。 陳到が徐州時代に子供を助けていて、そいつが後主になっていたら……
趙雲と陳到の立場が変わっていたことだろう。 劉禅には6人か7人子供いたんだよな
降伏にキレてクビ切った子供が有名だけど
皇太子はボンクラでとろとろしてるうちに殺されたんだよな
劉備の一族ってとことこダメだな
子孫は一人以外全部永嘉の乱で滅亡したし
もしかしたら劉禅は一族で劉備の次に処世術にたけてたのかも たしかに生き延びた分、どこかしら賢い部分もあったんだろうな。
死んじゃったら何もならないし 十分過ぎるほど名将だろ。
冒頓単于だの項羽だの韓信だのが超名将が同時代に結集してるせいで割りを食ってるだけ。 しまった。劉邦と勘違いした。
ああ、養子の劉封ね。彼は良将止まりだろう。
ただ人手の足りない蜀漢陣営では相対的に重要な部将の一人だった。 しかし、なんであんなとこから養子取ったんだろう・・・・ 劉備がヤクザの親分って考えればそれほど不思議でもない
養子取りまくりは階級が破壊された五代十国には顕著に顕れた傾向だし
当時は宦官が養子を取り始めた時期でもあった 劉封は羅侯の寇氏の末裔とあるが寇氏というのは間違いでケ氏という説がある(中国語で同じ発音)
このケ氏は後漢の建国のケ禹元勲の子孫にあたる(ケ禹の子供が羅候に任じられている)
家柄としては十分すぎるし荊州にかなりの影響力を持ってた家だったから養子にしたんじゃないか?
ケ芝もケ禹の子孫らしいが劉備に仕えたのはこの縁ではないかと 功臣表が残らない後漢では初期の羅侯と末期の羅侯が同じ氏かどうか分からないよ
魏書の武帝紀に出てくる合肥侯は記録は無いが堅鐔の子孫じゃなく劉氏じゃないか 張翼も張良の子孫で漢の三公の家柄だし蜀も何気に家柄いいのが集まってるんだよな そうだなー だからこそ旧勢力の漢の復活を期待したのかも 昔どっかで見ただけだからソースも探せないしそもそも中国人は先祖を捏造することが多いから(日本人もだが)
ただ三公は本当だからそれなりにいい家柄のはず >>154
後漢書に書いてあるよ
まー怪しいのは同意だけど
>>155
あまり得したとは言えない
劉備に従った荊州の名家、有力豪族は土地を失ったり一族離散したりしてる
益州の豪族は荊州から来た連中に抑えられて全体的にはあまり良い目見てない >>159
どっちでも大勢に影響は無いんじゃない?
どっちにしろ後漢の功臣の末裔で荊州の豪族で母方が劉氏だったということに変わりはない どっちが本当と言われてもタイムマシン使って見にいくでもしなきゃ判明しないな >>160
漢の功臣って、宴席一門より厚遇されてたりするの? この一族は、漢民族だから、今の中国人どもに美化されてんだよ 劉永は、董允死後台頭してきた黄皓を遠ざけるように劉禅に言上して、
逆に劉禅の怒りを買って以後十数年謁見が許されなかったんだよね。
皇弟ですらこうなってしまうんだから、
諸葛瞻・董厥あたりの末期内政トップ連中がいくら黄皓を嫌っていても、
実際にそれを除く方向に動けなかったのも仕方ないか。 劉備の面影があったらしく、呉懿(伯父)、魏延、王平あたりはみな劉永を慕ってたそうだな。
三国志を扱ってる本によっちゃ、著者が「劉備の血はみな劉永にいってしまった」と書いてたりもする。
劉禅としちゃ、どうしてもコンプレックスが拭えない、出来の良すぎる弟だったんじゃないかね。 劉備の威風があったら、居候されてるものにとってはさぞかし迷惑だっただろうなぁ