【劉封】劉備の息子達【劉禅・劉永】
そういえば、晋王朝では蜀出身者は軽視され冷遇されていたという話を読んだが、
能天気な劉禅を諌めた郤正の逸話もそこへいきつく流れのものなんだろうな。
その後の侮辱的なエピソードも、信じるとすればそういう形で公然と笑いものにしていたのだろう。
劉禅がどこまで危機感を覚えていたか・計算していたかは解らないが。
しかし、信じるとすれば、郤正は司馬昭らに与していたことになってしまうのだが…。 よく三国志知らんのだけど、きょういって正史だとそんなに頼りないのか? 頼りにならないって言うより、むしろ頼りすぎたと言うか、
姜維に頼らざるを得なかった代わりに、姜維の暴走に歯止めを掛けられなかったって感じかな 俺もそこまで詳しいわけではないが、正史の生姜繊維は国力を考えずに北伐を行い、国をぼろぼろにしている
要は軍事と政治がばらばらになっていたわけだ
戦争はあくまで政治、交渉の一手段に過ぎないことを考えるとこれはまずい
こうなった理由としては、姜維が魏からの降将であることが挙げられる
当時の中国では出身地が重要で同郷の人で集まった派閥が形成されたんだが、
蜀の政権には姜維の同郷の派閥がない、つまり政治的な後ろ盾が何もなかった
政治力がない一方で漢中の軍事力を姜維は握っていたわけで
成都の政権組と漢中の軍事組の乖離が起こり、結果主導権争い(黄皓の行為もこの一部なんだろう)
結果、魏がこいつら雑魚じゃねwwwwwとか言って攻めてきて、蜀は滅びましたとさ
姜維が全部悪いわけではないが、責任はあるよね
間違い、勘違い等あるかもしれないけど、俺の理解だとこんな感じ >>292
姜維と一緒に蜀に降った連中はみんな九卿まで昇進してるのに、
同郷の派閥がないと言うのか? そういや郭沖も西平出身の左将軍だったな。
重なる北伐とそれ以前の流入で涼州の人材を吸収していたわけか。
すると、かれらが「涼州奪還」としての北伐を推進するということはありえそうだ。
蜀の涼州閥ってのを見直さないといかんなあ。 いわれてみればそうか
つまり、姜維の行動はますます問題あり、と
つーか、軍事力もってて政治を省みず暴れるのは不味すぎる
どこぞのテロ国家とどっこいだ
何で姜維の評判、悪くないんだよ
軍権握って実際に暴れまわった魏延としか評価できんぞ 戦争は外交の一手段だとかテロ国家だとか、
近代思想用語に振り回されてるレスに説明するのは難しいな…
だが、>>292>>295のような点においては別に評価高くないだろ。
普通に批判されてる。
涼州閥で思い出したが、姜維の行動範囲を見てみると、
魏の防備が固められて秦嶺山脈を突破するのが不可能になっている代わりに、
祁山を経由して狄道辺りまで進出してるんだよね。
大体渭水を攻防ラインにして、その南岸にはかなりの影響力・支配力を持っていた
ように見えるな。 >>296
なるほど、おっしゃるとおり
確かに近代の思想と当時の考えをごっちゃにしてるね、ごめん
とはいえそこまで詳しく知らないんだよなー
言い訳しているあたり、さらにかっこ悪くはあるんだが
しかし涼州派閥がどの程度の力があったのかは興味あるな
内外に対してどの程度の影響力を持っていたのやら
…あれ? なんかスレ違いっぽくない? >>292
おまえはまず普通に姜維と書くところから始めた方がいいよ
痛くて見てらんない スレの題目から話題がずれてるな
あと>298はずいぶん余裕がないように感じた
余計なお世話かもしれないが、もう幾分か心を広くもつことを勧める みんな ・ ・ ・
僕たちのことも思い出してよ もういっそ僕たちは外様かい? 三国志[では劉禅だけが全能。老子によると無能は全智全能らしい。 つまり遊び人だけが悟りの書無しで賢者になれるというわけか 能動的に悪事をした訳では無いのに、酷い評価だよな劉禅。
伊藤誠の祖先か? 中国人は未だにアホウのことを安斗っていうのかな。
まぁ、ピッタリといえばピッタリだなぁ… 日本人だって未だに真田幸村の方が本名より知名度が高い事考えたら納得出来る >>301
全智全能なら無能にならないし、そんなことは老子は説いてない。 >>304
お目付け役の董允が生きてる間は悪いこと出来なかっただけ
董允死んだら黄皓重用して政治は黄皓の言いなり
その上自分は遊覧ばっかりして宮中の女や楽団増やしまくって遊んでるんだから無能でしょ 降伏後、旧臣に恨まれても政治的野心を持たなかったというのは
よほど立場を弁えているか天然かのどちらかでなければ出来ないこと。
半端に野心や責任感を持ち合わせた凡人なら旧臣の傍迷惑な忠義や
蜀残党を滅ぼしたい政権側の罠に乗っちゃって、政治活動を始めて
九族皆殺しの粛清されちゃうところ。 蜀書記述少ないもんな
劉禅の上にも兄弟いっぱいいたと思うけど全然載ってない
○○がいたけどこれこれで死んだぐらいあっていいと思うんだけど なお、『晋書』「李密伝」で元蜀の臣下でもある李密は、名臣を信じて成功し、
奸臣を信じて失敗した事を例に出し、劉禅を「斉の桓公に次ぐ」と述べている。
これに従えば、劉禅の配下が管仲に及ばなかったか魏に管仲以上の人物がいたか
蜀も魏も管仲以下のレベルで争って蜀が力負けしたかのどれかかね
諸葛亮時代は前者、姜維北伐は後者ってとこか >>312それって斉の桓公を過小評価しすぎだと思う
確かに晩年はいただけないが、自分を殺そうとした管仲を許し、その男に改革を任す度量、
自身で軍を率いて諸国の軍を破って行った軍事力、そのどれもが劉禅には無いものばかりだ
劉禅は桓公の足元にも及ばないだろう
自身は遊びほおけてたが名宰相晏嬰のおかげで国を保つことができた斉の景公と
同等ぐらいが劉禅の評価としては妥当じゃないだろうか
晏嬰の死後、田氏を重用して国を乗っ取られるもとをつくったあたりも
黄皓を重用して国を滅ぼした劉禅と似ている 可惜蜀漢
五虎上將,臥龍鳳雏依然得不了天下
仁政在中國果然行不通啊 もし劉封が生きていて劉禅の変わりに君子になっていたら? >>317
まず十中八九内乱が起きる。
【劉封派】・劉備の遺命なら忠実に守る派
・劉封の経験や実力を買っている派
【劉禅派】・「劉」の血縁こそ大義派
・幼く経験の無い劉禅の方が扱い易い、取り入り易い派
その争いに勝ったとしても、諸葛亮の派閥の中でどれだけ発言力を維持できるか。
維持できたとして、諸葛亮より良い結果が出せたかは微妙なところだろう。
諸葛亮死後に、姜維の北伐病を押しとどめつつ費イの暗殺を防ぎ、宦官の悪政をバンバン裁き
すり減った国力の回復すると同時に、最悪の外交状態を修正という
スーパーアクロバッティックを成し遂げたらもっと蜀は長持ちしただろうけど。
劉協にもっと優秀な兄がいて、そっちが帝になってたら漢(魏)が三国を統一できたか?
っていうのとあんまり変わらないと思う。
>>318
劉封の年齢だと姜維北伐前に死んでるんじゃないの?
それに劉封が継いでも孔明は宰相だったろうし、北伐が親征になるくらいじゃない? 異姓不養というタブー中のタブー(まあ曹操によって一時的に禁が解かれてた時代ではあるが)に抵触する存在だからねぇ。 そんなに強いタブーではない
類例はちらほら見られる >>304
能動的に悪事をした → ポッポ
劉禅はむしろ無能無気力の管に近いと思われ。
劉封の隠された事項
劉封は劉備の実子で、母は後漢28将の寇恂の末裔の寇氏(諱は不詳、『吉川三国志』では「芙蓉姫」、
後に「鴻」に改姓した)であること
諸葛亮の陰謀で、劉封は「嫡長子」→「実子」→「養子」と廃嫡から降格に改竄・捏造され、
陳寿がそのまま「劉備の養子」と記したこと
『蜀書』劉封伝にある「封は長沙郡の劉氏の甥で羅侯の寇氏の子」のからくりとは…
「長沙郡の劉氏の甥」→後漢王朝→臨邑侯→劉備の生家→劉備の実子(『典略』、(『後漢書』斉武王?伝)
「羅侯」→後漢28将のケ禹の末子の護羌校尉・ケ訓の系統→爵位は羅侯(現在の湖南省岳陽市汨羅県、長沙市の北方)→劉封の妻がケ氏であること(『後漢書』ケ禹伝)
「寇氏の子」→後漢28将の寇恂の末裔→寇氏は上谷郡昌平県の豪族→劉備の故郷に近い→劉封の母の実家となること(『後漢書』寇恂伝)
ケ芝が劉封の縁戚関係で劉封の妻がケ芝の従妹あるいは従姪であること、
(劉備の子とされる)安平悼王・劉理が劉封の実子でケ芝の「外従子」または「外従孫」であること
劉封の諡号が母の姓にちなんだ「寇太子」または「鴻太子」であること(前漢の景帝の長男の劉栄の「栗太子」「臨江閔王」、
後漢の光武帝の長男の劉彊(強)の「郭太子」「東海恭王」と同様である)
冷遇された彭?ら一部の益州軍閥の反乱の未遂事変の真相は、老いた劉備に代わって、劉封の擁立を目論んだこと
劉封の最大の支持・理解者は法正・魏延であること
北伐で魏延が諸葛亮・李厳(李平)・劉?・楊儀らと衝突したのは、劉封の死と大いに関係があること
字は「公仲」「公然」と伝わること 爵位は「甘陵王」(『蜀書』劉永伝では劉永の爵位)と伝わること
(230年に子の劉琳が「甘陵王」に封じられたことから始まるという)
王としての諡号が「脂、」と伝わること(すなわち「甘陵脂、」)
子の劉琳は劉備が漢の帝位に即くとはじめは「臨邑侯」に封じられたこと
劉封は劉備の実子で、しかも嫡長子である可能性が濃厚である。
諸葛亮の陰謀で「養子」として改竄された可能性が高い。
同時に劉封は「長沙郡」の出身ではなく、実父とする劉備と同じ「?郡?県」の出身の可能性が高い。 劉備の遺言どうり、孔明は、何故、帝位に付かなかったか? あれは即位していいよ、とは誘っているが実際はさせない釘みたいなもの。そして諸葛亮への協力だ。
幾ら諸葛亮が法家よりの人間でも、もう漢代の倫理感は儒家に染まりつつあった訳だから、そのモラルに逆らう事は難しいし逆らっても蜀の国家運営は困難だった。
言うまでもなく初期蜀政権とは劉備のカリスマ性に求心力を大きく依存した政権だったからだ。
諸葛亮の権力基盤も劉備の信任篤い臣下としてのものでしかないから、劉備が居なくなれば頗る脆弱なもので、だからこそ劉備没後は漢朝復興を大きく掲げた国家方針を立てなくてはならなかった。
また劉備も諸葛亮の性格や方針も見抜いていたから、実際には即位などしない事も解った上で他の遺臣達に諸葛亮を信頼している事をああ言ってアピールし
自らの没後に諸葛亮が政権運営しやすい様に最後の支援をしてやったと見るべき。 リュウゼンって、本当に劉備の子ですか?
豊臣父子のような嫌疑をあまり聞かないけど、不自然だよね。
劉備、奥さんいっぱいいるのに50くらいで第一子なんて。 流浪の身だから子を残せなかったのか、種無しだったのか >>327
小沛で高順に城落とされた時に妻子が捕まったという記述がある。
あと長坂の戦いでの逃亡中に娘が曹操軍に捕まっている。 娘どういう扱いうけたんだろ
官妓とかにされたのかな 娘二人は、長坂の戦いでの逃亡のときにつかまってころされているよ http://bibirion.com/up/bnf/1317.jpg
http://cisburger.com/up/bnf/592.jpg
資産3億→実際は1億割れの資産
時給1000万→現実にありえない。本当にそうならとっくにBNF超えてる
明治商学部→実際は夜間2部なのに意図的に1部に見せかけるため2部と申告しない
CFDの説明で株の信用取引よりリスクが低いとリスク説明→ありえない、株の信用取引は最大でレバ3倍までしかかけられない
2chで名無しで特定コテに粘着して荒らし行為
名誉毀損、営業妨害で訴えるなどの脅迫行為(三空はコテに対して日常的に名誉毀損を行っている)
>>327
劉禅は正室甘夫人が初めて生んだ子なので第一嫡子扱い 劉備の近い血縁を見るに劉備のほうがのんびりした一族のなかでは突然変異だったというべき
ただし劉一族は人からは好かれるようだ >>327
甘皇后伝に、「劉備はたびたび正室を失った」と書いてあるから、
放浪している中で子供も何人か死んでるんだろう
何度も妻子が敵につかまってるし 劉禅って非武装宣言して無血開城、無駄な被害は出しませんってスタイルでしょ?
関東軍の満州撤退時みたいに、非武装宣言しても虐殺、略奪、強姦みたいなのはないみたいだし
反戦平和主義者から見たらどういう評価なのかな? >>334
成都という環境も悪すぎた
首都と前線とじゃ、あまりにも意識の差が違いすぎる 劉ェは自害するくらいなら魏軍相手に討ち死にするべきだった
さもなければ親父と一緒に降伏するか 兵をひきいた経験や実戦経験ないなら無理じゃねたとえ自分がしたくても
経験あったかどうかは無知な俺にはわからんが やはり経営者は戦場の真っただ中に身を置いてこそ成立するものだ
安全な場所で都合のいい話ししか伝えられずにいるからこういうことになる 昔からよく劉禅は叩かれるけど
凡君の器はあったと思う
西晋の恵帝の方がよほど暗君 蜀は劉備のカリスマ性と孔明の辣腕でなんとか保ってた国で、
これを魏相手に保持するのは二代目としたらあまりに条件が悪い。
しかし、親らの遺産を食いつぶした形になったとはいえ、40年も国を保持し、
しかも国を荒れさせることなく魏に降伏し、天寿を全うしたんだから、有能じゃないにしても無能でもない。
君主として中くらいのレベルを下回ることはないレベルだろ。 まぁ北宋や明の安定期みたいな状況での在位なら、名君ならずともマッタリした凡君で済んだろうが
如何せん理由はどうあれ、亡国の君になってしまったからどうしても悪く言われてしまうわな。
まして後世の演義人気で更に評価は悪くなる。武侯祠の塑像すら存在を許され無いって辺りは流石に酷い気はするけど。 劉禅が優秀だとは思わないが、
歴代中国皇帝の大量の有害な君主どもみてたら
諸葛亮存命中は特に問題起こらなかっただけでもマシな方だと思う。
少なくとも霊廟を作るたびに人民にぶち壊されるほどひどかったとは思わん。 明らかに武侯祠の劉禅の塑像の破壊は明代に入って特に度々されだし、しまいには官吏までが破壊の許しを与えた事例があるので
演義の影響が顕著でないかと思う。
ほぼ同時期に定軍山の諸葛亮の墓の治定(明代までに既に墓の正確な位置は分からなくなっていた)が風水師を呼んでなされ、明の地方官吏がそこに墓碑を誌しているので
これらの現象も演義の普及が民間まで及び、諸葛亮人気が高まったのが影響していると考えられる。
後に清代に入ってまた別の箇所に諸葛亮の墓があるとされたので、現在定軍山には二カ所諸葛亮の墓碑が存在する。 蜀の劉禅や陳の陳叔宝は暗君と言われているけど、
乱世において無事に天寿を全うしたという意味では勝ち組なのかもな。
つか劉禅は敢えて司馬昭の前で暗愚の振りをしているように思える。
逆に伏見城で家康に会った秀頼は「こいつは優秀だ」と思われてしまったがゆえに・・・ そうなると劉禅は生まれながらの皇子やら安定期の王朝の皇族程ではないが、比較的優遇された生活だったのに結構世故に長けた所があったんだな。
勿論、本人はそこまでの認識や知恵は無くても郤正辺りの入れ知恵で端から打ち合わせ通りの芝居をしただったかも知れないが。 >>348
実際には、秀頼がアホでもバカでも結果は同じだったと思うけどね。
清正が家康より長生きしてれば話は別だったかもだけど >>350
清正は自分のお家守るので精一杯だったよ。 司馬昭「蜀を思い出されることでござろうな」
劉禅「ここの暮らしは楽しいので蜀を思い出すことはありませぬ」
司馬昭「・・・」 中国の有名な暗君
幽王-西周最期の君主。寵妃である褒姒を笑わせるために、諸侯の軍を参集させる烽火を乱用。
結果、本当に異民族の侵攻があったにも関わらず誰も助けに来なくなると言うイソップ童話を字で行く逸話を残す。
劉禅-蜀漢最後の君主。その幼名「阿斗」が中国ではどうしようもない人物を指す言葉になるほどの人気のなさ。
日本においては「在位40年は歴代皇帝トップクラス」「そもそも蜀は無理ゲー」と言う評価が強く、
彼の記事を見ても分かる様にその評価をどうするか考えることは三国志ファンが必ず通る道である。
恵帝-西晋の二代目。あの司馬懿の子孫で司馬炎の息子とは思えないほどの超絶暗君。
マリーアントワネットより千五百年前に「穀物がないのならば肉粥を食べればいいではないか」
と言う言葉を吐いたと言う。西晋が短命王朝で終わったことや、
異民族時代である五胡十六国時代の遠因となった人物。
蕭宝巻-南朝斉の第6代皇帝。内向的性格で、幼馴染の寵妃のために無茶苦茶な後宮工事を施す。
反乱のさなか、衛兵に殺害され首を蝋で固められて反乱勢力の手土産にされると言う屈辱的な最期を迎える。
死後、諸侯に落とされ「愚かな東の侯」という意味で東昏侯の号を与えられた。
後主(高緯)-北朝北斉の第5代皇帝。奸臣を近づけ忠臣を退けた典型的な暗君。
次々に国土を失う中にあっても「まだ一生遊ぶには十分な国土がある」と言う奸臣の甘言(?)に納得してしまい、
結果自分も含めた一族皆殺しの結果を招く。
後主(陳叔宝)-南朝陳の最期の皇帝。隋軍に宮廷を包囲された際も逃げ隠れするなどの醜態をさらす。
亡国を招いたことやその過程で妃が殺されたにも関わらず、何ら恥じる様子もなく連行先の長安で楊堅に仕えた。
あまりの情けなさに殺されることもなく天寿を全うすることができたと言う。 中国だと蜀漢は伝説で、後世の中央を追われた知識人、権力者の希望だからなぁ
時代を経るほど、それを「潰した」劉禅は嫌われる
即座には潰されないタイミングで建国した劉備は流石だけど、最初からカウントダウン状態でもあったのにw 劉禅は名君でも良君でもないけど
暗君・昏君というほどでもない
けれど、なぜか中国史上最悪の昏君扱いされてるんだよなあ
酷いのになると、精神障害患ってたんだなんて訳の分からない叩きが平気でまかり通っていたりする だよな、むしろ劉禅から百年経たないのちの時代の南北朝のヒャッハーな皇帝や
明中期にかけての皇帝に較べたら、劉禅は大人しい位。
ヒャッハーは暴君だから劉禅とはベクトル違うかもしれないが、明の暗君オンパレードの歴史を見れば
「もしかしたら劉禅よりダメだコイツ…何とかしなくちゃ」な気分になる事請け合い。 暴君では有り得んし、ラストも自分の責任で決断したんだよな
追い詰められたあの状況でこの決断をして殺されたりするでもないところを見ると、
ああ見えてそれなりに国内、宮内を掌握してたんじゃ?という気もする 劉禅はまかり間違っても名君・良君に分類はできないんだよな
晩年に黄皓の専横を許したのは否定できんし、そもそも主体的に国政を導いた訳でもないし
でも、暗君と呼べるほど何かをやらかした訳でもないし
正直、蜀漢の幕を引かなければここまで悪し様に言われなかったと思う
そう考えると、運が悪かった、というのが劉禅の評価に相応しいのかもしれん >>359
劉禅何気にすごくね?
平時ならまだしも乱世において曲がりなりにも在位40年だぞ
万暦帝などとは訳が違う 在位年数はよく言われるが相手があることだから単純な比較は出来ないと思うの。 普通に常時ピンチだけど、劉禅が何かをやって切り抜けたというわけでもないな
うーんw 魏が司馬氏による内乱でゴタゴタしてなかったら、蜀はもっと早く滅ぼされてただろうしねぇ。
でも劉禅って加点材料もほぼ無いけど減点材料もそんなに無いよな。黄皓問題はむしろ姜維がアカン。 姜維も気の毒だぞ
諸葛亮だけじゃなく、費イもショウエンも董允も…という状況で、軍事だけで一杯一杯
それで不向きな政争まで…というのはw
結局、蜀の国力の問題かね
人材も足りん 姜維が「軍事のみにかまけて黄皓の専横を許した」云々という言われ方は辛すぎるわなぁ 姜維が軍権握った頃には完全に詰んでいるしなあ
それにしても政争が下手すぎる気がせんでもないけど
軍事力を背景に失脚を回避しつつ北伐、という突っ込みどころ満載の状況なわけだし >>362
それに対する感想は天嶮の国って凄いんだなぁと >>362ぶっちゃけ諸葛亮と、諸葛亮が残した後継者の二人のおかげだよなあと思う 涼州でひっそりと建国して
在位30年で滅亡した宋建なんていう例もあるしなあ 蜀漢は漢の正統を名乗ってたわけで、思いっ切り喧嘩を売りながらの建国だからなー
あれ以上の放置も望み薄か >>367
姜維は大将軍・録尚書事で軍事と政治のトップとしての責任がある。
加えて軍事は政治の手段に過ぎないのに、政治を顧みず軍事に暴走していたんだから批判されて当然。 諸葛亮の息子も黄皓と協力して姜維と対立してたんだっけ? そうそう
時期的に姜維の行動は突っ込みどころ満載だから、
変な行動ではないんだけどね 姜維はそれなりに若いうちに蜀に付いたとはいえ、どうしても基盤が弱いからな。
能力があっても足元を突かれるとキツい。
せめて劉備が生きてる内に降っていれば…。 劉備が生きてる内って、姜維はまだ10代の少年なんですが… しお焼のりニンニク乗客贅肉ポイ捨てゴムエアラインメジャーラス糖尿関西京スラム規定野球へアスケロンとるこイラン飲会インドフレ英とんこつニューヨーク骨折森林交際爆竹味flashマックさいむらアリナミン胡麻バブル法香CDラーメン
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劉禅とその国土の人間がどれだけ血を流してきたかも本人としてはわかっている。
その上で劉禅はそれら流れた血刃を全てとめられる方法は、自らの振る舞いをもって
魏の人間に知らしめる苦悩を日々苛んでいたと思う。決して、悠々楽をおぼんでいたのではないと思うが。 見方をすれば、魏からの入れ知恵もあっただろうが 漢の歴史の業を止めたのは
彼以外にできなかったと 言える。 その後の反乱も おしとどめられた理由は
暗愚の笠を被れば、劉の機転を自らが封じたと言えなくもない。
その証拠に劉禅以後の劉氏に有名な人物が現れていない。
しかし、劉氏は在する所 優れていたから台当しなかったのではないか?
それだけ機知に優れていたと >その証拠に劉禅以後の劉氏に有名な人物が現れていない。
三国志しか知らないと、こんな恥ずかしいことを平気で言えるんだな >>380の内容を見て、劉裕さんや劉淵さんがいきり立ち
劉基さんが主君の朱重八さんに>>380を凌遅三千刀にすべく策を練り始めました。 トンデモサイトの不完全コピペにマジレスしてやる優しい人達 暴君は才がないとならないからな。
劉禅の才は劉璋くらいか >>377
その突っ込み方は伊達政宗が○○年早く生まれていれば・・・
に通じるな(苦笑)
多分そういう意味合いじゃないと思うがw 項羽&劉邦と三国志の中間、漢代の歴史や王莽や光武帝のことって、歴史書や文献みたいな硬い本ばっかりで
司馬遼太郎や吉川英二みたいな読み物になってるやつないのかね?
ウィキペディアなんかもこの時代のことは特段思想がかって変な改変入れられることもないし、出来事と人物だけは追えるが味気ない。 宮城谷の「草原の風」は?
読んだことないけど劉秀が主人公だったはず