「何校か都内の小学校にお願いして、5・6年生に『いちばん大切に思うこと』のアンケートを取った。そこから出てきた言葉が“友情・努力・勝利”です。ジャンプ創刊に当たって、はっきりとそれをキーワードにすえました。創刊のテーマのひとつに『少年誌を少年に取り戻そう』というのがありましたから。
当時の少年誌は劇画が増えて、読者の年齢層が上がっていたでしょう。そこでメイン読者層を小学校高学年から中学生としたんです」

 大学生になった団塊の世代に読まれていた「マガジン」「サンデー」に対し、はっきりと子どもをターゲットにした「ジャンプ」は小中学生に熱烈に支持された。

 苦肉の策だった新人起用も結果的にプラスに働いた。創刊当初、駆け出しだった永井豪と新人の本宮ひろ志がブレイクし、さらに他誌に先がけて「手恟ワ」「赤塚賞」という新人賞を始めたことで、従来見られなかった新しい才能が続々と「ジャンプ」に集まるようになっていく。

「○○先生の作品が読めるのはジャンプだけ!」
 本宮ひろ志を発掘したのは他ならぬ西村だった。ちょうど「ジャンプ」の創刊準備をしている時期、ボロボロの紙袋に原稿を入れて持ち込みにやって来た。やや意外な気もするが、当時の本宮はちばてつやにあこがれていたという。

「キャラクターはちばさんそっくりなんだけど、荒っぽい力のある絵だった。大きく開けた口の中にタテ線を描く。この手法は本宮さんの『男一匹ガキ大将』が元祖です。あの作品は子どもだけじゃなく、本宮さんと同世代である全共闘(団塊)世代の学生にも受けたんですよ。東大の安田講堂が陥落したとき、『ガキ大将』の総集編が何冊も落ちていたそうですから」