昭和40年代を思い出そう【50年代までOK牧場】★Part21
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皆さんのご希望により、50年代までOK牧場となりました。
※前スレ
昭和40年代を思い出そう★Part20
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/cafe50/1629170500/l50 >>17
買った初日に電線に引っかかって泣いて帰った 昭和40年代は、電柱や電線が多くて低くて、ほんと凧を飛ばしにくかったな。
引っ掛かると感電しそうで怖かったな。 テレビはブラウン管が当たり前の時代。
あと、よく放送が中断することがあった。
砂塵っていうんだっけ・・ザザーってなって結構な時間続いたな。 テレビの走査線(?)が暴れ出して、ツマミを色々弄くっても
止まらない時は、テレビの上をチョップするとピタッと止まったりした。 でレビのチャンネルのダイヤルを回していて、強く回し過ぎてダイヤルが外れた時は
一大事だったな、夜も寝れないくらい家族は大騒ぎだったな。 >>27
それ、オバQのまんがのひとコマにあったのを(正太のママ)
刷り込まれているんじゃない?
上チョップでなくても横ドンドンとかでも直ったりした 小学低学年までは白黒テレビだった。
カラーテレビが家にやってきたときは大騒ぎだったな。
近所の子供までプロ野球中継を見に来てたな(笑) 貧乏な家とか、壁はトタンだけで電気は裸電球とか普通にあったな。
今のホームレスよりはいい生活なのだろうけどな。
あと普通の家でも雨漏りしない家の方が珍しかったな。
40年代。 40年代はみんな貧乏だったな。
金持ちが珍しかったな。
みんな下向いて歩いていた。金落ちてないか目を皿のようにして歩いてたかな(笑) >>34
俺は自慢じゃないが、子供の頃に下向いて歩いてて10万円は拾ったぞ。
注意して歩いていたらに聖徳太子や伊藤博文が平気で落ちていたな。
大したもんやろう? >>36
1番左の列前から3番目はつのだじろう巨匠? 若い頃の失業中に、国鉄の線路脇で20万円の入ったハンドバックを見つけた。
雨風にさらされて汚らしいので誰にも見向きされなかったのだろう。
ネコババする気満々だったけど、家に持って帰ってから
昼寝でもしようと横になってしばらくしたら、
「俺はいったい何を考えているんだ?」と正気に戻った。 小学生の時 物凄い臭いオナラを授業中教室でしてしまいました。
所謂 透かしっ屁 ‥ 隣と後ろの人が 臭っさ!と言い放った。 私は顔が真っ赤に
なった。 屁え こいた? と隣の人が ‥ うん としか言えなかった …
其の後の事はご想像にお任せします。
後ろの人は笑っていた ((´∀`))ケラケラ そう言えば、昭和40年代には当然のようにあった、小学校前の文房具屋兼駄菓子屋兼おもちゃ屋って
最近無いようだね。
ドラッグストアーやら違うお店で学校の物でも買うようになっているようだ。
なんか変わったね。
親に負担を強いるような、そんな時代になってきた。 >>44
価格競争のない時代(文具などどこでも定価)だったから、そんな店で買っても安くなかったと思う。
おれの出身小では、学校全体の校則だか担任が決めたことだか知らないが、学校に集金外のお金をもってこないように言われていたし、それに付随してその店も利用しないよう言われていた。
自分は、忘れ物常習のだらしない子や決まりを破って寄り道や買い食いをする子を餌食にする悪徳ババアの店という認識で、常連の素行の悪い上級生に絡まれそうな気もして、行ったこともないし、店も出入りする子も軽蔑していた。
親からも商店街のちゃんとした店(商工会スタンプやってるような)で買いなさいという躾はあったような。 子供の頃って戦争ごっこてよくやらなかった?
昭和40年代はベトナム戦争真っただ中、その影響だったんだろうな。 銀玉鉄砲、好きだったな、撃ち合いしたりサバゲ―のはしりかな。 小型テレビは必ず赤
横にはチャンネル回しようペンチ テレビのチャンネルのダイヤルって外れやすかったよな。
その前にチャンネル争いが凄かったが、父親の鶴の一声だったな。
ニュースかプロ野球中継(巨人)だったな、姉がドラマを見たがってた。
俺は仮面ライダーやワイルドセブンとかウルトラマンだな。定番だな。 白黒テレビで親父が巨人戦をよく観ていた
子供の俺は全く興味がなかった
たぶんその頃は、長嶋が大活躍していたのだろうな
今なら食い入るように観戦するのにね
惜しいことをした 家庭にあるテレビの台数がステイタス。うちは親父が好きで3台w チャンネル接触不良になるから、紙はさんで斜めにしてた >>44
自分のお小遣いの範囲内で自分で判断して
必要なものを買うというのが楽しかったのにね。 >>59
当時はおじいさんおばあさんみたいな人がやってて、今思うと50代だろうけど
割と気さくにいろいろ話しやすかった記憶があるな。
ノートとか分度器とか三角定規とかものさしとかコンパスとか買ってたんだが、普通に学校からも認められたお店だったな。
懐かしいが、今は無くなってる。 小学生の時に習字道具を学校指定のを買わずに文房具屋さん
店頭の物を購入しました。皆は感じが違う習字道具に興味津々だった‥ そういや墓石みたいな墨磨ることから始めたな、書道
墨汁でいいのに >>44
工作の材料買い忘れたって泣きついて
朝から開けてもらったりとかしたやついた >>63
「硯をすりながら精神統一するのが書道!
墨汁は邪道」みたいな空気があった 墨汁使うより、硯の墨を使った方が安上がりだから、擦っていたんじゃないかな。
みんなボンビーだったしな、あの頃は。 >>51
チャンネルは必ずプラステックなので軸の鉄の棒で軸がすり減って空回りするようになってペンチで鉄の棒を挟んでチャンネルを変えるようになる 近所で田んぼの埋め立てに使う土を造船所近くの海底から持ってきてて、鉄が混じってたんだよね
父親と一緒に鉄集めして、鉄屋に売りに行ってたな。
大体1kg20〜50円位でお小遣いになっていたな。
20kgで400円〜1000円か、当時はそれでもありがたかったな。
百円玉じゃなくて当時は100円札が主じゃなかったかな。 >>69
どんだけ年寄りなんだ。
85歳くらいか? >>70
昭和40年代だが、都会だとあり得ないかな?
少し郊外へ行けばざらにあった光景。
土砂運ぶダンプの兄ちゃんも拾ってたな。
100円札だって、40年代まで作られていたよ。
42年から100円玉が作られるようになった。 >>72
私は還暦チョイですが、百円札は昭和45年くらいまで硬貨と併用されてましたね
稲穂の100円玉は昭和44年くらいまで混在してました
鳳凰の100円玉を最後に見たのは昭和42年でした
菊の50円玉は昭和45年にも使われてましたが万博くらいが境目で見なくなりました
あとは旧500円札を最後に手にしたのは昭和48年、
以上名古屋市(S43.3まで)と岐阜市(S43.4〜)の話です 1円の下の位の単位は銭なのはわかるが
100銭で1円であってるか? 認知ですか・・・。
銭wikiで検索したので>>78が正解です。 >>78
アホ。銭=1000だ。
1円=1000銭 東京オリンピック記念の100円玉って大量に出回ってたけど、
昭和45年くらいまでは普通に使ってたよ。
おつかいで夕方に肉屋さんにコロッケとかハムカツ買いに行くときも
自分で何度か払っていたのを覚えてる。 最近の記念硬貨って売値が額面より高いから使うと損するんだよな >>55
親父がキックボクシングが好きでYKKアワーキックボクシング中継を一緒に見ていた
アニメキックの鬼はあまりお気に召さなかったようで「マンガじゃねえか」と吐き捨てるように言ってた 新日本プロレス、ワールドプロレス見て他かな。
50年代だっけ? >>81
昭和45年あたりなら、コロッケが10円とかだったな。 昭和40年代前半なら100円は子供にとって大金だった
1日30円が小遣いでやりくりしていた もの凄く高額紙幣だった100円札、滅多にお目にかかれない聖徳太子だったかな。
百円札普通に使ってたよな。
なつい。 昔、川崎市の登戸に30円コロッケあったけど未だに20円は安いね 1979ころ、登戸の改札で若い駅員が
「はい銀座の方」→男止まらない→「はい銀座の方!」→男逃げる
→「銀座の男!この野郎!」と怒鳴っていた
銀座の営団地下鉄切符の男は最低金額の60円券面で
登戸まで乗ってきて、ごった返す改札を突破したのであった
近くにいた中高年男性が駅員に「おい、言葉悪いな」と話しかけたら
駅員は「そりゃそうですよ」と。
俺は若い俺くらいの駅員に親近感を持った。
この正義感と電鉄会社への帰属意識、言葉は悪いが立派だと思った。
当時は目視で大量に降りて来る乗客の切符を確認して回収しながら
定期券も目視チェックするという、大変な職務で、ワンマン作業だから
不正の男を場を離れて追いかけることもできないのである。
俺は大学三年生で向ヶ丘の「遊園」というパチンコ屋で負けて
登戸の「プラザ」というパチンコ屋に行こうとしていた。 子供の頃 叔父さんが阪神タイガースの事を大阪タイガースや
とお喋りしてました。へぇ〜そうなんやぁ と不思議そうに応えた
事を憶えています… 子供心に なんや知らんけど… 私は親しい間柄の方だけ知らんけどを使います。不快でしたら申し訳ありません。 大阪でわざと道案内をおばちゃんに頼んだことがあったがやっぱり・・・
ここをブワーッとまっすぐ行って、次の次の角をクイッと曲がるやん
↑こんな調子だったw 昭和40年代は、そこらの道端にウンコが落ちてたな。
何のウンコだったんだろう。 ウンコ踏んだら、一週間くらいえんがちょだったな。
それくらいあちこちに落ちてたな(笑) 俺の県では人差し指と中指を交差させて「鍵飲んだ」と言いながら、その指を飲む真似をしました
これ分かった人は俺と同県だな
俺の県でしか使わない言葉が沢山あって、東京で色々恥かいた 意に反してショックなことが起こった時に「ガーン」と言っていた
男は多数、女も一定数 関東、東京神奈川S53-55ころ
今は全く聞かない イマイチという言葉を初めて聞いたのがS55ころ、
今でも聞くことがある
ヤクい、という言葉はS50年代後半でほぼ死滅
女子の「〜だわよ」「〜でなくってよ」「〜しようかしら」などは
S60代に低年齢では衰退し、オバサン以上しか聞かれなくなった
ざますおばさんはS60代までいた
「ざます」は木佐くんママやスネ夫ママのような、そこを強調した言い方とは
全く違い、「〜で(ご)ざーますのよ」などと、上品なオバサンがよく使ってた
「ご」を無音化して柔らかく流れるように話すのが特徴であった
一等(いちばん)、は今では死語化しているが、S50-60代で
生粋系の人からたまに聞かれた
アイドル歌手の浅香唯が電子機器CMで声高に使っていたが、
その頃に一時息を吹き返した
なお、今でも光村図書の中3国語「握手」(井上ひさし)では、冒頭に
ルロイ修道士の「一等悲しい時は・・・」というセリフがある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています