飯田篤郎(いいだ あつお)は大阪生まれで、ヤミ屋や大阪地裁の書記官などの職を転々としていたが、
1965年に大阪で従業員5人と小さな鉄工所を経営するようになった。

もとから右翼的な思想に傾倒していたという飯田は、鉄鋼書を経営する傍ら「まことむすび誠心会」という政治結社を作り、『誠心週報』という記事チラシを発行していた。
だが政治結社とは名ばかりで、党員は飯田ひとりであった。
事件の1年前、1984年に飯田の取引先の工場が倒産。そのあおりから、飯田の鉄工所も連鎖倒産してしまう。
一方の矢野正計(やの まさかず)は、大阪の工業高校を中退後、タクシーの運転手や暴力団組長の運転手などの職を転々とした後、
1980年から、飯田の鉄工所でダンプカーの運転手として働いていた。
だが「給料が安すぎる」と言い残して、2年弱で飯田とは袂を分かっている。その後、飯田と矢野に接点はない。

だが1985年6月15日に、なんの前触れも無く、飯田が矢野に電話で連絡をとる。そして、その3日後、飯田と矢野は永野を殺害するのである。
犯行時に飯田は「被害者6人から、もう金はいらんから、永野をぶっ殺せと頼まれてきたんや」
「これで死んどらんかったら、またやったる。87歳のボケ老人を騙し腐って、850万円もとった奴やからな、当然の報いじゃ」など、
かなり具体的な発言をしているが、裁判で具体的な依頼者などの情報は明らかになっていない。

だが、その後の調べで、5億円もの負債を抱えて倒産した飯田の鉄工所の負債が、事件後には6千万円にまで激減していたことが判明している。
さらに、飯田が主催する政治結社は、大阪市内の一等地にあるマンションに事務所を構えていた。会社が倒産し、ろくに仕事もない男が、どのようにして4億円以上もの負債を返済したのか?
なぜ一等地にマンションを構えることができたのか?
そのカラクリが明らかになれば、永野殺害事件の闇も見えてくるかもしれない。