イスラム教とオウム真理教 [無断転載禁止]©2ch.net
共通点の多いと思われるこの2つの宗教を比較しましょう。 教祖サマの体液や老廃物はご利益があります。
オウム信徒が飲んでいた「麻原の残り湯」の値段は2万円也
〈週刊朝日〉(更新 2012/7/ 8 16:00)
https://dot.asahi.com/wa/2012092601450.html
『預言者の生涯』 第三巻 ヒジュラ暦六年の末に起きたアルフダイビヤでの出来事
http://ameblo.jp/ibn-ishaq/entry-11886483530.html
このときウルワは、使徒の教友たちが使徒にどのように接しているかを目にした。
使徒がウドゥー〔清め〕をするとき、彼の使用した後の水を彼らは取り合った。
また使徒がつばを吐くと、彼らはその場所に駆けつけて、彼のつばを取り合った。
使徒の髪の毛が落ちると、やはりその場に駆けつけて彼の髪の毛を取り合った。
ウルワは、そのような光景を目撃した後、使徒の前から立ち去った。 預言者ムハンマドが妻に対する夫の暴力を肯定する言説はクルアーン4章34節だけでなく、別れの巡礼でも行われている。
多神教徒の日本人は愚かなので、重要な説教でわざわざDVを肯定することに異常性を感じ取ってしまうが、
イスラム教徒にとってDVは神から与えられた権利なのであり、イスラム教徒のDVに理解を示すことが日本人の真の国際化である。
聖クルアーン 4. 婦人 (アン・ニサーア) 34節
http://www.way-to-allah.com/jp/quran/4.htm#34
男は女の擁護者(家長)である。それはアッラーが、一方を他よりも強くなされ、かれらが自分の財産から(扶養するため)、経費を出すためである。
それで貞節な女は従順に、アッラーの守護の下に(夫の)不在中を守る。
あなたがたが、不忠実、不行跡の心配のある女たちには諭し、それでもだめならこれを臥所に置き去りにし、それでも効きめがなければこれを打て。
それで言うことを聞くようならばかの女に対して(それ以上の)ことをしてはならない。本当にアッラーは極めて高く偉大であられる。
サヒーフ・ムスリム 巡礼の書 別離の巡礼に関して
http://www.muslim.or.jp/hadith/vol2-309.html
まことにあなた方は彼女らを、アッラーの保障の下に娶ったのであり(注8)、
彼女らと性交渉を持つことも、アッラーのみ言葉によって合法として許されるに至ったのです。
あなた方は、また、彼女らを服属せしめる権利を持っています。
彼女らはあなた方の好まない者をあなた方の寝床に座ることを許してはならないのです(注9)。
もしも彼女らがそうした場合には、彼女らに体罰を科してもよいが、厳しすぎてはなりません。
あなた方が彼女らの権利に対して行うべきことは、適切を態度で彼女らに食物や衣服を提供することです。
(注8)これらはイスラームが女性の権利を確証した言葉として有名である
(注9)妻は夫の意志を尊重し、それに添うよう努めるべきであるという教示である 英雄色を好む
サヒーフ・ムスリム 懺悔の書 アーイシャに対する中傷について
http://www.muslim.or.jp/hadith/vol3-659.html
預言者の妻、アーイシャは語った。
アッラーのみ使いは、旅に出る時には、いつも妻たちの間に矢を投げ、その矢が当った者を伴って行かれた。
ある遠征に出発される時、み使いが私たちの間に矢を投げ、それがたまたま私に当ったので、私は、み使いと共に出発した。
サヒーフ・ムスリム 結婚の書 妻が夫の寝室を離れることについて
http://www.muslim.or.jp/hadith/vol2-474-2.html
アブー・フライラは伝えている
預言者は、「妻が夫のベッドを離れて夜を過すと、天使たちは朝まで彼女をのろいつづける」といわれた。
このハディースは、別の伝承者経路でも伝えられるが、それには、「彼女が帰ってくるまで」と記されている。
アブー・フライラは伝えている
アッラーのみ使いは、「私の生命の主なる御方に誓って、夫がその妻をベッドに呼んだ時それに応じない妻に対して、
天におられる御方は、彼女の夫が、彼女に対する機嫌を直すまで、怒りをお解きにならない」といわれた。
アブー・フライラは伝えている
アッラーのみ使いは、「妻をベッドにくるように呼んでもこないため夫が彼女を怒りながら夜を過す場合、
天使たちは、夜が明けるまで、彼女をのろいつづける」といわれた。 このスレひどいな。イスラム教の悪口ばかりでウンザリだ。
舛添さんのような著名な学者にあやかってイスラム教の古典「預言者伝」や「真正ハディース」を素読しる。
舛添前知事「知事の部屋」 / 記者会見(平成27年1月13日)|東京都
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/ARC/20160621/KAIKEN/TEXT/2015/150113.htm
是非この機会に漢文の素読、フランスの古典の素読、ドイツの古典の素読、
シェークスピアの素読、そういうことをやっていただきたいと思う。
せっかくの古典ですから、そういうことをしっかりやるということが、テロリズムとの戦いになる。
この前も申し上げましたけれども、「リュマニズム・ドゥ・リスラム」という大きな本を私の友人が書いたのですけれども、
それはイスラム学者なのですけれど、「ヒューマニズム・オブ・イスラム」という、イスラムというのはヒューマニズムなのです。
だから、ああいうことをやるのは、本来の教えに反すると思いますから、
そういうことを含めて、是非寛容の精神で、意見が違っても、そういう人の意見をしっかり聞く。
舛添前知事「知事の部屋」 / 記者会見(平成27年1月23日)|東京都
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/ARC/20160621/KAIKEN/TEXT/2015/150123.htm
世界各国のイスラム教徒の方々が反応されているように、自分たちは本当に平和を愛するので、
こういうことをやるのはイスラムの教えに反している。
私がいつも申し上げるように、人道主義、ヒューマニズムと平和というのがイスラムの基本的な教えですから、
是非世界中の方々に声を上げてもらいたいと思っています。
預言者ムハンマドが邪魔者の暗殺を信者にもちかける真正ハディース
ユダヤ人の天性の悪魔カアブ・ビン・アシュラフの暗殺
http://www.muslim.or.jp/hadith/vol2-843.html
ジャービルは次のように伝えている
アッラーの使徒は次のようにいった。
誰れがカアブ・ビン・アシュラフを殺しますか?
彼はアッラーとアッラーの使徒に実に有害でした。
そこでムハンマド・ビン・マスラマが「アッラーの使徒よ、私が彼を殺すことをお望みですか?」といった。
すると預言者は「勿論です」と答えた。
(※以下、暗殺行為の描写につき省略) 預言者ムハンマドは、ユダヤ教のラビ(宗教指導者)を論破して、石打刑を復活させる偉大な実績を残している。
ユダヤ教の教義を逆手にとってユダヤ教徒を追い落とした痛快な姿は今もムスリムの尊敬を集めている。
イブン・イスハーク著『預言者の生涯』 雌牛の章で偽善者とユダヤのラビに言及している啓示
http://ameblo.jp/ibn-ishaq/entry-11197078751.html
使徒が罪人二人に判決を下したとき、彼はトーラーの教えを求めた。
そこに座っていたラビは、石打ちの章節の上に手をかぶせてトーラーを読んだ。
アブドッラー・イブン・サラームは、ラビの手を払いのけ、
「これです、おお、神の使徒よ、彼があなたに読むことを拒否している石打ちの節は」、と言った。
使徒は、「災いあれ、ユダヤ教徒よ、いったい何がお前に、その手もとにある神の審判を放棄させようとしているのか」、と言った。
彼らは、「その刑罰は、王家の生まれで高貴な血筋の男が姦通を犯すまで執行されていましたが、王はその男に石打ちの刑を適用することを拒否しました。
後に別の男が姦通を犯し、王は彼を石打ちの刑にすることを望みましたが、
人々は、王家の者が石打ちの刑に処されるまでは、彼を石打ちにしない、と言いました。
人々が王にそのように言うと、彼らはタジビーフの刑(※1)で問題に対処することで一致し、
それ以来、彼らは石打ちについて一切言及することをやめてしまいました」、と説明した。
使徒は、「私は、神と主の啓典に記された命令を復活し、それを実践する最初の人物である」、と答えた。
罪人二人はしかるべく石打ちの刑に処され、アブドッラー・イブン・ウマルは、「私は二人に石を投げた一人だった」、と語った。
※1 タジビーフの刑
タールを塗りつけたヤシの繊維で編んだ綱でむち打ち、顔を黒く塗り、顔を二頭のロバの尻に向けて乗せる刑 異文化に不寛容な早稲田大学
“他者を理解する” 観客参加型ワークショップ&演劇公演「のがれの町〜エピセンタ〜」どらま館で開催 早稲田大学 - 2015/12/14
https://www.waseda.jp/top/news/35631
「石打の刑」で石を投げて人を殺す民衆の役も学生が演じました。
人を石で打って殺してしまう心理は、現代日本を生きる私たちには理解できません。
しかし「石打の刑」に懐疑的であっても「石で打って殺せ」とみんなでセリフを唱えていると、
そこに連帯感や安心感が自然と生まれてきます。
集団で同じお題目を唱えることの心地よさや集団から抜け出して異を唱えることの難しさを疑似体験します。
サヒーフ・ムスリム 刑罰の書 既婚者の姦通罪は石打ちの死刑
http://www.muslim.or.jp/hadith/vol2-733.html
アブドッラー・ビン・アッバースは次のように伝えている
ウマル・ビン・ハッターブはアッラーの使徒の説教台に座り次のようにいった。
アッラーはムハンマドを真理を携えてお送りなさった。
そして、彼に啓典をさずけた。
彼に下された啓示の中には石投げの死刑に関する一節があった。
私達はそれを読み、記憶し、理解した。そして、アッラーの使徒は石打ちの死刑を執行し、また私達も彼の後、石打ちの死刑を執行した。
しかし、私は、時が経つうちに、人々の中で、「私達はアッラーの啓典中に石打ちの刑の一節を見付けません」などといい出す者が出てきて、
アッラーが下した義務をないがしろにしていて人々は道に迷ってしまうではないかと心配しています。 ムハンマドと麻原は、正妻に娘が4人いて息子が2人いるところなんかも共通しているな。
ムハンマドの場合、2人の息子は成人する前に死んでしまっているけど。 世界を自分たちの力で変えようと、オウム真理教はイスラム教の日本支部、ってところだ 仏典や福音書読めば、
仏陀やイエスは、殺人や暴力を否定していたことはすぐに分かるけど、
コーランを読めば、
ムハンマドは、殺人や暴力を積極的に用いるように推奨していることはすぐに分かるからな。
あと、それらを読み比べると分かるけど、
コーランから漂い出ている、むせかえるばかりのDQN臭が凄いw
「神が神が神が神が」って云いながら、
結局のところは、「神を口実に」「神をダシに」して使って、「自分達の欲望を」満たしたいだけだよね。この人は。
って感想を正直抱かざるを得なかった。
特に戦利品章とかは、「使徒」という言葉と、それに付随する助詞などを削り、
「アッラー」を「俺様」とか「俺様達」に置き換えて考えると、凄い彼らの本音が見えてくる感じw
よく言われていることだけれど、ムハンマドって人は、本当に何から何まで麻原彰晃に驚くほどそっくりだなと常々思う。
屁理屈をこねて、ポアやヴァジラヤーナを説いている様子とか、ほんとそのまんま。 >キリスト教もイスラム教もほとんど変わりないだろ
↓後世の信者は別として、有名な教祖達の違い。
仏陀→人を殺していない。
キリスト→人を殺していない。
ムハンマド→数えるのが馬鹿らしいくらいに大虐殺しまくり。(例:クライザ族)
仏陀→フェミニスト。
キリスト→フェミニスト。
ムハンマド→異教徒の女性をアッラーの名のもとに乱獲しては、彼女達を性奴隷にして売りさばいて大儲け。
仏陀→殺人・暴力否定。
キリスト→殺人・暴力否定。
ムハンマド→イスラムへの改宗に応じようとしない不信心者は、みかじめ料(ジズヤ)を徹底的にガッポガッポと絞り取るか、
それにも応じない、或いは支払い能力無きものは、(斬首等で)殺せ!と信者達に命じる。
ムハンマドだけが、明らかに異質。
コイツはむしろ、麻原彰晃とかに近い思考の持ち主。
つか、生まれた地域や時代が違うだけで、やっていることは、麻原と何一つ変わらない。
いや…むしろ麻原よりも遥かに酷いし、えげつない。
仏陀やキリストは、カネや権力などにもあんまし興味がなく、人がよりよく生きる為にという思いから教えを始めたが、
ムハンマドの場合は、コイツは、「カネや権力を得る為に都合のいい装置」として、
「他所の神様や天使や設定をパクってきて」宗教をでっちあげただけ。
ほんと、麻原と同じ。 ユダヤ教とキリスト教の看板だけパクってきて、イスラム教をでっち上げたムハンマド。
ヒンズー教や仏教の看板だけパクってきて、オウム真理教をでっち上げた麻原彰晃。 >>13
ムハンマドは成功した革命家で、
麻原彰晃は失敗した革命家だ。
ただそれだけの違いでしかない。