古典芸能大好きな羽佐間さんとは好みが違うなと思うわけね。
でも不思議なことにこのお二人の芝居のリズムに対する
センスって同じことを言ってるように感じるのね。
それが面白いのよ。羽佐間さんは古典芸能からリズムを
感じとって、若山弦蔵さんは福田恆存さんのハムレット演出から
リズムを感じとった。真逆のものからリズムを感じ取ってる
お2人が同じような芝居の間の話されてるわけね。
これなんでだろうって思うんだけど、おれは
福田恆存さんが「人間・この劇的なるもの」で言われてることが
関係あるように思うのね。つまり劇、お芝居って儀式は
生命の根源的な帰路に本来根ざすものだって考えね。
新劇とか旧劇とか放送劇団とか舞台劇団とかそういう
枠を超えて生命の根源的帰路としてのリズム、サイクルが
このお2人の芝居のリズム、センスにはあるんだと思うの。
羽佐間さんってのは画面の向こうの役者の心音、脈拍に
合わせるアテレコをされる方。心音ってのは生命のサイクルの
リズム。この方は古典芸能を単に芸の肥やしにされてるん
じゃなくて、古典芸能を演じられる人の脈動に繋がる
生命のサイクル的なリズム。これを本能的に、芝居の引き出しに
入れられてるように感じるのね。
だから福田恆存さんの言われる儀式としての劇が本来
持つべき生命の根源的帰路としてのリズムと同じリズムが
そこにあるように思うのね。古典からでも生命のリズムを
学ぶセンス。これがおれは羽佐間さんのセンスであり
若山弦蔵さんの間のセンスと似てるものをおれが
感じる理由じゃないかなと思うのね。